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旅の日記や日々の出来事

長宗我部信親 終焉の地 戸次(へつぎ)川古戦場

2015年10月29日 | 旅行

土佐の生んだ武将と言えば長宗我部元親です。銅像を建てるという呼びかけに全国の歴女などから1500万円集まったという人気ぶりですが、その嫡男信親がこれまた185cmの色白長身のイケメンだったそうです。織田信長から一字をもらい信長の養子にとの話もあったというのですから武将としても並外れていたということでしょう。

本能寺の変の後、九州制覇を狙う薩摩島津の2万の大軍が豊後(大分)の大友氏を攻撃しました。秀吉の命令で四国連合軍として大友救援に元親と信親親子、十河存保、軍監の仙石秀久らが6000人派遣されたのです。軍監秀久は手柄をたてようと元親らの反対を押しきって戸次川を渡って攻撃を命じました。まんまと待ち伏せにあい四国連合軍は2700人余りが戦死。信親らは勇猛果敢に戦うも壮絶な最後を遂げました。享年22歳、1586年12月12日のことでした。信親の死後、落胆した元親は人が変わってしまい、有能な部下を多数失ったこともあり土佐藩は苦難の道を歩みます。関ヶ原で失敗から山内一豊ごときに領地を追われます。一方、秀久は戦場から逃げて生き延び、怒った秀吉から領地を没収されましたが後に徳川家康に拾われて復権したのです。信親が秀久の無謀な攻撃で死ななければ土佐の歴史は大きく変わっことでしょう。残念至極。讃岐の秀久には恨み骨髄です。

現在も戸次地区では敵味方なく供養し、11月には大野川合戦祭りが行われています。

ツアーに参加して古戦場などを見てきました。バスから撮った写真ですが光っている川が大野川でこの一帯が古戦場です。なんと山の左辺りに 南こうせつさんの生家がありお兄さんが住職をしているお寺があるそうです。

 

信親終焉の地に立派な碑が建てられています。

信親の墓です。

 

信親達の鎧を埋めたという鎧塚です。

コメント (1)
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