事務所の電気がすべて消えていることを確かめて、私はドアの鍵を掛けた。外に出た途端、凍てつくような夜の冷気が、無防備な顔の表面をピリピリといたぶる。
華やかなクリスマスのデコレーションで飾り付けられたショップが並ぶ通りを、メトロの駅に向かっている途中で、バッグの中のスマートフォンが鳴っていることに気付いた。掛けてきたのは田宮だった。
― 聞いたよ、日本に戻るんだって?
「情報が早いわね。昨日、辞令を受けたばかりなんだけど」
― 遅いくらいだよ。なんで昨日言ってくれなかったの?
「それどころじゃなかったのよ」
仕事の上司であり経営者である小暮マイコから、来年から日本に営業オフィスを置くことにしたので、そこでの事務局長をお願いしたいと言われたのは、昨日の夕方のことだった。
いつからその構想を持っていたのか知らないが、彼女のことだ。思いつきではなく、おそらく1年くらい前から考えていたことなのだろう。
たしかに、パリやフランス国内に支店や営業所のある日本企業との仕事なら問題ないが、近年は海外の事務所を撤退する企業も多く、日本国内の担当者と直接やりとりするには、時差のあるパリよりも日本に事務所を置いた方がこちらにも、企業側にとってもメリットになる。
「せっかくのクリスマス休暇が事務所探しで潰れてしまうかもしれないけどね」
いえ大丈夫です、と答えた私をチラッと見て、小暮マイコは口元にかすかな笑みを浮かべて言った。
「でも、これで遠距離恋愛から卒業できるわね。ラッキーだと思いなさい」
別にそのために日本に事務所を置くことを決めたわけでも、私を日本に戻すわけでもないはずだ。ただ偶然の積み重ねがたまたまそういう結果につながっただけだが、それでも彼女に感謝したかった。
田宮はきっと彼女から話を聞いたのだろう。
― パリにきてちょうど1年経ったくらいか。
「うん。やっと住み慣れてきたとこなのに、ちょっと残念だけど」
― それほど残念そうには聞こえないけどな。
「だって、仕事でパリにも時々来ると思うし」
― なあ。
「ん?」
― 本当は、日本に戻れて嬉しいんじゃないの?
彼がいるから…という言葉はなかったが、言外に匂わせているのはわかる。
「仕事をするスタンスは日本でもパリでも変わらないけど」
そんなことを聞いてるんじゃないんだけど、と田宮はつぶやいた。
― 俺も日本の本社に戻してもらおうかな。
「まだ駐在して2年でしょ」
大手商社勤務の田宮が、2年の駐在で本社に戻るとは思わないが、彼なら強引に日本への異動希望を出しかねない。そんなことになったら面倒になりそうだと思いながら、もうメトロに乗るから、と私は電話を切った。
もう朝からなんやねん、と不機嫌そうに電話に出た彼に、ゴメンと謝って「再来週からクリスマス休暇でそっちに戻るよ」と伝えた。
― ああ、もうそんな時期か。
クリスマス休暇という言葉も使わなくなるんだよねと思いながら、どのタイミングで話そうかと思いめぐらせる。
― あれ?けど再来週って、俺、ツアーの真っ最中やで。
「どこ行ってるの?」
― どこやったっけ…札幌の後が…福岡や。最後は名古屋。その間に歌番組の生放送もあるな。
「大晦日は大阪と東京の往復だしね」
彼のグループが年末の一大イベント紅白歌合戦に出場が正式に発表された時は、その日に会見時の衣装の写真付きでメールが届いて、さらに電話までしてきてくれた。
― な、すごいな、俺らめっちゃスターやな。
彼の弾むような声にこちらまで自然と笑顔になる。早く会って、おめでとう、頑張ってねと言って、ぎゅっと抱きしめてあげたかった。
― なあ、福岡か名古屋には来るん?
「ううん。大阪に行くよって前に言ったじゃん」
― 前はもっと来てくれてた気がすんねんけど。
「夏休みに幕張と京セラのイベントに行ってるよ」
― せやな。はるばる来てくれたもんな。
せやけど、と彼の声が沈む。
― 今年入ってから全然会えてへんな、俺ら
彼の言いたいことはわかる。アイドルとファンとして顔を合わせてはいるけれど…でも、ということだ。メジャーデビュー以来、今年が彼らにとって記念の年だったこともあり、ドラマに映画、タイアップCM、大掛かりな周年イベント、そして全国ツアーと多忙を極め、しかも一番忙しい時期と私が一時帰国する日程が重なっていたこともあって、お互いに隙間を縫って会う時間すら取れなかった。
それは、日本を離れて暮らすことが決まってから、私の中では覚悟していたことであったけれど、なかなか繋がらない電話、いつまでも返事のこないメールに、どれだけ心がざわめいたことだろう。不安に何度押しつぶされそうになったことだろう。もしかすると、それは彼の方も同じだったのかもしれない。
― 実家に行くん?
「え?」
― こっち。戻ってきてから。
「うん、行くけど、しばらくは東京にいるよ」
― なんで?仕事?
「うん」
― クリスマス休暇なのに?
「そう」
― イベント?
「じゃない。不動産屋めぐりかな」
― ふどうさん?
彼の頭の上に「?」マークが浮かんでいるのが想像できる。
「東京のね、オフィスを探さなきゃならないの」
― おふぃす?東京の?え?何の?
「ウチの会社、東京に営業オフィスを構えることになったの」
― へえー!そうなんだ。すごいやん。なに?東京のどこ?
「それをこれから探すんだって」
― ああそうか。それは大変やな。
「うん、それに、新しい部屋も探さないといけないしね」
え?という小さな疑問符が返ってきてから、まるで時差のタイムラグのような間を置いて、「えーっ!!」という彼の絶叫がスマートフォンを耳元から離していてもハッキリと聞こえてきた。
これから始まる彼のマシンガンのような質問攻めに備えて、ちょっと長い夜になる予感を覚えながら、私は小さく息をついてから、スマートフォンをふたたび耳に当てた。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
久しぶりの短編です!
もしかして・・・1年ぶり?(笑)
ふたたび、というサブタイトルにしてますので、まあ短編再開、と思っていただいてもいいのではないかと。
まあ、どこまで書き続けられるかはわかりませんけどねー
宮城のライブで、センステめっちゃ近くで横山さんのお姿を見られrたことも、再開のきっかけになったかもしれませんが(単純)、他にも書いてみたいネタが出てきたのと、短編書いてると、書いてる本人も女子力がアップするような気がして(笑)
ゆるゆるとした感じで、また始めますので、お気軽に感想をコメントしていただければと。
駅の改札を抜けると、私は商店街のアーケードへと足を向けた。
クリスマスが終わり、アーケードの各店舗は正月を迎える装いへと変わっていた。店先に並ぶお正月料理の食材や松飾りなどのお正月飾りがクリスマスとはまた違う華やぎを見せ、年内最後の歳末セールをうたうポップな広告が、正月という特別な日を目の前にした人々の購買意欲をかき立てる。
私は、10月まで毎日通っていたこのアーケードを懐かしく思いながら、ゆっくりと歩いて行った。そして、アーケードを通り抜けると、かつて住んでいたマンションへと向かった。
平日の昼時ということもあって、マンションのまわりは閑散としていた。約束の時間にはまだ、10分ほどあったが、遊歩道の手前の道路に彼の車が停まっていた。
助手席に乗り込んだ私は、彼に待った?と聞きながら、美味しそうな匂いが車内に漂っていることに気づいた。
「いや。そんな待ってへん。おまえが向こうから、えろうのんびり歩いてくんの見てたわ」
「ちょっと懐かしんでたの。ねえ、それ肉まん?」
私は彼の膝の上にあるコンビニ袋を指差した。
「おまえ、食いしん坊やなあ。見えへんのにようわかったな」
「わかりやすく匂いすぎだよ」
「食う?」
「食う!」
「女子が食うとか言うなや……」
袋を私に寄越しながら、彼がぼやく。袋からまだホカホカの肉まんを取り出して彼を見た。
「きみ君の分は?」
「コンビニから車までの間にもう食った」
「食いしん坊はそっちじゃん」
二口目を食べたところで、彼が車を出した。
「肉まんは俺らにとっては特別やな。もしあん時、肉まんなかったら、たぶん俺ら付き合ってないんちゃう?」
「なふかひいね」もぐもぐ頬張りながら、私は頷いた。
「せやな。懐かしいって思うくらいに時間が経ってんやな」
とても寒かったあの春の夜。あのまま、私たちの人生が二度と交わることなく終わったとしても、決しておかしくなかった。あの時、私が彼を追いかけたりしなければ。あの時、彼がコンビニに立ち寄って肉まんを買ったりしなければ。
「パリって、肉まんとかあるん?」
「中華料理屋さんに行けばあるかな」
「そんな本格的になるんや」
「コンビニの肉まん、パリにも欲しいなあ。あっあと、たこ焼き屋!」
「そんなもんあったら、パリが道頓堀みたいになってまうで」
「そやね、街のど真ん中を川が流れてるし」
「たこ焼き食いたいんなら、ウチくるか?俺作ったるで」
私は肉まんにかぶりついた状態で、運転席の彼を見た。
ウチに?彼の?いまから?
「おまえ、一度も来たことないやろ。合鍵渡しといてんから、いつ来たってええのに」
肉まんが口の中で邪魔をして、返事ができない。
「今日の予定変更してもええねんで。弟も先に大阪帰っとるし」
私は急いで肉まんを飲み込みながら、首を横に振った。
「なに?」
「いい。予定通り、海行こ」
「いや、よう考えたら海寒いしな。ウチ行こ、ウチ」
「ウチはヤバいって」
私は首を回して、この車の後をつけている怪しい車が来ていないか、見た。
「おまえ、何してんねん」
彼が私を見て笑う。
「やだよ。パパラッチされたらどうすんの?」
「俺なんてそんなん対象やないで。錦戸やったらな、あるかもしれんけど。おまえも、親戚ですって顔してればええねん」
「親戚……?」
「ええから。はよ肉まん食えや」
もう残り半分もない肉まんだったが、喉を通りそうにない。今から、彼の自宅に行く、という思ってもいなかった展開に、頭の中がパニックになりそうだった。でも、合鍵を渡しているから、いつ来てもいい、という彼の言葉は本音だろう。たしかに、こんな風に休暇を利用して日本に帰ってきた時に、彼と心置きなく会える場所が今の自分にはない。
ドリンクホルダーに置いてある彼のペットボトルに手を伸ばした。
「お茶、もらうね」
「おん。それより、おまえ、名古屋来てたか?」
「うん。行ったよ」
「どこいたん?ぜんぜんわからんかった」
「1塁側のスタンド。サンタ服着て」
「ドームん中、サンタの格好した女子だらけやったぞ。わかるか。そんなん」
「そうだね。ドーム広いし、人も多いし、遠いとよく見えんやろし」
彼は何か言いかけて、しかしそのまま口をつぐんだ。5大ドームツアーというビッグな成果にケチをつけるつもりはなかったのに、私の言葉は会場への不満にでも聞こえてしまったのだろうか。
「でも、俺……」
「うん?」
「探したで」
「うん。ありがと」
「ライブはどうやった?」
「うん、めっちゃ楽しかったよ!みんな、カッコエエね」
「みんな?」
この問答、前にもしたよなあ。私は思い出してクスッと笑いながら、「うん、みんな」ともう一度言った。
「なんで笑とんねん」
「ねえ、なんでMCで、恋バナしたん?」
「なんや、おまえ、妬いたんか?」
隣を見なくても、彼がドヤ顔しているのがわかる。
「……昔の方がくどき方、上手だったね」
言うなり、頭をコンと叩かれた。
「おまえ、ホンマに素直やないな。せっかくパリに行ってんやから、恋のノウハウ磨いてこいって」
そういうけど。恋に素直じゃないのは、お互い様だよね。
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短編の短編、みたいになってますけども。
初期のころの作品は、こんなカンジでした。
改行も多かったし。
間奏曲ですね。軽い感じで書いてみました。
さて。明日から大阪です。
30日のチケット、譲ってくださる方がいないですね……
ま、入れなくても、明日ライブ終了後に飲み会あるんで、そっちを楽しみにしてます。
というわけで。これから遠征準備しまーす!!
<1話> <2話> <3話> <4話>
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
五浦釣人像。地元でも有名な待ち合わせ場所で『いづらちょうじん』と読む。この像の作者である彫刻家の平櫛田中が福山の出身者ということで、山陽新幹線開通時にその記念として駅の南口に建てられたのだが、これはレプリカで本物の作品は茨城県の五浦美術文化研究所に所蔵されている。
茨城県の釣人が福山市の表玄関を飾るように、残念ながら福山には歴史的に著名な出身者はいない。
南口のロータリーに車を止める場所を探しながら、駅広場にある岡倉天心をモデルにしたという釣人像に目をやる。
像の前に彼は立っていた。午後の日差しに目を細めて、きょろきょろと落ち着かない様子で周囲を眺めている。そんな彼の姿を見ていると、愛しさがこみ上げてきて、私はまた泣き出しそうになった。
駅前を行き交う人は誰も彼に気づく様子はない。唯一、CASPAかアイネスにでも向かっているらしい女子中学生のグループが、彼をチラチラと見ながら歩いているくらいだった。彼女たちは彼を振り返っては、ヒソヒソ話し、弾けるように笑って通り過ぎていく。知っているアイドルによく似ていると思いながらも、まさか本人がたった一人でここにいるとは想像もつかないのだろう。
彼に一番近い場所で車を止めた。車から出ていってすぐに、彼が私に気がついたが、彼と視線が合った途端、私の足は止まってしまった。
私を見つめる彼の表情は、笑っても怒ってもいなくて、感情が何も読み取れない。不意にあの日のことが記憶から蘇って、私の足は完全に竦んだ。私は、彼が表情ひとつ変えずに歩み寄ってくるのを見つめながら、背中を向けて逃げ出したい気持ちをかろうじて押さえつける。
彼は、私から数歩分離れた所で立ち止まった。それは彼と私の気持ちの距離を表しているようで、私は心が挫けそうになりながら、ごめんなさいと言おうと息を吸った。
「俺な」
彼の方が先に口を開いた。私は言いかけた言葉をいったん飲み込んで、次の言葉を待ち構えた。
「俺……さっき、全然知らんおっちゃんに怒られた」
え?予想もしていなかった話の流れに、私は戸惑った。
「さっきおまえに電話した時な、あの……」と彼は五浦釣人像を振り返った。「あれの名前、俺が言うてたんを近くで聞いてたんやな。俺が電話切ったら、立派な大人がまだ読めんのか!って、めっちゃコワい顔してゆうねん。俺、ここの人間やないし、こんなとこまで来て、なんで初対面のおっちゃんに怒鳴られなあかんねん。もうめっちゃ凹んだわ。なあ、あれ何て読むん?」
彼の話を聞いているうちに、固く縮こまっていた体も心も力が抜けていくのを感じていた。
彼はまったく、いつもと同じ彼のままだった。表も裏もない。飾ることも繕うことも隠すこともない。ただ正直に、ありのまま私に向き合ってくる。それこそ、私が彼を愛してやまない理由だった。
いますぐに彼をギュッと抱きしめたい想いを堪えて、私は「いづらちょうじん」と答えた。
「え?いず…いず何?」
「いづらちょうじん。地元の人だって読めない人いるよ。知らなくても気にしなくていいから」
「でも、俺、怒られたもん。なんやねんな、俺、おまえに会いに来ただけやのに」
思いもしなかった彼の言葉に、私の中で堪えてきた想いが瞬く間に崩れた。気づいた時には、私は彼を抱きしめて、泣きながら何度もごめんなさいと繰り返していた。
彼の手が私の頭をポンポンと優しく叩く。
「俺が怒られたんは、おまえのせいやないやろ。それとも、あんな読みにくい名前、おまえがつけたんか」
ごめんなさいの理由は、もちろんそんなことではない。彼もそれを分かっているはずなのに、冗談で誤魔化したのは、その核心を避けたいからなのか、それとも彼の優しさなのか。私は半分泣いて半分笑いながら、首を横に振った。
車は県道を南下しながら、海へと向かっている。
自分が運転すると言って譲らない彼に車のハンドルを預けて、私はパリ行きが決まるまでのいきさつについて話した。
彼は私が話している間は一言も、相槌さえも発することなく黙って聞いていた。
話の流れで出さざるを得なかった田宮のことは、大学時代の同級生で、パリで偶然再会したことを説明しただけに留めた。その田宮についても、彼は何も聞かなかった。
話がひとしきり終わったところで、私が黙ると
「なあ……おまえ、これからずっと向こうで暮らすんか?」と聞いてきた。
おそらく彼が私に一番聞きたかった質問。でも、それに対する答えは私の中にはまだない。なんと言えばいいのか、私は逡巡した。そして、車が本土と田島を結ぶ内海大橋に入るのを見ながら言った。
「向こうに行ってみないと……わからないよ」
橋の向こうに、緑豊かな田島とそして真っ青な瀬戸内海に浮かぶ緑の島々が見える。瀬戸内に掛かる数ある橋の中でも、この内海大橋の美しさは五指に入るだろう。
「えっ?なんやこれ?」
彼がハンドルを回しながら声をあげた。
橋は海路の途中で大きくカーブを描いて、ほぼ直角に曲がっている。これがこの橋の大きな特徴だった。
「橋が曲がっとる。なにこれめっちゃ面白い!」
子供のようにはしゃぐ彼の声で、車内の空気が一変した。
「うっわぁ、ここ走るのめっちゃ気分ええな。爽快やで」
楽しそうな彼の笑顔を見ていると、心が温かくなっていく。いつまでもいつまでも、彼の笑顔を見つめていたかった。
大橋を降りきったところで、行き先が書かれた道路標識に目をやった彼があっと声をあげる。私は声を出さずに笑った。
「えっ、なにあれ、俺の海岸があるやん。横山海岸て!」
「うん」笑いながら頷いた。
「ちょっ行ってみてええか?」
「ええよ。だってそこに行こうと思ってたんだもん」
古来より瀬戸内海の商業と交通の要所だった田島には、往時を偲ばせる黒塀の古民家が閑静な町並みに立ち並ぶ。小回りの利く小型漁船が停泊する漁港と穏やかな海を眺めながら、海岸沿いに道なりに走っていった。
「なんやめっちゃ風情あるなあ」
対向車もほとんど来ない、長閑な県道を走らせながら、彼がしみじみと言う。
「福山、めっちゃええとこやん」
彼が笑顔で私に言う。その笑顔に、私も笑顔を作ってありがとうと返した。
やがて、この島と隣接する横島を結ぶ睦橋が見えてきた。かつては跳ね橋だったこの橋を越えて、目的地の横山海岸のある横島に入る。瀬戸内海の群島と美しい青い海を眺めながら、細い道を通って島を南下していった。
「うっわー絶景やなー!」
後続車がいないのをいいことに、時々車をゆっくりと走らせて、彼は海を眺めていた。防波堤の向こうに広がる穏やかな瀬戸内の海原は、夕暮れを迎えて黄昏色の柔らかい光を水上で反射している。
「冒険MAPでも来たことあるけど、やっぱり瀬戸内海ってホンマ綺麗な所やな」
しばらく走っていくと、横山海岸の目印とも言えるカラフルな絵が描かれた堤防が見えてきた。シーズンオフでも、この美しい海岸には釣り客などの車が数台停まっているのだが、さすがに夕方近いせいか、車は1台もなかった。
「あそこで停めて」と私は防波堤の切れ目、砂浜に降りられる場所を指した。
「ここは駐車場とかないん?」車を停めて彼が聞く。
「あるけど、シーズンオフはないから路駐になるの」
車のドアを開けると、潮騒の音と磯の香りが一斉に車内に入ってきた。
「なにこれ、横山海岸めちゃめちゃ綺麗やん」
「他にもビーチはあるんだけど、私はここが一番きれいって思ってる。透明度も高いし。意外と穴場なんだよ」
「今も俺ら以外、誰も人おらんしな」
潮風が耳元をなぶる。聞こえてくるのは、砂浜を静かに洗う波の音だけだった。備後灘を挟んで横島と向かい合う因島と弓削島が、夕暮れの背景にシルエットを作り、島の海岸沿いには、街の灯りが瞬き始めている。
「水、冷たいかな?」
そう言って彼が裸足になって、海岸に下りていくのを見ていた。海水に両足をつけた彼が、私の方に振り返る。
「意外とあったかいで」
いくら温暖な瀬戸内海とはいえ、10月も下旬なのに?
彼が来いよと手招きしているので、私も裸足になって、ジーンズの裾を巻き上げた。
彼が砂浜に作った足跡の上を踏んでいきながら、彼のいる波打ち際まで近づいた。透明度の高い水の中に、つま先からそっと入ろうとした途端、彼の手が私の手を掴んでぐいと引っぱった。両足から海に突っ込んだ私の足先から、水の冷たさが一気に体を走り抜ける。
「いやっ冷たいっ」
急いで水から出ようとする私の手を、彼は笑って離そうとしない。
「嘘つき。冷たいじゃん」
「嘘やないって。氷水よりはあったかいやろ」
「その基準おかしいから」
彼は私の手を離して屈み込むと、服の袖が濡れるのも気にせずに、水をバシャバシャとかけてきた。
「ちょっやめてよ。服濡れちゃうし」
「海言うたら、こうゆうのんが恋人たちの約束事やろ」
「夏ならわかるけど、今頃こんなんするのは、恋人たちじゃなくて変人たちだって」
言い返しながら、私も両手を海に突っ込んで、冷たい水をお返しすると、彼の笑い声と一緒に倍のお返しが返ってきた。それからは、私も彼も服が濡れるのを忘れて、子供のように夢中になってはしゃぎまくった。
その時、沖合を大型の貨物船かタンカーでも走行したのだろうか、一際高い波がひざ下までかぶってきて、驚いた私たちは慌てて砂浜へと飛び退いた。
「なに?いまの。びっくりしたぁ」
「あの船」と、私は遥か海上を行く貨物船のシルエットを見つけて、指差した。
「ここ、タンカーとか大型船舶の航路だから」
「ああ、それで今みたいな波が起きるんか」
彼は砂浜に腰をおろしながら、「船って夜中も通るん?」と尋ねてきた。
「たぶん。通ってると思うよ」
燃えるような橙色に染まった空には、藍色の闇がその境界線を滲みながら迫ってきている。それを見て、ふとあることに思い当たった。
私は彼の隣に座り、海を静かに眺めているその横顔を見た。ついさっきまで見せていた、子供のように無邪気な表情とはまったく違う、穏やかな大人の男の顔にハッとさせられる。
「ねえ気になってるんだけど」
「何が?」
「今日、帰るの?」
「帰るってどこに?」
「どこって……大阪だか東京だかわかんないけど、一晩ここで過ごすわけじゃないでしょ」
彼が私の方を向いた。
「おまえはどうなん?俺にどうしてほしいん?」
夕闇の薄暗さが、ベールのように私と彼の間に立ち込めている。恥ずかしがり屋の彼にしては珍しく、私から視線をはずさない。彼に真っ直ぐ見つめられ、鼓動が早くなった。寄せては返す波の音に、私は呼吸を合わせようとした。
「私……」
言いかけて、でも言葉が続かない。彼への想いは今にも溢れ出そうなのに。
不意に空気の色が変わった。夜の帳が暗幕のように降りてきて、私たちを包み込む。
私は彼の顔に手を伸ばして、そのなめらかで美しい頬に触れた。彼の表情がふっと和らぎ、次の瞬間、私は彼に強く抱きすくめられていた。
柔らかい砂の感触を背中に感じながら、彼の重みを全身で受け止め、耳元をかすめる彼の吐息に、体の奥が熱く潤っていく。感情のままに思わず零れかけた私の声は、彼のキスで封じ込められた。
夜の静寂、波音の向こうに島々の灯りが揺れ、漆黒の空にはたくさんの星が零れ落ちそうなほど瞬いている。私が夜空を見上げていると、
「星、めっちゃ綺麗やなあ」
彼が感嘆の声をあげながら、車からビニールシートと懐中電灯を手に戻ってきた。
「車ん中でええもん見つけた」
「ええもん?」
「ジャジャーン。これや」
満面の笑顔で、チャッカマンもあったでと、彼が私の目の前に出してきたのは花火セットだった。これは、夏休みに地元の友人たちと田島のビーチで遊んだ時に残った花火ではなかったか。車のトランクに入れっぱなしだったことすら忘れていた。
「え?こんな時期に花火?」
「ええやん。俺ら、花火デートとかしてないやろ」
と言いながら、広げたビニールシートの上に、花火セットの中身を並べていく。
「どれから行こか?」
そう聞きながら、やっぱり定番行くか、と普通の手持ち花火を私に手渡した。
火をつけた花火はパチパチと音を立てながら、夜の闇に、小さな火花をたくさん放って光の帯を作り、白い煙がスモークのように立ち込めては、微かな潮風に少しずつ流されていく。花火に照らされる彼の顔には、まるでギリシャ彫刻のように光と影が作られている。その美しさに見とれていた私に、彼がこっちを向いて、私の持っている花火を指差した。
「俺に見とれてんと、それ、もう消えとるで」
「見とれてないって」
「ええよ、見とれてたやろ」と笑って言う。「次、どれにする?」
予測不能な仕掛け花火の動きに、はしゃいで逃げ回ったり、線香花火が消えるまでの時間を競争したりしながら、私たち2人は、秋の夜の肌寒さも、刻々と過ぎていく時間も忘れて、童心にかえったように遊んだ。
笑いながら振り返って見たシートに残っている花火が、あと一つだけだと気づいたときに、私は残された時間が間もなく終わろうとしていることを予感した。
「これで最後やな」
彼が最後に残った打ち上げ花火を、海に近い地面に置いて砂で固定しているのを見ながら、締め付けるような切なさに息苦しくなっていく。火をつけて、走って戻ってきた彼は、私の手をとってシートに座った。「特等席やで」
しばらくして、ひゅるるるという音とともに打ち上げ花火が上空に上がる。派手な音をたてて色鮮やかな華が夜空にいくつも咲いた。キラキラと舞い落ちる火の粉は、地面につく前に消えていく。少し間を置いてまた花火が上がった。
「季節はずれの花火大会やな。近所の人が見に来るんちゃうか」
「……」
「誰かが来る前に、またチューするか?」
首を回して、隣の彼を見た。そっと押しつけられた彼の唇が、ゆっくりと離れるのを感じながら、私は彼の目を見つめて言った。
「……パリに行くの、やめる」
彼がはっとした顔をした。
「なんで?」
「やめる」
「なんで、やめる?」
「行きたくなくなった」
彼が戸惑いをその顔に浮かべて、私から視線を外して唇をなめた。
「それは……なんで、行きたなくなったん?」
「だって無理……」
「何が」
「無理だよ……」
「何が無理やねん」
わかってくれない彼がもどかしかった。いや、わかっているのに、分からないふりをしている。
「誤魔化さないで。わかってるでしょ」
彼は打ちあがった花火に目を向けた。その白い顔をカラフルな花火の色が照らしている。
「……私、別れたくない。離れて暮らすのもいや。最初は大丈夫って思ってたけど、無理だってよくわかった」
「……」
「パリには行かない。だから終わりになんてしないで」
私は、無言のまま、花火を見ている彼の手を握りしめた。彼の表情は変わらない。静かに花火を見つめているままだった。私もそれ以上何も言わずに、花火に目を向けた。
そして、最後の花火が夜空に咲いて、パチパチと儚い音を立てながら火の粉が消えていった。同時に周囲は闇に包まれた。
と、彼の手が私の手を握り返してきた。
「パリ、行ってこいよ」
「え……?」
「自分の力を試してみたいんやって、さっき言うてたやん」
「それは……もういいよ」
「俺のために自分の挑戦をあきらめるとか、めっちゃ気分悪いわ」
「ううん、そうじゃなくて……」
「じゃあ、行ってくればええやん。パリで仕事すんの夢やったんやろ」
私は、首を横に振った。「やだ。行かない」
「パリに行くんなら、別れようなんて、俺、ひとことも言ってへんで」
「違うの、離れたくないの」
「日本にいても、ずっと会わん時とかあったやろ。それと何が違うねん」
「でも、会える時間が減るし……」
「さっき、夏休みとクリスマス休暇あるて言うてたやん。そん時に会うんじゃアカンのか」
「クリスマスなんて、そっちはめっちゃ忙しい時期じゃん。会う時間なんてあるの?」
「時間はあるもんやなくて、作るもんやで」
「……いまドヤ顔したでしょ」
「ええこと言うたな、俺」
「私、真面目に話してるのに!」
彼が私の方を向いた。暗闇ではっきり見えなくても、顔が笑っていないことはわかる。
「ええか。こっちは死ぬ気で時間作るからな。おまえもその覚悟で来いよ」
「……」
「ほら。わかりました、は?」
「……」
「わかりました、は?」
泣きたかった。声を出して泣きたかった。私から離れていくというのに、彼は待っていてくれる。彼が望むなら、恋人候補がたくさん手を挙げるはずなのに。
「……ねえ、本当にパリに行っていいの?」
「言うたやろ。行くななんて、俺、一度も言うてへんて」
「……ずっと、ずっと離れてても、私のこと、忘れたりしない?」声が震えた。
「なんで忘れるねん。俺、そこまでアホやないで」
目の奥がじわりと熱くなった。涙が零れ落ちそうな気配に、私は泣き顔を見られたくなくて、彼に抱きついた。周りは真っ暗で、お互いの顔さえよく見えないのに。
「おまえこそ、俺のこと忘れたら承知せんからな」
そう言って、彼が強く抱き返してきた。私は彼の肩口に頬を寄せて、何度もうなずきながら、いつしかその温かい腕の中で眠りに落ちていた。
*********************************
手荷物検査を終えて、搭乗口に向かっている時に電話が鳴った。田宮からだった。
― もうそろそろ、搭乗時間かなと思って。
「わざわざ、ありがと」
― 予定通りのフライト?
「遅れはないみたい」
― 了解。それじゃ、のちほどド・ゴール空港で。
電話を切った私は、ふと思い立って、彼に電話をかけた。日本を発つ前に、もう一度、彼の声が聞きたくなった。
― もうパリに着いたん?
いきなり何を言うのかと思ったけれど、そういえば、パリに着いたら電話するから、と言って別れたんだったっけ。
あの夜、寝入ってしまった私を彼が車まで運んで、一晩、車の中で夜を明かした。そして、翌朝、彼が新幹線に乗り込むまで見送った。その時にそんな話をしたのだった。
「ううん。今から出発。ちょっと声が聞きたくなっただけ」
― なんや、もうホームシックか?
「そっちこそ。寂しがらないでよ。意外と繊細なの知ってるんだから」
― なに言うとんねん。俺はぜんぜん平気やで。
「次、会うのはクリスマス休暇だよ。大丈夫?」
― ツアー中やな。おまえ、名古屋は来るん?
「うん」
― そっか。楽しみにしててな。
「うん」
前と何一つ変わらない会話。たとえ遠く離れても、心を通わす方法はいくらでもあることに、今更ながら気づかされる。パリも日本も、空はひとつに繋がっている。
「それじゃ、行ってくるね」
Fin
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
えーと。
最終話、いかがでしたでしょうか。
特に語ることはありませんが、なんだかベタな恋愛ドラマみたいになってしまったことだけは、謝りたいと思います。そして、東京ドーム公演が終わるまでに書き終わらなかったことも。
名古屋、の話が出ましたので、近いうちに、またお届けできるのではないかと。
楽しみにしててくださーい!!
というわけで、明日、名古屋に行ってきまーす!
横山さんに狩られてきまーす!(笑)
<1話> <2話> <3話>
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
あの夜から、私は原因不明の高熱を出した。
仕事の方はほとんど引き継ぎが終わっていたので、そのまま有給休暇の消化に入り、唯一引っ越しの準備が手つかずだった寝室で寝込んでいた。
心配した美奈子が、毎日見舞いに来てくれたけれど、彼との間に何があったのか聞くことも、彼の話をすることもせず、看病の合間に他の部屋の整理を黙ってやってくれた。
ただ、一度だけ、食器棚を整理している時に、これはどうする?と彼専用の茶碗を手に尋ねてきた。
彼の茶碗を見ると、胸が痛んだ。彼と食卓を共にすることは、もう二度とないだろう。そう思った途端、目の奥が熱くなって、私は慌てて茶碗から視線を外した。どうすればいいのか、思考回路が完全にいかれてしまったのだろう、何も考えが浮かばない。
「実家に送る?」
美奈子から提案してきた。男物の茶碗なんか送ったら、それを見た両親はどう思うだろう。失恋の痛手でパリに行ったとでも思いかねない。私は首を横に振った。
「それじゃ……」美奈子は茶碗に目を落とした。「私が預かっておくね」
思わず美奈子を見た。美奈子は、それでいいよね、と念を押すと、私の返事を待たずに、背中を向けて寝室を出ていった。
私と別れた後、彼が美奈子の店に行くかどうかは分からない。でも、私と彼のことを知っている美奈子なら、彼の茶碗を預けるには一番相応しい。
ほっとした途端、極度の疲労感と睡魔に襲われ、私は目を閉じた。
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パリを発つ日、田宮が空港まで私を見送ってくれた。チェックインを済ませた後、搭乗時刻まで時間があったので、空港内のカフェで時間を潰すことにした。
「こっちに戻ってくるのは11月だっけ?」
「うん」
「引っ越しの荷物整理とか手伝うよ。日本からも荷物を送ってくるんだろ」
「なるべく必要最小限にしようと思ってるけど……」でも助かる。ありがとう、と私は微笑んだ。
その後しばらく、私たちは黙ってカフェを口にしていた。先に沈黙を破ったのは田宮だった。
「彼……」
「え?」
「君の彼氏」
まさか相手を知っている、とでも言い出すのかと私は警戒した。
「彼が何?」
「いや……パリに行くことを賛成してくれそう?」
私は心の中でホッと胸をなで下ろした。そういう話か。私は微笑みながら肯いた。
「自分の夢に向かって頑張ってる人にエールを送る人だから。私のことも応援してくれると思う」
「彼、学校の先生でもやってるの?」
「ううん。なんで先生?」
「夢を応援するとか先生みたいじゃん」
「そんなの先生じゃなくてもするでしょ」
言い返しながら、彼が教壇に立っている姿を想像してみた。眼鏡をかけて真面目な顔をしていれば、彼はそれらしく見えるかもしれない。若い時はともかく、ここ数年は秀才や天才といった役をよく演じている。色白で整った顔立ちが知的な印象を与えるのだろうか。
私が心の中で笑っていると
「じゃあ何の仕事してる人?」田宮が聞いてきた。
「え?誰が?」わざと惚けた。
「彼氏だよ」
「それ、聞いてどうするの?」
「いや、どうもしないけど、先生じゃないなら何の仕事してるのかなって思っただけだよ」
「そう。でも、田宮君には関係ないことだよね」
「関係なくはないと思うな。俺、彼に負けたわけだし」
「あなたに再会する前から彼と付き合ってたの。もともと勝ち負けなんかあるわけないでしょ。それに彼を好きなのは仕事が理由じゃないから」
「でも、俺は敗北感があるよ。だから、君がどんな人を選んだのか知りたい」
「普通にね、いい人」
「なんだよ、それ」
「普通に、優しい人」
「会社員?」
私はちょっと考えてから、うん、と肯いた。彼と同じ事務所の先輩アイドルが、こういう時、職業欄に『会社員』と書くようにしている、と以前何かで話していたのを思い出したのだ。
「ふうん、何の会社?」
「……芸能プロダクション」
「ああ」
田宮が、なるほどねという得心した顔で頷いた。そのプロダクション所属のタレントを使った仕事で、私が彼と知り合ったという風に田宮は解釈したようだった。
それで納得したのならそれでいい。これ以上余計な詮索をされなくて済む。
芸能プロダクションの営業マンが私の相手だと思ったのだろう。田宮は急に興味を失ったのか、その後、彼のことを聞いてくることはなかった。
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最後の荷物が、引っ越し会社のトラックの荷台に積み込まれたのを見届けた私は、走り去るトラックを美奈子と一緒に見送った。
「ごめんね。最後まで付き合わせちゃって」
「どうせ昼間は暇なんだから、気にしないで」
暇なわけがない。ショットバーとはいえ、軽い食事のメニューも出す店だ。食材の買い出しや仕込みがあるはずなのに、熱を出した日から今日までの5日間、美奈子は毎日欠かさず看病と引っ越しの手伝いに来てくれた。
「本当にありがとう、タカヒロ」
「なによそれ」
ちょっとムッとした美奈子の腕に、私は自分の腕を回した。
「タカヒロが彼氏だったら良かったな」
「ありえない」
「もしもの話だって」
「もしもでも絶対ありえないから」
「もうそこまで言い切っちゃうんだ」
私たちは、自分の荷物を取りに、一旦部屋に戻った。
何一つなくなった部屋は、あまりにも開放的すぎて明るくて、まるで知らない場所のように見えた。
「本当に行くのね」
美奈子が空っぽの部屋を見回しながら、ポツリと言った。
「そうだね」
「そうだねって他人事みたい。後悔してるの?」
私は首を振った。
「自分が選んだ道だから、後悔なんかしない」
「なら良かった」
私は寝室だった部屋に足を向けた。
彼が取り付けてくれたシーリングファンはパリに持っていくつもりだったが、今度の部屋に取り付けられるかどうか分からないので、ベッドと一緒に実家に送った。一人暮らしの私の部屋から送ったダブルベッドを見て、両親はどう思うことだろう。
寝室のクロゼットの一角に、彼のパジャマや下着が入っていたストレージボックスがあったはずなのだが、美奈子が茶碗と一緒に引き取ったのだろうか、熱が下がったので、引越の準備に掛かろうとした時にはもう見あたらなかった。
そして……
私はずっと手に持っていた小箱に目を落とした。
誕生日に彼からもらった、私への信頼の証でもあった特別なプレゼント。いつかこれを堂々と使える時がくるのだろうかと思っていたのに、結局一度も使うことなく、二度と使えなくなってしまった。
私の隣に立った美奈子に、私はその箱を黙って差し出した。
「何?」
「これも預かってもらえないかな」
美奈子は小箱を手にして蓋を開けた。中身を見て、一瞬目を見開いた美奈子は、何も言わずに蓋を閉じると、私に箱を突き返してきた。
「これは預かれない」
「もし、彼がお店に来ることがあったら渡してほしいの」
美奈子はゆっくりと首を横に振った。
「ダメ。これはあなたが自分から彼に返さないと」
「……」
「ねえ。このままでいいの?」
何が?と声にならない言葉が口に上がる。
「最後に彼と何の話をしたか知らないけど、あなたたち二人のことだから、お互いにちゃんと話をしてないんじゃないの?あなたは勝手に彼との関係をジ・エンドにしているみたいだし」
その通りだった。あの日、互いの気持ちがすれ違ったまま、絶縁状態になってそれっきり。そして私は、彼とはもう終わったのだと、彼の気持ちをまたもや無視して、決めつけていた。
「老婆心から言うけど、この状態でパリに行くのは、あなたのためにならないし、彼のためにもならないと思う」
美奈子は私の手を取って、小箱を手のひらにそっと載せた。
「日本を発つ日まで、まだ時間はあるでしょ」
「……」
「限られた時間は大切にしなきゃね」
不意に、手の上の小さな箱が見えない重さを増した。
パリに発つまでの4日間は、実家で過ごすことにした。往復でそれぞれ1日とられてしまって、実質は2日間しか実家にはいられないが、他に行く場所もない。
両親には、一番はじめにパリ行きの話を電話で報告した。最初に電話に出た母は、声も出ないほどに驚いていた。次に電話口が父に代わると、もう少しよく考えてから決めた方がいい、日本の会社に転職じゃダメなのか?とパリ行きに難色を見せた。
でも、私の決意が変わらないと分かってからは、二人とも何も言わなくなった。両親の無言のエールが本当に嬉しかった。言葉がなくても、互いの思いが最終的に通じ合えるのは、やはり親子だからだろうか。
どれほど心を許しても、どんなに深く愛しても、結局、他人同士の間では言葉をもって伝えない限り、お互いの気持ちが分かり合えないのだとしたら、人ってなんて不器用な生き物なんだろう。だから、人間だけがたくさんの言語を持つようになったのかもしれない。
一生かかっても使い切れないほど無限に存在する言語は、人を癒し生きる力さえ与えるほど珠玉の言霊を生み出しながら、一方で人の心を容赦なく傷つけ悲しませることも難なく出来てしまう。
しかし、必要な言葉を使わないこともまた、人を傷つけてしまうことを、今回私は痛いほど知った。
実家に向かう新幹線の中で、私は何度も席を離れて、彼に電話をかけたが、呼び出し音の後に留守電に繋がるばかりだった。
やがて、駅に到着する車内アナウンスに電話を諦めて、ちゃんと話をしたいという趣旨の短いメールを慌てて送った。
窓の外は、すでに夕暮れから夜へとその色合いを変え、夕焼けの橙色の帯が西の空の果てにうっすらと滲んでいた。迫る闇には街の灯りが瞬いている。荷物を手に降車ドアに向かっていると、新幹線がゆっくりと駅のホームに滑り込んだ。
夏の盆休み以来、久しぶりの実家だった。母親の手料理を口にしながら家族と他愛のない会話を交わしたり、お風呂にゆったりと浸かったりと、到着した夜からのんびりとした時間を過ごしていると、これから4日後にパリへ発つことが、全部夢の中の出来事のような気がしてくる。
もちろん、夢などでないことは、ここ数日、業務連絡のように、というかほとんどが仕事の業務連絡だが……頻繁に入ってくる小暮マイコからのメールで十分に分かっている。今日もメールが来ていたが、読む気も起きずに放置していた。
夜、ベッドに横になりながら、私はただ一人、彼からの返事を待っていた。
最後に彼と会ったあの日。両手で顔を覆ったまま、私の手を強く振り払った彼の姿を思い出すたびに、耐えきれないほど激しい痛みが胸を襲う。
いやだ。こんな悲しい思い出なんかじゃなく、もっともっと、彼との楽しい思い出は他にいっぱいあるはずなのに。彼の笑顔だって目の前でいっぱい見てきたはずなのに。
すべて自業自得だってことくらいわかってる。自分のことしか考えていなかった私が、自分で撒いた種なんだとわかってる。いまさら後悔したって、取り戻せないことなんだってわかってる。
それでも……
勝手に溢れ出す涙を止めたくて、私はぎゅと強く目を閉じた。
翌日、私は学生時代の旧友たちと会ったりして、時間を過ごした。一人一人とは、盆暮れ休暇に会ったりしていたが、今回は私の送別会ということで、当時の仲間たちが声を掛け合って集まってくれた。
昼間から、ちょっとしたプチ同窓会みたいになって、昔話で盛り上がった。部活の思い出、みんなで嫌っていた先生の話、女子生徒に大人気だった先生の話……
「岸川先生、TOKIOの松岡君にぼれえ似とるって人気あったよね」
「うんうん、ぼれえ人気あった。バレンタインの時とかお祭り状態じゃったよね」
「先生の机の上がチョコでいっぱいで」
「車の後部座席に段ボールを積んで帰っとったもんね」
「あっそういや……」一人が私に目を向けた。「あんたジャニーズにハマっとらんかったっけ」
まさか話がそこに飛ぶとは。
「そうそう、ハマっとった。Kinki Kidsのファンクラブに入っとったじゃん」
「今もまだファンクラブ入っとるん?」
「いや、今は入っとらん……」
口の中が乾いたような気がして、急いで水を口にした。
「あ、もう卒業しちゃった?」
「ていうか、今はやっぱりジャニーズといったら嵐じゃろ」と、誰かが言うと、 「私、嵐のファンクラブ入っとるよ」と、もう結婚して子供もいる友人の一人が手を挙げた。
みんなの顔が一斉に、彼女の方を向いたので、私はちょっと安堵した。
「マジで?!」
「なにそれ。コンサートとか行っとるん?」
「行きたいんじゃけど、ひとっつもチケット取れんの。今年も大阪落選しちゃった」
「あんた子供いるのに、大阪まで行くん?」
「それか福岡」
「子供はどうするん?連れていくん?」
「旦那とお母さんが面倒みてくれとるけ、大丈夫」
「羨ましいなあ。いい旦那さんじゃない」
「うちの旦那じゃ、そんな行かせてくれんよ」
「コンサート、楽しい?」
「うん、ぼれえ楽しいよ。あれはハマる」
私は、作り笑いを顔に張り付けたまま、黙って友人たちの話を聞いていた。願わくば、このまま嵐の話だけで終わってほしかった。でも、最近テレビによく出ている彼らの話題が上がってくる可能性は高い。こんなところで、彼の名前を耳にしたくはなかった。私は、他の話題を探して振ってみた。
「そういえば、一美。宮原とはどうなったん?この前の同窓会で、二人盛り上がっとったじゃん」
「そうじゃ、どうなったん?」
「聞きたい?」
「うん」
「あのね、結婚、することになった」
一美の一言で盛り上がる友人たちの中で、私は、一人ホッと胸をなでおろしていた。一か八かの振りだったが、みんなの話題はジャニーズから完全に逸れてくれた。
結婚式での再会を約束しながら、私は友人たちと別れた。車をパーキングから出す前に、私は携帯を見た。メールの受信も電話の着信も、彼からは何も来ていない。
私とは話をしたくない、そういうことなのか。
先にパーキングを出る友人たちが、手を振っていることに気づいて、私は慌てて手を振った。
最後に車を出そうとした時、メールの着信音が鳴った。急いで受信BOXを開いてみたら、それは田宮からのメールだった。
(もうすぐだね。パリには何時に着く?迎えに行くよ)
私は返信もせずに、携帯をバッグの中に放り込んだ。
もう、自分の中でけりをつけるべきだった。パリに行ってしまえば、彼の名前を見ることも、彼の姿をテレビで見ることも、ラジオで声を聞くこともなくなる。仕事に追われているうちに、時が経てば、彼を思い出すこともなくなるはず。
ハンドルをきって車をパーキングから出した。車内に差し込む午後の陽射しが暖かい。このまま自宅に帰るのがもったいないほどの晴天だった。せっかくだから、ちょっと遠出してみようかな……
と、その時、携帯が鳴った。今度は電話の着信音だった。どうせ、友人の誰かが言い忘れたことがあるとかなんとか、そんな電話だろうと放っておいた。ちょうど信号が赤になったところで、まだ鳴っている携帯を取り出した。
液晶に出ている名前を見た途端、携帯を思わず握りしめた。ずっと待っていたはずの電話なのに、思いが強すぎて白昼夢でも見ているのかもしれないと、私は食い入るようにその名前を見つめた。携帯は鳴り止まない。胸が震えて、携帯を持つ手が震えた。電話に出ようとした時に、後ろの車がクラクションをさかんに鳴らしていることに気づいた。
電話が鳴り止まないようにと願いながら、信号を通リ過ぎてすぐに、路肩に車を止めて電話に出た。緊張からか、もしもしという声が上ずる。あっという小さい声が聞こえて、しかしそれ以上何も聞こえてこない。電話を切られると思った私は「きみ君。お願い、切らないで」と早口で言った。
― 切らんよ。俺のほうからかけてんやから。
いつもの彼の声が返ってきた。緊張していた心が、その声でほぐれていくのがわかる。
― おまえ、どこにおるん?
「実家」
― おん。福山やろ。
「うん」
― 俺……俺、どっち行けばええんやろ?
「え?」
― 釣竿みたいなん持ったお爺さんの銅像がおんねんけど……
思わず声をあげそうになって、私は口を押さえた。心臓が早鐘のように鳴りだした。
― なんやこれ、ご、ご、ごうら?つりびと?つりじん?
間違いない。彼はこの福山に来ている。泣き出しそうになりながら、私は言った。
「きみ君、そこ動かんといて。いますぐ行くから」
私は携帯を切って、アクセルを強く踏み込んだ。
To be continued
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ピアノの練習をサボって、短編書いてた管理人です…
明日、午前中からレッスンなのに。ヤバイぜ。ちょっと早起きして練習しようかな
でもね、東京ドームの公演が始まる前に、なんとかこの連載を終わらせたいんですよ。
次回が最終話となりますけども、この4話でなんとなく終わりが見えちゃいましたかね(笑)
でも、まあ、それでも最後まで読んでいただいて、お気軽に感想などいただければと。
実は「Loving YOU」をいったん終わらせようと思って、今回この連載を書き始めました。
恋愛もので、愛し合ってる二人を書くのって、だんだんネタが尽きてきちゃうと、似たような話になっちゃうんですよね。
かといって、ドラマみたいに、彼のことが好きな他の女子を出して三角関係とか、そんなんライバルがいるなんて、書くのにテンション上がらんし
あ、ただし逆はOKね。2人の男性から愛されてるとか、超テンション上がるやん(笑)
なにしろ、もともとの発想が「妄想」ですから。楽しい妄想を膨らませて書いてるわけやから。
いまはちょっと悩んでます。
書かないって決めたら、また書きたくなるような気もするし。
それに、札幌、福岡、ライブでの横山さん見てたらね、やっぱり、まだまだ彼と『妄想の中で』イチャイチャしてたいなーって思うし。うん。マルちゃんになんか負けてらんないですよ(笑)
まあ、とりあえず最終話、16日までには仕上げられるように頑張ります。
16日まで…
いや、東京ドーム公演が終わるまでに仕上げられるように頑張ります(笑)
ところで、3話、4話と「彼」の出番が少なくて、それを楽しみにされていた方にはほんと申し訳ないと思ってます、はい
<1話> <2話>
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11月、パリは晩秋から冬へと向かう季節でありながら、プランタンやギャラリーラファイエットなどの百貨店を筆頭にクリスマスのディスプレイで街中が彩られ、シャンゼリゼなどの大通りはイルミネーションで輝き、ひときわ華やいだ雰囲気に包まれる。
クリスマスモードなウィンドウディスプレイが目を引く高級ブランドショップが立ち並ぶモンテーニュ大通りを職場に向かって歩きながら、私は仕事の電話を2本終わらせた。
パリでの生活が始まってほぼ3週間。とにかく、仕事を覚えて慣れるだけでいっぱいだった。仕事は広告代理店業務なので、日本でやっていた仕事とほぼ同じなのだが、仕事の進め方が微妙に違っていたり、日常生活に困らない程度には出来るフランス語も、仕事で使うとなると勝手が違った。初めて耳にする言葉に何度も戸惑ったりつまづいたりしながら、近頃ようやく慣れてきた。それに、クライアントは日本の企業ばかりで、日本語でのやり取りが多く、仕事そのものがやりにくいということはない。
ヴィトンショップのウィンドウに並ぶ新作に足を止めた時、携帯が鳴った。私はバッグから取り出すと、相手を確かめずに出た。
「Allo.Je suis…」
― 俺だけど。
田宮だった。私をパリに引っ張ってきたきっかけを作った張本人。
「なんだ」
― なんだはないだろ。どう?もう慣れた?
「まだ1ヶ月も経ってないのに慣れるわけないでしょ」
― マイコさんからは『優秀な人を紹介してくれてありがとう』って言われたけど?ちゃんとやれてるんだろ?
「そんなのリップサービスでしょ」
― 前にも言ったけど、マイコさんはお世辞とか言わない人だよ。
それは確かにその通りだった。私の直属の上司であり、会社の社長でもある小暮マイコは、いつでも思っていることをそのままストレートに言う。非常にわかりやすいが、聞いているこちらがビックリしたり、焦るような発言も時にある。しかし、海外でビジネスをするということはこういうことなのだと、彼女の仕事を間近で見てあらためて思う。思っていることをハッキリと口に出す、それは私にはまだまだ真似の出来ないことだった。
― ところで、今日久しぶりに夕食を一緒にしないか。
「どうしようかな」
― 断るなよ。サヴォア予約したんだから。
「何時?」
― 8時。
「奢り?」
― 今日はね。君と二人だけだし。
それじゃ喜んで、Merciと電話を切りながら、田宮に小暮マイコと初めて引き合わされた時を思い出した。
あの日、田宮と二人、ルーブル美術館から向かったレストランで、先に席に来ていた彼女を紹介された。年は40代前半くらい、小柄で華奢な体型だが、動作や話し方が生命力に溢れていてパワフルだった。てっきり田宮に年上の恋人ができたのかと思っていたら、彼女は、私の今の会社での仕事内容を事細かに聞いてきた。
なんだか面接を受けてるみたい……と思いながら答えていると、最後にいきなり、自分の会社で働いてみないかと誘われた。
最初はパリ流の冗談だと思っていたら、彼女が具体的な仕事の内容や就労ビザの話、パリでの住まいの手配まで、細かな話を進めてきたので、これは冗談などではないのだと気づいた。
「じつは共同経営者が、11月から産休に入ることになってね。まあ経営者と言っても、うちは小さい会社だから、トップ自ら営業にまわったり動いてるの。だから彼女の代わりが務まるような即戦力になれる人材を探していて。条件1、クライアントは日本人だから日本的な機敏がわかる日本人が望ましい。条件2、かつ広告代理店の業務に慣れた人。パリ在住の日本人はけっこういるけど、私が求める人材がなかなか見つからなくって。それで、誰かいい人知らない?って、ウチの上客である田宮さんにお願いしてたというわけ」
まさかこんなに早く紹介してもらえるとは驚きだったわ、と小暮マイコは私が入社するものだと決めつけているようだった。
「あ……でも、今の会社をすぐに辞めるというわけには……」
「そうね。仕事の引き継ぎもあるでしょうし」
いや、これはそれ以前の話だ。そもそも転職自体考えてもいないのだから。
「すみません。私、転職なんて考えてもいないんです。今、初めてこの話を聞かされたので……」
戸惑った顔を田宮に向けたが、彼は口元に微笑を浮かべただけで何も言わない。そして返ってきた小暮マイコの言葉に私は驚いた。
「それは知ってる。あなたと実際に会って話をして、もし気に入ったら頑張って自分で口説いてくれって、この人に言われたの」
小暮マイコは田宮を指差して、私の方に身を乗り出した。
「ねえ、明日、会社に来てみない?実際に見てもらうのが一番だと思うから」
「でも……」
「今、あなたが所属している会社はあなたのキャリアにこれからも必要?」
「キャリア……」
「私の下で働けば経営学も学べるわよ。小さい会社だもの。仕事に制約なんてないから、あなたが思うように動いてみればいい。どんな仕事だって会社とそしてあなたを成長させるチャンスになる。ねえ、自分がどこまで出来るか、チャレンジしてみたくはない?」
彼女のパワフルな語りに圧倒されて黙ってしまった私を見て、田宮が静かに言った。
「君自身の人生の選択だからね。後悔しないようによく考えたらいいよ」
「でも時間はないのよ。ここに滞在している間に答えを出してほしいわ」
彼女は田宮の腕をポンと叩いた。
「明日、彼女をウチに連れてきて。頼んだわよ」
翌日、私は田宮と一緒に朝から彼女の会社を訪れて、産休に入るという共同経営者のミサさんと会い、仕事の内容を具体的に聞かされた。そして午後からは小暮マイコに連れ回され、彼女の仕事を目の当たりにしたのだが、現場を見ているうちに私はすっかりこの仕事に魅せられてしまった。再び夕食を共にする頃には、私はその場で雇用契約を交わしてもいいような気分になっていた。
「それじゃ11月から働けるかしら?」
小暮マイコの問いに、何の躊躇いもなく私は、ええもちろんと頷いた。
今抱えている仕事の引き継ぎは何とかなるだろう。この会社のように一人体制でこなす仕事は少ないし、私の仕事をサポートしている後輩二人に引き継げば問題ない。それから退職手続きと、今住んでいるマンションを引き払って……
その時、部屋の合い鍵を渡している彼のことを思い出した。
「ところで、あなた恋人はいるの?」
まるで、私の気持ちを見透かしたような彼女の質問に私は慌てた。わかりやすく顔に動揺が出ていたのかもしれない。彼女がわかった、というように頷いた。
「遠距離恋愛になるけど覚悟は出来てる?」
遠距離恋愛……というには日本とパリではあまりに遠すぎる。
黙ってしまった私を見て、マイコさんは大丈夫よ、とケラケラ笑った。
「一生戻れないわけじゃないんだから。うちは夏のバカンス休暇もクリスマス休暇もちゃんとあるわよ。安心して」
でも、その休暇と彼のオフが合うかどうかはわからない。だいたいクリスマス休暇の時なんて、年末の歌番組にライブ、加えて正月の特番撮りなんてあったら多忙を窮めているはずだ。
しかし、彼と離れて暮らすということがどういうことなのか、この時、私はまだちゃんと理解していなかった。新しい仕事への関心で気持ちが高揚していて、自分の決断を彼も喜んでくれるはず、と楽観視していたのだ。
日本に帰国後、会社へ出した退職願いは、多少の混乱と動揺を招いたが、今年から複数人体制で仕事をするようにしていたおかげで、仕事の引き継ぎはそれほどの手間はかからなかったし、退職までの手続きも人事部の指示通りに必要書類を整えたりして、比較的スムーズに進んでいった。
就労ビザなどパリの方の手続きは小暮マイコが手際よく進めていて、こちらはすべてお任せだった。
部屋の整理も、パリに持っていくもの、実家に戻すものを少しずつ分けたりして、時間があまりないのにも関わらず順調に準備は進んだ。
ただ、簡単にはいかなかったのが、彼への説明だった。
帰国した日に会ったあの時、結局、私は話を切り出すタイミングに迷って、彼に何も言えなかった。それ以降、彼とは会えない日が続き、その間にも移転の準備は着々と進む。ついに部屋を引き払う日が1週間後に迫って、私は焦りだした。
「ええっ!まだ話してないの?」
有給休暇の消化で休みを取って、行政的な手続きを済ませた後、気分転換に美術館へ行った帰り道、私はオープンカフェで美奈子と待ち合わせた。
美奈子は、私が彼にパリ行きの話をまだしていないことを聞いて、呆れたと首を何度も振った。
「ちょっとおかしいって。いまのこの時点で彼に言ってないなんてありえない。誰よりも一番先に話すべきでしょう?何を恐れてるの?」
「別に恐れてはいないけど……」
「じゃあ何で話さないの?」
「タイミング……」
彼女は顔の前で手を払うように振った。
「意味不明。あなたが言えないなら私から彼に話そうか?」
私は首を横に振った。
「大丈夫。今日の夜、会うことになったから」
「あら、そう」
美奈子はコーヒーカップの縁を指でなぞった。
「部屋で?」
「うん」
「びっくりするでしょうね。部屋の中が片付いてて」
美奈子の指が止まった。
「ベッドルームはどうなってるの?」
「そのままにしてある」
彼が私のためにリメイクしてくれた寝室は、最後まで手をつけることが躊躇われた。ここだけは、彼が何も知らないうちに動かすようなことはしたくなかった。
「そう」
また美奈子の指がカップの縁をゆっくりとなぞり始める。
「どうするの?」
「ベッド以外はパリに持っていこうと思ってる」
「そうなんだ」
「何?」
「何が?」
美奈子と私の視線がぶつかる。
「何か言いたいことがあるみたい」
美奈子が先に視線を外した。秋の穏やかな日差しが、彼女のパステルカラーのワンピースに柔らかな光と影を作っている。
「つまり、パリに行っても、彼との関係を続けるつもりなんだ」
私は美奈子の言葉の意味がわからず、首を傾げた。だって、彼を嫌いになったわけじゃない。離れて暮らしても彼への想いは変わらない。
「遠距離恋愛してる人なんて、この世にたくさんいると思うけど?」
「なるほどね。彼も自分と同じ気持ちだと思ってるんだ」
どういう意味だろう。
「ねえ。もし彼から遠距離恋愛は無理だ、と言われたらどうするの?離れて何年も暮らすくらいなら別れよう、彼がそう言うかもしれないとは考えなかったの?」
私は言葉を失った。美奈子の言葉にショックを受けたわけではない。ずっと自分で気づかないフリをしていた、自分自身の真の気持ちを言い当てられ、目の前に突きつけられたからだった。
そう。ここに至るまで、彼にパリ行きを言えなかった理由はまさにそれだった。パリで生活すると言った途端に、彼から別れを切り出されたらどうしよう。考えるだけで胸がかき乱され、息が止まりそうになる。とても耐えられそうにない。
美奈子は小さなため息をついて、私を上目遣いに見た。その眼差しには私を憐れむような表情が浮かんでいる。
「やっぱりあなたって自分のことしか考えてないのね。だから大切なことをいつまでも彼に伝えなくても平気な顔してられるのよ。こんな間近になって、ずいぶん前に決まってた恋人の決断を知らされる彼の気持ちはどんなものかしらね」
美奈子はゆっくりと視線をコーヒーカップに落として、呟いた。
― もし、私が彼の立場だったら、自分は彼女に必要のない存在なのかもって思っちゃうな……
眠りが浅かったのかもしれない。不意に明かりと人の気配を感じて、私は目を開けた。
「おはよう」
彼の笑顔がすぐ目の前にあった。私は瞬きした。
「……朝?」
「ちゃうよ」と彼が笑う。
「ゴメン。起きて待ってたんだけど、寝ちゃったみたい」
ソファーから起き上がった私の隣に彼が腰を下ろして、私の首の後ろを揉んだ。
「疲れてんとちゃうか。秋はイベントいっぱいあって大変やろ」
「うん……」
思わず口ごもった。実質、もう仕事はしていない。
「なあ、おまえ……引っ越すんか?」
「えっ?」
彼からいきなり核心に入ってきて、私は焦った。きっと、そこらじゅうに置いてある段ボールを見て、思い至ったのかもしれない。
私の首を揉んでいた彼の手が離れて、私は彼の顔を見た。さっきまであった笑顔はそこになかった。彼の横顔にさしている影に胸を突かれて、心がざわめく。
「俺、アホやけど……」
「……」
「多少の英語はわかるで」
彼が何を言おうとしているのか、わかった。荷物を分けるときに間違えないように、と気をつけたことが、逆に彼に気づかせてしまった。
「段ボールに書いてるやろ。『実家』はええよ、わかるよ。だけど、『PARIS』って何やねん」
「……」
「あれ、パリって読むんやろ。俺かて分かるわ」
彼がゆっくりと視線を私に向けた。私を見つめる彼の目に動揺が見え隠れする。
「おまえ……パリに行くんか?」
私は黙って彼を見返した。肯定も否定もしないで、唇をぎゅっと引き結んで、彼を見た。その問いの答えに「NO」はない。でも、「YES」という答えは言葉にすることが出来なかった。何も言わない私に、彼はおのずと答えを出したようだった。
「いつ、決まったん?昨日今日の話やないやろ。この前、パリから帰ってきた時には決まってたんか?」
彼の声がかすかに震えている。美奈子の言うとおりだった。私は彼を傷つけた。独りよがりな思い込みで勝手に動いて、彼の気持ちを一切考慮することなく無視したのだ。
「……ずっと言わなきゃって思ってたの。でも、なんかどうしても言えなくて……」
「いつから行くん?」
私は息を小さく吸ってから、答えた。
「今月末……」
「今月末?」
おうむ返しのように言ってから、彼は両手で顔を覆った。くぐもった声で、なんやそれ……と呟くのが聞こえた。
「ごめんなさい……」
彼の気持ちに寄り添いたくて、手を伸ばして彼の肩先に私の指が触れた時だった。「ちょっやめてくれんか」と、彼がその肩で私の手を振り払った。
付き合って以来、彼からこんなにもハッキリと「拒否」されたのは初めてだった。そんな彼の反応に、私は怯え、まるで蛇に睨まれた蛙のように、身も心も縮こまってしまい、言葉も失い、ただ彼を見つめることしか出来なかった。
顔を両手で覆ったまま、彼はしばらくじっとしていたが、帰るわ、と一言だけ呟いて、私の方を見ることなく立ち上がった。
立ち去る彼を、私は追いかけることすら出来ずに、彼が座っていた場所を茫然と見つめ続けていた。
To be continued
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めっちゃ久しぶりの連載です。
本当はツアーが始まる前に終わらせる予定だったんだけど、なんだかね(笑)
最後に2話を書いてから、1か月以上も空けてしまいました。ひどいですねー
改善策として、スマホで短編をサクサク書く方法を探さないと。
あれかな、小さいキーボードみたいなんがあるといいんだけど。
それか、iPADを買うかなあ。
この連載ですが、、頭の中ではもうラストまで話は出来てますので、東京ドームまでには話を終わらせます。
さて。「彼」と「私」はどうなるんでしょうかね。
なんだかんだあっても、どうせハッピーエンドなんやろと思わせておいて実は…
となる可能性もないわけじゃないです。
続きをお楽しみに。
あ、仕分けのアムロ横山、ステキでしたねー
てか、ヒナちゃんがシャアって(笑)
レコメンコンビ、むちゃ美味しすぎるわー
目を覚ました時、部屋の暗さに驚いて、私は飛び起きた。
いったい今、何時なんだろうと、暗い部屋の中、慌てて時計のある壁の方を目を凝らして見る。時計の針は1時半過ぎを指していた。午後の1時ということはない。成田に着いたのが午後2時を回っていたのだから。
寝ていたソファーから立ち上がった時、携帯が点滅していることに気づいた。彼からの着信履歴とメールだった。
(おかえり。電話出ないからメールした。今から行くけど大丈夫?)
着信にもメールにも気づかないほど、深く眠っていたということか。彼のことだから、返信がないことをOKと解釈するに違いない。浜松町のラジオ局からここまで、彼はいつもタクシーで来る。そしたらここに着くのは……
と、ようやく思考回路が回り始めた時、玄関のドアの鍵が開く音が微かに聞こえた。私は頭で考えるより先に、ドアに向かって走っていた。
まさかドアの前に私が来ていると思ってもいなかったのだろう。びっくりした様子の彼に私は思いきり抱きついて、ただいまと言った。彼の首筋から香る懐かしい彼の匂いに、私の体の奥の深い場所が熱くなる。そして、彼の手が私の背に触れるのを感じた途端、まるで熱病にかかったみたいに腰から下の力が抜けた。
「どしたん。びっくりしたで。電話にもメールにも返事ないから、俺、てっきり寝てるて思てた」
「いま起きたの」
「ふうん、なんか感じたん?」
「来る予感?」
「せや」
「予感はなかったけど、なんか起きてしまったって感じ」
「しまったってなんやねん」
久しぶりに至近距離で耳にする彼の笑い声に気持ちがホッとなごむ。ああ、そうか。これからは、もうこんな気持ちも味わえなくなってしまうのか・・・
「なあ」
「ん?」
「お姫様抱っこしたろか」
「えっ」
いきなりで驚いたのと可笑しいのとで、リアクションに迷った私は声を出して笑って彼の顔を見上げた。そんな私の反応に、彼が怒ったような顔で横をぷいと向いた。
「なんや、俺がやったら可笑しいんか」
「だって、そういうことはわざわざ言わないでやるもんでしょ。サプライズ的に」
「せやけど急にやったら、おまえ、なにすんねんて暴れるやろ」
「私、そんな可愛げのない女じゃないですけど」
そっか、と彼が体勢を変えた次の瞬間、私の足は宙にふわりと浮いていた。
「ねえ、腰、痛めるよ」
「おまえ、ホンマに可愛げないな」
「腰痛持ちさんだから心配してあげてんのに」
「俺の男としてのプライドが傷ついたわ」
私はゴメンねと謝る代わりに、ふてくされ顔の彼の唇にキスをした。
背後から彼の腕が私の身体を引き寄せる。私はその腕にそっと自分の手を添えた。
イランイランの甘い香りで満ちた部屋は、間接照明の薄灯りで四隅の壁がぼんやりと光っている。ようやく静まったお互いの息づかいを耳にしながら、私は闇に浮かぶ淡い光の輪を見つめていた。
『あのこと』を彼に話さなければ。ただこのタイミングで話すのが、果たして適切なのか分からなかった。でも、これからさらに多忙になる彼と、面と向かって話が出来る時間がどれだけあるだろう。
「ねえ」
「うん?」半分眠そうな彼の声が返ってくる。
「今、やっぱり忙しい?」
「せやな。これでヒマやったら、俺ら終わりやろ」
そうだね、と笑った私を、彼がぎゅっと強く抱きしめる。
「なあ、俺とあんまり会えんくなって寂しいんちゃうか?」
「でもそれは仕事やから。我慢出来るよ」
「おまえ、ホンマにそう思っとんのか。本当は寂しいんやろ。さっきいきなり抱きつかれてようわかったわ」
「私、寂しいオーラ出してた?」
「めっちゃ出しとったで」
「やだ。ちゃんと隠したつもりだったのにな」
端から見たら、益にも実にもならない、箸にも棒にもかからない、他愛のない会話だ。でも、そんななんでもない時間が、私にとっては、何ものにも変えられない、かけがえのないものだった。そのことを、今、思い出した。目に見えない時間という感覚は、形のない分、忘れやすいものなのかもしれない。だから、いとも簡単に手の中から砂塵のように零れ落としてしまう。
私は彼の腕の中で体を回して彼の方に向き直った。話があるの、と言いかけたとき、
「なあ、どこに来るん?」
彼の笑顔が目の前にあった。音にならなかった言葉が行き場を失って、私の胸にチクリと刺さる。
「え?」
「ドーム。東京?大阪?」
「うん……」
「名古屋は?恋人たちのクリスマスイブやで」
「うん……でも、まだ結果出てないから……」
「そうなん?俺そういうことよう知らんから」
「行ける所には行きたいと思ってるよ」
行ける所……しかし、もし当選したとして果たして行けるのだろうか。パリに行く前と後では、事情がすっかり変わってしまった今となっては。
「あのね……」
「今度のアルバム、めっちゃええで」
「もうレコーディング終わったの?」
「いや、まだやけど、でもこの段階で最高やなって思うねんで。多分、おまえ好きなんちゃうかな」
「今までのアルバムも好きだよ」
「そらそうや。それはそれとして今回もええ曲が揃ってんねん。すごい人たちに楽曲提供してもろてるしな」
「誰に?」
「それはまだ言われへんな」と、ちょっと誇らしげな笑顔で言う。
仕事の話を楽しそうに語っている彼を見ていると、本当にこの仕事が好きでたまらないんだろうなと思う。そんな彼が誰よりも大好きで、そんな彼をいつまでも隣で見つめていたい、ずっと、これからもずっと、それは変わらないと、そう思っていたのに。
もしかしたら、私は取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。あの時は前向きな気持ちで決めたはずなのに、今は後悔と不安というマイナスの感情に押しつぶされてしまいそうだった。
「そういやおまえ、さっき何か言おうとしてたやろ」
まさか、彼の方から話を振ってくるとは思ってもいなかった。私は動揺を悟られないように、思わず目を伏せた。そんな私の態度を、彼は違う意味にとったようだった。私の肩を引き寄せて耳元で囁いた。
「なんや、もう一回してほしいんか」
勘違いもいいところで、いつもなら笑いだしてしまうはずなのに、今の私はとても笑う気にはなれなかった。むしろ、それでいい、と思った。
彼とのすべてを自分の中に留めておきたかった。それが、時の流れとともに薄れていく儚い記憶だとしても。何度もキスを交わしながら、私たちは再び、目がくらみそうな時間の中へと重なり合って落ちていく。
この時間が終わるまで……でも、終わったら彼にちゃんと伝えなくては。
もうすぐ、日本を離れることを。
そして、パリで新しい生活を始めるということを。
to be continued...
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
みんな、自分が誰よりも一番、担当さんを大好きやし愛してるしと思ってる。
昨日のレコメン、聴いてておかしかった。でも、なんだかキュンとした。
短編の「私」も「彼」のことを誰よりも愛してると思うし、「彼」も「私」を愛してる・・・と思いたい(笑)
さて。とどのつまり、私はこの二人をどうしたいんでしょうかね。
こういう展開の時の書き方はどういうのがいいのか、よく分からなくて、ちょいちょい何かを匂わせながら、次の展開で種明かしみたいな感じにしてみると面白いかな?と思って書いてみたんだけど、読んでる方からすると、どうなんでしょうかね。
私は背景を知ってるので、「私」のモノローグの意味が分かるけど、読者からすると独りよがりな唐突な感じを受けるんでしょうかね。
奥歯にモノが挟まったような言い方というか、これで読者の方をストーリーから置いてけぼりにしてしまっていたら、ごめんなさい。
まあ、最後の2行で種明かしみたいになってますけども、パリで「私」に何があったんでしょうね。
ちなみに、私はパリでもマラケシュでも、なーんもなかったですけど
1話でも言いましたが、今回の連載はいつもと違って、ラストをどうするか全然決めてないんですよね。
話の展開もまったくノープランです。なので、作品としては、かなり「雑」です。そんな「雑」な作品を堂々とお披露目したりしてすみません。
今回は、ちょっと二人をイチャイチャさせてみました。というのも、次の展開が頭の中にぼんやりとあるのですが、たぶん彼との甘い日々はこれが最後・・・になるかもしれない・・・いや、自分でもわかりませんけど
でも、ラブシーン、小説なのにシーンという言い方でいいのかな?毎回、こういう場面をどこまで書けばいいのかなと悩みます。ぶっちゃけ、横山さんがベッドの中ではどんな感じかなんて知らんし。まあ、逆に知ってたら問題やけど(爆)
ただただ、大好きな彼のイメージを壊さないように、名誉棄損で訴えられない程度に、ちょっぴり冒険しながら、楽しんで(?)書いてます。
いやホンマに、妄想って楽しいですねー
というわけで、言い訳ばかりですが、お気軽に感想をお聞かせください
美術館から出ると、抜けるような青い空から真昼の日差しが眩しく降り注いでいた。
まるで初夏のような暖かな空気に包まれて歩きながら、しかし、首もとをなぶる風が季節は秋だと告げている。
早くクローゼットの衣替えをしなくっちゃと思いながら、私は美術館から続く公園内を駅へと向かった。
9月半ばに訪れたパリも、サマータイムの時期ではあったが朝晩は涼しく、街や公園の木々から道行く人々のファッションまで、すでに秋の装いで彩られていた。
パリの旅を満喫していた私に、彼から電話が掛かってきたのは、夜間開館のルーブル美術館で鑑賞している時だった。
せっかちに震える携帯を手に、ギャラリーから慌てて回廊に移動しながら、この旅のことを彼に伝えずに来てしまったことを思い出した。
出発日が近づいたら話をするつもりだったのだが、11月からのドームツアーとアルバム発売が決まり、レギュラー番組も増えて、今まで以上に忙しくなった彼とすれ違う日が続いた。それならメールか電話で話せばいいのに、面と向かって伝えることに、私はこだわっていた。そして気がついた時には、出発の日を迎えてしまっていたのだった。
電話に出ながら、今、日本は何時なのだろうと考えた。
「もしもし……」
— おまえ、いま何しとるん?
いきなり核心をつく質問が耳に飛び込んでくる。
「いま?」
美術館という場所もあって必然、声が小さくなった。
「いまは……」
そうだ。この時間、日本は深夜だ。木曜日と金曜日の間の。とすると、レコメンが終わったくらいだろうか。真実を言っても嘘を言っても、やぶ蛇になりそうで私は返事に詰まった。
— 答えにくい質問やったな。俺が悪かった。質問変えるで。いま、どこにおるん?
私は吸った息をゆっくり吐き出しながら、わずかに残った息に乗せて、美術館と小声で答えた。
— へえ。こんな夜中の2時過ぎにやっとる美術館があんのか?じゃあ俺も今からそこ行くわ。
「……パリの美術館……」
沈黙。
ややあって、彼が小さなため息と共に言葉を吐き出した。
— 知っとるわ。おまえんとこのカレンダー見て、さっき初めて知ったけどな。矢印引いてあってパリて書いてあったわ。
彼の声を聞きながら、気持ちが沈んだ。それを見た時、彼は何を思ったのだろう。私はただ、ごめんなさいとしか言えなかった。
— そんなん謝るくらいなら黙って行くなや。
「話そうって思ってたんだけど……」
忙しくて会える時間がなかったことは言い訳にはならない。それでは、彼を責めることになってしまう。ちゃんと伝えなかったのは、私の責任だ。
本当にごめんなさい、ともう一度言いながら、遠く離れた場所から電波を通して伝える謝罪の言葉は、気持ちの表面だけをなぞったように軽すぎる気がしてならない。
彼は、もうええよ、と呟いた。
「……ねえ、怒ってる?」
— 怒ってへんよ。俺、そんな立場やないし。
立場……その意味する所を考えようとした私の意識を遮るように、また彼の声がした。
— 一人?
「えっ?」
— また一人なん?
それは今回に限って言うと、デリケートな質問だった。思わず胸がざわめいた。
「うん……一人だよ」
— そっか。
携帯越しに広がる『間』が、底なし沼のように不安を掻き立てる。
一人、というのは嘘ではない。一人旅であることは事実。ただ、旅先で一人でいるとは限らない。私は肩越しに後ろを振り返った。
『彼』はミケランジェロの彫刻の前で、ルーブルの館内案内カタログに目を落としていた。電話に出た私の様子から、相手が誰だか気づいたのだろう。こちらを見る素振りさえ見せない。
— ごめんなあ。
「えっ?」意外な言葉に、私は聞き間違いかと携帯を耳に押し付けて、『彼』に背中を向けた。
— 俺がずっと忙しくしてるから、またおまえを一人で行かしてしもうて。
「でもそれ、きみ君のせいじゃないから……」
— そやけど、もしも俺に休みあったら、一緒に行かん?て言うたやろ?
「……うん」
頷きながら想像した。彼と2人で歩くパリ。アパルトマンを借りて2人で暮らすように過ごすパリ。何度も訪れて見慣れた景色が、違って見えるような気がする。本当に彼に時間があったら……
— そやから成田まで迎えに行こう思ったんやけど、今回は迎えに行けへんわ。この日仕事あるねん。ホンマごめん。でも、夜やったら行けるから。
「忙しいのにそんな無理しなくていいよ」
— 無理やないって。ホンマ無理やったら、俺、最初から行かへんもん。
「そっか」
思わず笑いがこぼれた。無理してでも行く、とは言わない彼の正直さが好きだった。
— それやったら、おまえの方が疲れてんちゃうか。もしアカンかったら、俺行かへんからちゃんと言うてな。
「わかった」
ううん、会いたい、会いたくてたまんないよ。アカンことなんてないから。だからぜったい来て。お願い。
だけど、その本音は心の中で唱えただけで、相手に伝わる言葉にはならない。
— じゃあ……
「あ、もう切るね。お仕事頑張って」
— おん。おまえも旅行楽しんでな。
邪気のない素直な彼の言葉に、胸がチクリと痛む。電話を切った途端に、知らずため息が漏れた。
振り返ると、『彼』、田宮裕はミケランジェロの名作『瀕死の奴隷』を見上げていた。私の電話が終わったことに気がついていないのか、あるいは気づかないふりをしているのか、彫刻から視線を離さない。
「待たせちゃってごめんなさい」
近づきながら声を掛けると、田宮は気にしてないよと笑顔で言ってから、「これ」と目の前の彫刻を指差した。
「なに?」
「1年前、君にフラれた時の俺」
思わず吹き出した。笑ってから慌てて口を押さえた。
「ゴメン。笑うとこじゃなかった?」
「いや、正解。笑ってくれなかったら、その後のフォローに困るとこだったよ」
田宮と軽口をたたきながら、1年越しに、それもパリで再び私を見つけた彼はどう思ったのだろうと考える。そして、どんな気持ちで私に声をかけたのだろうと。
昨日の午後。パリの住民を気取って、私は、普通の観光客なら足を伸ばさない20区にあるビュット・ショーモン公園を散策していた。公園の高台からパリ市内を見下ろす絶景を眺めていた私を、仕事終わりに公園内を走っていた田宮が見かけて声をかけてきたのだ。
「俺、疲れてて幻でも見てるのかと思ったよ」
呆然として声も出ない私に、彼は最後に別れたあの時とまったく変わらない、健康そうに日焼けした顔で屈託なく笑いかけてきた。
彼の笑顔を見つめながら、これは白昼夢などではなく現実なのだと悟ると、パリへの旅に猛反対した美奈子の、怒った顔が脳裏に浮かんだ。
「パリには田宮が駐在しているのよ。どういうつもり?もし会ったらどうするの?」と私を問い詰めた美奈子に、「たかだか1週間程度の滞在よ。出会うわけないって」と私は笑い飛ばしたのだ。
そもそも、パリ市内には公園が他にもたくさんあるというのに、なぜこんなマイナーな場所で再会したりするんだろう。
田宮は、こんな所に来ているのが、いかにも私らしいと言ったけれど。
そして気づけば、私は翌日一緒にルーブルを鑑賞して、食事をする約束を彼と交わしていた。
私たちは、苦しげな奴隷の彫刻から離れ、ミケランジェロ・ギャラリーに並ぶ名作の中を黙って回遊した。このギャラリーの一番最後に、私が大好きな彫刻がある。ミロのヴィーナスより、サモトラケのニケより、大好きな作品。
カノーヴァの『エロスの接吻で目覚めるプシュケ』。
周りに人がいなくなったのを見て、私は急いでその彫刻に近づいた。
ギリシャ神話の中でも、そのロマンチックなストーリー故に、古から芸術家たちの格好の題材として、絵画や彫刻などあらゆる作品に取り上げられてきた愛の神アモールと人間の娘プシュケの恋の物語。
運命のいたずらで恋に落ちて結ばれたアモールとプシュケ。だが、神である自分との約束を破ったプシュケを、怒りと悲しみから捨てるアモール。自分の前から消えてしまったアモールを探して、過酷な試練に耐えるプシュケだったが、うっかり眠りの箱を開けてしまい、永久の眠りについてしまう。その後、自分へのプシュケの一途な想いを知って戻ってきたアモールの口づけにより、プシュケは目覚め、二人は再び結ばれる……。
この作品は、まさにその目覚めの場面を描いた、カノーヴァの傑作だ。
愛するアモールを目にして、すがりつくように彼に手を伸ばしたプシュケの両腕の美しさ。プシュケを愛おしく見つめ抱きかかえるアモールの美しい姿。
宮殿の大きな窓から射しこむ光が、美しい二人の姿をさらに美しく乳白色に輝かせている。
その二人の間から、田宮の姿が見えた。ちょうど私の斜向かいに立って、同じ彫刻を見つめている。
あの日から約1年後、こうして田宮裕と再会したのは、偶然なのだろうか。
それとも、私が旅先をパリに決めた時から、再び会うように宿命づけられていたのだろうか。
そんなことをぼんやりと思いながら、まさかこの後、再び人生の決断を迫られる展開が待ち構えていようとは、まだこの時は夢にも思っていなかった。
To be continued
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
えーと、久しぶりの短編です
前に使っていた携帯のメールソフトで、ちょこちょこ通勤の合間とかに書いて、出来上がった作品をスマホのメールアドレスに送って、そこからブログに草稿をアップして、PCで仕上げて・・・という、超めんどくさいやり方でやっと出来ました(笑)
そして出来上がった作品は、<1話>ということで、そうですね、これも久しぶりの連載です。
しかも、またあの男を登場させてしまいました
そして今回は、この連載をどう終わらせるのか、まったく決まってません。
といっても、いろんなパターンの結末が頭の中にはあるんですけどね。
話の展開も、次の2話くらいまでは決まってるんだけど、その先どうするか決めてなくて、その展開次第で、結末が変わるんちゃうかなと。
彼との別れ、というのも結末の一つにあります。
うん。一つね。
あ、べつに彼との妄想に飽きたとか、他に好きな人が出来たとか、違う人で妄想してみたくなったとか、そういうわけではないんです
ただ、「別れ」から始まる何かもあるんじゃないかなと。
まあ、この話がどう転がるかは、自分でもようわかりません
もしかしたら、誰かの一言で、まったく違う展開になるかもしれないし。
登場人物たちが好き勝手に動き出したら、もう私の手に負えませんので、そのまま書いてみるだけです。って何言ってんだろね(笑)
さて。話は変わって、えむすてさんですが。
見てたら、ただただライブに早く行きたくなりましたね
頭の中で「モンじゃいビート」がずーーーっとリピってます
この歌、インパクトありすぎやで(笑)
でも振付が可愛くて、あうーもう早くライブで一緒に踊りたいいいい
てか、3時間の間、ワイプにいっぱいメンバーが映ってて楽しかったあ
横山さんはどこから見ても茶目っ気いっぱいでむっちゃ可愛い30ちゃいだし
ラルクは変わらずどこまでもカッコイイし(←なんだ突然)
とにかくライブに早く行きたーーーいっっっ
そろそろ来週あたりでしょうかね。
結果がわかるのは。
久しぶりに心臓がバクバクやなーカラダに悪いわー
夢か現か。彼に名前を呼ばれたような気がして、私は浅い眠りから呼び戻された。
私はゆっくりと目を開けた。蚊帳越しに、天井のシーリングファンが静かに回っているのが目に入る。
穏やかな寝息がすぐ近くから聞こえてきて、はっとした私は顔を向けた。
寝る時はいなかった相手が、朝起きたら隣で寝ている、なんてことはいまさら驚くことでもない。彼に合い鍵を渡してからは、今まで何度となくあったことだ。
けれど、ここのところ久しく会っていなかったこともあって、私は魅入られたように彼の顔を見つめた。まるで天使のような寝顔がほんの少し疲れて見えるのは、間接照明の灯りの加減だろうか。
春に短く切った髪はだいぶ伸びて、前髪が白い額に影を落としている。その柔らかな髪を指先でそっと触れながら、ぽってりとした彼の唇に吸い寄せられるように顔を近づけると、私が使っているシャンプーと石鹸の香りがして、私は小さく、あっと声をあげた。
パジャマの襟からのぞく白い首筋に口づけたい衝動を抑えて、私はベッドから滑るように下りた。
寝る前に読んでいた本が、サイドテーブルの上に置いてあるのが目に止まった。自分で置いた記憶はない。読みながらいつしか寝入ってしまった後、彼が気がついて置いてくれたのかもしれない。
最近は、部屋の風通しを良くするために寝室のドアを開け放していて、ドアの代わりに竹製ののれんで間仕切りをしている。音を立てないよう注意深く、のれんを分けて通ろうとした。それでも、竹同士が擦れ合ってシャランシャランと小さく鳴った。
私は、リビングの窓に近づいて、遮光カーテンを少し開けてみた。窓の外に広がる夜空が少し明るんで見えるのは、月が出ているからだろうか。
カーテンを広げて窓を開けた途端、蒸した外気が見えない壁となって迫り、湿り気を帯びた夜気が私の身体を包み込んだ。
ウッドデッキを敷き詰めたベランダに出ると、足の底に触れたデッキから、ひんやりとした感触が体を伝う。同時に、ほんの微かだが風を感じて、ふっと気持ちが和らいだ。街路樹を伝って運ばれてきた涼風は、ほんのりと樹木の香りをはらんでいる。
見上げた空には、都会のくすんだ空気を透過して儚げに星が瞬き、ゆりかごのような上弦の月が天空に浮かんでいた。
ベランダの手すりに寄りかかりながら、ふと頭に浮かんだ歌を口ずさむ。
Say, it's only a paper moon
Sailing over a cardboard sea
But it wouldn't be make believe if you believed in me.
Yes, it's only a canvas sky
Hanging over a muslin tree
But it wouldn't be make believe if you believed in me.
Without your love, it's a honky tonk parade
Without your love, it's a melody played at a penny arcade
It's a Barnum and Bailey world
Just as phony,As it can be
But it wouldn't be make believe,if you believed in me......
前に付き合っていた人が貸してくれたジャズのアルバムに入っていた曲だった。私より年上で大人なあの人は、古いジャズが大好きで、コットンクラブやブルーノートによく誘って……
「何の歌?」
彼の声が耳元で聞こえて、はっと振り返る間もなく、私は後ろから彼に抱きしめられた。背中から伝わる温もりに彼の存在をはっきりと感じて、私は足元から溶けてしまいそうな感覚にうっとりした。
「ごめん……起こしちゃった?」
「風で竹がシャラシャラ鳴ってたで。起きたら、おまえおらんし」
暑くて眠れなかったん?と聞かれて私は首を振った。
「たまたま目が覚めただけ。でも、起こさないように気をつけてたのに」
「なんやおまえ、起こしてくれよ。朝まで何もせんと寝てまうやろ」
そう言って、私を抱きしめる彼の腕にちょっと力が入った。そんな微妙な加減一つにも、いまの私は容易に心が乱される。
「で、今の何て歌?」
「イッツ・オンリー・ア・ペーパームーン。ジャズの名曲」
「ふーん。俺、ジャズとかよう知らんわ」
「私もそんな詳しくないよ」
「どんな歌なん?」
「どんな?」
「俺、英語わからへんし」
「……信じていれば、ウソもホントになる、みたいな」
「おまえ、それ略しすぎやろ。そんな短い歌やなかったで。俺が英語わからんからって馬鹿にしとるんちゃうか」
「そうじゃないって。But it wouldn't be make believe if you believed in me って、同じ言葉のリフレインなの」
「……日本語でなんて意味?」
「もう」堂々巡りの彼の質問に思わず吹き出してしまった。
「だから、『もしも私を信じてくれたら、紙で作った月も、ボール紙の海も、木にひっかけた油絵で描いた空も、どんな偽物だって本物になるのよ』ってこと」
「ほら、やっぱりな。なんやいっぱい意味あるやんか」
そう言って、何笑てんねん、と頭をこずかれた。笑ってないよ、と笑いながら、私はまた空を見上げて月を見た。
「惜しいなあ、今日は満月やないんか」
私を抱きしめたまま彼がぼやく。その言葉の裏にある意味に気づいて、私は思わず吹き出しそうになった。
「満月が良かった?」
「別にええも悪いもないけど……」
「夢を壊すみたいでイヤだけど、満月の日は女の人がエッチな気持ちになるなんて都市伝説、はっきり言ってクロだからね」
「そうなん?じゃあ、おまえはちゃうの?」
「月の満ち欠けと女性のバイオリズムが、みんな一緒だったら怖くない?」
「答えになってないやろ。おまえはちゃうのかって聞いてんねん」
「うん。そういう気分にならない満月の日もあったような気がするけど」
「気がするだけなら本音はわからんてことやろが。自分の知らん自分がいて、エッチな気持ちになってたかもしれんやろ」
満月の日についての、この持論を譲る気は毛頭ないらしい。端から見たらどうでもいいことなのだけど。でも、どうでもいいことでも、自分の考えを曲げない彼の姿勢は嫌いじゃないし、彼の夢を壊すのは本意じゃない。
「そういうことなのかなあ」と、私から譲歩することにした。
「そうや。おまえが気づいてなかっただけなんやで」
もっともな口調で断言する彼が可笑しくて、でも愛おしい。
今は、と彼が私の耳元でささやく。……今はどうなん?
月の有り様は関係なかった。彼が傍にいるだけで、私の体は素直に反応する。月が満月だろうと三日月だろうと新月だろうと、私はいつでも彼を求めてる。
彼の腕の中で私は振り返り、月に背を向け、彼と向き合った。
「好き……」
唇を塞がれる前につぶやいたメッセージは、私の背中を優しく撫でる微風にのって、紫紺の闇に溶けて消えた。
あなたの愛なしじゃ この世はまるでしょぼくてつまらないパレードみたい
あなたの愛なしじゃ 音楽は安っぽい商店街のメロディーでしかないの
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
8月8日。エイトの日ですね。
何かケーキでも買って、お祝いしようかと思ったけど、一人でケーキ買って食べてもなあ。
メンバーの誕生日とかは、別に一人でケーキ買って祝っても気にならないんだけど、エイトの日に一人で祝うというのは、なんだか寂しい。
というわけで。
お祝い代わりというのもおこがましいですが、久しぶりの短編です。
先月の役員会議が終わった後から、ようやく気持ちに余裕が出てきたので、ちょこちょこと通勤の合間に書き進めてました。でも、ちょっと眠くて、なかなか執筆が進まなかったりもしました。
出来上がりは、個人的には、満足度ちょい低めな作品なんですけども・・・
真夏の夜のひととき、的な気分を味わっていただけたらと思います。
「何しとるん?」
まさかこんな場所で、彼の声を耳にするとは思ってもいなかった私は、一瞬聞き違いかと自分の耳を疑った。
「引っ越すんか?」
彼が私の顔を覗き込みながら聞いてきた。眼鏡をかけた彼にドキッとして、目があった瞬間、なぜだか照れくさくなった私は茶化すように言った。
「あ、本物だ」
「なんやねん、ホンモノて。俺のニセモンがおるんか」
「しばらくずっと会えないって思ってた」
「俺かて休みの日くらいあるわ」
「そっか」
「充電せなあかんしな」
「大阪に帰んないの」彼の充電といったら、地元大阪に帰ることだ。
「時間ある時はな」
「じゃあ時間がない時だけ、私のとこに来るってこと?」
「おまえ、なに人の揚げ足取ってんねん」
「ゴメン」私は笑いながら言った。
商店街の不動産屋の前で、並んでしゃがみ込んでいる私たちの姿は、端から見たら新居を探している新婚夫婦みたいにでも見えるだろうか。
「で、引っ越しでもするんか?」
「どうしようかなあ」
「え?ホンマに考えてんの?」
彼が頓狂な声をあげた。私はそれに肯定も否定もしなかった。
「ピアノを置きたいんだよね」
「ピアノ、今の部屋でも置けるんちゃう?」
「置けなくはないけど防音をしないといけないし、めんどくさいじゃん。それなら、最初から楽器オーケーな部屋に移った方がいいかなって思ったの」
だが、店の表に出ている物件情報の中には、そんな部屋は出ていない。本気で探したければ、不動産屋に直接相談するしかない。
「ウチの近くに引越たらええやん?その方がおまえんち行きやすいし。ここ山手線のほぼ反対側やで。遠すぎや」
「あんな家賃の高いとこヤダ」
「ここかて特別安くはないやろ」
「そりゃそうだけど。私、この街が好きなの」
私は立って後ろを向いた。
夏の昼下がり。商店街を行き交う人々の中に、私の隣でしゃがみこんでいるアイドルに気づいた人は誰一人としていない。かといって、他人に無関心という街ではない。馴染みの店に顔を出せば、お店の主人が笑顔で声をかけてくるような街だ。
「うち来る?」
私に続いて立ち上がった彼に、聞く必要のないことを聞いた。
「おまえアホか。俺がなんでここにいると思てんねん」
「そっか」
「しょうもない。この暑さでボケたんちゃうか?」
私の頭を手でクシャクシャと乱してから、先に歩き出した。
「もう」前髪を直しながら、彼を追って横に並んだ。
仙台の七夕飾りには遠く及ばないが、小さな笹竹にカラフルな短冊を吊した七夕飾りが、商店街の各店舗を彩っている。どこかの店の軒先にでも掛かっているのか、優しげな風鈴の音が耳をかすめて、静かにアーケードの中を通り過ぎていった。
私は歩きながら、隣の彼をそっと見上げた。
前よりも2人で会う時間は減ってきているが、1年に一度の逢瀬しか許されていない織り姫と彦星よりはマシかもしれない。それにしても、この夏、仕事は確実に忙しくなっているはずなのに、彼のその端正な横顔に疲れはまったく見えない。この人は本当に仕事が大好きなんだなと、つくづく思う。
「なんで急にピアノ置こう思たん?」
彼の視線が私に下りてきて、私は慌てて彼から目を離して前を向いた。
「大した理由じゃないの。友達の結婚式で弾く機会が時々あるんだけど、その練習のためにいちいち実家に戻るのがめんどくさくって。今の部屋にあると便利かなって思ったの」
「ホンマに大した理由やないな」
彼は笑って言った。
「ピアノの練習で実家に帰ったってええやん。実家に帰るんは盆暮れだけなんて言うたら寂しいもんやで、親からしたら。ましておまえ、一人娘やろ。親孝行や思て、時々両親に元気な顔見せたほうがええんちゃうか」
どうしてこの人は、こういう説教めいたことを、さもなんでもないことのようにさらっと言えるんだろう。人一倍、家族思いな彼だからこそ、自然と出る言葉なのかもしれないが。押しつけがましさの欠片もないその言葉に、私は素直に「そうだね」と頷いた。
商店街の一角に置かれた大きな笹竹の周りに、子供たちが集っていた。幼い字で紙いっぱいに願い事を書いた短冊を、小さな手で一心不乱な表情でくくりつけているのを見ながら、ふと思う。私があれくらいの子供の頃、私は星に何を願っていたのかな?きっと子供心を膨らませて、夢に溢れた願いがいっぱいあったはずなのに、何一つ思い出せないのが切ない。
「ねえ、子供の時、七夕に何をお願いしたか覚えてる?」
「覚えとるわけないやろ、そんな昔んこと」
そんなら、おまえ覚えとるんか?と逆に聞かれて私は首を横に振った。
「七夕に願いごとって何やねんな。織り姫も彦星も自分らのことだけでもういっぱいいっぱいで、他人様のお願いを叶える余裕なんかないで」
別に、織り姫と彦星にお願いしてるわけじゃないと思うけど、と可笑しくなった。
「まあ言うても、大人んなったら、願いごとは叶えてもらうもんやなくて、自分でなんとかするもんやけどな」
「でも、星に願うって、なんか夢があっていいと思うけど」
「そやな。夢はあるなあ」
「でも、七夕の日ってあんまり晴れたことないじゃん。雨降ってたり、曇ってたり、子供の時、天の川が見れなくて、いっつもガッカリしてた」
「今年はどうなんやろな」
「うーん、週間の予報だとダメみたいだったな」
「なんや、おまえ、願いごととかあるん?」
「あるよ」
もちろん、願いごとはたくさんある。自分の努力次第で叶う願い、誰かの協力があれば叶えられる願い、相手の気持ちひとつで叶うかもしれない願い……
アーケードを抜ける手前で、彼が立ち止まった。暑さを含んだ眩しすぎるほどの陽射しがアスファルトに照り返して、外の風景がハレーションを起こしたように白浮きして輝いている。私を見下ろす彼の顔にも光が当たって、はっとするほど美しい陰影が作られていた。
「おまえの願い、俺が叶えたろか」
一瞬、ほんの一瞬だけど、私を取り巻く世界から音が消えて、時間が止まったような気がした。冗談なのか、本気なのか。ざわめく気持ちを抑えるように、私は腕を組んで微笑んだ。
「言うね。神様でもないのに」
「知らんのか。神やで、俺」
「へえ、神様だったんだ。じゃあ、神様なら私の願い、わかってるよね?」
「もちろん。ようわかってるで」
表情ひとつ変えずに、平然と言ってのける彼に思わず笑い出しそうになった。でも、と思う。もしかしたら、本当にわかってるのかもしれない。人の気持ちの機微に敏感な彼だからこそ。
「じゃあ」私は腕をほどいて、頭を下げた。
「今とは言わないけど、いつか願いを叶えてください」
「なんや、あらたまって」
私は彼を見上げて言った。「だって、あなたは神様だから」
照れたような表情が彼の上に浮かんだ。
「よう言うわ」
そう言って歩き出した彼の背中を見つめながら、心の中でつぶやく。
あなたにかなえてほしい願いはただひとつ。それはね……
私は、彼を追って、煌めく夏の太陽の下に飛び出した。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
七夕に合わせて、レコメン聴きながら、サクサクと気軽に書いてみました。
このめっちゃ忙しい合間の、いったいいつの話なんだということですよ。
ま、いうても、妄想ですから(笑)
最近、彼のあまりの多忙さに、なんや書きにくくなったなあと感じてたんだけど、あまり考えないことにしました
ヘラヘラ笑いながら、気軽に書きすぎたんで、かなり軽めの話に仕上がってますけども、その分、お気軽に感想などいただけたらと思います
ちなみに、肝心の「私の願い」は、話の中では語られてませんけども。
それは読者の方々の想像にお任せしようかと。
皆様なら、どんな願いを「彼」にかなえてもらいたいですか?
その美しい青色を目にした時、昔訪れた岩手県の鍾乳洞の地底湖を思い出した。透明度は高いのに、洞内に満ちた水源は深い青色に輝いていた。いつまでも見つめていると、その無限とも言える青の世界に永遠に引きずり込まれてしまうような気がして、私は畏怖を覚えながら同時に、目がくらむような陶酔をも感じていた。
福岡での4日間の出張を終えて、午後のフライトで東京に戻り、会社には立ち寄らず地元の駅に着いた時には、夕暮れが色濃くせまっていた。駅から続く商店街を、ガラガラと音を響かせてキャリアーを引きながら、私は早足で家に向かっていた。その時、目の端にその鮮やかな青が止まったのだ。
私は、花屋の店先に並んだ紫陽花の鉢植えに近づいた。
淡いピンクやブルー、白といった優しい色あいの紫陽花の中で、その青は小ぶりながら一際目立っていた。濃い青色の萼が、小さな薄紫色の花の固まりを、まるで自分たちが主役であるかのように鮮やかな色彩で縁取っている。
実家の庭に咲く薄藍色の山紫陽花を思い出しながら、私はしばらくその花に魅せられていた。
「おまけしましょうか」
不意に声をかけられて、私はビクッと顔を上げた。
閉店の時間なのかもしれない。店の表に置いてあった鉢植えを手にした花屋の店員が、にこやかに私を見ている。
「いいんですか?」
「山紫陽花はこれが最後の1つですし、もうシーズンも半ばですから、おまけしますよ」
自宅用だからと簡単に包んでもらった鉢を片手で抱え、もう片方の手でお土産の入った手提げ袋を持ちながらキャリアーを引いて、私はシャッターが下り始めた商店街を後にした。
彼から電話があったのは、出張3日目の夜、ちょうどホテルのベッドにもぐり込んだ時だった。
― 明日、何時に帰ってくるん?
イベントは今日で終わっていたが、明日はクライアントへの挨拶と、別のイベント会場の下見と打ち合わせがある。午後の早い時間に終わるはずだが、時間に余裕を見て、夕方の便を取っていた。その時間を彼に伝えてから言った。
「会社に戻る予定はないから、うちに着くのは7時頃かな」
― 7時。夜の。
うん、と答えながら思わず吹き出しそうになった。朝の7時までに、どうやって福岡から帰ってくると言うんだろう。
― なあ、そしたら明日、夕飯デリバリー頼まへん?
「私、作るよ」
― 出張から帰ってから作るとか疲れるやろ。ピザとか頼も。
私は彼の申し出をありがたく受けることにした。ピザのオーダーは任せるね、と言いながら、明日はうちに泊まっていくのかな?と期待が胸を過ぎる。
彼とはもう10日以上会っていない。時々、電話で話すことはあったし、テレビで彼の姿を見ているからか寂しさは感じない。けれど、一人眠りにつく夜が長く続くと、ふと恋しさが募り、胸がいっぱいになって息苦しくなることがある。
明日の夜には久しぶりに彼に会える。
受話器越しに彼の声を聞きながら、体の内側から熱くなっていくのを止められなかった。明日、彼を目の前にしたら私はどうなってしまうんだろう。
鉢植えとキャリアーと手提げ袋を両手にドアを開けるのは、ちょっと難儀だった。彼がもう来ているといいんだけど、と思いながらインターホンを押した。期待は裏切られることなく、中で気配がしてドアが開いた。
「おかえり」
パジャマ姿で出てきた彼の笑顔が私を出迎える。
こういう時、なぜアイドルの彼が当たり前のように私の前にいるんだろうと、時々不思議な気分に包まれる。
「ただいま」
笑顔で返した私に、彼は私が抱えている紫陽花の鉢植えを指差した。
「どしたんそれ?博多で買ったん?」
「なんで博多で紫陽花?博多のお土産いったら明太子に決まってるでしょ」
と、私は手提げ袋を掲げた。
「えっ明太子?うっわ、ピザなんか頼むんじゃなかったあ」
後悔を口にした後は、熱々の白いご飯で明太子食べたいわあ、なんでそれ先に言わんの?と文句を言いながらも、鉢植えとキャリアーとお土産までも中へ運んでくれた。
途中、あっそうやと、彼はバスルームのドアの前で立ち止まる。
「お風呂、沸いてるから入ったら。疲れ取れるで」
「あ……ありがと」
「着替えも置いてあるから、良かったらどうぞ」
と言いながら、彼はバスルームのドアを開けて私を促した。
「着替え?」
「適当に選んだだけやけど……どうぞ」
気づくと私はバスルームに押し込まれていた。着替えを入れるバスケットの中には、たしかにお気に入りのパジャマが入っている。私はどことなく奇妙な違和感を覚えながら、それでもせっかくの好意に甘えて、お風呂に入ることにした。
紫陽花の鉢植えは窓の近くに置いてあった。その手前で、彼がピザの箱を開けている。お風呂から上がったばかりの私は彼に、ねえと声をかけた。
「ん?」
「……下着が入ってなかったんだけど……」
彼は表情を変えずに、私を上から下まで見て言った。
「着てないなんて、わからんからええやん」
「そういうことじゃないでしょ!」
「だって、下着とか探すん恥ずかしいもん」
「もう、半端に用意するくらいならしなきゃいいのに」
と、下着を取りに寝室に向かおうとした私の手を、彼が慌てて掴んだ。
「ええやろ。どうせ後ですぐに脱ぐんやから」
言ってから、自分の言葉に照れた彼の白い顔がみるみる赤くなる。あからさまに言われた私の方が、赤面どころではなかったけれど。
「覚めてまうから、先にピザ食わへんか」
彼が私の手を引いて、自分の隣に座らせた。湯あたりしたわけでも、酔ってるわけでもないのに、今の彼の言葉の意味に頭の中がボーっとしてしまって、美味しそうなピザを目の前に、食欲さえどこかへ消えている。
おつかれ、という彼の声が耳元でして、たまらなくなった私は、次の瞬間、彼にキスをした。彼の唇から離れた時、窓辺の青い紫陽花が目に入った。
「なんやいきなり。食べる方を間違っとるで」
彼が真面目な顔で言う。
「そっちが悪いんだから」
「何が」と彼はピザを口に運ぶ。
「言わんでもいいこと言って」
「俺、なんも言うてないで」
「ふうん、じゃあ、あれは空耳だったのかな」
「そうやろ。腹減って幻聴が聞こえたんちゃうか」
わんぱく小僧みたいに、ピザをモグモグ美味しそうに食べながら、ビールを飲んでいる。そんな彼を見ていたら、私も食欲が出てきて、ピザに手を伸ばした。
「明太子、冷蔵庫に入れといたから」
「ありがと」
「明日、午後から仕事やから、朝ご飯食うてくわ」
「わかった」
当たり前のように応えてから、あまりにも所帯じみた会話に可笑しくなった。つい数分前まで、私たちの間に漂っていたはずの、あの甘い雰囲気はいったいどこに行ってしまったのやら。
その後、私たちは話しもせず、黙々とピザを食べ、ビールを飲んだ。ピザが残り2枚になって、暗黙のうちにそれぞれ1枚ずつ手にした時、彼がようやく言葉を発した。
「俺な……」
「うん」
「今より、もちょっと忙しくなる」
「仕事?」
「おまえ、仕事以外で俺の何が忙しくなるねん」
「そっか」
「しばらく、会えんくなるかも」
私は彼に顔を向けた。
「仕事?」
私の二度の同じ質問に彼が口をとがらせた。
「だから仕事以外に何があるっちゅうねん」
「間違えた。新しいお仕事?」
「おん」
「何の?」
「それは内緒」
そう言ってニッコリ笑う。仕事に関しては、彼は本当に口が堅い。もちろん、彼のそういう律儀な所が好きなのだけれど。
だけど、会えなくなるって、どれくらいの間なんだろう。2週間くらい?1ヵ月?2ヵ月?それともそれ以上?
まだ彼が目の前にいるというのに、不意に喪失感が漣のように胸に押し寄せ、息が詰まりそうになった。でも、努めて何気ない風を装って、なんとか言葉を口に出す。
「そっか。じゃあ公式発表があるまで楽しみにする。頑張ってね」
喉元まで出かかっていた「今度はいつ会えるの?」という言葉を、最後のピザと一緒に飲み込んだ。
忙しいのはお互い様だ。それに仕事をしている時の彼は、どんな時より活き活きとして輝いて見える。それに満足出来なければ、彼とは付き合いきれない。
空になったピザの箱を捨てようと立ち上がろうとした時に、彼がまた私の手を掴んだ。
「そんなん明日でええよ。時間もったいないやろ」
彼は私の手を握ったまま立ち上がった。
「あのな、今から連れて行きたいとこがあんねん」
「え?今から?」
「ちょっ目えつぶって」
その時、自分がパジャマの下に何も着ていないことを思い出した。
「え、どこ行くの?こんな……こんな無防備な格好じゃ私、ヤダよ」
「大丈夫やから。ほら早よ目つぶって」
大丈夫ということは、外に行くわけではなさそうだ。まあ、彼もパジャマ姿なわけだし、普通に考えれば外に出るはずがない。目をつぶった私に彼が言う。
「薄目とかしてへんか」
「してないよ」
「じゃあ、こっち」
私の手を握る彼の手の温度を心地良く感じながら、彼に促されて歩き出す。歩いてすぐに、ドアがカチリと開く音がした。目的地は寝室か。
「まだ目開けたらアカンで」
視覚以外の感覚が鋭くなっているのか、中に入る前に部屋から漂ってきた香りに気がついた。この香りは知っている。バリ島のホテルやヴィラで、フレグランス代わりに使われているイランイランの花の香りだ。アロマか香でも焚いてるのかしら。
彼が私の手を放しながら、まだやでと声をかける。私の後ろでドアが閉じられた。
「なんかドキドキするんだけど」
「もうすぐやから、ちょっと待って」
彼の声が少し離れた所から聞こえてきた。同時に、暗かった部屋に電気を点けたのか、部屋がほんのりと明るくなったのが、目を閉じていてもわかった。
「開けてええよ」
ゆっくりと目を開けた私は、自分の目を疑った。私がよく知っているはずの寝室の様子が一変していた。まず、今まで使っていたシングルベッドからダブルベッドに変わっていた。が、変わっていたのは大きさだけではない。ベッドの周りに巡らされた白い蚊帳が、間接照明の灯りに照らされて、柔らかい光を反射している。
蚊帳伝いに天井に目を向けると、そこにあった照明器具の代わりに、木製のシーリングファンがゆっくりと回っている。次いで、部屋全体を見回すと、東南アジアを思わせる置物が、本棚やローチェストやライティングデスクの上に置かれていて、これも間接照明や蝋燭の灯りでライトアップされている。
「すごいやろ」
いつの間にか隣にきていた彼の声に頷いて言った。「素敵」
「コンセプトはバリ島のビラやな」
それを言うなら、ビラではなくヴィラだと訂正する気はまったくなかった。彼がこれをビラだと言うなら間違いなくビラなのだ。
「いつの間に……」
「おまえがおらんかった間、自由にやらさせてもろた」
でも、こんなこと、たかだか3、4日の思いつきで出来ることじゃない。彼のことだからサプライズのプランは、たぶんもっと前から準備をしていたはず。
ベッドに近づいて、蚊帳に触れてみる。その決して安物ではない手触りの良さに、彼のセンスが表れていた。ベッドリネンも一見しただけで質のいいものだと分かる。忙しい中、これだけのものを探す時間と労力を割きながら、本人はいたって平然としている。まるで、こんなことは指一本動かせば魔法みたいに出来るとでも言うように。
彼が反対側からベッドに入って寝転がったのを見て、私も蚊帳をくぐって彼と並んで横になった。
「ベッド、広いね」
「あらためて2人で並ぶとそうやな。余裕あるな」
私の手に彼の手が触れて、トントンと叩く。
「なあ、バリ島に旅してる気分になれるやろ?」
「うん。私の部屋じゃないみたい」
「そしたら」彼が私の手をきゅっと優しく握りしめた。「ひとりん時でも一人旅してる気分になれるよな」
首をまわして彼を見た。
これは、彼流の気まぐれなサプライズだとばかり思っていたのに、本当に、なんて繊細で、他人の気持ちに敏感な人なんだろう。こみ上げてきた愛しさに、胸がきゅうと締めつけられた。
私の視線に気づいたのか、端正なその横顔がこっちを向いた。そして、黙って、私を抱き寄せた彼の肩口に頬を押しつけながら、私はまた、あの鍾乳洞の深く青い地底湖を思い出す。
彼の不在を怖れるようになるほど、私は深みにはまってしまっているのかもしれない。彼の世界に魅せられ、繋ぎ留められ、虜になって。どこまでも辿り着くことのない、終わりの見えない不安を凌駕するほど、私を甘く優しく包み込む世界の虜に。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
いやあ、今日もめちゃめちゃ暑かったですね
うっかり日傘とサングラスを忘れてきて、田端周辺を歩きながら、このまま足から溶けてしまうのではないかと思いましたていうか日焼けがコワイですね~
でも、なんだかんだ言うても、明るい陽射しの下、歩くのは嫌いじゃないです。だって、もともと夏の太陽が大好きですからー
さて、今回の作品は前回の短編からの続き、という流れになってます。
久しぶりに二人だけの世界で書いてみましたが、いかがでしたでしょうか。
前回、書いてから間がないので、今月はもう短編を載せる予定はなかったんですけども、庭の紫陽花を見ていたらふと話を思いついてしまって、しかも、執筆中に映画出演の話題が正式に発表になったので、その前の話、ということで、修正しながら急ピッチで書き上げました。なので、なんとなく、雑な感も否めなくない…
ちなみに、話の中に出てきた岩手県の鍾乳洞というのは、ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、岩泉にある「龍泉洞」のことです。
あの震災でも、なんと洞内に被害はなかったそうです。自然が作り出したものの強さって、すごいですね。
ただ、ここの一番の見どころと言ってもいい美しい地底湖は透明度が落ちているそうです。あの美しいコバルトブルーの輝きが失われているのかと思うと、残念でなりません。
でも、自然の浄化力というのはあなどれませんからね。きっと、また美しい青い世界に戻る日が来ると信じています。