旅してマドモアゼル

Heart of Yogaを人生のコンパスに
ときどき旅、いつでも変わらぬジャニーズ愛

第7回  薬 ~medicine~

2008-08-03 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
この週末、ヘアサロンに行く以外のんびりと過ごしたおかげで、だいぶ「回復」した管理人です。

さてさて。
今日の『ザ・少年倶楽部』ご覧になりましたか?! (って誰に聞いてるんだ?)

キターーーー! こやしげでMC!!
ああ、夢にまで見てたよ、この2ショット。
こんなんが2週連続で見られるなんて、2人並んで司会やってるのを見てるだけでも幸せなのに、NEWSメドレーがあったり、2人でぜんぜん息の合ってない(?)「ジュニアにQ」をやってくれたり。
ああもう、このコンビは最高だ。
てか少クラ見てないのか、シゲってば。大親友の慶ちゃんがMCやってんのに!
だけども、今回、慶ちゃんがすっごーく楽しそうに見えるんだよね。
なんか、私はシゲの舞台で見られなかったんだけど、先月のプレミアムで「こやしげで何かやりたい!」って慶ちゃんがまたまた言ってたそうじゃないですか。
なんか、プレミアムでは慶ちゃんのシゲへの愛がだだもれ状態だったようですけども、このどこから見ても相思相愛な2人でなんかやらせてやってくれませんか、社長。

ちなみに、そんな相思相愛ぶりがこんな奇跡を起しちゃうんでしょうかね。
今日一番の見どころといってもいい最後の曲「波」。
まさか、こやしげのバラードが聴けちゃうなんてねー
2人のハモリに思わず「胸キュン」(死語)してしまいましたですよ?
つーか、あのハモリは「奇跡」に近いですよ?

ねえ、ねえ、社長。
これって、コヤシゲでシングルデビューしちゃってもよくなくね?
でもって、コヤシゲでライブコンサートやっちゃってもよくなくね?

むちゃくちゃ楽しいだろうなあ、こやしげのライブ(MCが)
場所はやっぱり国際フォーラムかな。
でも、年内だったらジャニーズシアターもありかな。
てか、あのジャニーズシアターって、サマリーが終わって、上田君、すばる、たっちょんのソロライブの後はどうすんのかな?
ねえ?
こやしげでライブって考え、マヂで悪くないと思うんだけど?

そう。こんな期待(妄想?)がまた私を元気にしてくれるんだな。
これこそ、なによりの「薬」ってカンジ?(笑)


というわけで、前フリがめちゃくちゃ長くなりましたが、そして掲載も遅くなりましたが、ひさしぶりのエッセイです。あまり上手くまとまってませんが…


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突然の人事異動で8月1日から職場が丸の内から王子へと変わった。(突然といっても、私にとって突然な話というだけで、人事サイドでは前から決まっていたことらしい)
組織に雇われている社会人なわけだから、職場の人事異動には粛々と従うしかないのだが、ひとつ困ったことがある。
そう。アフター5に丸の内や有楽町でショッピングが出来なくなっちゃうよォ。
…というのも、もちろんそうだが、ここで言いたいのはそういうことではない。

この時期には関係のないことだが、春先になったらちょっと困ることになる。
春先、という言葉で8割方の人は「ああ」と気付くに違いない。じつは私も、いまでは国民病とまで言われている花粉症の患者の一人なのだ。
毎年2月上旬くらいになると、私は今の職場のビルに入っている診療所にいそいそと顔を出す。「花粉症対策は花粉症の症状が出る前に、早い時期に対処してください」という診療所の先生のススメを忠実に守って、花粉が舞い散る前に薬を処方してもらっている。
花粉症の症状が出てからでは、強い薬で症状を抑えるしかないのだが、症状が出る前に処方される薬ならそれほど強い薬でなくても大丈夫だし、何よりあの苦しい鼻水鼻づまり&連続してやってくるくしゃみに悩まされなくて済むのだから、間違いなく先手必勝に限るのだ。
ただ、この先手必勝作戦も同じビル内に病院があるからこそ、「それじゃーちょっくら診療所まで行ってきまっせ」と気軽にできるのだ。
これからは、その診療所にかかるには、王子から電車ではるばる丸の内までやってこなくてはならない。ああ、面倒くさ。前はエレベータでちょっと上がればよかったのに。

だったら、異動先の近くで別の耳鼻科を探せばいいのだろうけど、初診を受けなきゃならないとか、もともと鼻炎アレルギー持ちであることとか、今までの花粉症歴とかを説明したりして、全部「一」からやり直さなきゃいけないわけですよ。
やっぱり長くかかりつけとなっている先生の方がよく分かってくれているし、今までのカルテもあるので、さくさくっと診察も済むし、薬も「いつもの」をさっと処方してくれる。だが、そういう「楽であること」を抜きにして、かかりつけ医を変えたくないという気持ちの根底にあるのは「信頼と安心」だ。

薬は用法と用量を守って使用しなくてはならない、というのは市販の薬のパッケージや注意書きに書いてあることだが、自己診断で購入して服用する市販の薬は、頭が痛くて痛くて仕事にならない!でも病院に行く時間がない!というような切羽詰まった状況でない限り、私は買うことがない。
最近は、風邪をひいて熱が出ても、熱さましシートと氷枕をあてて、大根ハチミツとお茶を飲んで、あとは人間が元々持っている自己回復力で治してしまおうとすることが多い。それで大抵は数日で治ってしまうのだから、私は人よりも薬を服用する機会が少ない方なのではないだろうか。
だが、花粉症については、これは己の回復力でなんとかなるシロモノではない。ただのアレルギー性鼻炎だと思って服用していた市販の薬がついに効かなくなったあの春の日、今まで酷い風邪のとき以外は訪れたことのなかった職場のビルの5階にある診療所に駆け込んだ。そのとき初めて「花粉症ですね」と診断され、私もついに悪名高い花粉症の患者となってしまったのかと落ち込んだが、鼻水鼻づまりの原因が分かったことで覚悟も出来た。
それ以降、花粉と徹底的に戦うべく、先生の指示通りに薬を服用し、鼻づまりの悪化の原因になっていた副鼻腔炎を治療し、毎年花粉が舞いだす前に薬を服用し始めているので、いまは花粉症に悩まされることはほとんどない。
治療にかかった歳月の積み重ねとその結果が、医者に対する「信頼」を生む。信頼できる医者からもらう薬には、これなら服用しても大丈夫という「安心」がある。


新しい職場の近くに使えそうな耳鼻科や病院があるのかどうか、まだチェックしていないのだが、ここでまた新たに探すのか、それとも、行くのに多少面倒にはなったが、治療を続けてきた診療所で今後もかかるのか、今はまだ決めていない。
でも……じつは芸能人の利用も多い今の診療所の方が、治療以外の楽しみもあるしいいのかなあ(笑)
そうか、そういう楽しみもある意味「薬」なんだな。

第6回 灰 ~ gray ~

2008-06-21 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
宣言通り、本日アップしましたけども

短いです。
今までの中で一番短いエッセイです。

テーマとしては面白いのですが、いかんせん話が広がらなかった。
私って年の割に「引き出し」が少ないんだなと痛感しましたよ。


最後の方なんて、単なる私の願望でしかなく…


だってーどうやら明日が本格的に「雨」みたいなんだもーん!!


昨日、「運に任せるだの」「ジタバタしてもしょうがない」などと言っときながら
結局、まだ諦めきれてない私…


でも

秩父に向かうレッドアローの中で食べるお昼のお弁当がけっこう楽しみだったりするのだ。
お菓子片手にMさんと「ぱつんぱつん」を予習してくのがわりかし楽しみだったりするのだ。


というわけで。
ユーウツ気分半分、浮かれ気分半分で書き上げた今月のエッセイです。



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「灰のように燃え尽きる」のは好きではないが、私はこの「灰・グレー」という色が嫌いではない。どちらかというと好きな色だと思う。その落ち着いた色合い、どんな色と組み合わせても、しっくりと馴染む絶妙な中間色。
そんな灰色の持つ魅力は、古くは江戸時代から好まれ、家の中をちょろちょろとする馴染み深い小動物の名前から「鼠色」と言われたその色は、どんな色にも合わせられる「粋」な色とされていた。
現在も、グレーはどの色にも合う色彩としてスーツなどの基本色として使われているし、インナーや小物にも使われることが多い。黒や白と比べても遜色のない、オールマイティな色だ。そして、その色合いはさらにバリエーションに富み、同じグレーといっても濃淡によって雰囲気が変わる。白に近いグレー、黒に近いグレー。白と黒というはっきりと相反する2色の間に存在する灰色。


ところで、よく「マリッジブルー」とか「ブルーな気持ち」とか「ブルー・デー」とか、日本語だと「青ざめたり」…とかくマイナスの意味に使われることが多い「青・ブルー」。
でも、そういう状態の時のイメージカラーはどちらかというと、「どんよりとしたグレー」の感じがしませんか?グレーを好きな色だと言ったその口で、こんなことを言うのはなんですが。
曇り空や雨雲を表すときの色は灰色。お葬式の時に出すのし袋も灰色。違法スレスレの境のことをグレーゾーンと表現したりすることも。灰色のほうがなんとなくマイナスなイメージがつきまとう。
青色を陰鬱な心の表現に使うようになったのは、ロマン主義の影響があるらしいけれど、私の中の青のイメージは、「青空」だったり「青い海」だったり、スコーンと突き抜けた明るさが大きく占める。他の人はどうなんだろう。

それでは、実際の気分に添わせるために、ブルーが使われている表現をグレーで言い換えてみたとしよう。
「マリッジグレー」「グレーな気持ち」「グレー・デー」…
うーん、なんだか、聞いただけで本当に落ち込みたくなりそう。
もしかすると、ブルーという言葉があえて使われているのは、陰鬱な状況であってもせめてそれを表す言葉だけは、明るい要素を持つブルーという色を使って、その暗さを解消しようという隠された意図があったのではないだろうか。そして、レッドでもなく、イエローでもなく、グリーンでもなく、ブルーが選ばれたのは、その色合いがグレーに近いからではないだろうか。


晴れの日はどこまでも青い空は、太陽が雲で遮られると灰色の空になる。
空では青と灰色は表裏一体だ。


灰色で曇った空の向こう側に、明るい青空があるのだと思えば、いつ明けるのかとうんざりしてしまう鬱陶しい梅雨でさえ、空を見上げてじっと見つめていれば、どこかに青空の小さな入口が見えるかもしれない。


夏の青空、早くやって来い!

第5回 2 ~ Two ~

2008-05-20 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
今回ほど悩んだテーマはなかったです。


…ということを毎回言ってるような気がしますけども、今回はマヂで難しかった!

というのも、本家の内容があまりにもストレートで分かりやすくて、その内容に、私が完全にとらわれてしまったのですよ。
何を書いても、けっきょく本家の2番煎じにしかならないような気がして。
今まではどんなに悩もうと、書くネタにだけは困らなかったのですけども、今回のテーマ「2」は、そもそも何をネタにしたらいいのかまったく思いつかなくて、正直困りはてました。

くわえて、シゲ本人はこのテーマをサクサクっと書いたんだろうなーと思うと、ますます「ああもう、何やっとんねん、私」と己の引き出しの少なさにガッカリ…。

こんな産みの苦しみからようやく出た、まだまだ第5回目のエッセイです。
(本家はすでに24回目。連載開始から2周年目を迎えました)
ご感想など気軽にコメントいただけたらと思います。



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一人っ子で育った私は、家の中ではつねに1番だった。兄弟姉妹という競争相手がいないまま、幼少期を通過した私は、小学校に入学して初めて、自分がつねに1番でいることがどれほど難しいことなのか、思い知らされた。
2番、3番、4番…2番ならまだいい。あと少し、あと一歩の努力で1番に手が届かないこともない。だが、2番を取ることは1番を取ることと同じくらいに大変なことなのだ。

秀才でもない。スポーツ万能でもない。人より秀でた特技さえ持っていない私は、クラスで1、2番を競ったりすることとは無縁の、実に平均的な子供だった。



2の前につねに存在する『1』。
その順位は決して揺らぐことなく、2は1に近づけても1にはなれない。
背筋を伸ばし堂々とした姿で立つ『1』。
背中を丸めて俯いたような姿の『2』。
なんだ、数字の形そのものも、現実社会の順位を表現しているんじゃないか。

そんな『2』という字の成り立ちについて、シゲがエッセイの中で触れていたけれど、私にはこの2という字が、何かをつかもうとしている形のように見える。あるいは、何かをとらえるための鉤のような形に。

つかもうとしたものは何だろう。
その鉤でとらえようとしたものは何だろう。



「1番好きなものは何?」という質問がある。
その『もの』は食べ物だったり、動物だったり、場所だったり、質問の内容はいろいろあるが、比較的すぐに思いついて「○○○!」と答えられる『1番』に対して、「それじゃ2番目に好きなのは?」という質問に、ふと答えを迷ってしまうのは私だけではないと思うのだがどうだろうか。
数ある好きなものの中から、1番目を選択することには迷いがないが、その次となると、これかな?いや、あれかな?いや、待てよ…あれか?と選択肢がいきなりワイドになる。2番目というのはキャパシティが広いものなのだな。
つまり、2番目には何がきてもおかしくない。2番手として挙がった候補のどれもが2番になりえるということだ。
よくよく考えると、2番目の候補というのは、残念ながら1番にはなれなかった、されど限りなく1番に近いものだったりするわけで。1番じゃないけれど、とても好きなものの中から一つだけ選ぶのはやっぱり悩んでしまうなあ。



1+1は2、というのは基本的な数式だが、1+1は1という考え方も中にはあるようだ。
ここに2つの粘土の塊があったとして、それを一緒に合わせると、たしかに容量は2つ分に増えているが、見た目は1つの塊だ。
靴が左右2つで1足というのも同じだろう。
さっきの順位の話ではないが、そういう意味でも『2』という数字は1に近く、また1になれる要素を秘めたポテンシャルの高い数字と言えるかもしれない。



最近、「おひとりさま」という言葉がようやく世の中に浸透してきた。
女性一人で外食したり、バーに入ったり、旅行をするなど、ここ数年ではもう当たり前の光景だが、一昔前は、ちょっと格式の高い旅館などでは、お一人様では予約も取れなくて不便したものだが、近頃は一人での宿泊OKの温泉旅館まで出てきて隔世の感がある。
ご多聞にもれず、私も「おひとりさま」を楽しむ一人だ。一人で行動したりすることにまったく抵抗感はないが、ふと「ああ誰かと一緒だったらな」と思うことがある。美味しい食事を堪能しているとき、感動的な光景に出会ったとき、面白い出来事に遭遇したとき…一人でも楽しいものは十分楽しいし、美味しいものは十分美味しいのであるが、二人で体験したほうが感動は倍になるんだろうな、とも思う。

1個のものを「半分こ」して分けあったり、2人でコンビを組んだり、お揃いのペア商品を買ったり…2という数字が表すものは、そこに温もりや優しさを感じられる。そう思いながら、再び『2』という数字を眺めてみると、背中を丸めて俯いているかのように見えていた『2』という形が、まるでそこにある何かを優しく包みこもうとするような穏やかな形に見えてこないだろうか。

誰かが言っていた。「勝者は孤独だ」と。つねに1番であり続けることは孤独と向き合うことでもある。私には、孤高の1番は耐えられない。誰にも負けたくない、いつでもトップでいたい、という人はともかく、私は2番でも3番でも、はたまたドン尻でも、というか、そもそもそんな順位など関係なく自由に生きていきたい。

たった1本の点で立つ『1』よりも、地にしっかりと土台を構え、しなやかな曲線で立つ『2』のほうが、ずっとたくましそうに見えませんか?

第4回 名 ~ name ~

2008-04-25 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
今回のエッセイのテーマ「名」も悩まされました。
書きたいことを、いったいどうまとめたらいいのか、悩みました。

悩んでいるうちに、4月スタートのドラマが続々と始まり…
気づいたら20日という期日が過ぎてしまいました…


さて。
今回のエッセイでは、本家から内容を引用させていただきました。
また、気軽に感想などいただけたら嬉しい限りです。


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古今東西、この世のすべてのものにおいて、名前のないものはない。
ミクロンの世界に生きる極小な微生物でさえ、それぞれの名前を持っている。
そして、私たち人間は、同じ種の存在でありながら、個別に異なる名前を持ち、その名が個人のアイデンティティとして成立している。全世界を見れば、なんとバラエティ豊かな名前が存在していることか。
もしかすると、野生に生きる動物の世界でも、お互いに異なる名前を持っているのかもしれないが(笑)、それは私たちにはわからないことだ。


私は子供のころから自分の名前が嫌だった。今でもあまり好きではないが。
私の本名をご存じの方はわかると思うが、私の名前を普通に読むと「まちがい」になる。おそらく100%の確率で、私の名前は「のりこ」と読まれる。
学生時代、新学期が始まるたびに、新しい先生が必ず私の名前を読み間違える。そのたびに「あのー違います」と訂正するのが、いやで面倒でたまらなかった。中学・高校のように教科ごとに教師が変わるようになってからは、毎回訂正するのが面倒になって、最後まで「のりこ」で通してしまったこともある。

必ず読み間違えられる名前のうっとうしさ。
しかも、漢字自身が角ばっていて堅苦しい雰囲気を醸し出しているのも嫌だった。

しげも、エッセイ「青い独り言」の中でこんなことを言っていた。
「生まれたときから与えられている名前というものに、僕は理不尽さを感じていた。どうして僕は加藤成亮なのか。」
同感だ。なぜ、死ぬまで一生背負っていかなくてはならない自分の名前が、自分で好きに決めることができないのだろうと私も思う。
きっと、私の親はいろいろなことを考えた上で、この名前をつけてくれたのだと思う。それを頭から嫌いだ、好きではない、などと言うのは大人げなく、本当に申し訳ないと思うのだが、それでも、どうしても、私は自分の名前を好きになれない。

社会人になり、職場で名刺を作ってもらうときに、名前だけをひらがなにしようとしたことがある。ひらがなのほうが、名前全体が柔らかい感じに見えたし、これなら読み間違えられることがないと思ったからだ。が、私の目論見は、「ふりがなをふればいいですよね」という人事担当者の余計な(笑)アドバイスによって打ち砕かれた。
たしかにその通りであって、自分の名前の見た目が気に入らないから、ひらながにしたかったのだとは、さすがに言えなかった。

ネット上で使うハンドルネーム。自分で好きな名前がつけられるというだけでただ嬉しかった。本名からはまったく結びつかない「るるりん」や「あかね」を使っているのは、子供のころから私の中にあった、のびやかで女の子らしい柔らかい名前に対する憧れからだ。
嫌いな本名を使わなくていい世界。私にとってネットの世界は、そういう意味でも心地いい。ただ、その本名を隠した匿名性が、ネット社会の暗部を生み出してもいるのも事実だけれど。

ハンドルネームにペンネーム、ニックネームも含めれば、一人の人間が持っている名前は、自分の本名以外に複数あるのが今では普通だ。とすると、地球上に存在する「名前」と呼ばれるものは天文学的な数になるのではないだろうか。その天文学的数字の中の一つに私の本名がある。この名前が自分のアイデンティティなのだと言ったところで、圧倒的な数の中で、その名前にいったいどれほどの存在感があるというのだろう。

「名前なんてどうでもいい。名前やあだ名を勝手につけられたところで大事なのはそこではない。…(略)僕は僕なのさ」
しげの出した結論に、私の中でずっと固執し、私を縛りつけていた何かが、あっさりと解けた。
そうなのだ。読み間違えられる名前がうざったいとか、名前の響きが古臭くて可愛くなくて気に入らないとか、そんなことは、私が私であることとまったく関係のないことなのだ。
「名は体を表す」という言葉があるが、名前が「私」を作るわけじゃない。「私」を作るのは私自身であって、私につけられた名前は、「私」という人物を指し示す役割を持っているだけなのだ。
私は今まで自分の名前に負けていた。勝手に自分の名前に負のイメージを抱き、それを自分の欠点だと思っていただけだ。文字通りの「名前負け」だ。
しげの言う通り、私がどんな名前であろうと、私は私でしかない。
名前は「私」の後からついてくるものなのだから。



ちなみに、私の名前は「ふみこ」という。



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引用出典 : 集英社刊「Myojo」2008年5月号 57頁「加藤成亮の発展途上エッセイ『青い独り言』」

第3回  香 ~ perfume ~

2008-03-20 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
数日前の話になりますけども

月曜夜の慶ちゃんNEWSにシゲがゲストで来てまして。

黒髪カムバッークです!! イェーイ!

いや、茶髪のシゲもちょっと若々しくて、見慣れると悪くはなかったんだけど、やっぱり黒髪のほうがシゲはずぇーったいに男前やと思うのよ?
てか、茶髪の新米弁護士はドラマ的にも、彼が演じるキャラ的にもアカンでしょうから、黒髪に戻して当たり前なんですけども。


ポスターも早く見てみたいなー
日テレ、チン♪も早く見たいなー


あ、そういえば、同じ日テレの「おせん」には内くんの出演も決まったから、シゲと内くんで同じスタジオで顔を合わせることもありそうだよね!
どっちのドラマの番宣も今から楽しみじゃんねー
ああもう、4月は見なきゃならんドラマがありすぎで困っちゃいますー!

「おせん」 日テレ 火曜10時
「ホカベン」 日テレ 水曜10時
「ラスト・フレンド」 フジ 木曜10時
「バッテリー」 NHK 木曜8時
「ごくせん」 日テレ 土曜9時


てか、日テレ多くね?(笑)


さて。前振りが長くなりましたけども、ここから今月のエッセーです。
そのエッセーですけども、これから毎月20日にアップすることにしました!
「Myojo」発売前などという曖昧な期限ではなく、ちゃんとした「掲載日」を決めました。
前回も、たまたまだけど20日に載せてたんですよね。
今回は、最後の最後まで何を書こうか、ホンマに悩みました!
自分的にはあんまり満足してない内容なんだよねー
シゲのエッセーをあらためて読んで、ちょっと敵わんわーとプチ落ち込み中(笑)


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ご近所に咲く沈丁花の甘い芳香。自宅の庭先の梅から漂う柔らかくほのかな香り。
春が来たことを感じるのは、温み始めた大気だけでなく、沈黙と忍耐の冬を乗り越えて、この時が来るのを待ちかねたように解き放たれる春の花の香りだったりする。
しかし近年、そんなささやかな発見の喜びを失わせてしまう花粉症の被害もまた、春の風物詩になってしまっているようだが。

新緑の森に充満している若葉の香り。
海原から運ばれてくる潮の香り。
耕されたばかりの畑から立ち上る土の香り。
果樹園にただよう収穫前の果物の香り。
自然が作り出す香りは、季節の繊細な変化を、そして大地が生きていることを感じさせてくれる。


何かを予感したり、思い出を記憶したり、誰かを思い出したり。香りひとつで、自分の中のいろいろな感覚が呼び覚まされることがある。
嗅覚の記憶は、視覚や聴覚での記憶に比べると、具体的な言葉では表現できない、非常に曖昧なものでありながら、実は一番インパクトがあって印象に残るのではないだろうか。たとえば、昔、付き合っていた男がつけていた香水の香りだとか。
どんな香りだったか、今となっては記憶の底を探ってもはっきりと思い出せないものだが、時に、街や駅の雑踏の中で、その香りに突然出逢うことがある。その瞬間、記憶は深い闇の底から一気によみがえる。ああ、あの人の香りだ、と。

かつて私も自分の香りにこだわっていた時があった。
パルファンは特別な時しかつけなかったが、普段は、とある外資系化粧品ブランドのパフュームと同じ、フローラル系の香りをもつボディミルクを愛用していた。パフュームやオードパルファンほどは香らないが、近づくと仄かに香りを感じる程度。私は毎朝、その甘い香りのボディミルクを肌に馴染ませ、身にまとわせていた。その香りイコール私自身であることを主張するかのように。
今は、グリーンノート系の軽い香りのボディ用化粧水を使っている。自分でもつけていることを忘れてしまうほどの軽い香り。昔と比べて、香りに対するこだわりはなくなったし、香りで自分を主張したいとも思っていない。女としてそういう気合いの足りない考え方はどうかと思うのだけれど、香りや匂いに敏感な日本人の中で、TPOに合わせた香りをまとわせることの難しさを思うと、主張する香りよりも、空気の中に溶け込んでその存在自体を隠してしまうような香りがいいと思う。しかし、理屈っぽい綺麗ごとにも聞こえる、この言い訳の根底に、今の私の冷めた恋愛観が垣間見えるような気がしてならない。
香りにこだわらなくなったのは、私が本気の恋をしなくなったからなのではないだろうか。

彼からの贈り物。彼と一緒に見た映画。彼と訪れた場所。彼と交わした会話。
それは私にとって懐かしさを感じるものであっても、心を揺さぶられることはない。たぶん、それらが、脳裏に映像として表現できるハッキリした記憶だからかもしれない。しかし、彼といるときに身にまとっていた香りに出会うと、私の胸はきゅっと締めつけられる。
懐かしさより切なさ。懐かしさより狂おしさ。懐かしさより息苦しさ。懐かしさより強烈な愛しさ。
香りとともに蘇ってくるのは、感情の記憶だ。
自分を主張する香りを身にまとわなくなった今の私は、そんな激しい感情をどこかに置き忘れてしまったのではないだろうか。

香りも感情も、どちらも具体的に形をなさず、儚く、移ろいやすい。そこに共通する繊細さ。私は、私の中の繊細さを失いつつあるのかもしれない。年とともに、気付かないうちに。

そんな人生は、つまらない。せっかく女として生まれたのに、つまらない。
そうだ。春の香りとともに、私の新しい香りを探しにいこう。

第2回  隣 ~ neighbor ~

2008-02-20 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
エッセーの前にひとつ報告を。


シゲが主演したドラマ「姿三四郎」がDVD化されることになりましたー!!

はい、おめでとさん


地デジと地上波の両方でDVDに落としてありますけども。
特典映像も撮り溜めした録画の中に入ってそうですけども。

ツタヤで予約しちゃいました!

だってーB2サイズ(!)のポスターが特典で付くっていうしー

うーん  だね


はい報告終わり。

それでは、これより先がエッセーです。
今回のテーマはちょっと難しかったなー
ま、気軽にお読みいただければと。


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「私、今日、ヘンなキャラクターの絵柄のパンツを履いてるの。だから、もしもこの飛行機が事故って私に何かあったときは、スーツケースの中に可愛いパンツが入ってるから、それに履き替えさせてちょうだいね」
 隣席の私に向かって、かつて、こんなアホなお願いをしてきたのは旅仲間のNちゃんだ。
 どこへ旅したときの話だったか、はっきりと覚えてはいないが、海の上を飛んでいる時に出た話だった気がするので、おそらく太平洋上を横断しているとき、アメリカかカナダかカンクン、このどれかを旅した時だろう。パンツ云々の理由は、病院に運ばれて手当てを受けるとき、変なパンツじゃ恥ずかしいから、ということだった。

 そんなおもしろNちゃんと初めて旅したのは、カナダだったか、ヨーロッパだったか。
 他にも同期の女性はいたのだけれど、入社してからも、あまり一緒につるんだことがなかったNちゃんと、「どこどこへ行きたいね」という話になって二人で旅をして、そのうちいつの間にか、夏の長期旅行には私の隣にNちゃんがいる、というのがお約束になった。
 もちろん、ほかの友人とも旅をしたことはあるが、海外となるとNちゃんとの旅が断然多い。なんというか、一緒にいることが「自然」な感じなのだ。
 それはNちゃんと私が、同じ魚座のAB型だからか?と思わなくもないが、時々、彼女のマイペースにイラッとさせられることもある。(笑)
 それでも、次もNちゃんと旅したいと思うのは、一緒にいて楽しいし、何ひとつ気兼ねする必要がないからだ。長いフライト中、お互いに話すことがなく、黙って別々のことをしていても、それを居心地が悪いと思ったことは一度もなく、ホテルの部屋でも、お互いがそれぞれのペースで過ごすことが自然と出来ている。Nちゃんとの旅は、家族と旅行している感覚に近い。
 Nちゃん、今年の夏はどこに旅しようか?


 私は子供の頃から人見知りをしないほうだ。見知らぬ人から話しかけられた場合も、普通に会話を交わすことができるし、自分から話しかけることも苦ではない。
 しかし、実はそこから先のガードが自分でもあきれるほど固いのだ。
 表面上は明るく笑ったりしてオープンさを装ってはいるが、その笑顔の裏で、私は目の前の相手を用心深く注意して見守っている。変な言い方だが、目の前の相手は自分にとって「味方」になるのか「敵」になるのか、探っているのだ。あたりさわりのない話をし、共通点を見つけて会話をふくらませたりしながら、自分の内面には踏み込まれないよう、しなくていい緊張までして、相手の様子を見ている。
 だから、私には本当の意味で「友人」と呼べる人は数少ない。
 私にとっての「友人」は、隣に一緒にいて、心からリラックスできる相手のことだ。他人が聞いたら馬鹿げたことを気兼ねなく話せる相手のことだ。抱える不安や悲しみや弱みさえ隠すことなく話せる相手のことだ。
 そして、私が見返りを期待することなく、その隣にいて何かしてあげたい、助けてあげたい、そう思える相手のことだ。
 
 そういう「友人」は、自分の身近にいる人の中でしか見つけられないのだと、私はずっと思っていた。会って、じっくり話を交わして、ある程度の付き合いを経た相手でなければ、私にとっての「友人」にはなりえないと思っていた。
 今、私には、一度も会ったことがない、顔も知らない「友人」がいる。2004年にブログを始めてから、そのブログを通じて知り合った人たちだ。
 お互いのブログへのコメントやメール、手紙や年賀状を通してしか話をしたことがないが、途中でブログを「ここ」に引っ越してから今までに至る「付き合い」を経て、これは独りよがりで失礼な言い方かもしれないが、「この人となら友人になりたい」と私が願った人たちなのだ。
 物理的に隣近所にいるわけではない、でも、たとえ遠く離れていても、たとえ顔さえ知らなくても、自分の近くに、感覚的に「隣にいる」ことを感じられる「友人」。
 もしも、あのとき、ブログを始めていなかったら私は、物理的な「隣」の人たちとしか、一生出会えずに終わったかもしれない。
 今までの出会いと、そしてこれからの新しい出会いに。
 
ありがとう。

第1回 声 ~ voice ~

2008-01-17 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
仕事柄、受付業務も兼ねている私の職場では内外含めて電話を受けることが多い。受話器の向こうから聞こえてくる声は、老若男女の違いもあるが、実に様々なバリエーションに富んでいる。
大概がごく普通の問合せであって、穏やかな対話のうちに過ぎていくのだが、時期によっては(詳しい説明は仕事上のことなので省くが)、冒頭から憤怒の勢いでかけてくる人がいたりする。

ただ、こう毎日のように様々な電話を受けていると、最初の第一声を聞いた瞬間、相手がどう出てくるか判断ができるようになってくるものだ。こういう言い方は良くないと思うが、同じ用件でも「こちらのペースに持ち込める相手」なのか、「てこずりそうな厄介な相手」なのかが、相手の声の調子でなんとなく分かるのだ。
この勘は大抵当たるのだが、まれに「君子豹変す」の諺ではないが、組し易しと思っていた相手がいきなり厄介な相手に変貌することがある。ついさきほどまで穏やかだった声が、こちらが返した一言がきっかけとなって、急に怒りを含んだ険しい声や怒鳴り声に変わってしまう。そのときは、「しまった!判断を間違えた!」と思うのだが、と同時に、打って変わった相手の声に「本当にさっきの人と同一人物なの?」と驚いてもいるのだ。

それにしても、声色ひとつで、相手に親しみを覚えたり、好きになったり、嫌いになったり、怖いと思ったり・・・声が、それを耳にする人に与える影響は意外と大きいと思う。

ところで、声と言えば、いつも不思議に思っていることがある。
電話に出たときに「はい、○○○○です」と社名を名乗ったとする。その時、電話を掛けてきた相手が同じ社内の人だった場合、「ああ、○○さん?」と、自分と同じ部署にいる違う女性に間違われることがよくあるのだ。それは私だけに限らず、ほかの女性の場合にもよくあることなのだが、声というのは、近くにいるとお互いに似てくるものなのだろうか?
よく聞く話に、娘の声が母親に、あるいは妹の声が姉に(その逆もしかり)、間違われるということがあるが、それは血の繋がった肉親同士故だろうと思っていた。同じDNAを持っているわけだから、声質が似る可能性は高いだろう。だが、職場で間違われるというのは?

職場の同僚は赤の他人同士、かといって、お互いに相手の物真似をしているわけでは勿論ない。
一つの考え方として、職場での電話、特に電話を取ったときの第一声は決まりきった文言なので個人の特徴が表れにくいということがあると思う。私自身、相手に良い印象を与えようと、地声よりやや高めの明るい「営業用の」声で電話に出るようにしている。他の女性も同じように「営業用の」声になっているとすれば、相手の耳には、よく似た声に聞こえるかもしれない。
と、そこまで考えが及んだ時にふと気づいた。そういえば、男の人の声を他の誰かと聞き間違えることはあまりないなと。男性の声は意外にも判別しやすい。時々、慶ちゃんとマッスーの歌声が似ていると思うこともあるけれど、シゲの声なんて特徴がありすぎて、コーラスの中でもはっきり聞き分けられるほどだ。

生き物の世界では、基本、繁殖期になると雄(♂)が雌(♀)に向けて熱いラブコールを始める。それは美しく色鮮やかな自らの姿だったり、ライバルを撃退する力強さだったり、見事にデコレーションした「愛の巣」だったりと、表現方法はいろいろあるのだが、「声(歌)」という方法を使う生き物も多い。その場合、よく響く美しい歌声は、雌のハートを獲得するために、雄のみに与えられたものであり、同じ種でも個体ごとにバラエティ豊かな声音を持っている。選ぶ方である雌は、己の声などはさておき、耳に聞こえてくる雄たちの歌声をたよりに、自分好みの相手を見つけるわけだ。
自分でも何が言いたいのか分からなくなってきたのだけれど(笑)、人間の男性の声が、女性の場合と比較して、他者の声と聞き間違えられることが少ないのは、もしかすると、人類以前からの遺伝子に因るものではないだろうか。と、そんな何の根拠もない、くだらない推測が頭を過ぎった。
NEWSのアルバムを聴きながら、シゲの声にうっとりしている自分は、美しい羽をヒラヒラさせた雄鳥の歌声に、ヒョコヒョコついていく雌鳥と基本的に何ら変わりがないではないか?と苦笑せざるをえない。
それでも、ヒトならではの違いをあえて挙げるならば、私がシゲを好きになったのは、彼の声がきっかけではないということだ。(もちろん、顔でもない)
とは言うものの、好きになった人の声は、たとえどんな声であろうと、自分にとって心地よい美声に聞こえてくるのだから、なんとも不思議なことである。



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さて、今日から始まりましたエッセー「桃色の独り言」ですけども
なんだかぜんぜんまとまりのない、起承転結の基本すら出来ていない
じつに自由気ままでとりとめもない文になっておりますけども
しかも、本家「青い独り言」の内容と全然リンクしておりませんけども

自分的には、けっこう楽しみながら書けました!
なので、懲りずにこれからも毎月書いていきます!(笑)

ま、感想などもお気軽にコメントしていただけたらと思います。