南斗屋のブログ

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仮刑律的例35 2名殺害の殺人罪 等⇒斬罪

2024年06月29日 | 仮刑律的例
仮刑律的例35 2名殺害の殺人罪 等⇒斬罪

〈本件の概要〉
1 慶太郎は窃盗の初犯で死刑を免れ、再犯後も大赦によって罪が赦されたが、心から改心せず、密通した女性及び他一名を殺害し、夫及び他の者一名にも重傷を負わせた。更には従弟を殺害しようとして傷を負わせ、放火も行った。
熊本藩は斬罪を求め、明治政府もこれを認めた(【伺い②】 )。
2 死刑は勅裁を仰ぐべきという原則は守りますが、殺人や凶悪犯罪に関しては即決すべきであり、後に届けをすることで処理できないかと熊本藩は伺いを立てました。
明治政府は、死刑は必ず伺い立てるべきであるが、やむを得ない場合があり、事情があって即決しなければならない場合は願いの通りに取りはからい、おってその事情を詳細に届け出るべきであると返答しました(【伺い①】 )。

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肥後熊本藩からの伺い(明治2年2月13日)

【伺い①】
刑律は国家の大典であり、先だって御布令のありましたとおり、死刑は勅裁を仰ぐべきとのこと謹んで承りました。
重罪一件が生じましたので、別紙にてお伺い致します。
ところで、従来当藩では、死刑のうち通常の罪科はまず僉議して置き、その後に改めて復議した上で仕置をするの仕来りでしたが、今後は一々勅裁を仰ぐことといたします。
しかし、殺人や兇悪の重科は即決し、日を置かずして仕置きすべきものです。本件の慶太郎のような者が滞獄中に自然死した場合、生前に処刑できず、懲悪が果たせぬのは遺憾に存じます。このような者には、今後は即座即座に仕置をし、後程御届を申上げることができるようにしていただけませんでしょうか。朝廷の至仁の御趣意に違背する粗忽な取扱とならぬよう、即決をする場合は、特に断罪考議を作成の上、仕置きを致します。
以上のこと、お許し下さるようお願い致します。



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【伺い②】
肥後国益城郡河高村の慶太郎は、窃盗の初犯では死刑とはならず、入墨・百笞・徒三年刑に処せられた。しかしその後も窃盗を繰り返し、入墨を自ら抜き取りました。
昨年の春の大赦が出されましたので、昨年4月以前の罪は全て赦されたとの教示を致しましたのですが、心の底からの改心をしておりませんでした。
熊本城下蔚山町の弥作というものの旅行留守中に、同人の妻「やそ」と密通をしておりました。昨年8月、弥作が帰郷すると、「やそが俺を見捨ててしまうのであれば残念だ」と、同月9日夜に弥作宅に侵入し、脇差1本を盗みひそかに「やそ」を戸外に連れ出し、「一緒に出奔しよう。」といい、そうしないのであ殺すぞいう勢いで、「やそ」を連れていってしまいました。
その翌日夫の弥作は、大勢のものとともが追いかけて、「やそ」を連れ帰りました。
これに対して、慶太郎は、「やすやすと夫に付き従って家に帰ってしまったということは、俺との約束を破ったということだな!」と強く憤激し、ここに至って「やそ」への殺意を抱きました。また、弥作も「やそ」に味方するならば切り殺そうとも思いました。さらに、慶太郎と同じ村に住む従弟の長左衛門という者にも、いわれのない恨みをかけ、「ついでに従弟もころしてやる」と思うに至りました。
そして、同月11日夜に侍屋敷に忍び入り、大小一揃いの腰物を盗み取り、これをもって直ちに弥作宅へ行き、「やそ」が寝ていると思って数刀切付りつけたところ、「やそ」ではなくその夜同所に止宿していた者(2名)でした。慶太郎は人違いしたことに気付くと、「やそ」に切りかかって殺害し、さらに弥作にも疵を負わせました。弥作と止宿していた者のうちの一人は片腕を打ち落とされました。残り一人は疵により死亡しました。
慶太郎は弥作方を立ち去ると、すぐに長左衛門宅に行き、同人に切りかかりましたが、同人は疵を負ってその場から逃げ去りました。
そこで、慶太郎は長左衛門宅に放火し、そのまま逃げ去りました。
これらのことを自白しましたが、殺害出来なかった者がいたことは残念だとも述べております。
このように、窃盗初犯では死罪とはならず、再犯でも大赦によつて罪が赦されたにもかかわらず、心の底から改心することなく、正当な理由もないのに密通した女性を殺害し、夫や他の者にも重き疵を負せたり、死に至らせたりしています。
さらに、従弟 をも殺害しようとして疵を負わせ、放火しもしたことは、重畳の兇悪の者と言わざるをえず、当藩の領法(計画的に人を殺した者は斬)により斬罪と致したく、お伺いするものです。
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【返答】
同2月14日押紙により返答。
・死刑は必ず伺い立てるべきである。
やむを得ない場合があり、事情があって即決しなければならない場合は願の通りに取りはからい、おってその事情を詳細に届け出るべきである。
・罪人の処置については重罪であるため、斬罪で良い。

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弟子とのトラブル増える 嘉永7年6月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年06月27日 | 大原幽学の刑事裁判
弟子とのトラブル増える 嘉永7年6月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年6月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・節五郎殿は脚気治療の高橋医者に行かれた。
・晩に節五郎殿と伊兵衛父が羽織を来て辻番へ。幽学先生は、「羽織を来て行くなと以前も言ったはず。反省もせずに、同じことをするのか。不義理である」とご不満である。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・節五郎は脚気治療で高橋医師方へ通院。脚気は江戸時代において非常に多くの人が悩まされていた病気です。
・晩には節五郎殿と伊兵衛父が羽織を来て辻番の仕事へ。羽織は、当時の正装で、理由があれば羽織着用は一般的には問題ないのですが、幽学先生は羽織着用は贅沢として、禁止しています。

〈その他の記事〉
・(五郎兵衛は、)早朝、佐竹様の辻番に惣右衛門殿の道具を取りに行った。
・昼からは節五郎殿が来られ、脚気治療の為に高橋医者に行き、夕方に戻られた。その時分に正太郎殿と新四郎殿も来られた。

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嘉永7年6月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・昨夜辻番の仕事をしてきた伊兵衛父は、今日も長部村の役所の用事で外出。
・良祐殿と正太郎殿は帰村することに決めたそうだ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
これまでは幽学先生と五郎兵衛は借家に住み、他の道友は辻番等の仕事を住込みでしていました。しかし、伊兵衛等仕事を辞める者が出てきて、従前とは様相が変わって来ています。伊兵衛父は役所と何事かを折衝していますし、良佑やは帰村を決めています。

〈その他の記事〉
・正太郎殿と新四郎殿は本日も借家におられた。
・朝早く惣右衛門殿は藪様の仲番の仕事に行かれた。
・昼過ぎ幸左衛門殿が来られ、本日借家に泊まり。



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嘉永7年6月13日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生の愚痴。「(幸左衛門殿に)朝の豆腐揚げの買い方がケチになっているようだぞ。食べるときに嫌な気持ちになる。誠に困った」
・良佑が帰村するのと交替で良左衛門君(良佑の父)が江戸に出てくる。これを聞き、幽学先生は安心された。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生は、幸左衛門殿に、「朝の豆腐揚げの買い方がケチになっているようだぞ。」とグチってますが、どうも幽学先生細かいことにこだわり過ぎです。長期の江戸滞在(しかも待機)を余儀なくされ、精神的に敏感になっているようです。一番弟子の良左衛門が江戸に来れば安定するでしょうか。

〈その他の記事〉
・朝食後、幽学先生から道のことにつきお話しがあった。「予は日々見たり聞かせたりしているから全然自分の為にならないのだ。誰かがどう考え、今どのように考えて、今後はどのように考えるかが、すーっとわかるようでなければならない。」
・昼から幽学先生は、正太郎殿と良祐殿に話しをされた。「良祐が帰村するということは、父親の良左衛門が江戸に来ることになるから、その間の村は良佑と正太郎と二人で引き受けることになる。問題が解決するまで骨を折って事に当たるように。出来ないことなどないと思いなさい。」と、これまでにも仰ったことを再度噛んで含めてお教えになった。正太郎殿と良祐殿は「必死になって事にあたる所存です」と決意を述べられた。
・良佑の代わりに良左衛門君が江戸に出てくることを聞き、幽学先生も安心された。先生は、「門人は4000人余りいるが、親子そろって予の志を受け継いでくれるのは、良佑と正太郎しかいないであろうな。予は18歳から艱難辛苦に、妻子も持たずにやってきた。これまでのことを後悔することはないが、お前たちがそのような覚悟であるならば、きっと良い方向に進むであろう」と仰られた。
・幽学先生は小生に、「干潟の荒部兄弟は自分勝手この上ないが、五郎兵衛は荒部兄弟の仕事の10分の1も出来ないな。以後は、良左衛門を見習うように」と仰られた。



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嘉永7年6月14日(1854年)
・伊兵衛父は、朝早く御役所へ出かけて行った。
・惣右衛門殿と節五郎は昨晩借家に泊まり、両名とも午前中には仕事場に戻られた。
・小生は旗本の石川様屋敷の新部屋へ米を取りに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が旗本の石川様屋敷の新部屋に米を取りに行くという記事が先月あたりから何回か記事になっています(初出は5月15日条)。旗本の石川様には良祐や節五郎が働いています。彼らが働くことになったのは、長左衛門の口利きによるので、その辺りのコネで米を取りに行くようになったのかもしれません。

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嘉永7年6月15日(1854年)
#五郎兵衛の日記
神谷様が幽学先生にご相談に来られた。御内室の実家で火災があったとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「神谷様」というのは水戸藩の隠密。高松力蔵の知り合いで幽学先生のところに来ましたが、家庭内で色々と問題があったらしく、その後御内室も一緒に幽学先生のいる借家に来るようになり、幽学先生を頼るようになっています。

〈その他の記事〉
・正太郎殿と新四郎殿が帰村。朝早くに江戸を立たれた。
・昼に高松力蔵様が借家に来られた。
・昼過ぎに武左衛門と又左衛門殿が来られた。

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嘉永7年6月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生と良祐殿は、牛込の神谷様方へ行かれた。昼には幽学先生はお戻りになり、小生と二人で髪結いをした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日神谷様(水戸藩隠密)が相談に来られたからか、幽学先生は良佑殿と神谷様方を訪れています。相談内容が御内室の実家の火事のことでしたから、御内室と話しをしようと思ったのかもしれません。幽学先生は単独行動が多いのですが、今日は良佑殿を連れて行っています。

〈その他の記事〉
・又左衛門殿は小石川の高松様方へ行かれた。
・伊兵衛父は昼から医学館の辻番へ碁を打ちに行った。
・晩に節五郎殿が来て借家に泊まった。

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嘉永7年6月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は小石川の高松様方へ疱瘡見舞いに行かれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
小石川の高松様方で疱瘡(天然痘)に罹患した人が出たようです。幽学先生はお見舞いに行っています。天然痘は感染症で空気感染、飛沫感染をしますから、現代の医学常識からすれば、患者は隔離すべきもの。お見舞いに行くのは感染の危険性を増大させることになりますが、この時代、そのような発想はなかったようです。

〈その他の記事〉
・節五郎殿が早朝に高橋(脚気の医者)へ行 き、薬を買ってきた。
・武左衛門殿が借家に来られた。
・良佑殿が番町の幸左衛門殿方へ行かれた。
・昼に惣右衛門殿が来て借家に泊まられた。
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嘉永7年6月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・惣右衛門殿は、朝早く本所へ行き、用事を済ませた後、昼前に職場に戻られた。
・昼過ぎ、神谷様の御内室がいらっしゃった。
・昼前に幸左衛門殿来る。また、長左衛門殿も来て碁打ち。両名とも借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日も神田松枝町の借家は今日も人が出入りしています。幽学先生の行動が記録されていない日もありますので、五郎兵衛日記は師の幽学先生の言行を記録するというよりは、関係者の出入りの記録、自分の覚えの為に記録されたものといえるでしょう。


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嘉永7年6月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿は幽学先生から奢っていると指摘されたが、それに腹を立て、先生の御思召を蹴飛ばして、「勤めて御目にかけます」と捨て台詞を残して職場に戻ってしまった。
幽学先生は、「こういう奢り根性が抜けない者は事業をやっても成功しない」と仰られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・幸左衛門殿が幽学先生の教えに対して反抗的な態度を取ってぷいと席を立ってしまいました。五郎兵衛は、「先生の御思召を蹴飛ばして」となかなか激しい表現でこのことを記しています。
・幸左衛門は「性質は柔和・沈着・実直・胆量のあるもの」といわれただけの人物であり、これまでもこのような態度をとったことはありませんでした。よほど幽学先生の言葉が理不尽だと感じたのでしょう。
https://blog.goo.ne.jp/lodaichi/e/9b8f49b505f8e1459227f2465d2228b1

〈その他の記事〉
・長左衛門殿は早朝に自宅に戻られた。
・伊兵衛父から小生に、「良左衛門のようになるには、先生の気持ちを助ける心掛けで、何年も自分のものとして引き受けなくてはいけない。俺がしたことても遠慮なく叱ってくれるようでないとな」との話しがあった。
・晩に節五郎殿が来て借家に泊まられる。
・幽学先生から皆へ単物一枚ずつを褒美として下された。


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嘉永7年6月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生はお疲れのため、保養で昼から3時間ほど散歩に行かれた。
・武左衛門殿が奉公先から王子詣でをしてきた。王子からの帰り際に松枝町の借家に立ち寄られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「王子詣で」
王子には王子神社や王子稲荷があり、後者は関東稲荷総社の格式を持っています。江戸時代より庶民に親しまれた神社です。また、江戸時代から桜の名所である飛鳥山があり、王子周辺は江戸庶民の娯楽の場でもありました。

〈その他の記事〉
・御成のため、節五郎殿は早朝に職場に戻られた。
・昼過ぎ、高松力蔵様が、太郎様の疱瘡祝いに赤飯を持参された。

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三中、体調回復、町年寄に復帰 文政12年6月中旬・色川三中「家事志」

2024年06月24日 | 色川三中
三中、体調回復、町年寄に復帰 文政12年6月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第四巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年6月11日(1829年)
今日はようやく晴れたと思ったら、又雷雨。銭亀川の水位は八合に上がった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
不安定な気候は続き、本日も雷雨。土浦は水害に度々襲われているため、「銭亀川」の水位は三中にとって気になります。
なお、「銭亀川」は現在の土浦の川の名としては見当たらないのですが、「銭亀橋」が桜川上にあり、現在の桜川を指すのではないかと思われます。

〈その他の記事〉
・町年寄の栗山八兵衛殿に帯刀が許された。町への触書は本ブログ末尾付1のとおり。
・別件の家屋の譲渡証文は本ブログ末尾付2のとおり。

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文政12年6月12日(1829年)雨
先日の雷雨で、鬼瓦が砕けた 川口の蔵に行く。鬼瓦だけでなく、柱五本が裂けて破損していた。今日、蔵で働いていた者が正油もろみかきに入って分かった。皆驚き、これは雷神の仕業だと知った。火事にならなかったのは幸いだった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
先日の雷で、色川家の川口(土浦市川口)にある醤油蔵の鬼瓦が落ちて砕けちってしまい、その現地見分。鬼瓦だけでなく、柱が五本破損していることも知ると、「雷神の仕業」とも記してしまう。不思議なものへのおそれが人々の感覚に残っている時代です。

〈詳訳〉
・先日九日夜の雷雨で、川口の蔵の鬼瓦が砕けたので昨日行って見てきた。小瓦は何事もなくて、鬼瓦だけが落ちたのは不思議。鬼瓦が空に引き上げられ少し先へ押出されて落ちたからか。
・被害は鬼瓦だけと思っていたが、今日、蔵で働いていた者が正油もろみかきに入ったところ、よく見ると柱五本が裂けて破損していたとのこと。人は皆驚いて、これは雷神の仕業だと知った。他に損害がなく、火事にならなかったのは幸いだった。

〈その他の記事〉
・十一屋与四郎が来た。中町の出入に関する一件(民事裁判)は終了したとのこと。昨日呼び出されて、縄手となったが、金二両で解決したとのこと。差添は町年寄の栗山八兵衛殿。

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文政12年6月13日(1829年)晴
川口の蔵に、雷で裂けた柱の様子を見に行った。柱の角が裂けて、黄白色の短い毛がある。裂けたところに血と思われる赤い染みがある。何が起こったのか!周辺では、大木が何本も倒れたり裂けたりしたという。
#色川三中 #家事志
(コメント)
一昨日に川口の蔵を見分。雷で柱が五本破損した跡を観察したいます。「黄白色の短い毛」や「血と思われる赤い染み」と認識してしまっているのは、雷神の仕業と信じてしまっているからでしょうか。

〈その他の記事〉
・早朝、入江素行氏が病床を訪れてくれ、書を贈ってくれた。菓子一箱もいただいた。
⇒末尾付3
・東覚寺(等覚寺)の和尚と武八が来られた。芝居興行の件で、御上(土浦藩)は寺の敷地内でなければ興行を許可しない扱いであるとのことだったが、願書を差し上げて漸く川口の戸山屋敷を借用して興行を行うとの許可を得たとのこと。十八日から初日であるという。


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文政12年6月14日(1829年)
三中先生、本日休筆です(今日一日だけです)。
#色川三中 #家事志

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文政12年6月15日(1829年)晴
・体調が回復したため、40日ぶりに町年寄として出勤。夕方、入江氏(名主)と町年寄及び親類に挨拶をした。
・先日の雷雨の際、土浦周辺で雷が落ちたのは、十七八ヶ所あるとのこと。
・今日、中町の笠揃いがあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・5月5日の夕方に持病の喘息が再発してから、家で療養し、町年寄の仕事は休んでおりましたが、ようやく体調が回復したため、40日ぶりに町年寄として出勤しました。挨拶回りは欠かせず、名主、町年寄、親類に復帰の挨拶ををしています。

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文政12年6月16日(1829年)曇
・夕方、栗山八兵衛殿が帯刀で行事に参加されるので、お迎え。但し、2、3年前の申し合わせで東崎町は出ず、中城町だけのお迎えである。
・夜、天王様のお祭り(祇園祭り)の御宮参り。町役人は羽織袴で参列した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦の祇園祭り(天王様のお祭り)は、旧暦6月13日〜15日ころに行われます(現在は7月下旬)。祭りも終わった為、町役人一同が正装で御宮参り。栗山殿は苗字帯刀が許されたため、この行事に初めて帯刀で臨んでいます。

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文政12年6月17日(1829年) 曇
両町の名主と町年寄が登城し、儀式の後、藩の役人へ御礼廻り。川口様、鈴木様、大久保様らに儀式は滞りなく終わったことを報告し、御礼を申し上げた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日は、土浦の両町(中城&東崎)の名主・町年寄が揃って土浦の城に登城し、行事に参加。その後、藩の役人への御礼廻りをしています。祇園祭りが終わったタイミングでするのが土浦の流儀なのでしょう。

〈詳訳〉
・両町の名主と町年寄全員が登城し、御鐘の鳴りを合図に、御神酒三杯をいただく。御肴の切スルメを紙に包み、御神酒をいただいた後、紙で盃を拭って納め、退座した。
・その後、両町の名主と町年寄全員で藩の役人へ御礼廻り。御年寄の川口様、鈴木勘解由様、同治部左衛門様、吟味衆の大久保様、佐久間様、中里様、神田様、組頭、御目附を廻り、御神酒を無事にお召し上がりになった趣を御礼申し上げた。
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文政12年6月18日(1829年)
三中先生、本日休筆です(今日一日だけです)。
#色川三中 #家事志


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文政12年6月19日(1829年)晴
東覚寺(等覚寺)の芝居興行は、役者が病気のため延期願いが出された。東覚寺の願書に町年寄として奥印を押す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
東覚寺(等覚寺)はもともと角力興行を計画していたのですが(3月26日条)、いつのまにか芝居興行に変わっていたようです。昨日が初日だったのですが(6月13日条)、役者が病気のため興行は延期せざるをえなくなりました。興行に関することは藩の寺社役所の許可が必要ですので、延期願いが提出されています。

〈その他の記事〉
・東覚寺(等覚寺)からの芝居の桟敷の値段の届け⇒末尾付5

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文政12年6月20日(1829年)晴
・炎暑甚し。17日からずっと猛暑。夕方に雷。
・早朝、大川様、相場様が竹原宿まで御越しになるので、お見送りをする。中食と泊りは下5人及び御上2人で合計7人、酒肴諸雑用で金2朱1貫626文。泊りは御上分各250文、下分は各200文と見積もると、合計金2分2朱500〜600文かかる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
竹原宿(たけはらしゅく)は、水戸街道千住宿から15番目の宿場町で、現在の茨城県小美玉市竹原。 本陣及び脇本陣は無く、旅籠のみの小さな宿場でした。 土浦からは約20キロ。

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付1 町への触書(6月11日条)
栗山八兵衛家は代々年寄役を務め、特に小前の取り扱いが上手であったため、この度、名主次席となり、重き御用向の節は帯刀することを許可するとの仰せである。また、苗字を名乗ることも許された。よって、町方に触書する。
丑6月
(コメント)
栗山八兵衛殿は町年寄の筆頭で、町役人としては名主に次ぐナンバー2の立場にいます。今般、名字帯刀が許可され(6月5日条)、町触れがなされたので、三中はその写しを日記に記録しています。


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付2 (6月11日条)
譲渡証文
一 家屋鋪一ヶ所
但し
表間口四間
裏行川端迄
代金二十五両也

文政十二丑六月
大町
譲主 弥兵衛
組合惣代 伝兵衛
同 佐兵衛
同 忠助
口入 甚助
親類惣代 清助
平右衛門殿
奥印
(コメント)
家屋敷を代金25両で譲渡するという売買契約を証する書面です。現代では売買契約書を作成するところですが、譲渡人が譲受人に対して家を譲渡するという「譲渡証文」の形式が取られています。

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付3 江民素行(入江素行)から贈られた書(6月13日条)
明者が喘息にかかった。いく月も倒れこんでおり、人々はもう立ち上がれないと噂していた。しかし、保護が真摯で薬も効いたため、今は危地を脱し平安に過ごしている。徐々に回復するのも指折りで待てるだろう。
私は微かな誠意を伝える。古人は「病が小康状態になればよくなる」と言う。明者はその人の妻や 子供たちのことを思い、身を慎んで戒めてほしい。
文政己丑年夏六月上旬に贈る
江民素行
色川英明詞兄
(コメント)
漢詩を現代文に訳したものです。
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付4 (6月15日条)
町への触書
この度、等覚寺から芝居興行の願いが出たため許可した。ついては、町方の者は静かに見物すること。心得違いをする者がいる場合は厳しく対処するため、その旨町役人から急度申し伝えること。
また、先だって申し伝えたとおり、見物する男女は綿服だけ着用すべきであって、絹布と紛うような品を着用してはならない。
以上のとおりの仰せであるので、町方に触書する。
丑六月
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付5(6月19日条)
書付
恐れながら書付をもってお届け申し上げます。
一 桟敷:木戸銭以外に二十匁
一 土間一枡:木戸銭以外に十五匁
一 切落し・入込:百八十文
但し、木戸銭を添え次代とも
一 同:子供 百文
右の通り御届申し上げます。
等覚寺
寺社御役所様
奥印
(コメント)
東覚寺(等覚寺)主催の芝居の桟敷等の値段の届けです。等覚寺から藩の寺社役所宛に提出されるものですが、町役人を経由するので、三中は参考になるかと思って写したのでしょう。
桟敷席⇒枡席(土間一枡)⇒切落し・入込の順に安くなっています。
土間一枡(ひとます)とは、枡形に区切った見物席。平土間ともいいます。
切落しとは、芝居小屋の平土間の最前列で下等の席。入込は、多人数の入る席。大衆席、追い込みともいいます。


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仮刑律的例 34 徒刑囚への対応

2024年06月20日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 34 徒刑囚への対応

【伊那県からの伺】明治二年二月
明治2年2月、伊那県からの伺い。
【伺い】
一 徒刑となった罪人共には苦役を科します。行った仕事に応じて日当を定め、釈放となったときに手当てを支払う予定です。
一 脱走するものは罪の軽重を問わず、刎首します。但しこのことは常々獄中に掲示することとします。
以上のとおりでよろしいかお伺い致します。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【返答】
一 脱走について
・脱走の初犯は、本来の刑期に年数を倍して科す。脱走の再犯者はすべて斬首でよい。
・全国一般にこの法を施行し、民間にまで広く布告しておくこと。罪人が脱走した場合は、厳重に手配し速やかに追捕すること。
・赦免とする場合は、眉と髪を伸ばしたまま、証標として木札を渡す。

一 作業及び手当について
・手当は、本牢の規定通りに行うべきである。但し、玄米二合五勺を増やすべきである。
・農期には、坪数をもって土地を分担させ、必ず耕作させること。
・農閑期には、わら細工などをさせる。
・病気にかかった場合は、全快してから追って作業をしなかった分も行わせること。
一 病気中の食事について
・病中の食事は朝夕二度に限る。
付紙
・病状によっては食事は三度以上を与えることもできる。虚病が疑われる場合は、医師に診察させること。

一 入浴について
・男は月に三度、女は六度の入浴を許可する。
付紙
・炎暑の季節は、男女ともこの限りではない。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(コメント)
・伊那県(現在は長野県域)からの伺いです。
具体的な事件に関する伺いではなく、徒刑の場合の囚人の扱いについての一般的な質問です。
徒刑は新しい制度なので、実施主体としてはどのように運用するかを検討しなければなりませんでした。
・脱走囚について、伊那県では「罪の軽重を問わず刎首」すると言い切ってしまっているのが、びっくりします。明治政府は、そこまでは認めていませんが、「初犯は刑を2倍にし、再犯は刎首」としておりますが、現代と比べると厳しいことこの上なしです(現代では逃走罪が成立して、その分の刑期が延びるだけです)。
・作業については、もっぱら農作業という想定
です。
・病中の食事は朝夕二度に限る、と言い切ってしまっているのも驚きです。付紙で、「病状によっては食事は三度以上を与えることもできる」とその内容を実質的に変更しています。これは、別の担当者が1日に食事は2回に限るとする返答を見て、さすがに行き過ぎではないか、詐病を疑うのであれば、医師が診察することで対応すべきではないかと考えたことによると思われます。
・入浴については、当初の返答(男は月に三度、女は六度)では衛生上問題が生じる可能性があるとして、付紙で「炎暑の季節は、男女ともこの限りではない」として、当局の裁量を認めたものと思われます。






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転売ヤー活動に忙しい幽学先生 嘉永7年6月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年06月17日 | 大原幽学の刑事裁判
転売ヤー活動に忙しい幽学先生 嘉永7年6月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年6月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
・昨日泊まっていった幸左衛門殿と七右衛門殿は早朝に職場に戻られた。良祐殿は昼前に職場に戻られた。
・幽学先生から色々な心得をお聞きした。
「親切は親切、用心することは用心しなければならない。」
「孝の道は親の心を安からしむる道である。」
「性の道は人を導く道である。一人きりの道というのは無い。」
・昼過ぎに節五郎殿が来た。石川様御門目見へが済み、本役になることができたと。
・長左衛門殿は今日外出できず、明日には来られるとのこと。
・栄之助殿が土産に団子を持ってきた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
月の末日は道友が集まり、皆で食卓を囲みます。幽学先生と五郎兵衛以外は辻番や門番のバイトをしており、職場に戻らなければなりません。昨晩は借家に泊まっていった幸左衛門殿や七右衛門、良祐は三々五々借家を出ていきます。五郎兵衛は相変わらず借家で留守番役です。

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嘉永7年6月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・長左衛門殿が朝来られ、昼にはお帰りになった。
・幽学先生は両国から境町、今川橋辺を回り、昼前にはお戻りになった。
・昼過ぎに幸左衛門殿が来られ、夕方には帰られた。
・晩に帳面の付け方が良くないため、幽学先生からご指導を受けた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
刀剣の転売ヤーとして実績をあげつつある幽学先生ですが、ぶらりと江戸を闊歩するときもあります。本日は借家のある神田松枝町から両国、今川橋あたりを歩いてきたようです。今川橋は、現在はその跡が残っているのみ。江戸時代、この橋のたもとには瀬戸物屋が多く集まっていたそうです。



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嘉永7年6月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・長左衛門殿が畳を買って昼過ぎに借家に来られた。
・幽学先生は湯島切通しの合羽屋に行かれた。
・良祐殿はこれまで旗本の石川様で住込み働きをしていたが、本日借家へ引越し。惣右衛門殿と一緒に良祐殿の持ち物を取りに行った。惣右衛門殿は借家に泊まられた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
良祐は旗本の石川様方の足軽部屋で3月から働いていたのですが(3月10日条)、良祐はまだ若く、住み込みで働いていたこともあり、悪風に染まることを幽学先生も心配していました。本日借家に引っ越しとなったのは、その問題の解消のためでしょう。
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嘉永7年6月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・惣右衛門殿は昼前に職場に戻った。
・親父(伊兵衛)が来て、「御役所から辻番というのは年寄りばかりいるそうだが、もしものことがあったときはどのようにするのだというご質問があったので、幽学先生と相談に来た」とのこと。
・幽学先生と節五郎殿は大小を買いに出かけて、夕方にお帰りになった。
・夕方、旗本の石川様御門まで良祐殿の持ち物取りに行った。晩から大雨となった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
辻番の番人は 夜分、六尺棒を持って、廻り場(管轄区域)を巡廻するのが仕事。何事もなければ、巡回と待機だけです。何事もないのが常態となっているので、給金は安く、老人ばかりの職場となってしまったのでしょう。

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嘉永7年6月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
昼前、幽学先生が腰物を買いに出かけられた。夕方には人に会うためにお戻りになった。その後再び店に行き、二両と百文で買い物を済ませてお戻りになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
最近の五郎兵衛日記は、幽学先生の転売ヤー日記の様相を呈しています。結構儲けているはずなのに、幽学先生がお金を何に使っているのかは謎です。

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嘉永7年6月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は藤元屋へお出かけになられた。昼からは幽学先生は、切通し合羽屋に行き、商いのやり方を色々と話された。「安く売れば繁昌してもうけも早く出るなんてことはない。そんなことを言っている商い上手はいない」
・良祐殿は番町へ行って、幸左衛門殿に門番の事について相談してきた。
・小生は、脚気治療の高橋医者のところに出かけ、薬を買って帰ってきた。小豆を五合買ってきて煮た。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
節五郎が脚気にかかったというのは以前の記事で出てきましたが、五郎兵衛も脚気なのかもしれません。高橋医師から買ってきた薬は自分のためのものかも。



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嘉永7年6月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・昼前に親父(伊兵衛)が来られた。「幽学先生にお願いがあって来た。国元で子供や若者達が奉公までしてお金を作ったてくれているが、私がここにいたのではそれだけになってしまう。国元に帰ることができれば何とかすることもできるのだが」
・長左衛門殿が借家の近くに引っ越してきた。その祝いにうどんや蕎麦を振る舞われた。
・節五郎殿は脚気治療をしている高橋医師に行った。晩に戻ってきたので、借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
長左衛門はもともと江戸に住んでいた人です。良祐に仕事を紹介することで幽学一門と接点をもったのですが、いつのまにか幽学一門と仲よくなってしまい、拠点の借家の近くに引っ越してきてしまいました。幽学一門といっても、強固な統制が取れているとはとても思えないのですが、何か人を惹きつける魅力があるのでしょう。



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嘉永7年6月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は昼前に買い物に出かけられ、鍔
を八つ買ってきて、夕方にお戻りになられた。
・夕方に伊兵衛殿が借家に来られた。「辻番の仕事は今夜限りで辞めるが、人手不足らしいから手伝いにはいく」とのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生、本日は刀の鍔を八つも買ってきました。やはり相応に儲かっているものと思われます。幽学先生は刀剣の仕入れ、売却については概ね単独行動です。時々誰からと一緒に買物に行くのは、買った刀等をもたせるためであって、それ以外は一人で行動しています。


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嘉永7年6月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は朝から藤元屋に出かけられ、すぐにお戻りになられた。また、昼には買い物に出かけられ、夕方にお戻りになられた。
・小生は砂町内田へ負債の支払いにいき
、馬喰町へまわって手拭地を買ってから戻った。
・長左衛門殿が来られ、良祐殿と碁を打った。
・晩に伊兵衛父が来て、泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
碁を打つ記事が久しぶりに登場。良祐は旗本の石川様での住込み働きを辞め、借家へ引越してきたので(6月3日条)暇があるのでしょう。長左衛門も囲碁が好きなようです。幽学先生は華美を禁じ、質素に暮らすようにということにはうるさいのですが、囲碁は贅沢とは判断していないようです。


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嘉永7年6月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿は、これまで藪様御屋敷の門番をしていたが、今後は仲番の仕事をされることが決まった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幸左衛門は自分の村(諸徳寺村)の地頭である藪家で門番の仕事を始めましたが(2月5日条)、働きが認められて「仲番」を務めることになりました。この「仲番」というのは、内山朝治『武士にて候』によれば門番小頭という役職のようです。幸左衛門、仕事ができる男です。

〈その他の記事〉
・おけい殿が病気のためあんまを頼み、薬を買われたとのこと。
・晩に幽学先生、良祐殿と共に馬喰町薬研堀で植木などを見てから両国へ行き、掛あんどんなどを見て帰ってきた。


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文政期も異常気象 文政12年6月上旬・色川三中「家事志」

2024年06月13日 | 色川三中
文政期も異常気象 文政12年6月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第四巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年6月朔(1日)(1829年)曇
・薬を送った利助から使いが来た。書状もあり、病気は全快したとのこと。
・寺嶋清兵衛が来た。藤沢の出入は終了したとのことで半切百枚を持参された。
・太田清兵衛は先日半紙二状持参し、挨拶に来た。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「利助」は、菅間村の利右衛門の倅の利助のことで、具合が悪いので薬を欲していました(5月24日条)。三中が送った薬は適切だったようで、利助の病は全快しています。


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文政12年6月2日(1829年)
三中先生、本日休筆です(4日までお休みです)。
#色川三中 #家事志


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文政12年6月3日(1829年)
三中先生、本日休筆です(4日までお休みです)。
#色川三中 #家事志

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文政12年6月4日(1829年)
三中先生、本日休筆です(明日再開)。
#色川三中 #家事志

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文政12年6月5日(1829年)曇
・往診を頼んでいた日向亮元医師。本日、土浦から在所(山口村)に帰った。
・入江氏(名主)が見舞いに来られた。
・今回、病気が長引いており神社仏閣への祈祷覚えとして記載する。
大宝八幡、千勝明神、六所 川口より
真鍋天王 17日祈祷 不動
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は持病が良くならないので、日向亮元医師に遠方から往診に来てもらっていましたが、本日ようやく同医師は地元に帰りました。今日から日記も再開しており、三中の体調もようやく上向きになってきたようです。

〈その他の記事〉
・先だっての粟野村の密夫一件、うら町の五兵衛のいとこであることから疑念を抱かれており、呼び出されたのであるが、疑念は晴れたことから、牢からでたとのこと。
・殿里村の名主七兵衛は、天王祭礼の際には町年寄の下座であったが、3〜4年前に同人が金銭的に貢献したので、帯刀御免を仰せつけられていた。そこで、登城の際にも町役人の上席となり、扱いが難しくなってきた。このことは町奉行においても懸案となり、名主の入江氏にも町奉行から直接話しがあるほどであった。
入江は、「町年寄の筆頭である栗山八兵衛に帯刀を許可し、七兵衛よりも上席とするようにしてはどうか」との提案をしたが、東崎町はこの策に反対である。このことは継続して話し合われていたが、ようやく今日、栗山八兵衛と入江全兵衛が奉行所に来るよう呼び出しがあった。
入江の話しでは、多分栗山八兵衛に帯刀が許可されるのではないかとのことであった。


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文政12年6月6日(1829年)曇り
・神龍寺の和尚に昨日施餓鬼を依頼。施餓鬼料として百疋、御供料金として一朱、御所化方へ二百銅ずつを差し上げた。
・本日、昼過ぎに神龍寺に施餓鬼のため利兵衛殿を遣し、経文読誦を聴聞したとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は病気祈願として、神龍寺の和尚に施餓鬼を頼んでおり(6月5日条)、本日施餓鬼が実行されました。三中は医学薬学に関心があり、独学とはいえ自分なりに勉強している人ですが、それでも神仏には頼ってしまうものなのですね。

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文政12年6月7日(1829年)曇
・天王様への17日祈祷の御札が川口から届いた。
・川口に初めて船で行った。夜には自宅に戻る。
・町組小頭の野口四右衛門殿が再び見舞に来られた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
野口四五右衛門は土浦藩の役人で町組小頭をしています(今月の月番)。一度三中を見舞いに来ており(5月15日条)、今回が二度目です。三中の病気が長引いていることもありますが、藩の役人もマメです。


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文政12年6月8日(1829年)曇
・小頭の宮古条助殿がお見舞いに来られた。
・駿河屋清兵衛方で宿泊していた旅人(下野壬生の人)が亡くなった。後の処理につき色々と難しい問題があるようだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「駿河屋清兵衛」は、春米屋月行事で今月の月番です。駿河屋さん宅で旅人が亡くなってしまいました。江戸時代は旅宿以外では人を泊めてはいけないことが建前ですし、他藩の者が亡くなるとその点も問題となってくるので、後の処理で様々な問題が生じるのでしょう。
⇒文政12年9月10日条でこの件に関する処分の記事あり。

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文政12年6月9日(1829年)曇り
夕方から西の方からと思われる雷鳴あり。深夜には雷鳴が一層大きくなる。時間が下ると大雷、震動、大雨。文化辰五月六日夜以来の大雷雨である。恐ろしいとしかいいようがない。日の出近くなると雷鳴は少し静かになったが、一時(2時間)ほどは大雷雨であった。夜明けと共に雲は晴れ、風は静かとなった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
21年ぶりの大雷雨が置きました。夕方から始まり、深夜には大雷、震動、大雨。現代とは違って雷が落ちて火災となるという恐怖感もあり、生きた心地もしなかったでしょう。

〈その他の記事〉
・田植え終了祝いのための準備をする。
・町年寄の栗山八兵衛殿に帯刀許可の祝いとして割酒一升を贈る。
・江戸大火につき水野出羽守殿の御書付の写を拝見したので、日記に記す。
⇒本ブログ末尾付1

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文政12年6月10日(1829年)晴れ
・夕べの雷雨で、川口にある醤油蔵の表側の鬼瓦一枚が落ち、微塵に砕けたとのこと。雷神が落ちたのか、竜が通ったか、単なる風雨の仕業とは思えない。
・銭亀川の水位が朝に五合、夕方には七合となる。
・先月5月2日には雹、24日には大風、そして昨日の大雷雨。今年の吉凶は一体どうなっているのかなどと考えていたら、夕方から再び雷雨で、みな恐怖した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
異常気象は人の心を不安にさせるものです。
この一か月で雹、大風、大雷雨と3日も異常気象が起こっており、三中もかなり動揺しています。旧暦6月(太陽暦なら7月)ですから、夏で暑くなる時期ですが、寒気が入っているようで、天候が非常に不安定となっています。

〈その他の記事〉
・夜に色川吉右衛門の婿が来た。明後日12日に店開きをするとのこと。
・ 昼過ぎ、玉造原新田の源兵衛跡の丈助という者が来た。「熊谷にまで行って玉造に帰るところなのですが、路銭がなくなってしまい難渋しております。困り果てて先の町で聞いてみると、貴家様は玉造辺りでも御商売されておられる家とのこと。参上して御無心申せば、一飯くらいはいただけるのではとお聞きしたため、参上した次第でございます。
50歳ほどに見え、誠に難渋した様子だったので茶漬を与え、さらに路銭として五十文を渡して帰した。
・紀州藩の徳川太真様が御逝去になられたとの触書を写した。⇒本ブログ末尾付2


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付1 江戸大火について水野出羽守殿の御書付の写(6月9日条)

江戸表の火災のため、地方で春立に収穫した白米は、当五月中に限り江戸内に積み送り、素人でも自由に売りさばいてよい。ただし六月になれば、これまでの通りにするように。先達て触れがあったところ、類焼した町々では普請が間に合わず、春立などが手廻らないとのことなので、さらに当九月中まで白米の江戸への廻送を許す。ただし十月になれば、以前の通りにするように。
右の通り、奥筋並びに関八州御料私領寺社領共に洩れなく相触れられるように。

右の通り、公儀からの仰出でなので町方に触れる。
丑六月
(コメント)
江戸の文政大火(文政12年3月21日発生)の復興政策関係の幕府の通達です。
水野出羽守は、老中水野忠成(ただあきら)のことで、当時の筆頭老中です。
この書付の内容は、白米の流通を一定期間に限ってではあるが、自由にするというものです。

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付2 (6月10日条)
触書控
徳川太真様御逝去につき、昨八日より来十四日まで鳴物御停止、普請は昨八日の一日遠慮すること。
六月九日
右の通り、公儀からの仰出なので申触れる。
六月十日
役元
(コメント)
「徳川太真」というのは、和歌山藩の第8代藩主徳川重倫(しげのり)のこと。この年の6月に死去したため、6月8日〜14日までは鳴物は停止、普請は8日だけ自粛せよという触書です。


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仮刑律的例 33 強盗殺人⇒梟首

2024年06月10日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 33 強盗殺人⇒梟首

〈事案の概要〉
加害者(礼蔵)は借金の返済に困り、督促を繰り返していた僧智邦を殺害。その後、借財の帳面を奪い取り、焼き捨てて借財の返済もしないことを図りました。その後、逃亡を試みたしたが、他国に行くことができず、帰ってきたところを捕らえられ、本件を自白しました。
加害者には梟首が相当とされています。

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【肥後人吉藩からの伺】明治二年二月
明治2年(巳年)2月7日、肥後人吉藩主の相良遠江守よりの伺い。
礼蔵が起こした件につきお伺いします。
礼蔵は、真言宗青蓮寺(相良遠江守領の肥後国球麻郡にあります)の被官兵左衛門の悴です。
礼蔵は、領内にあります真言宗生善院の僧智邦から借米代金として70両分を借りておりましたが、返済につき延滞しており、智邦から頻りに催促を受けていました。礼蔵はこれに困惑して悪心を生じ、去年(卯年)12月9日、智邦と多良木村で出逢ったことから、その夜一緒に帰ろうとした途中で、智邦を棒で打伏せた上、脇差で刺殺しました。智邦の死体は、自分の土地に埋めてしまいました。
そして、生善院へ行き、借財の帳面を取ろうと企て、智邦は欠落ちをするので、身の廻りの品を取ってくるように智邦に頼まれたと偽り、片付けているうちに借財の帳面を盗み取りました。また刀1本及び金子15両・米5石4斗の蔵預りは、智邦の欠落先に届けるからと欺いて持ち帰り、帳面は焼捨て、米・金は追々途中で捨て
ました。礼蔵はその後欠落ちをし、刀は売り払い、あちこちを転々としておりましたが、他国を通ることが困難であり、やむを得ず立ち帰ってきたところを調べの上、自白に及んだのです。
この事件は大胆で極めて非行であり、死刑は免れ難いものです。死刑については天皇の裁可を得るようにとの仰せでありますので、本件をどのように処理すべきかをお伺い致します。

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【返答】
本年(巳年)3月、天皇の裁定を経て以下のとおり返答する。
この者、生善院の僧智邦を殺害し、さらに凶行に及んで同人の金子等を奪い取ったことは、不届き至極であって、梟首とすべきである。


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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第四回講義

2024年06月08日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第四回講義

第四回講義(明治18年5月1日)
前回は公訴を行うべき者について説明致しましたが、今回は私訴を行うべき者についてご説明しましょう。
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第二款 私訴を行うべき者
治罪法第2条では、「私訴は犯罪により生じた損害賠償、贓物の返還を目的とするもので、民法に従って被害者に属する」と規定されていますが、この点は詳細な説明が必要です。

同条により、私訴の権利が被害者に属すること、被害者がいかなる場合に私訴を行うことができるのかは、民法によって定められることが明らかとなってきます。しかし、日本ではいまだ民法が制定されていません。よって、治罪法第2条を解釈する際には、「道理」により判断すべきということになります。

明治8年6月3日第103号公布の第3条でも、「民事の裁判で成文の法がないものは習慣により、習慣がないものは条理を推考して裁判すべき」と規定しているからです。

「道理」とは、欧米の学者や各国の法典に照らして最も適切と認められるものをいいます。
「民法に従って被害者に属する」との意義を理解するには民法の領域のお話しをしなければなりませんが、民法はこの講義の範囲外ですので、これ以上お話しを進めることはいたしません。

一点だけご理解いただきたいのは、「民法に従って被害者に属する」という意味は、権利の関係を示したものであって、手続きを示したものではないということです。この条文を私訴の手続きを示したと理解する説もありますが、論じるに値しません。
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〈損害賠償の範囲〉
それでは、まず私訴とはいかなるものであるのか、どのような要素から成立するかを論じていきましょう。言い換えれば、損害賠償(贓物の返還も含みます。以下同じ)の範囲とはどのようなものかということです。

私訴の目的は損害の賠償を要求することにあります。ですから、その他の事柄を私訴の目的とすることができません。これは、治罪法第2条において、「損害賠償、贓物の返還を目的とする云々」と規定されていることからも明らかです。

通常、民事訴訟の目的は損害賠償に限られません。例えば離婚の訴えや姦通による親子関係不存在の訴訟は、損害賠償を目的とはしていません。よって、これらは私訴の目的とはされません。もっとも、姦通によって損害賠償を請求するときは、私訴を起こすことができるのは明白です。
要するに損害賠償は私訴の要素なのでありまして、これがなければ通常の民事訴訟により解決されるべきものなのです。

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〈財産上の損害だけでなく徳義上の損害でも私訴は可能〉
また、損害賠償請求をする際には、その損害を算定することができなければなりません。想像的な損害に対して回復を求めることはできません。例えば、趣味や習慣、愛情などの事柄に関連する損害賠償を私訴の目的とすることはできません。

もっとも、私訴の目的となる損害は財産上の有形の損害に限定されるわけではなく(そのような説もありますが、皮相な説というべきです)、徳義上における無形の損害であっても、それを私訴の目的とすることができるます。

犯罪は国の公益安寧及び個人の私益安全を害するものであり、どのような場合であっても犯罪を行った者は、国家のためには刑法の制裁を受け、被害者のためには損害を賠償させることが必要です。この二つの措置が同時に取られることで、初めて国家の秩序を維持することができるのです。刑罰のみが行われ、損害が賠償されなければ、個人の権利が平等に取り扱われたことにはなりません。なぜならば、損害を受けた者の被害回復ができなければ、被害者は常に加害者によって権利を侵害され、互いの平等を保つことができないからです。

このように、損害を賠償することによって権利の平等を維持するためには、単に財産上の損害だけに留まらず、徳義上の損害にも及ぼされるべきです。

例えば、議員選挙の場合に、役人が被選挙権を有する者を被選挙権名簿から除外するという場合は財産上の損害がないのですが、単に刑罰をもって十分とはいえず、権利を害された者に損害を賠償するべきです。
また、身体に関する損害の例として、強姦罪や女性が髪を切断された場合、中傷や罵倒によって精神的な苦痛を受けた場合などが挙げられます。この場合には財産的な損害は存在せず、いわゆる無形の損害であり、徳義的な損害というべきものです。強姦の際に怪我をさせられ、その治療費は財産的な損害となりますが、全く負傷しなかった場合は財産上の損害は存在しません。

女性が髪を切られた場合、財産上の損害はありません。美容院代が節約できて経済的に得をしたという見方もできてしまいます。 よって、財産上の損害のみを賠償の対象とするならば、強姦、讒謗中傷、罵詈侮辱などの場合には、被害者は損害賠償請求ができなくなり、屈辱を甘受するほかないこととなります。であればこそ、損害賠償とは、財産上の損害だけでなく、德義上の損害についても賠償を求めることができるものと解釈すべきなのです。

その根拠は刑法附則第五十九条にあります。「人の名誉や殺傷に関わる損害その他犯罪によって実際に発生した損害について、その賠償を求めることができる。」
この規定には、名誉や身体に関する損害であっても賠償を要するものであることが明らかです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〈賠償とは何か〉
以上で損害の賠償は財産上の損害だけでなく、無形の損害も含まれことはお分かりいただけたかと思います。それでは次に賠償とは何かについて説明致しましょう。

個々人の権利は平等であるべきです。この権利の平等を維持するためには、損害賠償の法が必要です。
この損害賠償を財産上の損害だけとし、名誉や身体に関する損害を含めないとすると、権利の平等を保つことができません。
かつての野蛮な時代には、暴力を制するには暴力にもって対処したものでした。しかし、社会が文明化していくにつれて、暴力で暴力に対抗する野蛮な習慣は捨てられ、賠償法にとって代わられました。つまり、賠償法は、世の中がより良い方向へ進んでいることを示す証拠と言えるでしょう。

賠償は金銭で行われるのが原則です。これを「償金」といいます。人民の間で行われる賠償は、刑罰とは同一ではありませんが、すでに被った損害を賠償させるものであることから、ある意味では私人間における刑罰と言ってもよいでしょう。

また、賠償はたいてい現実の損害よりも多額の要求を認めるのが慣例となっているようです。
例えば、国と国との間の賠償は、通常、現実の損害よりも多額の請求がなされます。
このように、実際の損害を超える要求をするのは、国と国の間だけでなく、個人間でも同じです。欧米各国で行われている例を見ると、離婚の損害賠償として数万円以上の巨額を要求したり、新聞紙上での誹謗中傷に対して莫大な賠償金を要求したりするなど、多くの場合、実際の損害を超える金額を請求しています。
そして、このような巨額の賠償金を得た人は、それを自分のものにするのではなく、学校、病院、貧院などに寄付するのが習慣になっている国もあります。
これは、おそらく実際の被害を超える賠償金を得ることから生まれた習慣と言えるでしょう。
その是非はさておき、このように実際の被害額よりも多額の要求を認めるということは、刑罰とほとんど同じだと言えるのではないでしょうか。

「徳義上の損害は算定基準がないため、弊害がある」との指摘もありますが、私はそのような考えが正しいとは思いません。
立法官が法律を制定する際、どのような行為に対してどのような刑にするのか、何円の罰金を科すべきか等、いちいち具体的な金額まで量定して決めているではありません。刑を量定するのは、立法者の智能によるのではないのです。
そうであれば、損害賠償請求があった場合も、裁判官は原告と被告の主張を参考に、事実関係と損害状況を考慮することで、賠償額を算定できるはずです。これは、立法者が刑罰の軽重を定めることよりも、はるかに簡単な作業と言えます。

以上から、刑罰とは別に損害賠償法が必要であること、そして損害賠償は財産上の損害だけでなく、無形な損害にも適用されるべきであることが理解していただけると思います。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〈直接的な被害者でなくても私訴ができる場合〉
さて、それでは損害賠償に関する注意すべき事項を述べ、その後、被害者に関することをご説明いたしましょう。

前にも述べたように、愛情を害されたような場合は、その賠償を要求することはできません。
例えば、私と断金の交わりのある友人が殺害されたとしましょう。この場合、私の彼に対する愛情は甚だしく害されます。しかし、私は賠償請求要はできません。愛情が害されたとしても、私の権利はいささかも害されていないからです。人の情というのは空漠なものでありまして、風を捕らえるがごとく、影を捉えるがごとく、決して測定することができないからです。よって、私訴を成立させる理由とすることはできません。

それでは、親子・夫婦が殺害された場合も、私訴は成立しないものなのでしょうか。
子供を殺害された親、親を殺害された子供、妻を殺害された夫、夫を殺害された妻は、私訴は成立します。友人を殺害された場合とは大きく異なるからです。そもそも、親子や夫婦の関係は、分身同体ともいうべきものでして、親の害は即ち子の害、子の害は即ち親の害であり、夫婦の間においても同様です。よって、この損害は自分自身に害を受けたと同一視することができ、私訴を行うことができるのです。
古代ローマ時代には、このような場合を「痛苦の訴え」と呼び、徳義上の損害賠償ができるとしています。

親子・夫婦に関する賠償については欧州各国でも様々な議論があります。日本でも導入しようとすると、賛成と反対の意見が必ずぶつかるでしょう。
しかし、親子・夫婦間には賠償が認められるべきです。

かつてフランスの大審院検事長だったシュパン氏(1830年代即ち今より50年前の人です)は、以下のように述べています。
「世の中には、親を殺害された子供、夫を殺害された妻には損害賠償請求権がないのだという誤った考えを持っている人がいます。この人は次のように説いています。
『後見を必要とする幼者であれば、親が殺害されたときは、幼者が私訴をできるのは当然でしょう。しかし、生活費を子に頼っている親が殺害された場合、子は逆に生活費の支払いを免れるのです。この場合には、子にとって親は害を加えられたのではなく、むしろ義務を免除してくれたと言えます。そのため、子どもは殺害者に感謝こそすれ、損害賠償請求はできないというべきです。』」

これは、財産上の損害がない限り訴権が発生しないという偏見に基づく誤った論理です。損害賠償は財産上のものにとどまらないことは、既に論じましたので、皆さんもご承知のことと思いますので、この誤った説にわざわざ反論する必要はないでしょう。

さて、ここで一つの疑問が生じます。
それは、損害賠償は親子夫婦間にのみ存在するのか、それとも他の親族にも及ぶのかという問題です。
私は、他の親族に及ぼす必要はないと考えています。もっとも、親を亡くした幼者が兄や叔父に育てられている場合、その兄や叔父が殺害された際に、弟や姪は損害賠償請求権を行使できるべきです。
このようなケースでは、裁判官の判断に委ねられるべきであり、必ずしも親子・夫婦間に限定されると断言することはできません。しかし、一般論としては、原則として他の親族は損害賠償請求できないと考えた方が妥当です。


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〈被害者とは誰か〉
以上、損害の範囲について説明しました。次に、被害者とは誰かについて説明します。

第一に被害者とは、まず犯罪局面に当たったもの、即ち直接被害を受けた者を意味します。
しかし、犯罪の局面に当たらなくても、被害者として私訴をを起こせる場合があります。例をあげていえば、妻や又は親が被害を受けた場合は、夫や子は直接被害を受けていなくても、被害者として私訴を起こすことができます。その理由は既に述べましたので、詳述は致しません。

ここでは報道されたことのある例を紹介し、諸君の参考といたしましょう。
妙齢の美女のいる一家がありました。ある新聞記者はこの女性と結婚したいと申し込みましたが、父親から断られました。記者は怒り、報復しようと、娘の素行について捏造記事を新聞に掲載しました。
父親はすぐに裁判所に訴えたのですが、裁判所は娘の告訴を要するとして、父親の訴えを却下しました。
諸君はこの裁判所の却下の判断を妥当だと思いますか。

私は、この却下の判断は誤りだと考えます。
なぜならば、親である者が讒謗の直接の被害者ではない場合であっても、子を中傷されてしまったとき、親の不行届であることを公言されたものといえ、親もまた名誉を害をせられたものとして、被害者であるというべきです。
そのようにいえないとしても、親はその子の後見人者としての地位があり、その子の委任を要せずして、子を代理として私訴を行うことができ、私訴を起こすべき義務を有すると考えられるからです。
裁判所が却下したことを誤りと考えるのは以上の理由からです。


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〈私訴権の成立と損害〉
私訴権を行使するためには、現実に損害を受けていることが必要です。将来得られるであろう予望の利益が害せられたとしても、損害賠償請求権を行使することはできません。
例えば、代言人や医師は特種の営業で、厳しい規則や試験があり、特別な能力を持つ者でなければ営業に従事することができません。
試験を受けずに密かに営業を行う者がいた場合、具体的な被害者はいなくても、代言人や医師の全体に間接的に多少の損害が生じていることには疑いありません。

このような場合、代言人や医師が損害賠償請求権を行使できるのでしょうか。この点は、
フランスの学説では4つの説に分かれています。
第1説:損害賠償請求権を行使できないとする説 この説は損害が漠然としていることを理由としています。
第2説: 損害賠償請求権を有するとする説
「損害があれば訴権が生じる」という古来からの格言に基づく。
第3説:これらの営業者が団結すれば損害賠償の権利を行使できるとの説
損害は営業全体に及ぶため、個々の営業者が権利を行使することはできないと考える。
第4説:損害の有無のみが問題であり、団結するか否かは損害賠償とは関係ないとの説

私は、第4説が最も合理的と考えます。
第1説から第3説の問題点を簡単に説明しましょう。

第1説は、現に損害があるにもかかわらず、賠償責任を負わないとするものです。損害があるのに責任を負わないというのは、いかなる理由によるのでしょうか。根拠のない説と言わざるを得ません。

第2説は、どのような場合でも損害があれば賠償責任を負うべきとするものですが、これは極端な説言わざるを得ません。
例えば、東京で1名の無免許医が患者を治療したとしましょう。この場合、都下の医師全体に多少の損害があったことは明白ですが、個々の医師については損害があったことを明確に認識することは難しいでしょう。損害が明確に認識できないのであれば、何を基準に賠償責任を負わせることができるでしょうか。第2説も根拠のない説と言わざるを得ません。

第3説は団結の有無によって賠償請求権の有無を定めるものですが、この説に従うと、一個人が損害を受けていても、被害者が団結しなければ賠償請求できないことになります。これは実に不合理な説と言えるでしょう。

第4説は損害の有無によって訴権の有無を定め、損害があれば訴権を認める説であり、四説の中で最も妥当な説と言えるでしょう。

例えば、人口1000人、世帯数300戸の村があるとしましょう。古くから医師が一人いて、祖先から代々医療業を営んでおり、村人は皆その治療を受けています。一年の収入は概算でき、その予算で一家の生計を立てているのです。
しかし、突然一人の医師が現れて開業し、村全体がその医師の治療を求めるようになったとしましょう。しかし、その医師の免許状は偽造であったのです。この場合、ニセ医師が営業していた期間の損害は明確に把握できるので、この者が損害賠償責任を負うのは当然です。

もう一つの例として、生糸製造で有名な商社があるとしましょう。ところが、別の製造者が自身の商品を売りさばくために、その商社の製品を粗悪品だと公言し、世間の信用を損ねました。この場合、被害者は商社であり、損害を受けたことは明白なので損害賠償請求することができます。しかし、商社ではなくある地方の生糸についてそのようなことをした場合は、損害を受けた者はその地方全体の製造者であり、個々の製造者については損害を認識することができません。よって、この場合個人の名義で損害賠償請求することはできません。
結局のところ、損害が明確に把握でき、計算できるものでなければ、訴権を成立させることはできないのです。また、讒言を受けた場合も、この考えを類推することで、訴権の有無を判断することができます。


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借家暮らし続く 嘉永7年5月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年06月06日 | 大原幽学の刑事裁判
借家暮らし続く 嘉永7年5月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年5月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・日の出前に幸左衛門殿が借家に来た。
・武左衛門殿は本日江戸を立ち、帰村された。
・幽学先生は食事を取った後、買い物に出かけられた。夕方、脇差3本、目貫5組を買ってお戻りになられた。
・昼過ぎに親父(伊兵衛)が網を売りに出かけたときに、借家に立ち寄られた。
・昼に惣右衛門殿が借家に来て、借家の腰張を手伝ってくれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は転売ヤーとして、今日も仕入れ。初めて「目貫」というものを仕入れてきました。目貫とは、手で握る部位である「柄」(つか)の中央付近に付けられた刀装具の一種で、滑り止めと手溜まりを良くする機能を備えています。装飾品としての価値もあり、目貫だけで売買がなされていたことがわかります。

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嘉永7年5月22日(1854年)雨
#五郎兵衛の日記
・朝方に横山町で綿を買った。米沢町で巻せんべいを買ってから借家に戻った。
・昼から先生は横山町付近を散歩しながら買い物に出かけた。昼過ぎにお戻りになり、先生と二人して鍔を磨いた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
巻せんべいは、煎餅を薄焼きにしたものをそのまま、あるいは有平糖などを芯にして巻きこんだもので、宝永ごろから江戸吉原の名菓として有名であったそうですので(コトバンク)、五郎兵衛も来客用にと思って購入したのでしょう。「米沢町」は現在の中央区東日本橋一・二丁目あたりなので、ご近所での買物です。

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嘉永7年5月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は藤元屋に行かれたが、すぐにお戻りになり、鍔磨き。
・良祐殿は日の出前に借家に来られ、借家の普請を昼前までした。日暮れには職場に戻った。
・夕方、佐竹様の辻番の仕事をしている惣右衛門殿のところへ行き、明日朝飯を一緒に取ろうと話した。
・晩には幸左衛門殿が借家に来られ、泊まられた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生はこの時期藤元屋と関わりを持っています。仕入れた刀等を藤元屋の店先に並べてもらい、売っていたようです。今日も仕入れた品を置きに行ったのでしょうか。
佐藤雅美『お白洲無情』(小説)
「江戸の町を歩き、質屋、古道具屋、骨董屋などを訪ね、鈍刀や脇差を二本、三本 仕入れて新品同様に仕立て直し、藤元屋の店先に並べてもらうという商売はまあまあだった。そこそこの稼ぎになった。」


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嘉永7年5月24日(1854年)雨
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は藤元屋に行かれたが、すぐにお戻りになった。
・惣右衛門殿が日の出前に借家に来て、昨日の約束どおり朝食を一緒に食べた。
良祐殿、節五郎殿、伊兵衛父も昼前には借家に来た。皆に「近々奉行所から御呼出しがあるかもしれないので、ご用意をお願いします」と伝えた。
・帳簿の付け方につき、幸左衛門と話す。
・良祐「先祖株では大そう助かりました。御上へ願済になり御判を頂戴した時には、祖父祖母たちは涙をこぼして喜びました。それで若者子供たちまでどんなことでも勤めて孝行しようとと思って、私どもも浮かれて叱られたのあります」と、幽学先生に話しをされていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
先祖株についての良佑の述懐。
大原幽学といえば、教科書的には先祖株組合を作った人、先祖株組合は世界初の農業協同組合である等と評価されていますが、五郎兵衛日記ではこれまで先祖株については触れられていませんでした。

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嘉永7年5月25日(1854年)雨
#五郎兵衛の日記
・早朝ご飯を食べているときに、炭のことで幽学先生からお話しあり。
「自分勝手に物事を決めているから、私が言ったことが腹に留まらない。何度も言ったが、とにかく軽くごそごそする火のほこりのようなのが良いと言ったのに、それがわからないのでは困る」
・その後幽学先生は横山町へふち頭注文に行かれた。
・良祐殿が日の出前に来られる。長左衛門殿は借家普請をして、夕方には帰られた。小生前の土普請と借家の腰はりをした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日幽学先生は「縁頭」を注文に行っています。「縁頭」(ふちがしら)とは、刀の柄頭と縁金の二つの部位を一対のものとして呼ぶときの名称です。別の刀の構成部品ですが、同じ模様が施されるようになったので、二つで一対として扱われています。

縁頭(ふちがしら)とは

「縁頭」(ふちがしら)とは、鍔(つば)と接する側に付けられる金具「縁金」(ふちがね)と、その反対側の先端部に付ける金具「柄頭」(つかがしら)を合わせた呼び名。縁...

刀剣ワールド


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嘉永7年5月26日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・朝食後、せんたく屋へ行く。
・良祐殿が日の出前に来られる。長左衛門殿は借家普請をして、夕方には帰られた。昼過ぎに高橋力蔵様がお出でになられて、昼過ぎにはお帰りになった。小生は昼前に借家の土普請をした。
・日暮れころ、幽学先生は良祐に種々のご教諭。しかし、「どうも自分で勝手に決めてしまうところがあって心配だ」とのこと。
・未明、丸の内の材木屋から出火。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が洗濯屋に行っています。この日記では初出。江戸時代の洗濯屋は洗濯女が2人1組になって、顧客の家へ出かけ灰汁を使った洗濯で木綿を主とする衣料の洗濯をしていたそうです。


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嘉永7年5月27日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・日の出ころ、幽学先生は高輪にお出かけになり、昼過ぎにお戻りになった。
・小生は昼前に番町のに味噌を取りに行き、
惣右衛門殿のところに立ち寄った。惣右衛門から「幽学先生のお側にいるのは五郎兵衛だけであるから、幽学先生のお考えのとおりに務めてもらいたい」との話しあり。
・昼ころ、節五郎殿が来られる。高輪に脚気の療治を一通りできる医者がいるので、そこへ行ってみるとのこと。
・幽学先生から「節五郎も五郎兵衛も自分のことだけを気にかけていて、周りのことは何も思いつかない。何もわからないまま国元へ帰っても、大勢の世話をすることができないぞ。まず、江戸に出府している者たちのことを皆自分のことのようにして、注意を払ってみよ。そうすれば、何をすべきかが分かってくるはずだ。」と叱られた。
・節五郎殿は御門番見習に戻られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
節五郎が脚気になってしまいました。幽学先生のアドバイスは「食事を減らしたら」というものでしたが(5月19日条)、ビタミンB1不足が原因ですから、幽学先生のアドバイスどおりにしても良くなる訳はありません。


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嘉永7年5月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生のお話し
「普段私が思っていることは、門人の行末を良くさせたいという事だ。それ以外は何も思っていない。」「人のことを明けても暮れても思っていれば気配りも届き、つまらない考えも出るはずはない」。
・「去年8月28日夜、両国川開きの花火を見にいこうかといったが、それでは国元に言い訳できないといって、誰も見物にいかなかったではないか。それを今年は、書物を教えているものに頼まれたといって、花火を見に行くというのは問題ではないか。」
・「それから、私への相談もなしに帯を買った者がいる。これは約束違反だ。幸左衛門、節五郎ら三人も約束違反した者がいる。」
・早朝、石川様御屋敷の新部屋へ白米を取りに行った。門番に節五郎殿が勤めていたので、脚気のことにつき聞く。「親方にそのことを話したら、医者に見せるのは、まず灸をしてみて四五日様子を見てからで良いだろう」とのこと。このこと戻ってから、幽学先生にもお話しした。
・朝早く、家主に店賃を持っていく。昼から髪結い。丁子屋に行きタバコを買う。暮方に人形町へ行って瓜を買ってから帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
節五郎の脚気治療続報。昨日の話しでは、高輪の医者が脚気治療ができるということでしたが、今日になってみると、職場の上司に「まずはお灸をやってみろ」と言われたとのこと。健康保険はなく、医者に掛かったら相当の費用がかかりますから、医者に行くのも慎重にはなりますね。


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嘉永7年5月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・今月も最終日である。早朝に惣右衛門殿、伊兵衛殿、良祐殿来られる。昼前に一同で勘定をし、昼はうんどんを大食。余ったので晩もまたうんどんを食べる。伊兵衛殿は昼過ぎに職場に戻られた。
・一同への幽学先生のお話し。「長沼組の者は性学の本意を知らないから、追々勤めさせるより外はないだろう。」良祐殿、惣右衛門殿、幸左衛門殿が幽学先生とお話しになった。良祐殿、幸左衛門殿、七右衛門殿(昼過ぎに来られた)が借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
毎月の最終日は、道友一同借家に集まって、経費精算&会食です。この年の5月は小の月なので、今日が月の最終日となります。
今日のメニューはウドン。昼に「大食」したのに、余ったというのですから、どれだけウドンを作ったのか…。

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嘉永7年に5月30日は存在しませんので(嘉永7年5月は小の月)、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判 
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嘉永7年に5月31日は存在しませんので(旧暦には31日は存在しません)、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判


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体調不良続く 文政12年5月下旬・色川三中「家事志」

2024年06月03日 | 色川三中
体調不良続く 文政12年5月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第四巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年5月21日(1829年)
・駿河屋清兵衛殿が来られた。「覚」を持参されたので、日記に写した。
・昨夜佐助の親が菓子を持って挨拶に来た。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「駿河屋清兵衛」は、春米屋月行事で今月の月番です。春米屋月行事なる役が何をするのか不勉強のため分からず。「覚」の内容が米一升の代金を121文1分で売りたいということなので、米の売り値を決める役なのかなと思いますが、この辺り全く知識がなくよくわかりませぬ。
覚の内容⇒本ブログ末尾付1、付2

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文政12年5月22日(1829年)曇
・谷田部の「きさ」が急病とのことで人が来た。即刻与兵衛をその者と共に谷田部に行かせた。
・飯塚(親戚)から筍をもらった。
・夕方、川口の向横田治右衛門の末子が川に落ち亡くなった。
・寺嶋なを死す、片野村の手賀宗仲老死去す。
・東覚寺の芝居願いは認められたとのこと。
○田宿町の安右衛門方に加賀の者が多数滞在していた。人別にも入れられていない。御上から度々そのようなことのないようにとの仰せがあることでもあり、田宿町の飛子兵衛が責任者となり、毎月20人を幕府の御用人足として差し出すようにとのご指示である。飛子兵衛が願人として願書を提出した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・子どもが川に落ちて亡くなったということから、訃報を書きとめています。「手賀宗仲」の名が見えます。三中は行商に出たときに手賀宗仲宅で泊めてもらっています(文政11年1月19日条)。片野村(現石岡市片野)に住んでいたのですね。
○田宿町(三中の住む町)に不法移民がいたという記事。江戸時代の不法移民は宗門人別帳に記載されていない人のことです。北陸地方は浄土真宗の影響で人口が多くかった為、人別に入れない形で人を集める人もまたいたのでしょう。

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文政12年5月23日(1829年)雨少々降る
・利兵衛殿が、代参も兼ねて三夜様へお参りに行った。
・両町(中城・東崎)の油屋行事からの覚えを手に入れたので、日記に写した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・「利兵衛殿」は三中の叔父で、三中が町役人に就任してからは、薬種商の仕事は利兵衛殿にまかせています。
・「三夜様」は二十三夜尊のことです。旧暦23日の月待ちをする習慣があり、土浦では小松(現土浦市小松)の月読宮二十三夜尊が有名です。
・油屋行事からの覚えは、本ブログ末尾の付3参照。
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文政12年5月24日(1829年)
・宍塚九右衛門殿から米2駄、北条から米1駄が届いた。春からこれまでに麦と米を合わせて20俵ほど買った。
・菅間村の利助(利右衛門の倅)から薬をほしいとのことで人が来たので、薬を遣わした。
・夕方から大風が吹き、木や家に損害が出た。深夜には少し静かになった。雨は降らず。
新田の隣にある柳の大木が倒れた。植木や屋根などが大破したところもある。
#色川三中 #家事志
(コメント)
菅間村(現つくば市菅間)の利助は色川家
の元従業員。文政10年9月朔日条では勤務態度が良くなく、不埒との評価を三中からされています。おそらくその後解雇されたのではないかと思われます。どうも具合が悪いらしく、薬を求めてきています。なお、菅間村から土浦までは片道10キロ以上あります。

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文政12年5月25日(1829年)快晴
昼過ぎから西風が吹いた。俗に言うところの大凶だというが、如何。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨夕から大風が吹き、天候不安定です。大木が倒れ、屋根が大破したところもあるなど損害も出ています。今日も強風だったのか、風の方角が悪いのか、大凶で運勢が悪いのではないかと思案しています。


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文政12年5月26日(1829年)
三中先生、本日休筆です(27日まで)。
#色川三中 #家事志


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文政12年5月27日(1829年)
三中先生、本日休筆です。明日再開です。
#色川三中 #家事志



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文政12年5月28日(1829年)晴
・本日、病気でまた体調が良くない。
・口上を書き留めた。
口上
一 今日、中城・東崎の両町で絹布を使用しないようにとの仰せがあった。
右の通りご承知ください。
五月二十八日 入江(名主)
各様
#色川三中 #家事志
(コメント)
・名主名義で口上が出されています。土浦では
絹布を使用しないようにとのお達しです(「中城・東崎」は土浦を構成する町の名前)。このような奢侈禁止令は度々出ていたのでしょうが、どれだけ効果があったのでょうか。


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文政12年5月29日(1829年)
朝、山口村の医師日向亮元老に往診を頼む(使いを出した)。日向医師は夜に土浦に来られた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・昨日の日記で「病気でまた体調が良くない」とあり、なかなか病気が良くなりません。親友の日向亮元医師に往診を頼んでいます。「山口村」は、現つくば市山口でしょうか。三中の居所から片道16キロほどありますが、信頼できる医師ということで往診を頼んだのでしょう。
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文政12年に5月30日は存在しませんので(同月は小の月)、 #色川三中 #家事志はお休みです。

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文政12年に5月31日は存在しませんので(旧暦には31日は存在しません)、 #色川三中 #家事志はお休みです。

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付1 春米屋月行事の覚書(5月21日条)
一 米金一両に付き 6斗8升買〈但し2升下げ〉
内6升8合つきべり
残り6斗1升2合
銭6貫600文
660文:利息
204文:つき賃
締めて7貫464文
一升代121文1分:但し 3 文 4 分下げ
右のとおり売買致したく願います。以上
丑五月
両町春米屋 惣代 四郎右衛門、弥兵衛
中城 幸助、清兵衛

太田甚五兵衛殿、色川桂助殿
両町名主奥印
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付2 穀屋行事の覚書(5月21日条)
一 上米金一両につき 7斗買〈但し前より2升下〉
6斗8升売
一 中米金一両につき 7斗2升買〈但し前より2升下〉
7斗売
右のとおり売買致したく願います。以上
丑五月
両町穀屋行事 弥右衛門、甚助、中島屋清兵衛、枡屋 弥七
太田甚五兵衛殿、色川桂助殿
両町名主奥印

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付3 油屋行事の覚書(5月23日条)
一 水油10樽 但し3斗6升入
代金17両1分元直段 前より金1両下
一 同金1分に付
水油4升7合3夕 前より3合下
一 同1升に付
代350文 前より16文下げ
一 同1合に付
代35文 前より1文下げ
右のとおり値下げして売買致したく願います。以上
文政12年丑五月
両町油屋行事 万屋清兵衛、いせや伊兵衛
太田甚五兵衛殿、色川桂助殿
両町名主奥印


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