旅してマドモアゼル

Heart of Yogaを人生のコンパスに
ときどき旅、いつでも変わらぬジャニーズ愛

第17回  瞳 ~ eyes ~

2009-06-21 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
なんだかあっという間に6月も下旬に入ろうとしてますね

「セミナー」の千秋楽から、もう1週間も経ってしまってるし…

今日は岡田君の映画「おと・な・り」を恵比寿まで観に行く予定だったんだけど、相方のMさんが昨日から体調を崩してしまいまして延期となりました。

まあ、あいにくのお天気だったし、いいんじゃないかと、私もそのまま家の中でぐだぐだ過ごしてました(笑)
でも、ぐだぐだ過ごすのもなんだかなと、今週には今月の「Myojo」が発売されるので、今回はちょっと早めにエッセイを出そうぢゃないかと、今日の午後からがんばって書きあげました。

がんばって、と言いつつ、今回は比較的書きやすいテーマでした。大して悩むことなくサクサクッと書けてしまいました。
その分、あんまり中身がないかもしれないけど(笑)

中身がない分、お気軽に感想などお聞かせいただければと思います。


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目は口ほどにものを言い、と言うが、人と話すときに私は大抵、相手の目を見ていることが多い。
相手の目を見て、その表情を見ながら話す方が気分的に楽なので、実は相手の表情が見えない電話がニガテだったりする。話し始めたら普通に話せるが、それでも声だけで、相手の今の状態や感情などの情報を耳ひとつで拾い上げて判断するのは、私にとってちょっと大変な作業なのだ。(笑)
なので、今では携帯に当たり前のように機能としてついているテレビ電話は私向き。と言いつつ、あまり、いや、ほとんど使ったことがないのだけれど、待ち合わせの時とかに使ってみたい。「今、ここで待ってまーす」と後ろの景色を写しながら使うと便利なんじゃないかな。「もう早く来てよォ。プンプン」と笑顔で怒ったフリなんかもしてみたい。(てか、そんなブリブリをいったい誰を相手に?)
といって、テレビ電話があまり普及するのも困り者。早朝の電話に寝起きの格好では出たくないし、いつどんな時に誰から電話がかかってくるか分からないので、そうそう気が抜けた格好が出来なくなってしまう。

それにしても、女性向けのファッション誌には、いかに目を大きく見せるかという特集が多い。
しげのエッセイにもその話が出てきたが、私もその「流行」に乗り遅れまいと、自分の目をパッチリ、瞳を大きく見せる工夫に日々余念がない。特に、コンサートの時とか、好きな人の舞台を観に行く時とか?(笑)
去年、NEWSのコンサートのために(というか、しげのために)、まつげのエクステをしたが、今はアイラッシュ(つけまつげ)を3、4種類そろえて愛用している。ちなみにマスカラは、「夜までぜったい落ちない!」はずのマスカラが、私の場合、なぜか午後には落ちてしまうので、今はぜんぜん使っていない。あとはそうだな。アイラインも欠かせないか。
そして、コンサートの時や舞台の時しか使わないけれど、コンタクトも。瞳よりちょっと大きめに縁取ったカラーの入ったコンタクトを使っているのだけれど、目の大きさとかそんなものは、しげのエッセイを読む限り彼にとっては「どうでもいいこと」らしい。まったく、人の気持ちを知らないヤツなんだから。(笑)

そんなしげの瞳は正統派アイドルらしく二重でパッチリ。本人はそのパッチリした目が、頭が悪そうに見えることがあるといって、切れ長のすっとした目(といっても、けーちゃんの目ではない)に憧れているようだが、その大きな瞳でたくさんの感情を表現できる彼の目が私は大好きだ。
舞台に立つ彼の目は、ライティングの影響もあるのかもしれないけれど、いつもきらきら輝いていて、思わず見とれてしまう。でも、そのきらきらの中に、喜びや悲しみや怒りといった感情を宿す時、見ているこちらがどっきりするほど、説得力のある表情を見せてくれる。

そんな綺麗な目でも、その目に映るものが常に綺麗だとは限らない。
しげもエッセイの中で書いていることだが、今の世の中には汚いものがあふれていて、それから目を逸らして生きていくことなど不可能に近い。しかし、たとえその目に入ってくるものがどれほど汚いものでも、それによって自分の心の目が曇ることさえなければいいと私は思う。
だから、私は美しいもの、綺麗なものを積極的に目にして心の目を癒し、そして時々、心の目が曇らぬよう押し寄せる感情に任せるまま、あふれる涙で瞳を洗う。

「セミナー」はまさにそんな場所だったよ、しげさん。

第16回  雨 ~ rain ~

2009-05-26 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
今日、今月の「Myojo」を買って思い出しました。
でもって、ほとんど即興で書き上げました。
今回のエッセイ「雨」


ところで

「プライベートが最強。仕事場で見るしげより、ふだんのしげの方が好き」
とマッスーに言われてるウチの人


プライベートが最強って…


それってアイドルとしてどうなん?!



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もうすぐあのユーウツな季節がやってくる。

梅雨。

私は雨が嫌いだ。否、雨そのものは嫌いではない。大地を潤し、緑を育む雨は好きだ。どこにも出かけない休日の朝、外から聞こえてくる雨音を聞きながら、ベッドの中でウトウトしているのが好きだ。
私は、雨の中を出かけることが嫌いなのだ。せっかくフワフワとアレンジした髪が湿気で崩れる。まっすぐに下ろしたバングス(前髪)があらぬ方へとうねってしまう。雨と湿気に長いこと悩まされてきた私のくせ毛。最近は、パーマをかけなくても、指1本でクルクル巻き髪も出来る自分の髪質をありがたいと思っているが、それでも、この時期は、雨の中出掛けると、目的地に着く頃には朝キメてきたはずの髪型が、見る影もない状態になっていることが多くて本当にうんざりする。
まあ、そんな話を前にもしたような気がするのだが。

でも、私は基本的に「晴れ女」だと自負している。自分が外出する日に雨に降られることは稀だ。前日までどれほど雨が降っていようと、当日、家を出る頃には雨が上がっていて、気がついたら晴れているということが最近は本当に多い。
旅先で雨や雪に出会うこともあまりない。なにしろ、1年の約3分の2が雨の日といわれる屋久島で一度も雨に降られなかったのだ。ヤクスギランドを案内してくれたガイドさんが「3日続けてこれほどいい天気というのは珍しい」と驚くほどに。
まあもちろん、旅先は晴れているに越したことはないが、私はなんだか本当の屋久島に出会えなかったような気がして、なんとなく物足りなかった。雨に煙る屋久島の姿はきっと神秘に満ちているのだろう。そんな気がする。

雨が似合う場所にはやはり雨が必要だ。
たとえば南の島のスコール。さんさんと陽射し降り注ぐ青い空があっという間に暗灰色に染まったと思ったら、滝のように落ちてくる雨のかたまり。日中、太陽で火照った体を、冷たい湿気に包まれてソファーに横たえ、プライベートプールの水面を強く叩きつける雨音だけを耳にする。

そう。私は雨が嫌いではない。1日家の中にいる日、雨の音は心を落ち着かせてくれる。規則的な雨音を聞きながら、本を読んだり、ソファーの上でまどろみながら、どうでもいいことをつらつら考えたりするのだ。

最近はおしゃれなレイングッズがたくさん出ている。私のお気に入りのショップにも、可愛い長靴や雨用の靴が置いてあって、それがどれもカラフルで可愛くて、見ているだけでも楽しい。
雨の日を楽しもう、そんな風潮が最近の流行だ。
日本の風土上、梅雨は避けられないものだとしたら、イヤだイヤだと愚痴っていても仕方ない。
この季節と折り合いをつけていくことが大人の知恵だろう。

とりあえずは……ストレートパーマをかけなおそうかな。

第15回  砂 ~ Sand ~

2009-05-10 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
人生なんて砂の城のようなものかもしれないわね
つくってもつくっても いつの間にか波がさらってしまう
いつも同じことのくりかえし…
誰もが…そうして年をとっていくのかしら


「有閑倶楽部」の原作者としても有名な一条ゆかりの名作「砂の城」を、友人から借りて読んだのはたぶん高校生の頃だと思う。
多感な少女時代、原作の最初の方で描かれる富豪の令嬢ナタリーと捨て子フランシスの純愛を引き裂く悲劇に涙した私だったが、その後の、こちらが本編といっていい、フランシスの遺児であるフランシス(マルコからナタリーが改名)とナタリーとの年の差16歳のラブストーリーは、子供のようなフランシスに恋するナタリーの気持ちが自分の中でいまいち共感できないまま、読み終えた記憶がある。ストーリーとしては面白かったけど。
それに、私の好みは素直で正義感の強い金髪のフランシスより、黒髪でシニカルな視線を持つ不良のフェランだった。(今見ると、フェランってマツジュンのイメージがある。やっぱり好きだ)フランシスとナタリーの場面より、全寮制のヴァン・ロゼ校でのフランシスとフェランの場面の方が好きだったし、コヤシゲに萌える「腐」の片鱗はこの頃からあったのだろう。

話を戻そう。その後、30歳を過ぎてから、文庫シリーズとして発刊されていた「砂の城」を見かけて、思わず手にしていた。
共感できないとは言いつつ、記憶に残る作品ではあったのだ。ナタリーがフランシスと砂の城をつくりながら海辺でつぶやく冒頭の言葉が記憶の底からよみがえっていた。その意味するところの深さを知らずにそれは強烈な記憶として焼きついていた。
La vie est un éternel château de sable sans cesse battu par les flots
表紙のフランス語訳を見ながら、かつては理解できなかったナタリーの気持ちが今ならわかる、そんな気がした。

文庫にして4冊。もちろん大人買いした。気づいたら4巻ぜんぶ読み終えていた。

愛したフランシスに良く似た彼の子供のフランシス。小さなフランシスが成長するに従って、自分が愛しているのは、かつて愛し合ったフランシスなのか、それとも自分にひたすら熱い視線を投げかけ、気持ちをぶつけてくる若いフランシスなのか、苦悩するナタリー。
ナタリーが大人の分別でもって自分の気持ちを押さえ込もうとするその心情に胸が締め付けられた。若いフランシスを愛しながら、一切その気がないように冷静に振舞う姿にも、なついてくるフランシスに冷たく突き放したような態度をとることにも共感した。
フランシスと距離を置こうとアメリカへと一人旅立ち、新たな生活を始めるナタリーに自立する女性のプライドと勇気を感じながら、その裏に隠された意地があまりに切なくて泣けてきた。
二人が結ばれた後でも、フランシスに近づく若い女性の存在に、自分とフランシスの間にある埋めようもない年の差を痛感し、フランシスの行動に不安と恐れを感じるナタリーの気持ちがヤバイほどに分かった。
ただ平穏な幸せを求めているだけなのに、ナタリーの心はたびたび不安に襲われ孤独の中におかれてしまう。

「波が届かないところでつくればいいのに」
波が打ち寄せる海辺で、苦心しながら砂の城を作っているフランシスに手を貸しながらナタリーが言う。
「だめなんだよ。砂が乾いてるからつくれないんだもの」
フランシスの答えにナタリーは寂しげな表情を浮かべる。
「皮肉なものね。安全なところではつくれなくって、つくれる所では波がさらってこわすなんて。まるで…人生をつくってるみたいね」


安定した生活、心穏やかな人生。
それはおそらくほとんどの人が望む生き方だろう。でも、そんな人生を送れる人はほんの一握りに過ぎない。
誰もが、学校や社会といった自分とは異なる他者が存在する世界で生きていて、他者とのぶつかり合いの中で思いもかけず傷ついたり、憂鬱になったり、悲しんだり、苦しんだり、絶望したりする。もちろん、他者と関わりあうことで楽しいこと、嬉しいことだってあるけれど、それだけの人生は存在しない。
そして、どれほどの喜怒哀楽が自分の中であろうとも、気づけば毎日が代わり映えのない連続のように感じるのもまた人生だったりする。

他者との関わり合いのなかでは、恋愛ほど不安定なものはない。現在なんて、大恋愛の末に結ばれて夫婦となったはずなのに、熟年になってリカツに励む女性が出てくるような世の中だ。コツコツ築いてきたはずの「家庭」という安息の場が、実は知らぬうちに波にさらわれ続けて崩れていた砂の城だった…

まあ、そんな夢のないオチはさておき、恋愛に終着点はない。結婚というのは一つの通過点であって二人が共に歩んでいく人生はさらに続く。だから、人生にも終着点はない。人が生き続ける限り、時間は止まることなく容赦なく流れていく。波が大なり小なりつねに終わることなく寄せては返すように。自分ひとりが一つの所に留まり続けることは不可能。波が打ち寄せる砂浜に立っていると、波にさらわれて足元の砂が動くのが感じられる。立っていた場所が自分の意思とは関係なく少しずつ移動する。それと同じことだ。

つくってもつくっても完成しない砂の城。
でも、それでも砂の城をつくろうとするのはなぜだろう。生きていくのはなぜだろう。
その答えを私は、とある名作の中に見つけました。


―砂漠は美しいね。
と、王子は続けて言いました…
―砂漠が美しいのはね、どこかに井戸が隠れているからなんだ…
と、王子は言いました。
私は突然、砂がどうしてこんなに不思議な輝きをしているのかに思い当たって、驚きました。…



ねえ、私たちは、どこかに隠れている自分だけの輝きを探すために生きているのかな。



<引用出典>
「砂の城」一条ゆかり 集英社文庫
「星の王子さま」サン=テグジュペリ ちくま文庫

第14回  就 ~ Position ~

2009-03-31 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
3月31日。
この日を境に新しい一歩を踏み出す人はたくさんいるだろう。
私のようにポジションが変わらない人でも、今まで一緒に働いていた同僚が退職したり他の部署に異動したり、そして新しいメンバーが入ってきたりと、周囲の変化とは無関係ではいられない。

今年も私の会社に新入社員が入ってくる。何人が入社してくるのか明日にならないとわからないが、北の果ての我が部署にはそんなピチピチした新人は配属されてこない。
世界的大不況といわれる中、過去にも例のない氷河期の就活レースを勝ち抜いて入社してくる新人たちは、WBCのメンバーに選出された選手並みに会社から期待されているのだと思っていい。
ただ、その期待と同じ程度の厳しい視線も同時に注がれるのだということも肝に銘じておいたほうがいいだろう。
今となっては死語と化した「バブル」の時代の申し子みたいな私が偉そうに言うことではないかもしれないが。

やりたい仕事を見つける、というより、とにかく自分を雇ってくれる仕事先を見つけることが就活の目的となってしまっているこの時代。
そんな不毛な時代にたまたま当たってしまった若者たちにとっては、たしかに気の毒なことではある。
だが、私も今の仕事に就いて、いろいろなことを経験していくうちに、やりたいことをやることと、働いて生活していくということが、100%イコールになることは稀なことなのだと気付かされた。
自分のやりたいことがイコール仕事というのがベストなのはもちろんだ。
だけど、誰もが自分がやりたいことを仕事としてやれるわけではない。もし、誰もが希望の仕事に100%の確率で就くようになってしまったら、労働の需要と供給のバランスは崩れてしまうだろう。

野球のポジションがピッチャー、キャッチャー、内外野含めて9人の枠しかないように、仕事のポジションも数に限りがある。希望するレギュラーの枠に入れなかった誰かは、不本意な補欠や応援にまわらなくてはならない。
もちろん、まわりめぐってやりたかった仕事がまわってくることがあるだろう。そこで意気揚々と仕事をしていても、数年後、人事異動でその仕事から離れなくてはならない時がやってくる。

ここで2つの選択肢がある。
①その仕事を続けるために会社を辞め、その仕事が出来る会社へ再就職すること。
②やりたかったことではないが、同じ会社で新しい仕事に挑戦すること。

どちらの選択肢が正しいという答えはない。
①を選んだあなたは、この大不況下で希望する就職先がなかなか見つからないかもしれない。②を選んだあなたは、新しい仕事に働く意義や意欲を見出せないかもしれない。
でも、①を選んだあなたは、再就職の活動を通じて新たな興味を発見するかもしれない。②を選んだあなたは、ふとしたきっかけで新しい仕事に意外な面白さを感じるかもしれない。

そう。どのような選択をしたとしても、自分がどんなポジションで、どんな仕事をしていくのか、その答えは自分の中にあるものなのだ。

自分が変われば仕事も変わる。

某大国の新大統領が使って一世を風靡した「Change」という言葉を、明日4月1日から新しい1年を迎える私たちの日常的な合言葉にしてみるのもいいかもしれない。




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なんだかまとまりのない文章でスミマセン
ぜんっぜん起承転結になってないしー

でもちょうど明日から4月ってことで、新しい年度を迎えるってことで
もしかするとちょうどいいタイミングなんじゃないかなーと思いまして
急いで書き上げて1回も校正しないまま載せちまいました

なので、読み難い箇所などありましたらホント申し訳ありません

ご容赦のほどを

第13回  問 ~ Question ~

2009-02-11 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
今回はエッセイというよりは、シゲへの「手紙」になるかもしれない。
「問-Question」というテーマで、彼が自問自答したその内容は、私たち読者への「問いかけ」でもあると思ったから。

彼の「問い」はこういうものだった。

どうして人を殺してはいけないのか。
自分を殺すことはいいのか。
どうして人は生きるのだろうか。
生きていることの意味は?
自分が生まれてきた意味は?

生と死をあえてテーマの内容に持ってきた彼の真意は知るよしもないが、ただ、近頃の不条理がまかり通る世の中で、どうでもいい理由で人が安易に殺されたり、不景気社会の非情さに生きる希望を失ったり、抜け道の見えない未来を思い、この時代に生まれたことを恨んだり、その恨みの矛先が筋違いの方へ向けられて陰惨な事件を引き起こしたり、そんな陰鬱になるような話題ばかりが横行する毎日に、センシティブな感性を持つ彼には何か思うところがあったのかもしれない。

なぜ人を殺してはいけないのか。
その問いに彼が出した答えは「ならば、君は殺されたいのか?」。
「自分を守るために、他人を殺してはいけないという法律があるのだ。それ以外に理由なんかない。」
法律を勉強している彼らしい答えだと思った。
もちろん、私も誰かに殺されたいなどとは思わない。私の大切な人生が、他人の手によって勝手に絶たれるなんて考えたくもない。つまり、人を殺すということは、その人のその後の人生を他人である自分が終わらせるということだ。そんな重いツケを背負って、その後の人生を生きていくなど考えられない。だから私は他人を殺したいとは思わない。

普通、人は「人を殺してはいけない理由」を人としての倫理や感情でもって答える。ただ、その答えは、道徳や倫理、人としての当たり前の感情を理解できない人にはわかりにくい答えだ。
「ならば君は殺されたいのか?」 殺人罪を犯した人にこう問いかけたら、いったいなんと答えるのだろう。
「自分は殺されてもいいから誰かを殺す」そんな風に言う人は「まず矛先を自分に向けるべき」だと彼は言う。そして、「ならば自分を殺すことはいいのか」と彼は問いかける。

自分で自分の命を絶つ。「自殺」という言葉でくくられるこれもまた一つの殺人行為だが、他者を殺す行為と異なる点は、そこに至るまでの感情に「怒」や「憤」や「恨」がないことだ。日本人には理解しがたい「自爆テロ」のような行為は別として。
「僕は、何度か死にたいと思ったことがある」と彼は書いているが、私もまた「死にたい」と思ったことが過去にある。それでも、彼と同様、実際に死のうとして何かをしたことはない。それは、たとえ今辛くても、この辛さが一生涯にわたって続くものだとは思えなかったからだ。降り止まない雨がないのと同じように、どこまでも辛い人生というのがあるとは思えない。必ずどこかに「救い」はあると私は思ったのだ。それは、他者からの物理的、精神的な救いかもしれない。あるいは環境の変化かもしれない。だけど、一番の救いはきっと、自分の心の中にあるのだ。

「僕はこう感じたんだ。死ぬほど辛いことを経験したなら、1度死んだことになるのではないかと。何もかも投げ出したいなら、何度だって生まれ変わればいいんだ。そう思えたとき、僕は少しだけ生きることが気持ちよくなった。」

私の考え方とは若干異なるし、実際には人は何度も生まれ変われるわけじゃないが、考え方・発想の転換として、彼の言葉に共感できることはとても多い。
また、彼は森山直太朗さんの『生きてることが辛いなら』という曲を引き合いに出し、その歌詞から、生きること、死ぬことについてこう語っている。
「死は、遅かれ早かれいつか絶対にやってくる。わざわざ自ら向こう側に行く必要なんかない。」
だから、それまでの間、自分の人生を全うすればいいのだ、と。

人は死んでしまったら、それで終わりだ。だけど、もしかしたら、明日、思いがけない幸運が転がり込んでくるかもしれない。いや、明日でなくても、それがたとえ数年後のことかもしれなくても。自分の人生を80年と考えた場合、その先に待っている幸せな時にたどり着くことを途中で諦めてしまうのはもったいない。
何かで読んだのだが、毎日どんなことでもいい。1日を終えたらその日を振り返って、道端に可愛い花を見つけた、風が気持ちよかった、そんな些細なことでもいい、何かよかったことを1つ見つけて、日記でも手帳でも何かに書きとめるといいらしい。そうすると、意外なことに、何もないと思っていた自分の周りに楽しいこと、幸せなことが転がっていることを発見できるらしい。

でも、私はそうすることを誰にでも勧めているわけではない。そこに生きるための意味を見つけてほしいわけではない。

どうして人は生きるのだろうか。
生きていることの意味は?
自分が生まれてきた意味は?

その自ら投げかけた問いに、彼は意味などないと言いきっている。意味を探そうとするから苦しいのだと。
それは彼の出した結論であって、私はそれを否定もしないし、反対にその意味を探そうとする人についても否定しない。彼が考えて考えて出した答えは彼のものだから。それを否定する権利など私にも誰にもない。
でも、もし「生きる」ことに意味を持たせるのだとしたら、それは一つしかないと私は思う。

「この世に生まれてきたから」

生まれてきたのは自分の意思ではない、でも、この世に生まれてきたからには、いつかその命が自然に消えていくまで、生き続けていくしかない。そして「死ぬとき」までをどう生きるかというのは、人生の目標や目的であって、生きるという意味とはまた別の次元の話だと思う。
だが、子孫を残すために生きるだけの動植物と違って、私たち人間はそれぞれ異なった、色々な生き方ができる唯一の生物だ。
スタンダールの墓標にある「生きた、書いた、愛した」ではないが、「生きた」以外の言葉で、自分の人生を表現できる生き方をしていきたいと心から思う。


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引用出典 : 集英社刊「Myojo」2009年3月号 66頁「加藤成亮の発展途上エッセイ『青い独り言』」

第12回  味 ~ flavor ~

2008-12-31 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
今年も残すところあと1時間を切りました。

さて、年の瀬、今年も我が家では自家製の紅白なますを早々と作りました。
本当は三浦大根で作りたかったところなのですが、三浦大根は微妙にお値段が高いので、買い置きしてあったフツーの大根を使いました。
でも、人参は甘味の強い金時人参を使い、柿も干し柿ではなくより甘味のあるあんぽ柿を味のアクセントとして入れました。
我が家では細切りにした大根も人参も搾らないでそのまま酢に漬けるので、やたらと水分の多いヒタヒタなますになるのですが、食べ終わった後に残るお汁が、大根と人参と柿から出た甘味と酢の酸味が効いて、なんともいい具合で美味しくなっているのです。

基本、私も親も酢の物が好きなので、正月に関係なくなますを買ったりすることもありのですが、市販の味はやはり自分の舌に馴染まないのです。

ところで、最近は、正月のおせち料理を自宅で作る人は少ないのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
通販やデパートでは、名のある料亭ののおせちや和洋中のバラエティに富んだおせちを取り揃えていますし、コンビニでもおせちの予約を取り扱ってるくらいですから、わざわざ時間と労力を使って、しかもあまり家族には喜ばれない料理を作るのは勿体ない、と考える人は多いのではないでしょうか。
元旦からオープンしている飲食店もコンビニもあるので、何もなかった昔と比べれば、おせち料理などなくても正月三が日の食生活に困ることはありません。

でも、おせち料理を作る、というのは、一年の節目の儀式としての意味合いだけではなく、年に一回、家族全員で取り組む共同作業、そして「我が家の味」をあらためて確認するために大切なことなのではないか、と思うのです。


黒豆や数の子、田作りなどの祝い肴三種に、かまぼこや伊達巻、栗きんとんや昆布巻きなど「口取り」と言われる正月らしい品々が並ぶ一の重

海老や鯛などの焼き物、紅白なますなどの酢の物で飾られる二の重

くわいにレンコン、ごぼう、里芋、八つ頭、人参など、根野菜が中心の煮しめなどが入る三の重


おせち料理は数日間保存がきくように、甘辛いものや、味付けの濃いものが多い、というのは昔の話。
3日も4日も日持ちさせる必要がなくなった今こそ、我が家ならではの味付けによるおせち料理を作ってみるのもいいのではないでしょうか。
クリスマスの欧米風の豪華な食事もいいけれど、やはり新しい年を迎えるにあたって、家族みんなで祝う料理を年の瀬に作るというのは格別なものがあると私は思います。

有名料亭の味が楽しめる市販のおせちも、正月くらいセレブな気分を味わえて楽しいかもしれないけれど、口に入れた瞬間、「あーこれこれ。コレがウチの味だよね」と、なんとなくホッとできる自家製のおせちの方が、はるかに美味しいんじゃないかと思うのですが、いかがでしょう。
私は母と作る、市販のよりずっと薄味で甘さ控えめのおせち料理が大好きです。

といっても、市販に頼ってしまっている料理もあるんですけどね。
錦玉子に…伊達巻に…黒豆に…おたふく豆に…栗きんとんに…


って多すぎだろ?!




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東京ドームからの帰り道から、ケータイでずっと文章作ってました(笑)
せっかくのフッワフワ気分が台無しです。

でも、やっぱり年内に書き終えたくて。
頑張って書いてみました。

今日もウチの人は素敵でした。

今夜こそ、私の夢の中に出てきてもらいます。
昨日の夜は私が夜更かししているうちに、リョーコ会長の夢の中にうっかり間違って出ちゃったみたいなので。

でも、そのまえに。

ジャニーズカウントダウンを見なくっちゃ ウフ

第11回  抜 ~ missing ~

2008-11-24 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
昔と比べて、今の私はうっかり「ミス」することが増えたような気がする。まあミスといっても、仕事上でさほど大きな問題になるようなミスではなく、大抵は事前にそのミスに気づくのでトラブルになったことなどないのだが、それでも「なんか最近ポカしてんなあ」と我ながらつくづく思うのだ。
だが、数年前の私だったら、そんな自分を許せなかっただろう。現代人に多い病「うつ病」にかかってしまう以前の私だったなら。

前のエッセイで、2年ほど百貨店に勤めていた話をしたが、その後、今の職場に転職し、「販売員」とは違う「事務職」についた私は、まるで絵に描いたような、社内でバリバリと働く「キャリアウーマン」(と当時は言っていた)を目指そうと心に誓った。「キャリアアップ」という言葉が一つのブームのようにもなっている時代だった。
男性に負けるもんか!とばかりに遮二無二働いていた私の様子を見ていた同じ部署の先輩(男性)が、ある日こんなことを言った。
「○○(私の名前)はどこか角張ってるんだよな、弾力のある丸い部分がないというか。どこかに無理がきたら、パキッと折れちゃうんじゃないか」
今は人事課長をやっている彼の言葉に、当時は何を言ってんだとばかりに「折れたりなんかしませんよー」と笑って返した私。それから何年も経ってから、その言葉が現実のものになるなんて思ってもみなかった。

たしかに、当時の私は常に力が入りっぱなしだったような気がする。力を抜くことを知らなかった、とも言える。
といっても、力を抜く時はしっかり抜いていたようだが。
カナダ旅行に行った時の写真を見た先輩(これも男性だ)がこんなことを言った。
「いい顔してるなあ。どうしてこういう顔が職場でも出来ないんだ?」
と言われても、旅の写真に写っている笑顔の私と、職場で同僚たちに見せている自分の顔がどう違うかなど分かるわけもない。このときも、旅行の時と仕事の時と同じ表情をしている方がおかしいじゃないかと思って、そのまま聞き流した。
そのときから数年後、うつ病の診断が下される直前の私は、職場でいったいどんな表情をしていたのだろう。

約半年。私は仕事から完全に抜けた。初期の頃は魂まで抜けてしまったような気さえしていた。
私の中から「喜怒哀楽」の「哀」だけを残してそれ以外の感情がごそっと抜けていた。
通院や投薬を続けながら、失った感情を取り戻し、自分自身を取り戻して完治するまでに半年かかった。
そして私が職場を空けていた半年の間、後事を託された同僚たちは大変だったかもしれないが、それでも、私がいなくても職場に大きな変化はなかったことに気づかされたとき、私の中で何かがまたポロリと落ちた。

組織の中の仕事はチームワークだ。もちろん個人で裁量すべきこともある。だが、一人では手に余ってしまう時、一人で抱えても、自分一人がただ苦しむだけで何の得にもならない。もういっぱいいっぱいの自分の手をちょっと抜いて、一人で抱えきれないものを誰かに託したっていいじゃないか。
仕事でミスしたことを悔やんでも仕方ない、大きなミスにしろ小さなミスにしろ、次から気をつけようと前向きに心がければ済むことだ。それでも誰かがおかしてしまったミスはみんなでフォローすればいい。
反対にミスすることを恐れて萎縮して、何も出来なくなるほうが不健康じゃないか。

別に自分のうっかりミスを正当化しようっていうわけじゃないけれど(笑)、でも、私は自分を自分で追い込むようなことはしない。どこかがちょっぴり抜けていたとしても、心にだけはいつも余裕を作っておきたい。
その余裕がなせるのか、今の私は自分で言うのもなんだけれど、ほんとによく笑っていると思う。
笑いの栓がスポンと抜けちゃっているんだな、きっと。



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堺さんの主演ドラマをオンタイムで観ようと思ってたのに
すっかり記憶から抜けていた管理人です。

録画予約はしておいたのでこれから観ますけども

ほんっとに最近忘れっぽくてやんなっちゃうよ

第10回  客

2008-10-26 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
私は今の職場に勤務する前、新宿にある「I」というデパートに2年ほど勤めていた。もちろん、売り場に立って販売員をやっていたわけだが、取り扱っていた商品がハンカチという小物だったこともあり、ほとんどがギフトのための購入客で、客とのやりとりはカウンターで行うことが多かった。
そんなわずか2年ではあるが販売員をやっていて気づいたことがある。それは、こちらが包装した品物を表情一つ変えずに受け取り、黙って去っていく客が多いということだ。
もちろん、欲しい商品を買って帰るのがデパートに来た客の目的なのだから、品物を買うのに無愛想だろうが、店員に対して無言だろうが、それは客の勝手だ。店員だってある意味、作り笑顔で儀礼的に「ありがとうございました」と言ってることもあるわけだから、それに対する客からのリアクションなど端から期待したりなどしていない。
しかし、客の中には、「ありがとう」とか「どうも」とか、こちらの「ありがとうございました」の言葉に笑顔で返事をしてくれる人もいる。
客に限らず人から「ありがとう」と言われて嫌な思いをする人などいやしない。客の笑顔ひとつで「ああ、この仕事をやっていてよかった」と単純に思ったりすることもあるのだ。中元、クリスマス、歳末、年始、バレンタイン、ホワイトデーといったギフト商戦の時にはいつまでも客足が途切れることがなく、「エンドレス・ハンカチ」と内々でいわれるほど多忙な売り場ではあったけれど。

商戦時期に限らず、私がいたハンカチ売り場はデパートの1階にあったため、閑散期であっても、客が閉店時間を過ぎた後も残っていることが多かった。大抵は、閉店間際に駆け込んできて、ギフト用のハンカチを選んでいる客なのだが、他の売り場がレジを閉め、売り場の片付けに入っていても、こっちは客が商品を選び終え、会計を済ませ、購入した商品を受け取り、売り場から出るまでは何も出来ない。閉店時間から1時間近く経って、ようやく退勤のタイムレコーダーを押すということはよくあることだった。

デパートでは「お客様は神様」であり、客の態度や行動に販売員が文句を言える立場ではない。心の中であれこれ思うことはあっても、店員同士で、たとえお酒の席でも、そういうことをあからさまに話すことはなかった。…思わず笑ってしまうような面白いお客さんの話をすることはあっても。

でも、デパートを辞め、今度は自分が「客」の立場になったときに、客なのだからどんな態度を取ってもいいとか、客なのだから何をしてもいいとか、そういうことではないだろう、と私はあらためて思ったのだ。
だから私は品物を受け取ったときは、笑顔で「ありがとう」と店員に言うし、買い物に夢中になって、閉店の音楽とアナウンスが流れるまで気づかなかった時は、「閉店まで居てしまってゴメンなさい」と言うようにしている。
それは、相手(店員)に対する思いやりや気遣いでもあるのだけれど、何よりそうすることで自分自身が気持ちよく楽しく買い物が出来るからだ。

人と人とのコミュニケーションは、お互いの相手への思いやりが根底にあってこそ、スムーズに成り立つ。一方通行の、自分の欲だけを押し通そうとする、自分勝手な行動や態度は、ただ相手を傷つけ、無用な軋轢を生じるだけだ。それに気づかない人が、最近はなんと多いことだろう。なぜ、相手を思いやる気持ちを持てないのだろう。相手の気持ちに立って考える、たったそれだけの簡単なことなのに。

シゲが「Myojo」前号のエッセイでこう書いている。「舞台だって、ライブだって、自分だけのものではない。そこにいるほかの人のために、自分も正しく楽しまなければならない。すべてを完璧にというわけではなく、そうしようとする気持ちが大事なんだ。」

買い物に限らず、食事、観劇、映画鑑賞、ライブ、電車やバスの中…どんなシチュエーションでも、自分以外の人が周囲にいる場合、その人たちに対しても心を向け、相手の気持ちを慮って行動をとるのが、社会を生きていく人としての礼儀ではないかと思う。それは、こういう行動や態度が正しい、ということではなく、シゲの言うとおり「気持ちが大事」なのだ。
自分がやりたいことは、他の人だってやりたいのだ。でも、見境なく飛び出す前に、ほんの一瞬でもいい、周りを見てみれば、やりたいことを我慢している人たちがどれほど多いかに気づくことができると思う。そして、自分がいまやろうとしていたことは、果たして誰にも迷惑をかけないことなのか、自分以外の相手の立場に立って考えてみる、そのことが大事なのだ。

相手を思いやる優しい気持ちは心に余裕を作る。心の余裕は「心の自由」だ。その自由な感覚は自分を幸せな気持ちにしてくれる。笑顔で「ありがとう」と言うことに、たった一言「ごめんなさい」と言うことに、どれほどの労苦が必要だろう。たったそれだけで、暖かいコミュニケーションが生まれ、自分自身が幸せな気分になれるのなら、出し惜しみすることはない。


シゲ、いつも素敵なエッセイをありがとう。
そして、この前は感想メールで厳しいことを言ってしまってごめんなさい。


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引用出典 : 集英社刊「Myojo」2008年11月号 53頁「加藤成亮の発展途上エッセイ『青い独り言』」




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そう、この前初めて、私はエッセイの感想をシゲ宛(「Myojo」編集部宛)に送りました。
観客の鑑賞態度について、シゲが書いたことに強い共感を抱きながら、でも、同じ観客としての立場で感じた賛同とは異なるザラザラした感情もまた私の中にあって、いつものエッセイのようにただ共感したり、面白いと思ったりするだけなら、きっと感想は送らなかったと思います。

最初にシゲの言うことが正論であること、舞台を楽しむ観客の立場として非常に共感できる内容ことであることを書きながら、でも、私はあえてこう書きました。
「観客の態度を非難する言葉を、加藤君、あなたは書いてはいけない。あなたの舞台に、決して安くはないお金を払って劇場まで足を運んで観に来てくれたお客さんを、たとえどんなにマナーの酷い客だったとしても、その人たちを非難する言葉を言ってはいけない。一部の、酷いマナーの観客に対して非難の言葉を言っていいのは、同じ立場の観客だけです。舞台に立っているあなたがするべきことじゃない。」 …と。

もちろん、こんな言葉で感想を終わりにしたわけではなく、「物事を客観的に見つめ、自分の信念を素直に語るその姿勢と、一部のファンを失うかもしれないリスクを賭けてまで正論を語るその勇気を失って欲しくない」とか「アイドル誌で辛口で痛烈な意見を正直に言える加藤君は凛々しくてとても素敵だと思う」とか、その前に言ったこととは矛盾するようなことを書いたりもしたのだけれど…

メールを書いてから、書いた内容を何度も何度も読み返して、こんな内容のメールを大好きなシゲに送っていいのだろうかと逡巡して。

でも、シゲが言うところの酷い態度の客にも客なりの言い分や考えがあるのではないでしょうか。
開演時間に遅れて入ってきた客にも何か事情があったのかもしれない、それを責めるのであれば、遅れてきた客に対してではなく、シゲが舞台上に立っているときに客席へと案内するスタッフのやり方を批判するべきでしょう。
シゲの舞台はインターミッションがなかったけれど、演目の合間に必ずVTRコーナーがあったわけだから、そのときに客席に誘導すれば遅れてきた客の姿がシゲの目に入ることはなかったですよね。
セリフをかんだり間違えたりしたのを笑った客は、果たしてシゲが思うように「揚げ足を取ろうとして」笑ったのでしょうか。
その程度で笑うのはどうかと私も思うけれど、でも、そういう笑いが起こったのは、笑いの要素が入っていた演目の中だけではなかったかしら?笑ってもいい雰囲気というのがそこに流れていなかったかしら?
「定休日」「絆」「オレンジの花びら」…シゲが静かに私たちに語りかけた演目では、私が観た5公演とも、誰もが静かに聞き入っていたと思うのだけど。
大声で話しかけてくる客は、たぶんライブ会場のノリだったんでしょうね。
NEWSのコンサートで「笑い」をとる役目が多くなっている最近のシゲのことを見ていて、シゲが精魂込めて作り上げたエンターテイメントショーでも、コンサート会場との違いが分からなくて、思わず声を出してしまったのかもしれない。
でも、それは舞台の進行を邪魔しようと、悪意を持ってしたわけではない、ただ、鑑賞マナーを知らないだけ。

「悔しかった」
「僕をそういう風にしか見てくれないことが寂しすぎた」
「この公演を、バカにされたような気さえした」

鑑賞マナーがなっていないこと、イコール、シゲ自身をシゲの舞台をバカにした
という公式は当てはまらない。
もちろん、昨今の目に余る客側の問題はなんとかすべきだし、シゲの言うことは尤もなのだけれど、でも、個々の観客の事情やシゲに対する思いにまで至らず、ただその目に付いたことだけで相手を非難することは、今はまだ発展途上の「アイドル」としてやってはいけないことなんじゃないかな。

そんなことを思って、結局、メールを送りました。


でもね、送ってから、やっぱり、めちゃめちゃ後悔しちゃった。
言葉がきつすぎたかな、とか、シゲは正しいこと言ってるのに、それを挫くようなことを書いちゃったな、とか、読んで不愉快な気持ちにさせちゃったかな、とか。
私の言葉をシゲがどう思ったか分からない、面と向かって話せないもどかしさを、この時ほど痛烈に感じたことはなかったよ。
ま、今はもう過ぎてしまったことだから、気にしてないけどね。




ところで。

エッセイを全部書き終わってからタイトルを書こうとして、あらためてシゲのエッセイを見てみたら、そのテーマに「客―audience―」と書いてあることに気がつきまして。
おいおい~
シゲが書いたのは「audience 観客」の「客」だよ、私の書いた「客」は「customer」の客じゃん。

なので、今回のタイトルは漢字1字だけにしました(苦笑)


つか、あとがきの方が長すぎじゃね?

第9回 奥 ~depth~

2008-09-28 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
もう何度も言ってることだけど、それゆえに「またかよ?!」ってなカンジだけど

今回のテーマも難しかった!

なんか「奥」って言葉の範囲が広すぎじゃね?
何を書いたらいいのか、素材がぜんぜん浮かばなくって。
もうこのまま書かずにスルーしちゃおうかとも思ったけど、でも…

シゲが連載を続ける限り、私も書いていこうと思いました。
それは最新号のテーマ「客」を読んで、アイドルとして、ファン向けのアイドル誌で、これほど痛烈で辛口の内容を書ける彼をやっぱりすごいと思ったから。
あのエッセイは彼にとってアキレスの腱かもしれない。けれど、一部のファンを失うかもしれないリスクを賭けてまで、正直な気持ちを書き綴ったシゲのことを誇りに思うから。

というわけで、シゲのエッセイとは比べ物にならないくらい内容のないシロモノですけども、頑張って書きました(笑)


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「奥」という言葉から、今の私が連想するのはこれしかない。
「加藤成亮さんの奥様」

そんな冗談半分はさておき(半分は本気)、奥といえばやはり今浮かぶイメージは「大奥」だ。
視聴率も絶好調の大河ドラマ「篤姫」を、毎週欠かさず見ているのだから当たり前かもしれないが、女たちの戦いの場やドロドロした愛憎が渦巻く場所として大奥を描いていた今までのドラマや映画とは違って、夫と妻、母と子、嫁と姑という実に分かりやすい構図で描いたことで、「大奥」のイメージが自分にとって身近なものとして感じられたこともあるのかもしれない。

そんな「篤姫」がついにクランクアップしたということで、1年の終わりが近づいているんだなあとしみじみ思う。
堺さんが花束を持って現れた時に泣き崩れてるあおいちゃんの姿が写真に載ってますけども、彼女が思わず泣き崩れた気持ち、なんか分かるような気がするんだよね。きっと私でも泣き崩れる。だって「最期を看取れなかった最愛の夫」が目の前に現れたらそうなるでしょう。やっぱり大河ドラマで「夫婦」を演じるって特別なんじゃないかな。
1クール3ヶ月の連ドラと違って、1年にわたるわけだから。もちろん、篤姫と家定が夫婦だった期間は短かったので、堺さんとあおいちゃんが夫婦を演じた時間も大河の撮影の中での数ヶ月でしかなかったんだろうけど、堺さんがいなくなった後も、あおいちゃんは「家定の妻」であったことは変わらずに篤姫を演じていくわけだから、クランクアップを迎えるまで「家定への想い」というものが長く続いてたんだろうなと思うのですよ。

ぜんぜん「奥」とは違う内容に走ってますけども。
でも「心の奥」という表現にも使われたりするように、「奥」には表に表れない部分を意味することがある。なんだかんだと憶測や想像で言うことは簡単だけど、人の心の奥にある本心は本人以外には誰にも分からない。堺さんの姿を見た途端に泣き崩れたあおいちゃんの「夫・家定=堺雅人」に抱いていた本当の思いは彼女にしか分からない。

心の奥底にあるといえば、毎回性懲りもなく日焼けをする私の中にはトラウマがある。
私を知っている方はお分かりかと思いますが私は色白です。自分で自分を「私は色白です」というのもなんだがこそばゆいが、本当に色白で、子供の頃から、夏の炎天下にプールで泳ごうが、外で遊ぼうが、私のまわりにいた他の子たちのように日焼けしなくって、ちょっと赤くなっただけですぐに色白に戻ってしまうのですよ。
夏休み明け、こんがり日焼けしている友達がとにかく羨ましくてたまらなかった。どうしたら小麦色に日焼けできるだろうと、日焼け用オイルやクリームを塗ってはベランダで寝転がってみたりと、あらゆる方法で挑戦してみたが効果はほとんどなかった。
ところが、二十歳を過ぎた頃からだろうか、うっすらと日焼けするようになってきたのだ。(もしかすると、オゾン層が破壊されて、紫外線が強くなっただけなのかもしれないけど)
それからは子供の頃に果たせなかった「小麦色の肌」を手に入れようと、「色白」を目指すトレンドと逆行する行動をとるようになった私。
ところが、小麦色どころか火傷の一歩手前で痛い思いをした挙句、茶色の焦げ色を肌に残している。そういうこともあって、ここ数年は日焼けをしないように心がけてきたのだけれど…
今回のバリ島旅行、せっかく日焼け止めスプレーを持っていきながら、「でも、やっぱり、ちょっとは日焼けしたい」という心の奥に潜む悪魔の声にうっかり耳を傾けてしまったことから、テキトーにスプレーして済ませたその結果、久しぶりの熱い痛みと、きたない焼け跡を肌に作ってしまう羽目になったのだ。
もうそろそろ、心の奥のトラウマを「日焼けすると痛い」という記憶に置き換えたいのだが、果たして出来るのだろうか。

吹く風も秋の冷たさ、もうそろそろ、「奥様」らしい色白に戻りたい。

第8回  疑  ~doubt~

2008-08-25 | 円熟途上エッセイ「桃色の独り言」
4年に1度の夏の祭典、オリンピックが閉幕した。毎年、甲子園の高校野球が終わると、夏も終わりだなあとしみじみ感じるのだが、今年はオリンピックのおかげで、夏の終わりがもう少し後にずれたような気がして、夏が大好きな私としては、なんだか得したようでちょっぴり嬉しかった。
ブログにはほとんど書いていなかったが、私も連日オリンピックをテレビ観戦していた。ランチタイムにはわざわざTVの置いてある店に行ったり、職場にあるTVで職場のみんなで観たり、自宅に帰ってからは、オリンピックのライブ中継を流している局にチャンネルを合わせて、各種競技に見入っては、日本選手を応援し、また日本に限らず、素晴らしいプレーを見せてくれた選手に感動したり、熱戦に興奮したり、世界新の記録が出るたびに歓喜の声をあげて拍手喝さいしたりしながら、何気にエキサイティングしていたのだ。でも、ブログには全然書いてなかったけどね(笑)

世界新。ワールドレコード。水泳では北島が、マイケル・フェルプスが、陸上ではウサイン・ボルトが、エレーナ・イシンバエアが、世界新で金メダルを飾った。今回の大会で誕生した世界新は43もあるという。すごい。本当にすごい。あらためてハイレベルな戦いだったんだなあと思う。その苛烈な戦いの中で、新たな世界記録を打ち出した選手たちを心から祝福したい。
ただ、その陰で、今回もドーピング検査による陽性反応でメダルをはく奪され、オリンピックから永久追放された選手もいたことは残念なことだ。たとえ過去最少の6件だったとしても。
大会を重ねるたびに増えていたように思われるドーピング検査によるメダルのはく奪。感動の決勝戦の終わった後に検査によって判明する薬物使用の事実。その報道を聞くたびに、あのときの感動と興奮はいったい何だったのだろうと、なんだかとても切ない気持ちになった。
そして、このドーピングの積み重ねが、本来なら賞讃されるべき記録の裏に「何かあるのでは?」という疑いの意識を植え付けていくのだ。
これはロイター通信の記事だ。
『…ボルトをはじめジャマイカ選手に記録更新が相次いだのを受け、その陰には同国の十分に整備されていない薬物規制システムがあるのではとの見方も出た。これに対し、ボルトは会見で「数え切れないほどテストを受けさせられている。自分たちが優れ、潔白であることは分かっている。厳しい努力をしている。テストしたければいつでも大丈夫だ」と述べた。ジャマイカは独自の公認アンチドーピングシステムを持たないが、国際陸連(IAAF)の協力のもと、五輪前には90以上のテストを実施している。』
なんということだろう。過去最大規模ともいわれる4500件のドーピング検査が実施されていたにも関わらず、このような疑惑が出てしまうとは。
同じような疑惑は、水泳のフェルプス選手にも向けられたとも言われている。彼もまた「数えきれないほどの検査を受けている」と、自らの記録は薬物使用によるものではないことを主張したらしい。
ドーピング検査の厳しさは、参加している選手が誰よりも認識していることだ。誰もが同じ轍を踏むまいと、選手もスタッフも細心の注意を払っている。その上で出している記録にいったい何の疑いがあるというのだろう。
ドーピングを疑いながら観戦するオリンピックなんてつまらないじゃないか。
4年後のロンドンオリンピックの時までに、ドーピングの撲滅が成功していることを祈るばかりだ。

開会式に負けず劣らず華やかなパフォーマンスを繰り広げた閉会式を見て思う。「いちおうこれで、今回のオリンピックも表向きは成功裡に終わったことになるんだろうな」と。
主催国の人権問題や巧妙に隠された貧困格差、ネット規制、聖火リレーに見られた過剰な警備などの問題点はあれど、それでも一番の懸念事項だったテロも起きず、大会運営上の問題もなく、総合して「素晴らしい大会だった」と評価できるだろう。
それは、もちろんそうだ。過去最高の204の国と地域が参加し、参加選手たちがそれぞれのフィールドで全力で戦ったことには違いないのだから。たとえ、自分の持っている力の100%を発揮できなかったとしても。
オリンピックは誰のものでもない、大会に参加する選手たち一人一人のハレの場なのだ。
それこそ疑う余地のない事実だ。



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というわけで。
オリンピックも終わってしまい、夏の終わりの予感に気が抜けそうになってます。


そんな私に喝を入れようとしてくれたのか、本日届いた青い封筒


Arashi marks ARASHI AROUND ASIA 2008
国立競技場のチケットが届きました!!



えースミマセン



アリーナ、取れちゃいました



今回、取れなかった方も大勢いらっしゃるようで…
ここでこんな「幸運」を使ってしまっていいのかと、正直コワイです
本命のNEWSてかシゲの時にまたまた泣きを見るんじゃないかと



……………



なんてことをグダグダ考えててもしゃーないので!


9月6日思いっきり楽しんできます!!