晴れの日も、曇りの日も、雨の日も、雪の日も、嵐の日もある。
人生も同じ。
いつも晴れの日ばかりじゃない。
嫌だな、辛いな、楽しくないな、寂しいな、悲しいな
そんな気持ちになる日があって当たり前
昨日観てきた映画『シーモアさんと、大人のための人生入門』で、穏やかな微笑みを浮かべながら、人生を軽やかに生きているように見えるピアノ教師シーモア・バーンスタインさんにも、辛い過去や苦しい時期があったことが、本人の口から語られていました。
そして、人生とはそういうものだと。
「喜びも調和(ハーモニー)も不協和音もある。それが人生だ。避けて通れない」のだと言うことを。
50歳で現役のコンサート・ピアニストとしての活動に終止符を打って、その後はピアノ教師として、美しい音楽を伝授していくことに人生を捧げてきたシーモアさん。
音楽と、その音楽を奏でるピアノに向けられる愛情に満ちた言葉、自身の生徒たちとの対話の一つひとつに、私の中の閉じた扉が抵抗もなくゆっくりと開いていく。
スクリーンから流れてくる、美しい音楽の調べに心が震える。
「ピアノは人間と似ている。製造方法は同じでも、同じものは出来ない」
一人ひとり異なるヨガを伝えるハートオブヨガのよう…そう思った。
「音楽という芸術は完全に予測可能だ。音楽は不変だから。音楽に取り組むと、秩序という安心感を得られる。調和があり、予測も可能なら、コントロールも可能だ」
「自分と音楽とのつながりを感じる度、いつも同じ答えに行きつく、普遍的な秩序だ。音楽を通じて、我々も星のように永遠の存在になれる。音楽は心の奥にある普遍的真理、つまり感情や思考の底にある真理に気づかせてくれる手段なのだ」
まるでヨガ哲学の一節のようなシーモアさんの言葉は、私には衝撃に近かった。
『ピアノの響板は生きている』というシーモアさんの言葉に、自宅のリビングの片隅で、調律されることもなく、ひっそりと眠っているアップライトピアノが頭に浮かんだ。
私の人生の半分以上、いや、4分の3くらいになる、いつでも私の傍にあったピアノなのに。
そしてつい1年前まで、私の両手はピアノの鍵盤と一緒だったのに。
今から11年前の秋、学生時代以来、20年近くご無沙汰していたピアノにもう一度向かってみようと、レッスンを再開した時に買った一冊の本がある。
『心で弾くピアノ』というタイトルと目次の内容に惹かれて買ったんだけれど、その著者がセイモア(シーモア)・バーンスタイン!
この本は、当時の私にとって、まさにバイブルのような本だった。
演奏会の前には、暗譜がとぶかもしれないという恐怖に襲われ、強い緊張を毎回感じていたというシーモアさん。
私も大人になってピアノを再開した時に感じたのは、やはり暗譜がとんでしまうのではないか…という恐怖だった。
子供の頃はそんなことは夢にも思ったことなかったのに。
そして実際、数年前の発表会で、弾いている途中で頭の中の楽譜が真っ白になって、暗譜を忘れた経験をした。
プロでなくても、スポットライトを浴びたステージ上で、鍵盤に置いた指が止まる、という状態には恐慌を来す。
頭の中で澱みなく流れていた譜面が不意に真っ白になって、次の音が全くわからなくなるという恐怖。
でも、そんな風に緊張するのが当たり前なのだ、それが大人のピアニストとして普通なのだと、シーモアさんは映画の中で言っていた。
だから、この本の中には『暗譜』という章があって、その章には暗譜の方法だけでなく、『度忘れ』という項目もある。
さらにシーモアさん自身も無縁ではなかった『あがること』についての章には、映画の中でも話していた女優サラ・ベルナールの逸話も書かれている。
開演前、楽屋の前で若い女優にサインを求められたサラ・ベルナールが、サインに動揺を抑えてサインに応えた時、その高い演技力をもってしても、わずかな手の震えを隠すことが出来なかった。それを見た若い女優が「緊張なさっているようですね。私は上演前でも全然あがらないんですけど」と言ってきたことに、サラ・ベルナールはこう言葉を返した。
「貴女だってあがるようになるわよ、演技を勉強したあかつきにはね」
子供の時にあがらないのは当たり前。
この時が自分のベストな状態だった、と思うのは違う。
ピアノを学び、練習して、技術が上がるほど、ステージ上での緊張は増すもの。
映画でも、このサラ・ベルナールの話をしたのは、この映画が俳優イーサン・ホークによるドキュメンタリー映画だからかもしれない。
イーサン・ホークもまた、俳優、脚本家、映画監督、演出家、小説家と多彩なキャリアを築きながら、人生の折り返しを迎えて、このままでいいのかと自問自答し悩んだ。
その時に出会ったのが、80代のピアノ教師シーモア・バーンスタインだった。
シーモアに自分の悩みを打ち明け、話しているうちに安心感に包まれ、救われたとイーサンは言う。
その後、シーモアのピアノにも魅了され、彼はシーモアと彼のピアノの魅力をもっと多くの人に伝えたいと、ドキュメンタリーを撮ることを決めた。
そう。そのおかげで、私も本の中でしか知らなかったシーモア・バーンスタインに、彼の音楽に、触れることが出来た。
シーモアさんの言葉は、ピアニストや演奏家でなくても、音楽が好きな人なら、誰でも心に響くだろうし、そうでない誰かの心にも何かを残すと思う。
「音楽家としての自分と普段の自分を深いレベルで一体化させることが出来ると、やがて音楽と人生は相互に作用し、果てしない充実感に満たされる」
1年前、これからの人生をヨガとヨガティーチャーを中心に置くために、これ以上ピアノを続けることは出来ないと、私はピアノを絶つことを決めた。
でも、ヨガを続けるために、ピアノは本当に邪魔なものだったの?
自分とピアノが生む音に耳を傾け、今この瞬間の音楽だけを感じる時間
ヨガで自分の呼吸に耳を傾け、今ここにいる自分自身を感じる時間
ヨガを始める前から、私は音楽をピアノを通して、『ヨガ』をしていたのではないだろうか。
シーモアさんが自分の生徒に呼吸をさせているシーンがある。
「ここにある横隔膜を意識して。思いきり息を吐いて。吐ききって。吐ききったら息を吸って」
シーモアさんの「Exhale」「Inhale」を聞いていると、ヨガかと勘違いしそうで(笑)
そして、シーモアさんは、呼吸が浅い演奏家が多いことを指摘していた。
そして、私自身すっかり忘れていたけれど、バイブルだった彼の本の中には、『感情』という章の中に『呼吸』という項目がある。
この章は呼吸からさらに肉体、筋肉の調整にまで話が繋がる。
筋肉の使い方については、私の先生もよく指摘してたなぁ…
そういえば。
ヨガを始めてしばらく経って、ヨガが私の生活の一部になった頃だったか、私が弾く音や演奏が変わってきたことを先生に指摘してもらった記憶がある。
呼吸。
筋肉の調整。
私の中では、ヨガとピアノは別物だった。だから、ヨガをライフワークにしようと決めた時に、ピアノを手放すことにした。
だけど…
ピアノを弾くこと
ヨガをすること
私にはどちらも同じことだったんだなぁ…
映画の中で、シーモアさんが弾くシューベルトの幻想曲を聴きながら、涙が止まらなかった。
またピアノを弾こう。
調律もしなくちゃね。
初心者のために。
私に一番必要な本かも。