チャイコフスキー:交響曲「マンフレッド」
指揮:イーゴリ・マルケヴィチ
管弦楽:ロンドン交響楽団
録音:1963年11月、ロンドン
発売:1980年
LP:日本フォノグラフ(フィリップスレコード) 13PC‐235(835 250LY)
このLPレコードで指揮をしているイーゴリ・マルケヴィチ(1912年―1983年)は、帝政ロシア(現ウクライナ)生まれの名指揮者。育ちはスイスであるが、後にフランスに渡りナディア・ブーランジェのもとで作曲およびピアノを学び、まず作曲家としてスタートを切った。18歳でアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮して、指揮者としてのデビューも果たした。チャイコフスキーやムソルグスキーなどロシアものの作品の指揮を得意としていた。1960年には初来日し、ストラヴィンスキーの春の祭典などの指揮では、当時の日本の楽壇に大きな影響を与えた。以降度々来日し、日本での人気も高かった指揮者の一人であった。メリハリの効いた颯爽とした指揮ぶりは、当時の日本の多くのファンを魅了したものである。このLPレコードでのマルケヴィチの指揮ぶりは、正に自身の特徴を最大限発揮しており、鮮やかな色彩感を伴った演奏スタイルは、今日に至るまでチャイコフスキーの交響曲「マンフレッド」の代表的録音であると言って過言でないほど。ところで交響曲「マンフレッド」は、交響曲と名付けられていても第1番~第6番には数えられずに、チャイコフスキーが1885年5月から9月にかけて書き上げた管弦楽曲(交響詩風交響曲)で、バイロンの劇詩「マンフレッド」に基づく標題交響曲という位置づけになっている。交響曲第4番と第5番の間に作曲されたが、番号が付けられていないのである。この曲の正式な曲名は、バイロンの劇的詩による4つの音画の交響曲「マンフレッド」ロ短調作品58。バラキレフに献呈され、1886年3月にモスクワで初演された。作曲者によって4手ピアノ版も作成されている。もともとバラキレフ自身が作曲を思いついたが、何故か自身では作曲せず、チャイコフスキーに作曲を勧め完成したもの。バイロン卿(1788年―1824年)が書いた「マンフレッド」は、自我の苦悩を描いた3幕10場、約3000行からなる長編詩劇。「奇怪な罪を犯し、悶々として世界を放浪する孤独厭世のマンフレッド伯が、アルプスの山中に精霊・魔女を呼んで、忘却を求めるが、与えられず、自殺も許されず、遂に予言の時が来て、悪魔の手に連れ去られる」というのが筋。シューマンも音楽劇「マンフレッド」を作曲しており、その中の「序曲」は演奏会でしばしば演奏される。チャイコフスキーの交響曲「マンフレッド」の評価は、人により異なるようだ。昔はよく演奏された曲のように思うが、どうも最近あまり聴かれないのは少々寂しい気もする。(LPC)
ブルックナー:交響曲第7番(原典版)
指揮:フランツ・コンヴィチュニー
管弦楽:ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
録音:1958年6月20~22日、ライプツィヒ
発売:1977年5月
LP:日本コロムビア OC‐7112‐K
フランツ・コンヴィチュニー(1901年―1962年)は、モラヴィア生まれの旧東ドイツの指揮者。オペラ演出家(ライプツィヒ歌劇場首席演出家)のペーター・コンヴィチュニー(1945年生まれ)は息子。当初フランツ・コンヴィチュニーは、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団でヴァイオリンとヴィオラを弾いていたが、第二次世界大戦後の1949年に古巣のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に音楽監督・首席指揮者として迎えられ、楽団を再び栄光の日々の時代のレベルにまで引き上げた功績者なのである。ドイツ・オーストリア系の作曲家の作品を得意としており、中でもブルックナーの交響曲は必ず「原典版」で指揮したとされる。その指揮振りは「古風ではあっても古くさいという感じはあまりなく、むしろ現代の私たちに素直に訴えかける力強さと生命力にみなぎっている」(黒田恭一氏・ライナーノートより)と感じるリスナーが多くいた。このLPレコードでのブルックナー:交響曲第7番の指揮でも、悠然とした構えの中に、聴く者の琴線に触れるような、時折見せるなんとも人間くさい、そして懐かしい思いが込み上げてくるような演奏内容には共感を覚えざるを得ない。ブルックナー:交響曲第7番は、ビギナーのリスナーには少々難解かもしれないが、ジュニアのリスナーには是非とも聴いておいてほしい曲だし、シニアのリスナーにおいては必聴の曲といえよう。ブルックナーの交響曲第7番は、第4番と並んで人気が高い曲である。1881年作曲が開始されたが、第2楽章の執筆中に尊敬するワーグナーが危篤となり、ブルックナーは「ワーグナーの死を予感しながら」書き進めたという。そして1883年2月13日にワーグナーが死去すると、その悲しみの中でコーダを付加し、ワーグナーのための“葬送音楽”と名付けた。そして、1883年9月5日に全4楽章が完成する。初演は1884年12月30日、アルトゥル・ニキシュ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によりライプツィヒ歌劇場で行われ、成功を収めた。ブルックナーの交響曲は深遠で、しかも高度な演奏技術を要することから、初演時には正しく評価されない場合が多いいが、この交響曲第7番は例外で、初演時から高い評価を得ることができた。編成は、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、ワグナーチューバ4(テノール2とバス2)、コントラバス・チューバ、ティンパニ、シンバル、トライアングル、弦五部からなる。(LPC)
フランク:交響曲ニ短調
指揮:シャルル・ミュンシュ
管弦楽団:ボストン交響楽団
発売:1976年
LP:RVC(RCAコーポレーション) RGC‐1042
フランクは、数多くの充実した作品を遺してくれているが、今回のLPレコードは、その代表作ともいえる交響曲ニ短調である。私は最初、このシンフォニーの第1楽章を聴いた時、そのあまりの迫力に思わず後ずさりしたことを思い出す。重厚な音楽が何の迷いもなく一直線に突き進む様は、オーケストラの醍醐味を思う存分に味あわせてくれる。第3楽章の高揚感も、他に例えようがないほどである。何か音楽の中心に一本、柱がど~んと入っているような充実感を味わうことができる。そしてこの曲で何よりも大切なのは、指揮者の資質であろう。フランクの音楽の真髄を理解した指揮者でなければ、効果は思ったほど上がらない。その点、このLPレコードのシャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団のコンビは、フランクの交響曲ニ短調を演奏するのに最上の組み合わせといえよう。フランクの意図する高揚感をミュンシュは、ごく自然な形で演奏している。このため程よい緊張感に包まれた最上のシンフォニーの全貌がリスナーの前面に展開される。ところで、フランクはフランスで活躍したが、もともとの出身はベルギーである。このため、フランス音楽風の交響曲というより、あたかもドイツ音楽風の交響曲であるかのような交響曲ニ短調が誕生したのではないだろうかと推察される。さらに、フランクは生涯にわたってオルガン奏者を務めたこともあってか、この交響曲ニ短調は、オルガン風の壮麗さを併せ持った作品となっている。指揮のシャルル・ミュンシュ(1891年―1968年)は、当時ドイツ領のアルザス・ストラスブールに生まれ、後にフランスに帰化した。1926年ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のヴァイオリン奏者となり、1932年まで楽長のフルトヴェングラーやワルターの下でコンサートマスターを務めた。1929年にパリで指揮者としてデビュー。1937年~1946年パリ音楽院管弦楽団の常任指揮者を務めた。1949年ボストン交響楽団の音楽監督・首席指揮者に就任し、1962年までの13年間にわたってその座にあった。辞任後、国家の要請を受けて、低迷していたパリ音楽院管弦楽団を発展的に解消させたパリ管弦楽団を一流のオーケストラに育て上げるという手腕を発揮した。ミュンシュの指揮ぶりは、男性的な力強さの中に瑞々しい繊細さを秘めたもので、曲全体を壮麗にまとめ上げることに長けていたが、このLPレコードでもそのことが十分に聴き取れる。初来日は1960年で、合計3回来日している。(LPC)
シベリウス:交響曲第5番/第3番
指揮:クルト・ザンデルリング
管弦楽:ベルリン交響楽団
録音:1970年12月12日、東ベルリン・イエス・キリスト教会
発売:1979年5月
LP:日本コロムビア OW‐7779‐K
このLPレコードは、ドイツがまだ東西に隔てられていた時代の中で生まれた録音だ。指揮のクルト・ザンデルリング(1912年―2011年)は東プロイセン(現在のポーランド)出身。ナチスに追われ、1935年ソビエト連邦に亡命し、1937年モスクワでモーツァルトのオペラ「後宮からの誘拐」を指揮してデビュー。1941年レニングラート・フィルハーモニー交響楽団の第一指揮者に就任し、エフゲニー・ムラヴィンスキー(1903年―1988年)の下でさらに研鑚を積む。この間、ショスタコーヴィチと知り合い、親交を結んだという。1958年レニングラート・フィルの来日公演では指揮者の一人として日本を訪れている。ベルリン市立歌劇場の指揮者を経て、モスクワ放送交響楽団、さらにはムラヴィンスキーを助け、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の指揮者を務める。その功績が称えられソヴィエト連邦功労芸術家の地位を贈られた。1960年東ドイツ政府に請われて帰国し、ベルリン交響楽団の芸術監督・首席指揮者に就任した。1964年~1967年シュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者も兼務。さらに1976年から4回、読売日本交響楽団を客演指揮し、その結果読売日本交響楽団の名誉指揮者に任じられている。2002年に高齢を理由に指揮活動からの引退した。シベリウス:交響曲第3番は、1907年に完成。その頃、都会暮らしをしていたシベリウスは、交響曲第2番の成功を受けたこともあり、人々との付き合いに疲れ果てていたようだ。これを見たアイノ夫人らは田舎暮らしを勧め、トゥースラ湖を持つヤルヴェンパーという静かな街に移り、ここで終の棲家となるアイノラ荘を建て住み始めた。アイノラというのは、夫人の名前を取って付けたもので、「アイノの棲むところ」といった意味合いを持つ。シベリウスはこの静寂な森の中で一人交響曲第3番を作曲した。このため交響曲第3番は全体に内省的で、暗く、悲しく、寂しい感情に覆われている。交響曲第1番、第2番を聴いてきた聴衆にとっては、その落差に驚かされたはずである。一方、シベリウス50歳の誕生を記念して1915年に書かれた交響曲第5番は、骨太で、英雄的で、しかも華麗に仕上がっており、シベリウスを代表する作品の一つに挙げられている。これら2曲の交響曲で、クルト・ザンデルリングの指揮は、緻密で、滋味豊かで、しかもダイナミックな効果を存分に発揮しており、当時の旧東ドイツの演奏レベルの高さを充分に聴き取ることができる。(LPC)
ベルリオーズ:幻想交響曲
指揮:ピエール・モントゥー
管弦楽:ハンブルク北ドイツ放送交響楽団
録音:1964年2月6日~14日、ハンブルク
LP:日本コロムビア OC‐7258‐PK
これは「幻想交響曲を指揮させたら世界一」といわれたピエール・モントゥー(1875年―1964年)が死の年、つまり89歳の時に録音した記念碑的録音のLPレコードであり、1965年度の「ACCディスク大賞」を受賞した。今聴いてみると、やはり89歳という年齢に相応しい深みのある境地に達した、他の追従を許さない指揮ぶりであることが、この録音からはっきりと聴き取れる。甘くロマンチックな世界に浸ることなく、表面的な一切の虚飾を取り去り、その骨格だけをくっきりと浮かび上がらせた、独特な雰囲気を持つ「幻想交響曲」が生まれることになった。この意味でこのLPレコードは、ベルリオーズ:幻想交響曲の全容を知るという意味合いより、ピエール・モントゥーがベルリオーズ:幻想交響曲をどう解釈したかを知ることが出来る録音といえよう。この録音は、ピエール・モントゥーが「幻想交響曲」の演奏の最終到着地に辿りついた演奏であり、この意味から、現在に至るまで、この録音を上回る「幻想」の録音は、他に見当たらないと言ってもいいほどの演奏内容となっている。夢の中にいるかのような甘い気分は取り去り、「幻想」独特の不気味な世界に、リスナーは思う存分突き落とされる。この結果、聴いていても手に汗握るといった感覚が全体を覆い尽くしているのだ。一遍の小説か、あるいは演劇の舞台を見ているようなドラマチックな展開がそこにはある。他の指揮者の追随を到底許さない演奏内容ではある。モントゥーは、「幻想交響曲」を、1930年のパリ交響楽団SPレコードから、このLPレコードである1964年の北ドイツ放送交響楽団とのステレオ盤まで、生涯で6回録音している。その中で代表的録音とされるのが、モントゥー75歳の時、1950年のサンフランシスコ交響楽団との録音盤である。ピエール・モントゥーは、フランス・パリ生まれで、パリ音楽院を卒業している。1929年、創立時のパリ交響楽団(現パリ管弦楽団)の常任指揮者などを歴任。その後、モントゥーは渡米し、1917年からメトロポリタン歌劇場の指揮台に立つ。さらに、カール・ムックの後任としてボストン交響楽団の常任指揮者に就任。そして1935年にサンフランシスコ交響楽団の常任指揮者に就任し、同楽団を世界の一流オーケストラに育て上げた。つまり、モントゥーは、その半生をアメリカ音楽界のために尽くしたと言って過言でない。最後は1961年にロンドン交響楽団の首席指揮者となり、死去するまでその地位にあった。その優美で繊細な指揮ぶりは、多くの熱烈なファンの支持を得ていた。(LPC)