皆川博子著『夜のリフレーン』は、初期から現在までの単行本未収録作品の中から幻想小説を集めた作品集。
「夜のリフレーン」「夜、囚われて」「スペシャル・メニュー」「赤姫」「夜明け」「陽射し」「恋人形」「赤い砂漠」「紡ぎ唄」「踊り場」「笛塚」「虹」「妖瞳」「七谷屋形」「島」「紅い鞋」「青い扉」「新吉、おまえの」「桑の木の下で」「そ、そら、そらそら、兎のダンス」「水引草」「メタ・ドリーム」「蜘蛛が踊る」「そこは、わたしの人形の」の24編が精選されている。
初出は1977年から2016年と、幅広い年代から選ばれている。
物語の舞台は、近未来だったり戦時中だったりと色々。古い医家、異母姉妹、夭折した弟、人形、流人島、神社のお祭りなど、皆川作品でお馴染みのモチーフが数多く見られる。
読んでいて、皆川さんは初期から皆川さんだったのだなと改めて思った。
初期から世界観が完成されているけど、決してマンネリではない。生まれ持った感性一辺倒ではなく、かなり技巧の修練をされている気がする。80歳を超えても尚書く意思と構想があり、そこに技術力が伴っているとは。
短いものは僅か1ページ、長いものでも30ページほどの小さな小さな作品たちであるが、その分、作品から受けるインパクトは大きい。この、不意に紙で指先を切ってしまった時のようなヒッとなる感じとか、或いは、水中からユラユラ揺れる日の斑を眺めているような茫洋とした感じは、好き嫌いが分かれるかもしれない。が、誰が読んでも何かが残る作品群だと思う。
「夜のリフレーン」と福田隆義氏の画、「蜘蛛が踊る」と金子富之氏の幻想写真画、「そこは、わたしの人形の」と中川多里氏制作・撮影の人形写真とのコラボも怖いような美しさだった。
長編偏重の出版界の中で長らく行き場を無くしていたこれらの短編を、作者本人ですら手元に残していなかった作品も含めて探し集め、一冊の本に纏め上げてくれた編者の日下三蔵氏の尽力には感謝しかない。
巻末の編者解説によると、編纂にあたっては“多くの作品をふるい落とさなければならないという意味で大変悩ましくもあった”とのこと。日下氏の愛情と無念のこもった解説を読むと、今回選ばれなかった作品も、いずれ日の目を見る機会があるかもしれないと期待を抱いてしまう。因みに、ミステリ系の短編を集めた『夜のアポロン』も間を置かずに刊行されている。
「夜、囚われて」の珈琲店の店員は、いつの頃からか孤独な中年女の夢の中に閉じ込められている。
モカさん――彼の勤務する喫茶店の店員たちの間でそう呼ばれる女は、店の常連客で小説家だ。
モカさんは彼に執着しているようだが、彼にとってモカさんは母親と同じくらい恋愛の対象外の存在だ。第一、彼はもう一人の常連客の本屋の娘といい雰囲気になっている。
モカさんは策を弄して、彼と娘の間を引き裂く。彼はモカさんに殺意を抱くが、その時、自分がモカさんの夢の中に閉じ込められていることを知る。今この時間も、現実の彼はあの喫茶店で働いている。では、ここにいる彼は何者なのか。
モカさんの夢の中で見る彼の夢には終わりがない。円環の夢の中で彼は何度も死ぬが、そのたびに新しい朝が始まる。
「スペシャル・メニュー」は、近未来の日本の労働と食の事情について。
かつては一億人で運営していた日本国であったが、この物語の時代では人口が激減しており、七千人くらいでやりくりしていかなければならなくなっている。まったくの労働力不足だ。
国家予算を賄うための税金は凄まじく、国税、地方税を合算すると、全税金は全収入を超えてしまう。故に国民は一人何役もの仕事を掛け持ちして、きりきり舞いに働き続けている。
この国の国民は、高度の文明文化生活に浴した人ばかりだから、文明文化の水準を下げることが出来ない。特に、美味求真は。
誰も表立って言わないが、人口激減の原因の一つがこの美味求真にあるのは確からしい。しかし、食道楽は文明人の証である。どれほど人口が減ろうが、税金が上がろうが、そこは譲れない。
黒海のキャビアもフォアグラも食べ飽きた美食家たちの間で、この世で最高の料理の存在が密かに囁かれ始めた。仔牛の肉より柔らかく、猿の脳みそよりコクがあり、舌の上でとろりととろけ、しかも腹にもたれない。一度食べたら病みつきになるその料理とは。
「青い扉」では、本当に大切な人の名前は、最後まで明かされない。没個性な団地に住む名前のない女は、戦中と戦後の価値観の間で宙ぶらりんになっている。
戦後の住宅難解消のために慌ただしく乱立された団地は、外装を塗装する金も手間も惜しみ、どれも監獄のような様相をしている。灰色のコンクリートの壁には、ダストシュートの鉄扉と同じ青黒い鉄扉が一戸ずつはめ込まれている。
そんな団地の一戸に、〈高瀬明子〉は引っ越して来た。
部屋には前の住人のタイプライターが置きっぱなしにされている。向かいに住む大坪は、前の住人の名を〈山村さん〉と呼んでいたが、生烏賊に似ている奇妙な少年は、前の住人の名は〈浦上凛子〉だと言う。どちらが正しいのかわからない。
正しいと言えば、〈高瀬明子〉の名前も実は本名ではない。
〈高瀬明子〉は大切な〈彼〉の名を決して口にはすまいと思っている。〈彼〉の名を、好色漢の森塚だの図々しい大坪だのと並べたくないのだ。
戦争の末期、電車で工場に通っていたら空襲警報が鳴った。線路伝いに避難する際に、同じ車両に乗っていた〈彼〉が手を引いてくれた。そんなことが何度かあったある日、〈彼〉は機銃掃射で死んでしまった。
〈高瀬明子〉は、〈浦上倫子〉のタイプライターで猫という字を打ってみる。
猫という漢字には、余計な線が入っている気がする。獣偏のノの線が草冠と田の間を通って、猫の首に紐が絡みついているよう見えるのだ。
〈高瀬明子〉は、森塚からの手紙にも、大坪の詮索にもうんざりしている。〈浦上倫子〉って、誰なのだろう。猫のように室内に入りこんでくる生烏賊は、一体何がしたいのだろう。
「新吉、おまえの」は、「紅い鞋」と同様、履物にまつわる話だが、「紅い鞋」の美しい刺繍の施された纏足よりも、新吉の地下足袋や履き古した下駄といった労働力らしい倹しい履物の方が、アンバランスな色気を醸し出していて怖かった。この働き者の少年の心の内は最後まで明かされない。そこに妙味がある。
いつも地下足袋で隠された新吉の足の、古い餅のようにひび割れた踵と柔らかい色の土踏まずの対比。それを知っているのは、おそらく語り手と彼女の母親の二人だけだ。
幼い語り手から無言で差し出された色鉛筆の木肌を、幾重にも重なった菊の花びらみたいになるように削ってみせた新吉の心中にあったのは、年少者に向ける当たり前の思いやりだけではなかったのだろう。
使用人を酷使することしか知らない語り手の母親が、新吉に着せるために夫の浴衣を手ずから丁寧に仕立て直す場面とか、その浴衣を着た新吉と夏祭りに行った語り手が、彼の素足の土踏まずにかき氷を垂らす場面とか、何て事の無い行為の裏から透けて見える意図にはゾワゾワさせられた。
「蜘蛛が踊る」は、繭になる子供と蜘蛛たちが煌めくお寺の話。
その寺は、あぶら寺と呼ばれていた。
油ではなく脂なのだ。子供たちはみんな知っていた。だけど、大人たちはそんな寺の存在を知らない。第一、野原にはお寺どころが、建物など一つも建っていない。どこまでも草むらが広がっているだけなのだ。
じゃんけんに負けた子が、あぶら寺に行かされる。弱い子は何度も行かされるが、そのたびに痩せ細り、やがて姿を消す。子供の脂で出来ているのだ、あぶら寺は。
草むらには蜘蛛の群れが蠢いている。
どこから湧いて出るのか、夕日が沈むと、蜘蛛の群れは原っぱを覆って、宙に浮かんで踊りながら糸を張り巡らせる。糸はやがて、雪のように真っ白なお寺の屋根になる。子供たちの恐怖のしみ込んだ脂は、蜘蛛の糸に吸われて浄化する。月明かりの下、繭になった子供は、お寺と一つに溶けあい永遠の浄福に包まれる。それは静寂と安寧に満ちた極楽浄土なのだった。
「夜のリフレーン」「夜、囚われて」「スペシャル・メニュー」「赤姫」「夜明け」「陽射し」「恋人形」「赤い砂漠」「紡ぎ唄」「踊り場」「笛塚」「虹」「妖瞳」「七谷屋形」「島」「紅い鞋」「青い扉」「新吉、おまえの」「桑の木の下で」「そ、そら、そらそら、兎のダンス」「水引草」「メタ・ドリーム」「蜘蛛が踊る」「そこは、わたしの人形の」の24編が精選されている。
初出は1977年から2016年と、幅広い年代から選ばれている。
物語の舞台は、近未来だったり戦時中だったりと色々。古い医家、異母姉妹、夭折した弟、人形、流人島、神社のお祭りなど、皆川作品でお馴染みのモチーフが数多く見られる。
読んでいて、皆川さんは初期から皆川さんだったのだなと改めて思った。
初期から世界観が完成されているけど、決してマンネリではない。生まれ持った感性一辺倒ではなく、かなり技巧の修練をされている気がする。80歳を超えても尚書く意思と構想があり、そこに技術力が伴っているとは。
短いものは僅か1ページ、長いものでも30ページほどの小さな小さな作品たちであるが、その分、作品から受けるインパクトは大きい。この、不意に紙で指先を切ってしまった時のようなヒッとなる感じとか、或いは、水中からユラユラ揺れる日の斑を眺めているような茫洋とした感じは、好き嫌いが分かれるかもしれない。が、誰が読んでも何かが残る作品群だと思う。
「夜のリフレーン」と福田隆義氏の画、「蜘蛛が踊る」と金子富之氏の幻想写真画、「そこは、わたしの人形の」と中川多里氏制作・撮影の人形写真とのコラボも怖いような美しさだった。
長編偏重の出版界の中で長らく行き場を無くしていたこれらの短編を、作者本人ですら手元に残していなかった作品も含めて探し集め、一冊の本に纏め上げてくれた編者の日下三蔵氏の尽力には感謝しかない。
巻末の編者解説によると、編纂にあたっては“多くの作品をふるい落とさなければならないという意味で大変悩ましくもあった”とのこと。日下氏の愛情と無念のこもった解説を読むと、今回選ばれなかった作品も、いずれ日の目を見る機会があるかもしれないと期待を抱いてしまう。因みに、ミステリ系の短編を集めた『夜のアポロン』も間を置かずに刊行されている。
「夜、囚われて」の珈琲店の店員は、いつの頃からか孤独な中年女の夢の中に閉じ込められている。
モカさん――彼の勤務する喫茶店の店員たちの間でそう呼ばれる女は、店の常連客で小説家だ。
モカさんは彼に執着しているようだが、彼にとってモカさんは母親と同じくらい恋愛の対象外の存在だ。第一、彼はもう一人の常連客の本屋の娘といい雰囲気になっている。
モカさんは策を弄して、彼と娘の間を引き裂く。彼はモカさんに殺意を抱くが、その時、自分がモカさんの夢の中に閉じ込められていることを知る。今この時間も、現実の彼はあの喫茶店で働いている。では、ここにいる彼は何者なのか。
モカさんの夢の中で見る彼の夢には終わりがない。円環の夢の中で彼は何度も死ぬが、そのたびに新しい朝が始まる。
「スペシャル・メニュー」は、近未来の日本の労働と食の事情について。
かつては一億人で運営していた日本国であったが、この物語の時代では人口が激減しており、七千人くらいでやりくりしていかなければならなくなっている。まったくの労働力不足だ。
国家予算を賄うための税金は凄まじく、国税、地方税を合算すると、全税金は全収入を超えてしまう。故に国民は一人何役もの仕事を掛け持ちして、きりきり舞いに働き続けている。
この国の国民は、高度の文明文化生活に浴した人ばかりだから、文明文化の水準を下げることが出来ない。特に、美味求真は。
誰も表立って言わないが、人口激減の原因の一つがこの美味求真にあるのは確からしい。しかし、食道楽は文明人の証である。どれほど人口が減ろうが、税金が上がろうが、そこは譲れない。
黒海のキャビアもフォアグラも食べ飽きた美食家たちの間で、この世で最高の料理の存在が密かに囁かれ始めた。仔牛の肉より柔らかく、猿の脳みそよりコクがあり、舌の上でとろりととろけ、しかも腹にもたれない。一度食べたら病みつきになるその料理とは。
「青い扉」では、本当に大切な人の名前は、最後まで明かされない。没個性な団地に住む名前のない女は、戦中と戦後の価値観の間で宙ぶらりんになっている。
戦後の住宅難解消のために慌ただしく乱立された団地は、外装を塗装する金も手間も惜しみ、どれも監獄のような様相をしている。灰色のコンクリートの壁には、ダストシュートの鉄扉と同じ青黒い鉄扉が一戸ずつはめ込まれている。
そんな団地の一戸に、〈高瀬明子〉は引っ越して来た。
部屋には前の住人のタイプライターが置きっぱなしにされている。向かいに住む大坪は、前の住人の名を〈山村さん〉と呼んでいたが、生烏賊に似ている奇妙な少年は、前の住人の名は〈浦上凛子〉だと言う。どちらが正しいのかわからない。
正しいと言えば、〈高瀬明子〉の名前も実は本名ではない。
〈高瀬明子〉は大切な〈彼〉の名を決して口にはすまいと思っている。〈彼〉の名を、好色漢の森塚だの図々しい大坪だのと並べたくないのだ。
戦争の末期、電車で工場に通っていたら空襲警報が鳴った。線路伝いに避難する際に、同じ車両に乗っていた〈彼〉が手を引いてくれた。そんなことが何度かあったある日、〈彼〉は機銃掃射で死んでしまった。
〈高瀬明子〉は、〈浦上倫子〉のタイプライターで猫という字を打ってみる。
猫という漢字には、余計な線が入っている気がする。獣偏のノの線が草冠と田の間を通って、猫の首に紐が絡みついているよう見えるのだ。
〈高瀬明子〉は、森塚からの手紙にも、大坪の詮索にもうんざりしている。〈浦上倫子〉って、誰なのだろう。猫のように室内に入りこんでくる生烏賊は、一体何がしたいのだろう。
「新吉、おまえの」は、「紅い鞋」と同様、履物にまつわる話だが、「紅い鞋」の美しい刺繍の施された纏足よりも、新吉の地下足袋や履き古した下駄といった労働力らしい倹しい履物の方が、アンバランスな色気を醸し出していて怖かった。この働き者の少年の心の内は最後まで明かされない。そこに妙味がある。
いつも地下足袋で隠された新吉の足の、古い餅のようにひび割れた踵と柔らかい色の土踏まずの対比。それを知っているのは、おそらく語り手と彼女の母親の二人だけだ。
幼い語り手から無言で差し出された色鉛筆の木肌を、幾重にも重なった菊の花びらみたいになるように削ってみせた新吉の心中にあったのは、年少者に向ける当たり前の思いやりだけではなかったのだろう。
使用人を酷使することしか知らない語り手の母親が、新吉に着せるために夫の浴衣を手ずから丁寧に仕立て直す場面とか、その浴衣を着た新吉と夏祭りに行った語り手が、彼の素足の土踏まずにかき氷を垂らす場面とか、何て事の無い行為の裏から透けて見える意図にはゾワゾワさせられた。
「蜘蛛が踊る」は、繭になる子供と蜘蛛たちが煌めくお寺の話。
その寺は、あぶら寺と呼ばれていた。
油ではなく脂なのだ。子供たちはみんな知っていた。だけど、大人たちはそんな寺の存在を知らない。第一、野原にはお寺どころが、建物など一つも建っていない。どこまでも草むらが広がっているだけなのだ。
じゃんけんに負けた子が、あぶら寺に行かされる。弱い子は何度も行かされるが、そのたびに痩せ細り、やがて姿を消す。子供の脂で出来ているのだ、あぶら寺は。
草むらには蜘蛛の群れが蠢いている。
どこから湧いて出るのか、夕日が沈むと、蜘蛛の群れは原っぱを覆って、宙に浮かんで踊りながら糸を張り巡らせる。糸はやがて、雪のように真っ白なお寺の屋根になる。子供たちの恐怖のしみ込んだ脂は、蜘蛛の糸に吸われて浄化する。月明かりの下、繭になった子供は、お寺と一つに溶けあい永遠の浄福に包まれる。それは静寂と安寧に満ちた極楽浄土なのだった。