今回はエッセイというよりは、シゲへの「手紙」になるかもしれない。
「問-Question」というテーマで、彼が自問自答したその内容は、私たち読者への「問いかけ」でもあると思ったから。
彼の「問い」はこういうものだった。
どうして人を殺してはいけないのか。
自分を殺すことはいいのか。
どうして人は生きるのだろうか。
生きていることの意味は?
自分が生まれてきた意味は?
生と死をあえてテーマの内容に持ってきた彼の真意は知るよしもないが、ただ、近頃の不条理がまかり通る世の中で、どうでもいい理由で人が安易に殺されたり、不景気社会の非情さに生きる希望を失ったり、抜け道の見えない未来を思い、この時代に生まれたことを恨んだり、その恨みの矛先が筋違いの方へ向けられて陰惨な事件を引き起こしたり、そんな陰鬱になるような話題ばかりが横行する毎日に、センシティブな感性を持つ彼には何か思うところがあったのかもしれない。
なぜ人を殺してはいけないのか。
その問いに彼が出した答えは「ならば、君は殺されたいのか?」。
「自分を守るために、他人を殺してはいけないという法律があるのだ。それ以外に理由なんかない。」
法律を勉強している彼らしい答えだと思った。
もちろん、私も誰かに殺されたいなどとは思わない。私の大切な人生が、他人の手によって勝手に絶たれるなんて考えたくもない。つまり、人を殺すということは、その人のその後の人生を他人である自分が終わらせるということだ。そんな重いツケを背負って、その後の人生を生きていくなど考えられない。だから私は他人を殺したいとは思わない。
普通、人は「人を殺してはいけない理由」を人としての倫理や感情でもって答える。ただ、その答えは、道徳や倫理、人としての当たり前の感情を理解できない人にはわかりにくい答えだ。
「ならば君は殺されたいのか?」 殺人罪を犯した人にこう問いかけたら、いったいなんと答えるのだろう。
「自分は殺されてもいいから誰かを殺す」そんな風に言う人は「まず矛先を自分に向けるべき」だと彼は言う。そして、「ならば自分を殺すことはいいのか」と彼は問いかける。
自分で自分の命を絶つ。「自殺」という言葉でくくられるこれもまた一つの殺人行為だが、他者を殺す行為と異なる点は、そこに至るまでの感情に「怒」や「憤」や「恨」がないことだ。日本人には理解しがたい「自爆テロ」のような行為は別として。
「僕は、何度か死にたいと思ったことがある」と彼は書いているが、私もまた「死にたい」と思ったことが過去にある。それでも、彼と同様、実際に死のうとして何かをしたことはない。それは、たとえ今辛くても、この辛さが一生涯にわたって続くものだとは思えなかったからだ。降り止まない雨がないのと同じように、どこまでも辛い人生というのがあるとは思えない。必ずどこかに「救い」はあると私は思ったのだ。それは、他者からの物理的、精神的な救いかもしれない。あるいは環境の変化かもしれない。だけど、一番の救いはきっと、自分の心の中にあるのだ。
「僕はこう感じたんだ。死ぬほど辛いことを経験したなら、1度死んだことになるのではないかと。何もかも投げ出したいなら、何度だって生まれ変わればいいんだ。そう思えたとき、僕は少しだけ生きることが気持ちよくなった。」
私の考え方とは若干異なるし、実際には人は何度も生まれ変われるわけじゃないが、考え方・発想の転換として、彼の言葉に共感できることはとても多い。
また、彼は森山直太朗さんの『生きてることが辛いなら』という曲を引き合いに出し、その歌詞から、生きること、死ぬことについてこう語っている。
「死は、遅かれ早かれいつか絶対にやってくる。わざわざ自ら向こう側に行く必要なんかない。」
だから、それまでの間、自分の人生を全うすればいいのだ、と。
人は死んでしまったら、それで終わりだ。だけど、もしかしたら、明日、思いがけない幸運が転がり込んでくるかもしれない。いや、明日でなくても、それがたとえ数年後のことかもしれなくても。自分の人生を80年と考えた場合、その先に待っている幸せな時にたどり着くことを途中で諦めてしまうのはもったいない。
何かで読んだのだが、毎日どんなことでもいい。1日を終えたらその日を振り返って、道端に可愛い花を見つけた、風が気持ちよかった、そんな些細なことでもいい、何かよかったことを1つ見つけて、日記でも手帳でも何かに書きとめるといいらしい。そうすると、意外なことに、何もないと思っていた自分の周りに楽しいこと、幸せなことが転がっていることを発見できるらしい。
でも、私はそうすることを誰にでも勧めているわけではない。そこに生きるための意味を見つけてほしいわけではない。
どうして人は生きるのだろうか。
生きていることの意味は?
自分が生まれてきた意味は?
その自ら投げかけた問いに、彼は意味などないと言いきっている。意味を探そうとするから苦しいのだと。
それは彼の出した結論であって、私はそれを否定もしないし、反対にその意味を探そうとする人についても否定しない。彼が考えて考えて出した答えは彼のものだから。それを否定する権利など私にも誰にもない。
でも、もし「生きる」ことに意味を持たせるのだとしたら、それは一つしかないと私は思う。
「この世に生まれてきたから」
生まれてきたのは自分の意思ではない、でも、この世に生まれてきたからには、いつかその命が自然に消えていくまで、生き続けていくしかない。そして「死ぬとき」までをどう生きるかというのは、人生の目標や目的であって、生きるという意味とはまた別の次元の話だと思う。
だが、子孫を残すために生きるだけの動植物と違って、私たち人間はそれぞれ異なった、色々な生き方ができる唯一の生物だ。
スタンダールの墓標にある「生きた、書いた、愛した」ではないが、「生きた」以外の言葉で、自分の人生を表現できる生き方をしていきたいと心から思う。
************************************************
引用出典 : 集英社刊「Myojo」2009年3月号 66頁「加藤成亮の発展途上エッセイ『青い独り言』」
「問-Question」というテーマで、彼が自問自答したその内容は、私たち読者への「問いかけ」でもあると思ったから。
彼の「問い」はこういうものだった。
どうして人を殺してはいけないのか。
自分を殺すことはいいのか。
どうして人は生きるのだろうか。
生きていることの意味は?
自分が生まれてきた意味は?
生と死をあえてテーマの内容に持ってきた彼の真意は知るよしもないが、ただ、近頃の不条理がまかり通る世の中で、どうでもいい理由で人が安易に殺されたり、不景気社会の非情さに生きる希望を失ったり、抜け道の見えない未来を思い、この時代に生まれたことを恨んだり、その恨みの矛先が筋違いの方へ向けられて陰惨な事件を引き起こしたり、そんな陰鬱になるような話題ばかりが横行する毎日に、センシティブな感性を持つ彼には何か思うところがあったのかもしれない。
なぜ人を殺してはいけないのか。
その問いに彼が出した答えは「ならば、君は殺されたいのか?」。
「自分を守るために、他人を殺してはいけないという法律があるのだ。それ以外に理由なんかない。」
法律を勉強している彼らしい答えだと思った。
もちろん、私も誰かに殺されたいなどとは思わない。私の大切な人生が、他人の手によって勝手に絶たれるなんて考えたくもない。つまり、人を殺すということは、その人のその後の人生を他人である自分が終わらせるということだ。そんな重いツケを背負って、その後の人生を生きていくなど考えられない。だから私は他人を殺したいとは思わない。
普通、人は「人を殺してはいけない理由」を人としての倫理や感情でもって答える。ただ、その答えは、道徳や倫理、人としての当たり前の感情を理解できない人にはわかりにくい答えだ。
「ならば君は殺されたいのか?」 殺人罪を犯した人にこう問いかけたら、いったいなんと答えるのだろう。
「自分は殺されてもいいから誰かを殺す」そんな風に言う人は「まず矛先を自分に向けるべき」だと彼は言う。そして、「ならば自分を殺すことはいいのか」と彼は問いかける。
自分で自分の命を絶つ。「自殺」という言葉でくくられるこれもまた一つの殺人行為だが、他者を殺す行為と異なる点は、そこに至るまでの感情に「怒」や「憤」や「恨」がないことだ。日本人には理解しがたい「自爆テロ」のような行為は別として。
「僕は、何度か死にたいと思ったことがある」と彼は書いているが、私もまた「死にたい」と思ったことが過去にある。それでも、彼と同様、実際に死のうとして何かをしたことはない。それは、たとえ今辛くても、この辛さが一生涯にわたって続くものだとは思えなかったからだ。降り止まない雨がないのと同じように、どこまでも辛い人生というのがあるとは思えない。必ずどこかに「救い」はあると私は思ったのだ。それは、他者からの物理的、精神的な救いかもしれない。あるいは環境の変化かもしれない。だけど、一番の救いはきっと、自分の心の中にあるのだ。
「僕はこう感じたんだ。死ぬほど辛いことを経験したなら、1度死んだことになるのではないかと。何もかも投げ出したいなら、何度だって生まれ変わればいいんだ。そう思えたとき、僕は少しだけ生きることが気持ちよくなった。」
私の考え方とは若干異なるし、実際には人は何度も生まれ変われるわけじゃないが、考え方・発想の転換として、彼の言葉に共感できることはとても多い。
また、彼は森山直太朗さんの『生きてることが辛いなら』という曲を引き合いに出し、その歌詞から、生きること、死ぬことについてこう語っている。
「死は、遅かれ早かれいつか絶対にやってくる。わざわざ自ら向こう側に行く必要なんかない。」
だから、それまでの間、自分の人生を全うすればいいのだ、と。
人は死んでしまったら、それで終わりだ。だけど、もしかしたら、明日、思いがけない幸運が転がり込んでくるかもしれない。いや、明日でなくても、それがたとえ数年後のことかもしれなくても。自分の人生を80年と考えた場合、その先に待っている幸せな時にたどり着くことを途中で諦めてしまうのはもったいない。
何かで読んだのだが、毎日どんなことでもいい。1日を終えたらその日を振り返って、道端に可愛い花を見つけた、風が気持ちよかった、そんな些細なことでもいい、何かよかったことを1つ見つけて、日記でも手帳でも何かに書きとめるといいらしい。そうすると、意外なことに、何もないと思っていた自分の周りに楽しいこと、幸せなことが転がっていることを発見できるらしい。
でも、私はそうすることを誰にでも勧めているわけではない。そこに生きるための意味を見つけてほしいわけではない。
どうして人は生きるのだろうか。
生きていることの意味は?
自分が生まれてきた意味は?
その自ら投げかけた問いに、彼は意味などないと言いきっている。意味を探そうとするから苦しいのだと。
それは彼の出した結論であって、私はそれを否定もしないし、反対にその意味を探そうとする人についても否定しない。彼が考えて考えて出した答えは彼のものだから。それを否定する権利など私にも誰にもない。
でも、もし「生きる」ことに意味を持たせるのだとしたら、それは一つしかないと私は思う。
「この世に生まれてきたから」
生まれてきたのは自分の意思ではない、でも、この世に生まれてきたからには、いつかその命が自然に消えていくまで、生き続けていくしかない。そして「死ぬとき」までをどう生きるかというのは、人生の目標や目的であって、生きるという意味とはまた別の次元の話だと思う。
だが、子孫を残すために生きるだけの動植物と違って、私たち人間はそれぞれ異なった、色々な生き方ができる唯一の生物だ。
スタンダールの墓標にある「生きた、書いた、愛した」ではないが、「生きた」以外の言葉で、自分の人生を表現できる生き方をしていきたいと心から思う。
************************************************
引用出典 : 集英社刊「Myojo」2009年3月号 66頁「加藤成亮の発展途上エッセイ『青い独り言』」
今回のテーマは重いですね。
私が子供の頃は今ほど簡単に「死」「殺」なんて言葉は横行してなかったように思います。
子供心にもそういった言葉の魔力を知ってて避けていたというのもあるかもしれません。
昨年私は喧嘩の仲裁に入っただけで、喧嘩ふっかけていた人から「わたしの心を殺す気ですか。どうぞ殺して下さい」と言われました。
怒りを納めて穏やかに話しませんか?と言っただけなのに…。
言われた私の方がワケ分からなくて参りましたよ。
私の大好きなアーティストの浅岡雄也さんが新曲の歌詞で
〝運ばれた命じゃない 命は使うもの〟
と歌ってて、本当にそうだと思ってます。
昨年「生きたくても生きる事ができなかった祖母」を間近で見ている分、命の重さを痛感しています。
自分が生まれてきた意味って、人生のうちで何度か考えることがあると思います。
何度考えても答えが出なかったり、その時々によって考えが変わったりするのは、生きることの重さをひしひしと感じているからかも知れませんね。
明確な答えはなくても、生きていればそのうち良いことがあると信じて、歩いていくのが一番だと思います。
とても考えさせられるテーマでした。
簡単にリセットできる殺人ゲームが横行しているからだとか、ケータイの普及で人と人との直のコミュニケーションが不足しているからだとか、その原因はいろいろ言われていますが、そんな単純な理由じゃないと思うんですよね。
ただ核家族化で身近な人の「死」を目の前で見る機会はなくなってて、人が命を失うということが実際どういうものなのか、心で理解していない人は多いんじゃないかと思います。
「命は使うもの」って心にずしりと響く言葉ですね。使うものということは決して無駄なものではないってことですものね。
ただ確かに、その答えが見出せないこともあるし、以前とは違った考えに至ることもある。
だからそこには意味などなく、正しい答えはないのだ、とも言えるんでしょうね。