青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

見守り猫

2017-12-28 08:20:05 | 日記

晴天だったので、凜を庭で遊ばせました。
桜、蓬、柏は窓際から見守っています。我が家の猫ちゃんズは、凜が大好き。特に柏は、凜の動きにあわせて家の中を行ったり来たりするのが可愛いです。
錆柄の猫は賢いという俗説がありますが、柏は好奇心旺盛で、家族の動きをよく見ていますし、テレビやネットの動画にも興味津々なのですよ。


猫団子!


娘・コメガネと蓬はモノトーン・コンビ。
コメガネのスカートに同化して、蓬の胴体が分かりません。
コメガネは小さなころから黒系統の服を好んで着用しています。学校では魔女と言われているそうですよ。

学校は先週金曜日に終業式でしたが、今週火曜日から冬期講習に通っているので、コメガネはなかなか忙しいです。
ゆっくりさせてあげたいのはやまやまなんですよ。
でも、塾の先生によると、コメガネの小学校は地区で一番レベルが低いそうなのです。このことは、藤沢の他の地区に住んでいる私の知り合いも言っていたので、残念ながら本当のことなのでしょう。特に、今年のコメガネのクラスは学級崩壊状態で、同学年の他のクラスと比べても授業の進度が遅れています。クラスが学びの場として機能でいていない以上、自主的に頑張るしかないのですよね。

娘が塾で頑張っている間に、私は少しずつ大掃除をしています。
後は障子の張替えだけです。これは手先の器用な夫にお任せ。彼も今日から冬休みです。

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サンタいっぱいケーキ

2017-12-25 08:10:54 | 日記



クリスマス・ケーキを焼きました。
今年はブッシュ・ド・ノエルにしようかと思ったのですが、結局苺のデコレーション・ケーキに落ち着きました。


焼きあがったスポンジです。今回はお花のシリコン型を使いました。
これまでケーキのスポンジは耐熱ガラスの型で焼いていたのですが、シリコン型の方が扱いやすいですね。素手でオーブンから出せるし、型からスポンジを外しやすい。何より急な温度差で割れることが無いので、熱いオーブンから出してすぐに冷たい台に置けるのが便利です。


しかし、生クリームの塗り付けで大苦戦しました。
厚く塗ったら花型の窪んだところが潰れてしまうし、薄く塗ったらケーキの地肌が見えてしまうし…。いっそのこと、側面は塗らない方が良かったかもしれません。
今度シリコン型を買うとしたら、普通の丸型にしようと思いました。


苺で作ったサンタクロースです。目には湯煎したチョコレートを使いました。
お菓子作りは好きなのですが、不器用な上にデコレーションのセンスもないので、なかなか自己満足の域を脱却できません。でも、家族からは、「可愛い(←娘)」「よく頑張った(←夫)」と言ってもらえたので、作って良かったです。


娘へのプレゼントはデジカメです。
さっそく我が家の犬猫の撮影をしていました。娘専用のミニアルバムもプレゼントしましたよ。いっぱい撮ってね!
私はコートとワンピース、夫は革靴を買いました。
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学級崩壊

2017-12-21 07:12:09 | 日記
昨日は、我が家のある地域で、小・中学校合同引き渡し訓練が行われました。
目的は「大規模地震情報発表時における児童・生徒の安全な帰宅を期するため、小・中学校合同訓練を通して保護者への円滑な引き渡しの方法について周知を図る。」です。

娘の通う小学校では、毎年夏に学校単体で引き渡し訓練を行っています。
で、毎回引き渡しに無駄に時間が掛かるのですが、一向に改善されません。主な原因は保護者にあると思います。
とにかく、喋り過ぎ。
喋ってないと死ぬ病気なのかってくらい、ずっと喋っている保護者が多いです。これは授業参観の時も同じ。お喋りならファミレスでどうぞって思います。これじゃあ生徒たちも授業中にお喋りする訳だ……。今回も勿論例外ではありませんでした。合同訓練が今後毎年行われるようになるかどうかは分かりませんが、やはり一番の課題はここだと感じました。

ちょっと話が変わりますが、今回も娘から私の服装についてダメ出しがありました。
確かに私の服装は昔から独特だと言われますが、別に派手ではないのですよ。スカート主義なだけです。それと、髪型は常にロングです。今回もワンピース×ウェービーロングで行ったら、娘からメチャクチャ目立っていると言われました。色味は控えめなのですが。
娘的には、保護者の服装とはジーパンにチュニックかスウェット、髪型はショートかセミロングが普通なんだそうですが、私はそういう格好は苦手です。あと、おもてに出るのにノーメイクも無理です。この点については夫からも、「誰も見てないのに何でいちいちお化粧するの?」と言われたことがありますが、私にとっては、誰が見ているとか見ていないとかは関係ないのです。

話を戻して。保護者が原因と言えば、もう一つ。
今年度の娘のクラスは、学校でもぶっちぎりの学級崩壊状態に陥っています。
もう、一学期の最初の週から無法地帯。
授業中に立ち歩いたり大声で喋ったりする生徒なんてまだましな方で、中には殴り合いの喧嘩を始める生徒もいるそうです。小学五年生ともなると、男子はかなり力が強くなっていますから、担任の女性教諭では取り押さえることが出来ず、逆に殴られたり突き飛ばされたりするので、騒ぎを聞きつけた隣のクラスの男性教諭が止めに来るまで収束できない状態がずっと続いていました。

隣のクラスの先生に掛かる負担が大き過ぎるため、二学期からは校長と教頭が交代で娘のクラスの副担任の役割をするようになりました。
しかし、事態は一向に改善されず。
毎日のように暴れる生徒たちを、校長や教頭が鬼の形相で押さえつけ、校長室に連行するのですが、当該生徒にはそれが恥だという認識が無いようで、寧ろ武勇伝になっている有様でした。

校長や教頭には他にも仕事がたくさんありますから、一クラスにばかり張り付いているわけにはいきません。
そこで、今月から、以前に娘の学校で校長を務めていたOBが週四で副担任をすることになりました。娘によると、普段は面白い先生ですが怒るととても怖いらしいので、今度こそ…!と期待しています。

娘のクラスの問題は授業中の大騒ぎだけではありません。
一学期からある男子生徒がいじめにあっているのですが、日を追うごとにその内容が酷くなっているのです。
いじめられている子も抵抗はしているのですが、如何せん多勢に無勢、毎度袋叩きに合っているそうです。文具で首を刺されたり、殴る蹴るで口や鼻から血を流したり…。
いじめられている子が一番辛いのは勿論ですが、暴力沙汰に慣れていない子の精神的負担も大きいです。うちの娘も青い顔で帰宅して、暫く私にしがみ付いていることがよくあります。
大人の世界では刑事罰の対象になるようなことでも、学校内では保護者が呼び出されるだけなのですよね。それじゃあ解決は難しいだろうな、と思いますよ。いじめにも刑事罰を、と切に願います。

学校側も無策ではないのです。
ちゃんといじめが起きていることを認めていて、学校の権限で許される範囲で心を砕いてくれてはいます。
その一環として、秋に一度、いじめと学級崩壊について保護者会が開かれました。
そこで、問題児童の保護者達が交代でクラスの監視に来ることになったのですが、端から来ない人もいれば、来ても目の前で自分の子供が暴力をふるっているのに知らん顔な人もいて(そんな人たちばかりではないのですが)、あまり機能していません。
子供の問題は、学校の対応や先生の指導力の有無より、保護者の対応のまずさが根っこにあるのではないかと思います。保護者がいじめを悪だと認識し、厳しく指導しない限り、子供が更生することはないでしょう。

先生は頑張っていると思いますよ。
娘はメガネなので一番前の席なのですが、先生がため息をついたり浮かない顔をしていたりしているのをよく目にするそうです。「もう、嫌だ…」と呟いていたことも。時々上の空になっていて、生徒から「ババァだから耳が遠いんだよ」なんて言われることもあるそうですが、精神的に追い詰められているのだろうなと心配です。人の話に集中できないって、鬱の症状の一つですから。

今の教師は猛獣の檻に素手で放り込まれているようなものです。
教師からの体罰は禁止されているのに、生徒の方は教師に対して暴力をふるい放題ですから。確かに私の子供時代には大概な暴力教師が結構いましたが、取り締まり方が極端だと思います。教師にも身を守る権利くらい認めるべきです。
生徒の人権を過剰に保護するあまり、教師の人権を蔑ろにした結果がこれなのでは、回り巡って生徒の人権も侵されることになると思うのですが、いじめっ子の親はそんなの気にしないんでしょうね。なんせ「ちょっとふざけただけ」「そんなつもりじゃなかった」がデフォな人たちですから。

親としては我が子を守るのが精一杯です。
娘も二回だけですが、文具を盗られたり、叩かれたりしたことがあって、相手の保護者とお話をしたことがありました。
その時の先方の言い草が振るっていましたよ。
「お宅のお子さんは、まだましな方」だそうです。自分の子供は他の子にはもっと酷い事をしているのだから、そのくらいのことは泣き寝入りしろ、ってことですかね。
勿論、全力で却下です。
二回とも謝罪と弁償を戴くまで、根気よくお話を続けました。その結果、いじめっ子の保護者の間で、「あの子の親は煩いから要注意」と回覧されたらしくて、今のところ娘の被害は止んでいます。娘もいじめっ子の一人から、「お前のお母さんは怖いから」と言われたそうです。
娘には、「お母さんに言えば何でも解決してくれる」と喜ばれていますが、お母さんは決して喧嘩上等ではなく、出来るだけ平穏に生きたい人間です。こういうのは精神が削がれますよ。
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金柑と冬枯れの庭

2017-12-18 07:03:15 | 日記

玄関前の金柑の実が少しずつ色付いてきました。
この金柑は今秋11歳になった娘が生まれた時の記念樹です。ちょくちょく剪定していますが、150センチほどの高さになりました。ちなみに娘は145センチです。
我が家の庭にはよくヒヨドリとメジロが来るのですが、我らが熟した実からどんどん食べていってしまうので、人間の取り分がだいぶ減ってしまいます。でも、我が家で金柑を食べるのは私くらいなので、特に防鳥対策はしていません。


15年ほど使っていたファンヒーターが壊れたので買い換えました。
桜がさっそく乗りましたが、新しいファンヒーターは運転中も上面が熱くならないので、坐り心地が良くなかったらしいです。すぐに下りてしまいました。


日差しを求めて窓際へ移動。しかし晴天とはいえ陽光が薄い。窓ガラスは結露。


金魚の水槽も結露。


凜は基本的には室内犬ですが、天気の良い日は庭で遊びます。
庭はすっかり冬枯れで、見るべきものは何もありませんが、葉っぱ類が少なくなった分、凜が広く使えるようです。
何が嫌なのか、ご休憩用に置いた犬小屋には絶対に入ってくれません。たまに野良猫さんが中で休んでいます。


外から桜を撮影。
彼女は完全室内飼いです。おもてに出るのは通院の時くらいなので、抱っこして庭に連れ出そうとすると怖がります。
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夜のみだらな鳥

2017-12-14 07:09:08 | 日記
ホセ・ドノソ著『夜のみだらな鳥』

“分別のつく十代に達した者ならば誰でも疑い始めるものだ。人生は道化芝居ではないし、お上品な喜劇でもない。それどころか人生は、それを生きる者が根を下ろしている本質的な空虚という、いと深い悲劇の地の底で花を開き、実を結ぶのではないかと。精神生活の可能なすべての人間が生まれながらに受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ。

その子息ヘンリーとウィリアムに宛てた父ヘンリー・ジェイムズの書簡より。“


私は未だかつて、こんな奇々怪々な読書体験をしたことがなかった。混沌と熱狂のラテンアメリカ文学の中でも、『夜のみだらな鳥』は極北というべき存在であろう。
2段組で440ページ、狂気の沙汰がえんえんと続く。聖と俗。善と悪。美と醜。浄と穢。現実と妄想。真実と嘘。歴史と神話。あなたが私で、おれがお前。すべてが等価で、すべてがごった煮。リンコナーダの屋敷とエンカルナシオン修道院、物語は殆どこの二か所を行き来しているだけなのに、自分が今、いかなる時間・空間軸に居て、誰の話を聞いているのか分からなくなる。

時間・空間軸がシッチャカメッチャカなので、あらすじを纏めるのが困難だが、ものすごく掻い摘んで言えば、主人公は語り手の「おれ」、《ムディート(小さな唖の意味)》と呼ばれるウンベルト・ペニャローサ。そのほかの主要人物はアスコイティア家の当主ドン・ヘロニモと彼の妻イネス。この三人の確執が主軸となっていて、そこにイネスの生んだ畸形児《ボーイ》や彼のためにリンコナーダの屋敷に集められた異形の人々、かつてアスコイティア家で働き、今は修道院に押し込められている老婆たちが絡んでくる。……こう書いてみても、申し訳ない事に書いている私自身の認識があやふやなのだ。

「一人称」の人物が脈絡もなく切り替わるので、誰が何を言っているのか判然としない。主人公の「おれ」は別の時間・空間軸の《ムディート》である「おれ」と度々入れ替わる。「おれ」に話しかけられる「あなた」「お前」が登場人物の誰かだったり、読者だったりする。
しかも、場面が説明なしで唐突に切り替わる。登場人物同士は過去を共有していることもあるが、既出のエピソードと矛盾したことを平然と語ることもある。


巻末の解説が分かり易かったので、少し引用しておく。
“『夜のみだらな鳥』 のなかでは時間的および空間的な転移が自在に、実に気ままに行われ、合理的な因果の関係もまた思いのままに無視されている。登場する多数の人物の個々の像も不分明なら、彼らのあいだの関係も曖昧かつ矛盾に満ちていて、常に転倒の可能性をはらんでいる。ある不可解な魔的な力が「時間と映像と平面とを混乱させてしまった」 (三八二ページ)世界が 『夜のみだらな鳥』である。”

“語り手ウンベルトの物語は、貧しい小学教師の子として生れた少年時代から老年の現在まで、その意識と無意識のなかに蓄えてきた怨念、執念のかずかずによって歪曲され、誇張されている。人物も話もその虚実が明らかではない。しかしその場所は、ほんどリンコナーダの迷宮的な屋敷と、これまた迷宮と呼ぶにふさわしいエンカルナシオン修道院のふたつに限られている。ウンベルトの妄想は常にそれらの場所をめぐって発生し、亢進し、萎靡し、消尽していく。”


冒頭のラケル夫人によるブリヒダの葬儀の場面は、リアリズム小説っぽい形式をとっているので、読者は油断して通常の小説のように読み進めてしまう。
語り手の「おれ」は、《ムディート》と呼ばれている。ブリヒダが晩年を過ごしたエンカルナシオン修道院にひそむ聾唖者だ。だが、彼が聾唖者だというのなら、冒頭の会話は誰が聞いたのか。彼は別の場面では平然と喋りさえもする。つまり、聾唖者というのは本当ではないのだ。彼は嘘つきなのか、狂人なのか、ともかく、信用できる語り手ではない。

通常の小説では、読者は作者や語り手の言葉を疑うことなく作品世界の中に入っていける。作者や語り手は事実を語るもの、というのが小説を読む上での大前提となっているからだ。
しかし、『夜のみだらな鳥』では、語り手が初っ端から事実とは異なることを語っていて、しかも虚偽であることを隠さない。或いは、本人は本当のことを語っているつもりなのかもしれない。意識的に嘘をついているにしては、あまりにも平然と辻褄の合わないことを語るのだ。何にせよ、信用できない人間の語る物語ということを念頭に読み進めていくことになる。

このあと、場面は修道院に切り替わり、そこから先はあらゆる垣根が取り払われた何でもありの世界になる。「おれ」はその時その場で、老人になったり赤ん坊になったり、体が大きくなったり小さくなったりする。自分が居合わせなかった場面の出来事や他の人物の心中も見てきたように話す。

修道院に暮らす老婆たちが古い物語を語る。
むかしむかし、裕福で心優しい地主がいた。地主には、働き者の九人の息子と、目に入れても痛くないほど可愛がっている末娘がいた。ある日、一番上の兄が情を通じている女から、末娘の乳母が魔女であり、二人は一番鶏が無く時間までこっそり出歩いているという噂を聞く。兄は父や弟たちと相談し、黄色い雌犬に化けた乳母を捕らえ、血を吹くまで殴り、丸太に括り付けてマウレ河に放り込んだ。末娘は修道院に押し込めた。魔女の狙いは娘をさらって、その体の九つの穴を縫い塞ぎ、《インブンチェ》という化け物にすることだった。魔女は哀れな罪のない人間をさらい、地下の隠れ家に押し込めておくのだ。目、口、陰部、肛門、鼻、耳、手、足、すべて縫い塞ぐ。伸びる髪や爪はそのまま放っておく。そして白痴の状態になるのを待つ。獣よりも不潔で惨めな、虱だらけの《インブンチェ》は魔女の慰み者となる。

《ムディート》の隠遁する修道院では、《インブンチェ》は老婆たちによって作られる。
老婆たちは人間を手に入れると、全身の穴を縫い付け、目をえぐり、声を吸い取り、手足をもぎとって袋のような異形に変える。おしめを替えたり、服を着せたり、献身的に世話するのだが、生きていく上で必要なことは何も教えない。だから、《インブンチェ》は話すことも、歩くことも出来ない。世間から存在を隠され、部屋から出ることは赦されず、老婆たちの玩具として生きて行かなければならない。

《インブンチェ》は、この物語の象徴である。
外部に繋がる穴をすべて塞がれ、己の内部に閉じ込められて育つ赤ん坊。内的現実と外的現実との落差を知らず、何が真実なのかも知り得ない。五感と移動の自由を剥奪されたまま、肉体の迷宮の中で果ての無い夢を見る永遠の胎児だ。

修道院で暮らす孤児の一人、イリスが妊娠する。イリスは《ヒガンテ》という不良少年が子供の父親と思っているが、実は父親は《ヒガンテ》の仮面を被った「おれ」なのだ。「おれ」はヘロニモに復讐するためにイリスに子供を生ませ、それをアスコイティア家の跡継ぎにしてやろうと目論んでいる。

かつて、「おれ」は秘書としてヘロニモに仕えていた。
「おれ」はしがない教師の息子だった。
「おれ」は子供のころ、町でヘロニモを見かけて以来、身の内に執念深い渇望を抱くようになった。彼と一体となるか、それとも彼を八つ裂きにするか。彼を切り刻んで、立ち居振る舞いや肌の色、自信たっぷりな目つきなど、彼のすべてを自分のものにしたいと思った。すべてを所有している彼に対して、「おれ」はゼロに等しい人間だった。

父親の期待を背負って法学部に入学した「おれ」は、人類学博物館でヘロニモと知り合う。
その時、「おれ」はヘロニモに、わたしは作家です、と言った。何一つ書けたことが無いにも関わらず。これが運命の分かれ道だった。
父親と仲たがいした「おれ」は、ロシータという女性と同棲を始めていた。
最早弁護士や公証人になる気は失せていたが、小説は相変わらず書けない。それでもロシータと一緒にいると、父親の前では絶えず起きていた胃の痙攣が起きなかった。
ある日、「おれ」の留守中にヘロニモが訪ねてきた。明日10時に屋敷に来てくれと言付け、名刺を置いていったのだ。「おれ」は、今夜限りでロシータと抱き合って眠ることはないと思った。

「おれ」は、ヘロニモの屋敷に住み込み、秘書として働くようになる。
上院議員となったヘロニモの演説中、「おれ」はヘロニモを狙った凶弾を腕に受けて倒れる。しかし、負傷した「おれ」の体は速やかに隠された。「おれ」が失神している間にヘロニモは、「おれ」の血を自分の腕に擦り付け、自身が凶弾を受けたことにして、群衆の前で演説を続けた。彼はこの千載一隅の好機を利用して、暴力に屈しない勇敢な政治家として有権者たちの心を掴んだのだ。「おれ」は傷も血もヘロニモに奪われたのだ。

「おれ」に無断で、「おれ」の傷を奪った者は報いを受けねばならない。
「おれ」は、ヘロニモの妻イネスの乳母ペータ・ポンセの魔術で、ヘロニモとしてイネスと交わる。……と、思ったが、違うかもしれない。「おれ」がイネスだと思って交わったのは、ぺータ・ポンセだったかもしれない。いや、ぺータ・ポンセと交わったのは、ヘロニモだったかもしれない。

ともかく、その結果イネスは妊娠出産する。
生まれた赤ん坊は、“瘤の上でブドウ蔓のようにねじれ醜悪きわまりない胴体。深い溝が走っている顔。白い骨と赤い線の入り乱れた組織とがみだりがわしくむき出しになった唇や、口蓋や、鼻……それは混乱もしくは無秩序そのものであり、死がとった別の形、それも最悪の形”と表現される畸形児だった。
これが、廉直な政治家、司教や大司祭、福者、大公使、美貌の女性、死を恐れぬ軍人等々、美と秩序の見事な実しか結んでこなかったアスコティア家の最後の人間なのだ。
我が子(かもしれないし、そうじゃないかもしれない)の姿を一目見たヘロニモは、殺意に駆られるが踏み留まった。倫理とか愛情とかではない。殺せばこのカオスの変形に敗北したことになるからだ。彼は強者であり、その証左を見せねばならない。

ヘロニモは、《ボーイ》をリンコナーダに閉じこめ、その周りに重度の畸形者ばかりを集め、外の世界を見せずに育てる。「おれ」はヘロニモの命で屋敷の管理人になる。庭には畸形の銅像が立ち、医者も神父もすべて畸形者ばかり。リンコナーダでは畸形が正常、五体満足こそが異常なのだ。畸形者で溢れるリンコナーダは、ボッシュの描く『悦楽の園』の如き異形の楽園となる。

ヘロニモは「おれ」に、作家として《ボーイ》の世界を記録する仕事を任せる。自分の息子を通常の世界から完全に遠ざけるという、ヘロニモの実験の結果を記録させるのだ。
《ボーイ》に違った生まれ方や死に方などない。《ボーイ》が知ってはならぬ言葉の中でも特に大事なのが、始めや終わりを示す言葉だった。理由、時、内、外、過去、未来、開始、終末、体系、帰納に類する言葉は一切、ご法度。《ボーイ》が生きているのは、呪縛された現在である。よその場所、他の時刻など存在しない。

胃病を拗らせた「おれ」はやがて喀血し、意識を失う。そして、意識の無いうちに天才外科医で自身も重度の畸形者であるアスーラ博士によって、健全な臓器を畸形者たちに分配され、自分は畸形の臓器を移植され、元の姿の20パーセントに縮んでしまう。

別人のようになってしまった「おれ」は、リンコナーダを逃げ出し、乞食としてあちらこちらを渡り歩いた。そして、いつしか《ムディート》として、エンカルナシオン修道院で暮らすようになった。修道院には六人の魔女と呼ばれる老婆が、孤児のイリスの妊娠を処女懐胎の秘蹟になぞらえ、包帯で幾重にも巻かれた《ムディート》を赤ん坊に見立て、人形遊びに耽る。外界から遮断された修道院と包帯巻きの《ムディート》は、地下の隠れ家に閉じ込められた《インブンチェ》の物語の再現である。

年老いたイネスは清貧の誓いを立てて修道院に移り住み、毎晩賭けをして老婆たちの持ち物を取り上げる。イネスはアスーラ博士によってペータ・ポンセの臓器を移植され、徐々にペータ・ポンセになりつつあった。イネスは賭けでイリスが生んだ赤ん坊まで取り上げるが、その赤ん坊は小さく縮んだ「おれ」なのだ。


オブセッションを少しずつずらしながら何度も反復させる。物語は歪み、生き物のように増殖する。外部と内部、現実と妄想、自己と他者の境界が崩れ、入り乱れる。地主の末娘と乳母がイネスとぺータ・ポンセに重なり、リンコナーダに閉じ込められた《ボーイ》と包帯で巻かれた《ムディート》、そして老婆たちががらくたを詰め込んだ包みが《インブンチェ》と重なる。人物は次から次へと仮面=顔を取り換え、アイデンティティの曖昧さが募っていく。物語全体が、出入り口を縫い付けられた袋状の迷宮と化す。そこは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森でもあるのだ。

老婆の手が「おれ」という包みをひっくり返し、口を塞ぐ。「おれ」は郷愁と共にここに閉じ込められる。「おれ」が内側から袋を破くと、たちまち老婆の手が傷口を縫い塞ぐ。ひと針、ひと針、丁寧に縫っていく。
ウンベルトだのヘロニモだのは、本当に存在していたのだろうか。極端な話、『夜のみだらな鳥』とは、すべてが《インブンチェ》が見た妄想に過ぎないのかもしれない。
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