橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第四回講義
第四回講義(明治18年5月1日)
前回は公訴を行うべき者について説明致しましたが、今回は私訴を行うべき者についてご説明しましょう。
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第二款 私訴を行うべき者
治罪法第2条では、「私訴は犯罪により生じた損害賠償、贓物の返還を目的とするもので、民法に従って被害者に属する」と規定されていますが、この点は詳細な説明が必要です。
同条により、私訴の権利が被害者に属すること、被害者がいかなる場合に私訴を行うことができるのかは、民法によって定められることが明らかとなってきます。しかし、日本ではいまだ民法が制定されていません。よって、治罪法第2条を解釈する際には、「道理」により判断すべきということになります。
明治8年6月3日第103号公布の第3条でも、「民事の裁判で成文の法がないものは習慣により、習慣がないものは条理を推考して裁判すべき」と規定しているからです。
「道理」とは、欧米の学者や各国の法典に照らして最も適切と認められるものをいいます。
「民法に従って被害者に属する」との意義を理解するには民法の領域のお話しをしなければなりませんが、民法はこの講義の範囲外ですので、これ以上お話しを進めることはいたしません。
一点だけご理解いただきたいのは、「民法に従って被害者に属する」という意味は、権利の関係を示したものであって、手続きを示したものではないということです。この条文を私訴の手続きを示したと理解する説もありますが、論じるに値しません。
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〈損害賠償の範囲〉
それでは、まず私訴とはいかなるものであるのか、どのような要素から成立するかを論じていきましょう。言い換えれば、損害賠償(贓物の返還も含みます。以下同じ)の範囲とはどのようなものかということです。
私訴の目的は損害の賠償を要求することにあります。ですから、その他の事柄を私訴の目的とすることができません。これは、治罪法第2条において、「損害賠償、贓物の返還を目的とする云々」と規定されていることからも明らかです。
通常、民事訴訟の目的は損害賠償に限られません。例えば離婚の訴えや姦通による親子関係不存在の訴訟は、損害賠償を目的とはしていません。よって、これらは私訴の目的とはされません。もっとも、姦通によって損害賠償を請求するときは、私訴を起こすことができるのは明白です。
要するに損害賠償は私訴の要素なのでありまして、これがなければ通常の民事訴訟により解決されるべきものなのです。
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〈財産上の損害だけでなく徳義上の損害でも私訴は可能〉
また、損害賠償請求をする際には、その損害を算定することができなければなりません。想像的な損害に対して回復を求めることはできません。例えば、趣味や習慣、愛情などの事柄に関連する損害賠償を私訴の目的とすることはできません。
もっとも、私訴の目的となる損害は財産上の有形の損害に限定されるわけではなく(そのような説もありますが、皮相な説というべきです)、徳義上における無形の損害であっても、それを私訴の目的とすることができるます。
犯罪は国の公益安寧及び個人の私益安全を害するものであり、どのような場合であっても犯罪を行った者は、国家のためには刑法の制裁を受け、被害者のためには損害を賠償させることが必要です。この二つの措置が同時に取られることで、初めて国家の秩序を維持することができるのです。刑罰のみが行われ、損害が賠償されなければ、個人の権利が平等に取り扱われたことにはなりません。なぜならば、損害を受けた者の被害回復ができなければ、被害者は常に加害者によって権利を侵害され、互いの平等を保つことができないからです。
このように、損害を賠償することによって権利の平等を維持するためには、単に財産上の損害だけに留まらず、徳義上の損害にも及ぼされるべきです。
例えば、議員選挙の場合に、役人が被選挙権を有する者を被選挙権名簿から除外するという場合は財産上の損害がないのですが、単に刑罰をもって十分とはいえず、権利を害された者に損害を賠償するべきです。
また、身体に関する損害の例として、強姦罪や女性が髪を切断された場合、中傷や罵倒によって精神的な苦痛を受けた場合などが挙げられます。この場合には財産的な損害は存在せず、いわゆる無形の損害であり、徳義的な損害というべきものです。強姦の際に怪我をさせられ、その治療費は財産的な損害となりますが、全く負傷しなかった場合は財産上の損害は存在しません。
女性が髪を切られた場合、財産上の損害はありません。美容院代が節約できて経済的に得をしたという見方もできてしまいます。 よって、財産上の損害のみを賠償の対象とするならば、強姦、讒謗中傷、罵詈侮辱などの場合には、被害者は損害賠償請求ができなくなり、屈辱を甘受するほかないこととなります。であればこそ、損害賠償とは、財産上の損害だけでなく、德義上の損害についても賠償を求めることができるものと解釈すべきなのです。
その根拠は刑法附則第五十九条にあります。「人の名誉や殺傷に関わる損害その他犯罪によって実際に発生した損害について、その賠償を求めることができる。」
この規定には、名誉や身体に関する損害であっても賠償を要するものであることが明らかです。
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〈賠償とは何か〉
以上で損害の賠償は財産上の損害だけでなく、無形の損害も含まれことはお分かりいただけたかと思います。それでは次に賠償とは何かについて説明致しましょう。
個々人の権利は平等であるべきです。この権利の平等を維持するためには、損害賠償の法が必要です。
この損害賠償を財産上の損害だけとし、名誉や身体に関する損害を含めないとすると、権利の平等を保つことができません。
かつての野蛮な時代には、暴力を制するには暴力にもって対処したものでした。しかし、社会が文明化していくにつれて、暴力で暴力に対抗する野蛮な習慣は捨てられ、賠償法にとって代わられました。つまり、賠償法は、世の中がより良い方向へ進んでいることを示す証拠と言えるでしょう。
賠償は金銭で行われるのが原則です。これを「償金」といいます。人民の間で行われる賠償は、刑罰とは同一ではありませんが、すでに被った損害を賠償させるものであることから、ある意味では私人間における刑罰と言ってもよいでしょう。
また、賠償はたいてい現実の損害よりも多額の要求を認めるのが慣例となっているようです。
例えば、国と国との間の賠償は、通常、現実の損害よりも多額の請求がなされます。
このように、実際の損害を超える要求をするのは、国と国の間だけでなく、個人間でも同じです。欧米各国で行われている例を見ると、離婚の損害賠償として数万円以上の巨額を要求したり、新聞紙上での誹謗中傷に対して莫大な賠償金を要求したりするなど、多くの場合、実際の損害を超える金額を請求しています。
そして、このような巨額の賠償金を得た人は、それを自分のものにするのではなく、学校、病院、貧院などに寄付するのが習慣になっている国もあります。
これは、おそらく実際の被害を超える賠償金を得ることから生まれた習慣と言えるでしょう。
その是非はさておき、このように実際の被害額よりも多額の要求を認めるということは、刑罰とほとんど同じだと言えるのではないでしょうか。
「徳義上の損害は算定基準がないため、弊害がある」との指摘もありますが、私はそのような考えが正しいとは思いません。
立法官が法律を制定する際、どのような行為に対してどのような刑にするのか、何円の罰金を科すべきか等、いちいち具体的な金額まで量定して決めているではありません。刑を量定するのは、立法者の智能によるのではないのです。
そうであれば、損害賠償請求があった場合も、裁判官は原告と被告の主張を参考に、事実関係と損害状況を考慮することで、賠償額を算定できるはずです。これは、立法者が刑罰の軽重を定めることよりも、はるかに簡単な作業と言えます。
以上から、刑罰とは別に損害賠償法が必要であること、そして損害賠償は財産上の損害だけでなく、無形な損害にも適用されるべきであることが理解していただけると思います。
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〈直接的な被害者でなくても私訴ができる場合〉
さて、それでは損害賠償に関する注意すべき事項を述べ、その後、被害者に関することをご説明いたしましょう。
前にも述べたように、愛情を害されたような場合は、その賠償を要求することはできません。
例えば、私と断金の交わりのある友人が殺害されたとしましょう。この場合、私の彼に対する愛情は甚だしく害されます。しかし、私は賠償請求要はできません。愛情が害されたとしても、私の権利はいささかも害されていないからです。人の情というのは空漠なものでありまして、風を捕らえるがごとく、影を捉えるがごとく、決して測定することができないからです。よって、私訴を成立させる理由とすることはできません。
それでは、親子・夫婦が殺害された場合も、私訴は成立しないものなのでしょうか。
子供を殺害された親、親を殺害された子供、妻を殺害された夫、夫を殺害された妻は、私訴は成立します。友人を殺害された場合とは大きく異なるからです。そもそも、親子や夫婦の関係は、分身同体ともいうべきものでして、親の害は即ち子の害、子の害は即ち親の害であり、夫婦の間においても同様です。よって、この損害は自分自身に害を受けたと同一視することができ、私訴を行うことができるのです。
古代ローマ時代には、このような場合を「痛苦の訴え」と呼び、徳義上の損害賠償ができるとしています。
親子・夫婦に関する賠償については欧州各国でも様々な議論があります。日本でも導入しようとすると、賛成と反対の意見が必ずぶつかるでしょう。
しかし、親子・夫婦間には賠償が認められるべきです。
かつてフランスの大審院検事長だったシュパン氏(1830年代即ち今より50年前の人です)は、以下のように述べています。
「世の中には、親を殺害された子供、夫を殺害された妻には損害賠償請求権がないのだという誤った考えを持っている人がいます。この人は次のように説いています。
『後見を必要とする幼者であれば、親が殺害されたときは、幼者が私訴をできるのは当然でしょう。しかし、生活費を子に頼っている親が殺害された場合、子は逆に生活費の支払いを免れるのです。この場合には、子にとって親は害を加えられたのではなく、むしろ義務を免除してくれたと言えます。そのため、子どもは殺害者に感謝こそすれ、損害賠償請求はできないというべきです。』」
これは、財産上の損害がない限り訴権が発生しないという偏見に基づく誤った論理です。損害賠償は財産上のものにとどまらないことは、既に論じましたので、皆さんもご承知のことと思いますので、この誤った説にわざわざ反論する必要はないでしょう。
さて、ここで一つの疑問が生じます。
それは、損害賠償は親子夫婦間にのみ存在するのか、それとも他の親族にも及ぶのかという問題です。
私は、他の親族に及ぼす必要はないと考えています。もっとも、親を亡くした幼者が兄や叔父に育てられている場合、その兄や叔父が殺害された際に、弟や姪は損害賠償請求権を行使できるべきです。
このようなケースでは、裁判官の判断に委ねられるべきであり、必ずしも親子・夫婦間に限定されると断言することはできません。しかし、一般論としては、原則として他の親族は損害賠償請求できないと考えた方が妥当です。
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〈被害者とは誰か〉
以上、損害の範囲について説明しました。次に、被害者とは誰かについて説明します。
第一に被害者とは、まず犯罪局面に当たったもの、即ち直接被害を受けた者を意味します。
しかし、犯罪の局面に当たらなくても、被害者として私訴をを起こせる場合があります。例をあげていえば、妻や又は親が被害を受けた場合は、夫や子は直接被害を受けていなくても、被害者として私訴を起こすことができます。その理由は既に述べましたので、詳述は致しません。
ここでは報道されたことのある例を紹介し、諸君の参考といたしましょう。
妙齢の美女のいる一家がありました。ある新聞記者はこの女性と結婚したいと申し込みましたが、父親から断られました。記者は怒り、報復しようと、娘の素行について捏造記事を新聞に掲載しました。
父親はすぐに裁判所に訴えたのですが、裁判所は娘の告訴を要するとして、父親の訴えを却下しました。
諸君はこの裁判所の却下の判断を妥当だと思いますか。
私は、この却下の判断は誤りだと考えます。
なぜならば、親である者が讒謗の直接の被害者ではない場合であっても、子を中傷されてしまったとき、親の不行届であることを公言されたものといえ、親もまた名誉を害をせられたものとして、被害者であるというべきです。
そのようにいえないとしても、親はその子の後見人者としての地位があり、その子の委任を要せずして、子を代理として私訴を行うことができ、私訴を起こすべき義務を有すると考えられるからです。
裁判所が却下したことを誤りと考えるのは以上の理由からです。
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〈私訴権の成立と損害〉
私訴権を行使するためには、現実に損害を受けていることが必要です。将来得られるであろう予望の利益が害せられたとしても、損害賠償請求権を行使することはできません。
例えば、代言人や医師は特種の営業で、厳しい規則や試験があり、特別な能力を持つ者でなければ営業に従事することができません。
試験を受けずに密かに営業を行う者がいた場合、具体的な被害者はいなくても、代言人や医師の全体に間接的に多少の損害が生じていることには疑いありません。
このような場合、代言人や医師が損害賠償請求権を行使できるのでしょうか。この点は、
フランスの学説では4つの説に分かれています。
第1説:損害賠償請求権を行使できないとする説 この説は損害が漠然としていることを理由としています。
第2説: 損害賠償請求権を有するとする説
「損害があれば訴権が生じる」という古来からの格言に基づく。
第3説:これらの営業者が団結すれば損害賠償の権利を行使できるとの説
損害は営業全体に及ぶため、個々の営業者が権利を行使することはできないと考える。
第4説:損害の有無のみが問題であり、団結するか否かは損害賠償とは関係ないとの説
私は、第4説が最も合理的と考えます。
第1説から第3説の問題点を簡単に説明しましょう。
第1説は、現に損害があるにもかかわらず、賠償責任を負わないとするものです。損害があるのに責任を負わないというのは、いかなる理由によるのでしょうか。根拠のない説と言わざるを得ません。
第2説は、どのような場合でも損害があれば賠償責任を負うべきとするものですが、これは極端な説言わざるを得ません。
例えば、東京で1名の無免許医が患者を治療したとしましょう。この場合、都下の医師全体に多少の損害があったことは明白ですが、個々の医師については損害があったことを明確に認識することは難しいでしょう。損害が明確に認識できないのであれば、何を基準に賠償責任を負わせることができるでしょうか。第2説も根拠のない説と言わざるを得ません。
第3説は団結の有無によって賠償請求権の有無を定めるものですが、この説に従うと、一個人が損害を受けていても、被害者が団結しなければ賠償請求できないことになります。これは実に不合理な説と言えるでしょう。
第4説は損害の有無によって訴権の有無を定め、損害があれば訴権を認める説であり、四説の中で最も妥当な説と言えるでしょう。
例えば、人口1000人、世帯数300戸の村があるとしましょう。古くから医師が一人いて、祖先から代々医療業を営んでおり、村人は皆その治療を受けています。一年の収入は概算でき、その予算で一家の生計を立てているのです。
しかし、突然一人の医師が現れて開業し、村全体がその医師の治療を求めるようになったとしましょう。しかし、その医師の免許状は偽造であったのです。この場合、ニセ医師が営業していた期間の損害は明確に把握できるので、この者が損害賠償責任を負うのは当然です。
もう一つの例として、生糸製造で有名な商社があるとしましょう。ところが、別の製造者が自身の商品を売りさばくために、その商社の製品を粗悪品だと公言し、世間の信用を損ねました。この場合、被害者は商社であり、損害を受けたことは明白なので損害賠償請求することができます。しかし、商社ではなくある地方の生糸についてそのようなことをした場合は、損害を受けた者はその地方全体の製造者であり、個々の製造者については損害を認識することができません。よって、この場合個人の名義で損害賠償請求することはできません。
結局のところ、損害が明確に把握でき、計算できるものでなければ、訴権を成立させることはできないのです。また、讒言を受けた場合も、この考えを類推することで、訴権の有無を判断することができます。
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