(同書による吉野朝吉の生涯の要約)
・1857(安政4)年6月9日、吉野彦八と妻貞子の間に長男として生まれる。
・朝吉の祖父吉野彦右衛門は、大多喜侯の命により近辺一体の総庄屋となっており、大切な三代目として取り扱われ、家業よりも学問に精を出すべしという雰囲気のもとで育てられたらしく、若くして東京に遊学し、後に東京大学教授となる三島毅(号中洲)の門人となった。
・吉野朝吉は、二松学舎の第2回卒業生として名をつらねた。二松学舎は、三島中洲が設立し、二松学舎大学の前身である。
・朝吉は夷隅銀行の設立に参加し、その役員を務め、小沢に鉄道駅を設置するよう政府に働きかけたり、いろいろ郷里の経済発展のために尽力したが、一番力をいれたのは、大正2年までは、両国から大原までしか通じていなかった房総東線を勝浦まで延長するに当たり、郷里の小沢に駅を設置してもらうことであった。
・吉野朝吉は、三島中洲だけでなく、小沢の家に、学界・財界の名士を呼んでは歓待し、またしばしば上京して知遇を得た。特に渋沢栄一男爵(後に子爵)と親しくなり、千葉県の清澄山等で猟を共にするのを楽しみとした。渋沢男爵の子息武之助は、小沢村の家にずっと滞在したことがある。
・吉野朝吉の最大の趣味は猟で、郷里では当時、きじ、うさぎがいくらでも撃てた。
・吉野朝吉は、いろいろな用向きで上京することが多かったため当時としては著しいハイカラ趣味となり、元禄時代以来の母屋の側に、郷里としては初めての西洋館を建てたり、双眼鏡を買って、子どもたちに与えたり、ハンモックをお土産に買ってきて、庭の樹と樹との間につったり、また煙草も和煙草だけでなく、リッチモンド等の洋煙草を込んで吸った。また全国各地を旅行するのが好きであった。要するに、地主として、また夷隅郡の名士として、無為徒食してしまったようである。
・明治27年に刊行された日本博覧図千葉県編には、千葉県上総国夷隅郡浪花村小澤 吉野朝吉邸宅之図が掲載されている。
その他、吉野朝吉の家庭生活なども書かれているが、割愛。
しかし、上記の記載だけでは、吉野朝吉がどのように生計を得ていたのか(あるいは得ていなかったのか)が全くわからない。
吉野俊彦は、吉野朝吉がかなりの負債を抱え、その子吉野圭三(俊彦の父)が家政整理を行わなければならなかったかまで包み隠さずに書いているので、知っていたけれども書かなかったというのではなく、資料がなく書けなかったのであろう。
そこで、インターネットの検索エンジン(同書が刊行されたのは1990年であり、そのようなものは利用できなかった)を利用して、検索してみると、どうやら、吉野朝吉は、夷隅郡の自由民権運動の結社「以文会」の設立者の一人であったようである。
http://www.minken3.sakura.ne.jp/kuntou.html
” 千葉県下夷隅郡にて中村権左衛門、峰島六郎左衛門、高梨正助、宇佐美金七郎、丸八二、井上幹、鈴木丹二、吉野朝吉、柁勝五郎、中村孝等が会幹となりて、本月十五日大原駅の竹楼に同郷親睦会を開きしに来会する者百余名あり。会幹より先つ本日開会の趣旨を演述して後、国会開設を請願すべきの議に渉りしに会員皆な同意を表せしかば、結社規則及諸事整理のため委員九名を撰定し社号を以文会と名け来年一月中に演説会を開き広く社員を募り、併せて国会開設請願の有志輩を結合する事に決したりと云ふ。
(「郵便報知新聞」1880年11月22日)”
また、”「総房共立新聞」からみる千葉県の自由民権運動と教育”という論文(任鉄華)によれば、「民権結社以文会の会員である教員の吉野朝吉は、1881年10月以降、夷隅郡小沢村の小沢小学校で新聞解話会を開いた。彼は普通の者にも分かる言葉で、毎月1日・15日・28日の3日「総房共立新聞」と「朝野新聞」について説話をしたのである。そこでは、毎回「聴衆山をなし一同立錐の地」を見られない盛況であったと紹介されている。」とある。
これによれば、吉野朝吉は以文会の会員であり、教員であったことがわかる。
朝吉は、1857年生まれなので、以文会の設立(1880年)には23歳であったことになり、若き朝吉は自由民権運動に大いに関わっていたことがわかった。
自由民権運動、特に以文会について掘り起こしていけば、更に吉野朝吉の何かがわかってくるかもしれない。