カズオ・イシグロ著『クララとお日さま』
『クララとお日さま』は、カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞後、最初に出版された長編小説だ。
人工頭脳を搭載された人工の親友(AF)のクララの視点で、社会に根付く様々な格差と差別を描く。
長崎に生まれ、五歳でイギリスに渡ったイシグロにとって、差別は日々意識せずにはいられない問題なのだろう。
物語の世界では、子供の成長に合わせてAFを購入することが一つのステイタスとなっている。また、「向上処置」という遺伝子編集を受けていない子供は差別され、大学進学すらままならない。子供の良き友となるよう設計されたAFにも、旧型と新型の間で差別意識がある。
そして、社会のAFに対する視線は温かなものとは言えない。子供に飽きられれば、役目を全うする前に廃棄されることもある。子供がAFに暴力を振るったり、ネグレクトしたりする姿も描かれている。
雰囲気は『わたしを離さないで』に近いが、大きな相違点もある。
『わたしを離さないで』では、臓器提供を目的に造られたクローンの子供たちが、ヘールシャムという隔離施設で集団生活を送っていた。
子供たちには、卒業間際まで自分たちがクローンであることは知らされない。故に事実を教えられるまでは、普通の子供のように授業を受けたり、友達と喧嘩したり、恋をしたりして過ごしていた。
物語の大半を大人になったキャシー・Hの回想が占める。
ヘールシャム時代の彼女は、殆どの場面で親友のルースとトミーと共にいた。友情は彼らが役目を終えるまで(度重なる摘出手術に耐え切れなくなって死ぬまで)続いた。
対して、『クララとお日さま』のクララは、初めから自分の役目を知っている。
お店に展示されていた間は、同じ型のレックスやローザと親しくしていたが、ジョジーに気に入られ彼女の専属となってからは、お店で一緒だったAFたちと再会することも、新たなAFと接点を持つこともなかった。
クララはジョジーのためにだけ存在した。
ジョジー以外の人間と接点を持つこともあったが、すべてはジョジーのためだった。ジョジーを取り巻く歪んだ人間関係の改善に努め、ジョシーの回復と幸福のためにお日さまに祈り続けた。
クララの置かれる空間は、物語の進行とともに、商品として展示されていたお店、ジョシーの部屋、ジョシーが成長したため自ら移動した物置、引退後送られた廃品置き場と移り変わる。
何れの空間においても、クララは彼女の特性である観察眼と謙虚さを失うことは無かった。
人のために造られたAFが、誰からも必要とされない廃品になっても観察と思索を続ける。そして、「最高の家で、ジョジーという最高の子」と共に生きた経験と、AFとして造られたことを丸ごと肯定し続ける。彼女の姿にイシグロはどんな願いを込めたのか。
そのお店はビル街の大通りにあった。
お店では家電や雑貨とともにAFが販売されている。AFはローテーションで配置が換わる。彼らはショーウインドーに置かれる番が回ってくるのを楽しみにしている。ショーウインドーに置かれれば、買ってもらえる可能性が高くなるし、太陽光を主なエネルギーにしているAFのコンディションが良くなるのだ。
クララは誰よりもショーウインドーに立つのが好きだった。
彼女はそこから見える風景の変化、通りを歩く人々の様子を何一つ見逃さない。そして、お日さまを敬慕している。
クララのお日さまへの気持ちはある出来事でさらに強固なものになる。
死んだように動かなくなっていた物乞いと彼に連れ添っていた犬が、お日さまの光を浴びて起き上がったのだ。クララはお日さまが死者を蘇らせたと考えた。
また、お日さまの光が、長い歳月を経て再会した男女が抱き合う姿を包んでいた事も、クララの中で大切な記憶となった。
お日さまの光は人間の栄養にもなっている。だからお日さまの光を遮るガスを排出するクーティングス・マシンの存在に、クララは不安を感じている。
クララはB2型のAFだ。
お店にはすでに最新型のB3型が入荷されていて、レックスは自分が型落ち品として売れ残ることを恐れている。またB3型の方も旧型を下に見て、意図的に距離を置こうとしている。
基本的には、新型の方が性能はいい。
だが、AFには一体一体個性があって、分野によっては旧型の方が優れていることもある。
クララには独自の美質があって、特に観察眼と学習意欲はずば抜けている。結果として、お店のどのAFより精緻な理解力を持つまでになった。
ある日、クララはショーウインドー越しにジョジーという女の子と出会った。
ジョジーは一目でクララを気に入り、必ず迎えに来ると約束した。
ジョジーが母親のクリシーと共にお店を訪れたのは、約束した日にちよりも随分後のことだった。
クリシーは最新型を希望していた。が、店長からクララの特性を聞くと、早速クララにいくつかの質問をした。ジョジーの方を見ないでジョジーの特徴を当て、歩き方を真似て見せるというテストだ。クララの回答はクリシーを満足させた。クリシーはジョジーのすべてを観察・記憶し、正確に理解することをAFに求めている。その理由は後々明かされるが、これがクララとジョジーを苦しめることになる。
ジョジーの家があるのは、民家がポツポツとしか建っていない田園地帯だ。
クララはここに来て初めて外の世界を体験する。ジョジーの幼馴染リックや彼の母親ヘレンと知り合い、観察する世界が広がる。そして、「向上処置」を受けていないために差別を受けるリックや、「向上処置」を受けさせなかった負い目でリックに過干渉するヘレンの苦悩を目の当たりにする。
ジョジーとリックは将来を誓い合っている。でも、「向上処置」を受けている者と受けていない者という立場の違いが、彼らの心を引き離していく。
ジョシーの部屋の窓からはお日さまがよく見える。
夕方になると、お日さまは草原に建つマクベインさんの納屋の方に沈んでいく。クララはマクベインさんの納屋がお日さまの休憩所なのだと思った。
後にクララは二度に渡ってリックに背負われてマクベインさんの納屋まで行き、ジョジーを助けてくれるようお日さまに祈りを捧げることになる。
ジョシーはとても病弱で、ベッドから起き上がれない日も珍しくはない。
ジョジーの健康を損ねたのは「向上処置」だった。
ジョジーにはサリーという姉がいたが、サリーは「向上処置」の失敗で亡くなった。それでも安定した生活を送る保証を得るために、クリシーはジョジーにも「向上処置」を受けさせた。「向上処置」を受けていない者への差別はそこまで深刻なのだ。クリシーが夫ポールと離婚したのは、この件での意見の対立が大きかったように思う。
そして、懸念したようにジョジーも病気になった。命に係わる深刻な症状だ。
己の選択の結果にクリシーは情緒不安定になっている。クリシーのピリついた言動は親子関係に影を落とし、時としてジョジーを不機嫌にさせたり、ジョジーとクララとの意思の疎通を困難にさせたりもする。よくない連鎖だ。
この時代の子供たちは、オブロン端末を使って学習する。大学までは学校に通うことは殆どない。
「向上処置」を受けている子供たちは、端末では学べない社会性を身に着けるために、交代で交流会を開いている。ジョジーは、渋るリックに自分が主催する交流会への参加を約束させた。
不安と緊張の中迎えた交流会は散々な有様だった。
リックのユーモアのセンスは大人たちに好評だった。
でも、それは優秀な頭脳の持ち主なのに「向上処置」を受けられなかったリックへの憐憫と、息子に「向上処置」を受けさせなかったヘレンへの批判を伴っていた。
子供たちはもっと露骨にリックを侮蔑した。
ジョジーはリックを庇うどころか、彼に怒りの眼差しを向けた。
子供たちの侮蔑は旧型AFのクララにも向けられた。
ジョジーは、それに対しても「(B3型を)買うべきだったかなって、いま思いはじめたとこ」と笑いながら阿った。
クララを放り投げて遊ぼうとした子供たちを止めたのはリックだった。
クララはこの時のジョジーの振る舞いを変だと思った。それでも本当のジョジーは親切だと信じるのだ。
ジョジー母子とクララは、サリーが生きていた頃に遊びに行ったモーガンの滝までドライブすることになった。
ところが出発直前になって、ジョジーが体調を崩してしまう。
クリシーは苛立ちを隠さず、ジョジーの看病を家政婦のメラニアさんに任せると、なんとクララと二人だけでドライブに出発した。
この時もクララはクリシーの言動に違和感を覚えたが、彼女は人間のすることを悪いようには取らない。しかし、彼女の戸惑いは、ドライブ中に見た風景の処理能力の異常として現れた。
この情報処理の乱れは、作中に度々出てくる。
たいていの場合、それは人間の言動への理解が追い付かない時に起き、そんな時のクララの目には人間の顔や風景がボックスやブロックの集合体のように認識される。
滝に到着すると、クリシーはジョジーに奇妙なことを命じた。
「さてと、クララ、ジョジーはここにいないわけだし、あなたがジョジーになってくれない?ちょっとだけ、どうせここにいるんだし」
クリシーが望んでいたこと。それは、「ジョジーを継続する」ことだった。
「向上処置」によって長女を亡くしたクリシーは、自らの選択の結果で再び我が子を喪う恐怖に耐えられない。そのためジョジーが生きているうちから、「ジョジーを続けてくれる」存在の準備をしている。
ジョジーの肖像画を描いているカバルディの本当の目的は、ジョジーそっくりのAFの製作だった。
すでにボディは出来上がっている。ジョジーが死んでも、そのAFにクララの人工知能を移植すれば「ジョジーを継続できる」。クリシーとカバルディはそう考えている。
メラニアさんは、アトリエで何が行われているのか具体的には知らない。
それでも良くないことが行われていると感じ、クララにジョジーを守るように命ずる。AFの存在を快く思わないメラニアさんだが、クララのジョジーを思う気持ちは自分と同じだと考えているのだ。
それに加え、クララはアトリエに同行したポールの不機嫌を目の当たりにして、クリシーとカバルディの計画からジョジーを守らねばと決意する。
ジョジーを守る唯一の方法は、ジョジーの健康を取り戻すことだ。
クララはすでに一度、マクベインさんの納屋までお日さまに祈りを捧げに行っていた。お日さまはなぜジョジーを回復させてくれないのか。
クララは再びマクベインさんの納屋に行く前に、お日さまを曇らせるクーティングス・マシンの破壊を思い立つ。
この物語には、子供の成長に関する様々なテーマが込められている。
中でも、愛と理解については屡々苦い思いをさせられた。というのも、この物語の登場人物たちは、愛し合っているのに、そこに理解が伴っていないのだ。
ジョジーとクリシー親子、リックとヘレン親子は、間違いなく愛し合う親子だ。しかし、母親の無理解が子供に負担を与えている。それでも子どもは母親を肯定し、愛し続ける。
クララとジョジーの間はもっと一方的だ。
クララはジョジーをよく観察し学習するが、肯定ありきの判断なので実像との乖離が気になる。AFは子供の友達として制作されているが、両者の関係は対等な友人同士ではなく主従関係に近い。ジョジーは気分次第でクララに辛く当たることもあった。
ジョジーには、クララやリックなど彼女に寄り添おうとする者には気分屋な態度をとるが、母親や交流会の子供たちのように彼女に高圧的な者には阿る傾向がある。
クララはジョジーのことを「最高の子」と言うけど、場の空気に左右される普通の子供としか思えなかった。
クララは、かつてショーウインドーから見た老いた男女のように、ジョジーとリックが遠い未来に抱擁を交わす日が来るかもしれないと考えている。それはどうだろう?もし機会があるとしても、ヘレンとバンスさんみたいに気まずい雰囲気になりそうだ。
役目を終えたクララは廃品置き場に送られた。
廃品置き場には、すでにクララより新しい型のB3型が何人か送られていた。
クララはそこで再会した店長さんから、ローザが二年以上前に廃品置き場送りになっていたことを聞かされる。でも、今ローザはここにいない。クララは、マクベインさんの納屋を訪ねた時に、苦しそうに座るローザのビジョンをキャッチしていた。
AFが子供の友達というなら、役目を終えてもそばに置いていたって良いではないか。
でもAFとは家電や雑貨を扱っているお店で買うもの。扱いもそれらと一緒なのがこの物語の世界では常識なのだ。『ドラえもん』で育った私には馴染めない常識だが、それも含めて人間を肯定しているクララが切ない。
先端技術を搭載されたAFが、古代人のように素朴な太陽信仰を抱いている。
そんなクララが、ジョジーを学習し続けた結果得た確信もまた素朴なものだった。
「人間の中に唯一無二で、他に移し得ない何かなど無い。ジョジーの内部にクララが引き継げないものなど無い」というのが、カバルディの持論だ。
それに対してクララは以下のように考えた。
「特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました」
ならば廃品置き場に捨てられたクララの現状は、彼女は特別な存在ではなく、彼女を愛している人など一人もいないということの証左なのか。
作中にはリックやポールなど、クララとある程度深いところまで話し合った人物はいたし、AFを気にかけ廃品置き場までを訪ねてくる店長さんもいた。
でも彼らはクララを救い出すまでには至らない。そもそもクララは役目を全うした結果の現状を幸福と考えている。
クララの祈りは、お日さまの光がジョジーの部屋にシャワーのように差し込んだ、あの奇跡の瞬間に成就した。ジョジーの健康は大学に行けるまでに回復し、それに伴って母親との関係も好転した。
でも、あの奇跡はジョジーのために起きたのではない。
クララは自分のことは祈らない。そんなクララの祈願だからこそ、お日さまは応えたのだと思う。誰もクララを愛していなくても、お日さまだけは彼女を包んでいるのだ。
『クララとお日さま』は、カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞後、最初に出版された長編小説だ。
人工頭脳を搭載された人工の親友(AF)のクララの視点で、社会に根付く様々な格差と差別を描く。
長崎に生まれ、五歳でイギリスに渡ったイシグロにとって、差別は日々意識せずにはいられない問題なのだろう。
物語の世界では、子供の成長に合わせてAFを購入することが一つのステイタスとなっている。また、「向上処置」という遺伝子編集を受けていない子供は差別され、大学進学すらままならない。子供の良き友となるよう設計されたAFにも、旧型と新型の間で差別意識がある。
そして、社会のAFに対する視線は温かなものとは言えない。子供に飽きられれば、役目を全うする前に廃棄されることもある。子供がAFに暴力を振るったり、ネグレクトしたりする姿も描かれている。
雰囲気は『わたしを離さないで』に近いが、大きな相違点もある。
『わたしを離さないで』では、臓器提供を目的に造られたクローンの子供たちが、ヘールシャムという隔離施設で集団生活を送っていた。
子供たちには、卒業間際まで自分たちがクローンであることは知らされない。故に事実を教えられるまでは、普通の子供のように授業を受けたり、友達と喧嘩したり、恋をしたりして過ごしていた。
物語の大半を大人になったキャシー・Hの回想が占める。
ヘールシャム時代の彼女は、殆どの場面で親友のルースとトミーと共にいた。友情は彼らが役目を終えるまで(度重なる摘出手術に耐え切れなくなって死ぬまで)続いた。
対して、『クララとお日さま』のクララは、初めから自分の役目を知っている。
お店に展示されていた間は、同じ型のレックスやローザと親しくしていたが、ジョジーに気に入られ彼女の専属となってからは、お店で一緒だったAFたちと再会することも、新たなAFと接点を持つこともなかった。
クララはジョジーのためにだけ存在した。
ジョジー以外の人間と接点を持つこともあったが、すべてはジョジーのためだった。ジョジーを取り巻く歪んだ人間関係の改善に努め、ジョシーの回復と幸福のためにお日さまに祈り続けた。
クララの置かれる空間は、物語の進行とともに、商品として展示されていたお店、ジョシーの部屋、ジョシーが成長したため自ら移動した物置、引退後送られた廃品置き場と移り変わる。
何れの空間においても、クララは彼女の特性である観察眼と謙虚さを失うことは無かった。
人のために造られたAFが、誰からも必要とされない廃品になっても観察と思索を続ける。そして、「最高の家で、ジョジーという最高の子」と共に生きた経験と、AFとして造られたことを丸ごと肯定し続ける。彼女の姿にイシグロはどんな願いを込めたのか。
そのお店はビル街の大通りにあった。
お店では家電や雑貨とともにAFが販売されている。AFはローテーションで配置が換わる。彼らはショーウインドーに置かれる番が回ってくるのを楽しみにしている。ショーウインドーに置かれれば、買ってもらえる可能性が高くなるし、太陽光を主なエネルギーにしているAFのコンディションが良くなるのだ。
クララは誰よりもショーウインドーに立つのが好きだった。
彼女はそこから見える風景の変化、通りを歩く人々の様子を何一つ見逃さない。そして、お日さまを敬慕している。
クララのお日さまへの気持ちはある出来事でさらに強固なものになる。
死んだように動かなくなっていた物乞いと彼に連れ添っていた犬が、お日さまの光を浴びて起き上がったのだ。クララはお日さまが死者を蘇らせたと考えた。
また、お日さまの光が、長い歳月を経て再会した男女が抱き合う姿を包んでいた事も、クララの中で大切な記憶となった。
お日さまの光は人間の栄養にもなっている。だからお日さまの光を遮るガスを排出するクーティングス・マシンの存在に、クララは不安を感じている。
クララはB2型のAFだ。
お店にはすでに最新型のB3型が入荷されていて、レックスは自分が型落ち品として売れ残ることを恐れている。またB3型の方も旧型を下に見て、意図的に距離を置こうとしている。
基本的には、新型の方が性能はいい。
だが、AFには一体一体個性があって、分野によっては旧型の方が優れていることもある。
クララには独自の美質があって、特に観察眼と学習意欲はずば抜けている。結果として、お店のどのAFより精緻な理解力を持つまでになった。
ある日、クララはショーウインドー越しにジョジーという女の子と出会った。
ジョジーは一目でクララを気に入り、必ず迎えに来ると約束した。
ジョジーが母親のクリシーと共にお店を訪れたのは、約束した日にちよりも随分後のことだった。
クリシーは最新型を希望していた。が、店長からクララの特性を聞くと、早速クララにいくつかの質問をした。ジョジーの方を見ないでジョジーの特徴を当て、歩き方を真似て見せるというテストだ。クララの回答はクリシーを満足させた。クリシーはジョジーのすべてを観察・記憶し、正確に理解することをAFに求めている。その理由は後々明かされるが、これがクララとジョジーを苦しめることになる。
ジョジーの家があるのは、民家がポツポツとしか建っていない田園地帯だ。
クララはここに来て初めて外の世界を体験する。ジョジーの幼馴染リックや彼の母親ヘレンと知り合い、観察する世界が広がる。そして、「向上処置」を受けていないために差別を受けるリックや、「向上処置」を受けさせなかった負い目でリックに過干渉するヘレンの苦悩を目の当たりにする。
ジョジーとリックは将来を誓い合っている。でも、「向上処置」を受けている者と受けていない者という立場の違いが、彼らの心を引き離していく。
ジョシーの部屋の窓からはお日さまがよく見える。
夕方になると、お日さまは草原に建つマクベインさんの納屋の方に沈んでいく。クララはマクベインさんの納屋がお日さまの休憩所なのだと思った。
後にクララは二度に渡ってリックに背負われてマクベインさんの納屋まで行き、ジョジーを助けてくれるようお日さまに祈りを捧げることになる。
ジョシーはとても病弱で、ベッドから起き上がれない日も珍しくはない。
ジョジーの健康を損ねたのは「向上処置」だった。
ジョジーにはサリーという姉がいたが、サリーは「向上処置」の失敗で亡くなった。それでも安定した生活を送る保証を得るために、クリシーはジョジーにも「向上処置」を受けさせた。「向上処置」を受けていない者への差別はそこまで深刻なのだ。クリシーが夫ポールと離婚したのは、この件での意見の対立が大きかったように思う。
そして、懸念したようにジョジーも病気になった。命に係わる深刻な症状だ。
己の選択の結果にクリシーは情緒不安定になっている。クリシーのピリついた言動は親子関係に影を落とし、時としてジョジーを不機嫌にさせたり、ジョジーとクララとの意思の疎通を困難にさせたりもする。よくない連鎖だ。
この時代の子供たちは、オブロン端末を使って学習する。大学までは学校に通うことは殆どない。
「向上処置」を受けている子供たちは、端末では学べない社会性を身に着けるために、交代で交流会を開いている。ジョジーは、渋るリックに自分が主催する交流会への参加を約束させた。
不安と緊張の中迎えた交流会は散々な有様だった。
リックのユーモアのセンスは大人たちに好評だった。
でも、それは優秀な頭脳の持ち主なのに「向上処置」を受けられなかったリックへの憐憫と、息子に「向上処置」を受けさせなかったヘレンへの批判を伴っていた。
子供たちはもっと露骨にリックを侮蔑した。
ジョジーはリックを庇うどころか、彼に怒りの眼差しを向けた。
子供たちの侮蔑は旧型AFのクララにも向けられた。
ジョジーは、それに対しても「(B3型を)買うべきだったかなって、いま思いはじめたとこ」と笑いながら阿った。
クララを放り投げて遊ぼうとした子供たちを止めたのはリックだった。
クララはこの時のジョジーの振る舞いを変だと思った。それでも本当のジョジーは親切だと信じるのだ。
ジョジー母子とクララは、サリーが生きていた頃に遊びに行ったモーガンの滝までドライブすることになった。
ところが出発直前になって、ジョジーが体調を崩してしまう。
クリシーは苛立ちを隠さず、ジョジーの看病を家政婦のメラニアさんに任せると、なんとクララと二人だけでドライブに出発した。
この時もクララはクリシーの言動に違和感を覚えたが、彼女は人間のすることを悪いようには取らない。しかし、彼女の戸惑いは、ドライブ中に見た風景の処理能力の異常として現れた。
この情報処理の乱れは、作中に度々出てくる。
たいていの場合、それは人間の言動への理解が追い付かない時に起き、そんな時のクララの目には人間の顔や風景がボックスやブロックの集合体のように認識される。
滝に到着すると、クリシーはジョジーに奇妙なことを命じた。
「さてと、クララ、ジョジーはここにいないわけだし、あなたがジョジーになってくれない?ちょっとだけ、どうせここにいるんだし」
クリシーが望んでいたこと。それは、「ジョジーを継続する」ことだった。
「向上処置」によって長女を亡くしたクリシーは、自らの選択の結果で再び我が子を喪う恐怖に耐えられない。そのためジョジーが生きているうちから、「ジョジーを続けてくれる」存在の準備をしている。
ジョジーの肖像画を描いているカバルディの本当の目的は、ジョジーそっくりのAFの製作だった。
すでにボディは出来上がっている。ジョジーが死んでも、そのAFにクララの人工知能を移植すれば「ジョジーを継続できる」。クリシーとカバルディはそう考えている。
メラニアさんは、アトリエで何が行われているのか具体的には知らない。
それでも良くないことが行われていると感じ、クララにジョジーを守るように命ずる。AFの存在を快く思わないメラニアさんだが、クララのジョジーを思う気持ちは自分と同じだと考えているのだ。
それに加え、クララはアトリエに同行したポールの不機嫌を目の当たりにして、クリシーとカバルディの計画からジョジーを守らねばと決意する。
ジョジーを守る唯一の方法は、ジョジーの健康を取り戻すことだ。
クララはすでに一度、マクベインさんの納屋までお日さまに祈りを捧げに行っていた。お日さまはなぜジョジーを回復させてくれないのか。
クララは再びマクベインさんの納屋に行く前に、お日さまを曇らせるクーティングス・マシンの破壊を思い立つ。
この物語には、子供の成長に関する様々なテーマが込められている。
中でも、愛と理解については屡々苦い思いをさせられた。というのも、この物語の登場人物たちは、愛し合っているのに、そこに理解が伴っていないのだ。
ジョジーとクリシー親子、リックとヘレン親子は、間違いなく愛し合う親子だ。しかし、母親の無理解が子供に負担を与えている。それでも子どもは母親を肯定し、愛し続ける。
クララとジョジーの間はもっと一方的だ。
クララはジョジーをよく観察し学習するが、肯定ありきの判断なので実像との乖離が気になる。AFは子供の友達として制作されているが、両者の関係は対等な友人同士ではなく主従関係に近い。ジョジーは気分次第でクララに辛く当たることもあった。
ジョジーには、クララやリックなど彼女に寄り添おうとする者には気分屋な態度をとるが、母親や交流会の子供たちのように彼女に高圧的な者には阿る傾向がある。
クララはジョジーのことを「最高の子」と言うけど、場の空気に左右される普通の子供としか思えなかった。
クララは、かつてショーウインドーから見た老いた男女のように、ジョジーとリックが遠い未来に抱擁を交わす日が来るかもしれないと考えている。それはどうだろう?もし機会があるとしても、ヘレンとバンスさんみたいに気まずい雰囲気になりそうだ。
役目を終えたクララは廃品置き場に送られた。
廃品置き場には、すでにクララより新しい型のB3型が何人か送られていた。
クララはそこで再会した店長さんから、ローザが二年以上前に廃品置き場送りになっていたことを聞かされる。でも、今ローザはここにいない。クララは、マクベインさんの納屋を訪ねた時に、苦しそうに座るローザのビジョンをキャッチしていた。
AFが子供の友達というなら、役目を終えてもそばに置いていたって良いではないか。
でもAFとは家電や雑貨を扱っているお店で買うもの。扱いもそれらと一緒なのがこの物語の世界では常識なのだ。『ドラえもん』で育った私には馴染めない常識だが、それも含めて人間を肯定しているクララが切ない。
先端技術を搭載されたAFが、古代人のように素朴な太陽信仰を抱いている。
そんなクララが、ジョジーを学習し続けた結果得た確信もまた素朴なものだった。
「人間の中に唯一無二で、他に移し得ない何かなど無い。ジョジーの内部にクララが引き継げないものなど無い」というのが、カバルディの持論だ。
それに対してクララは以下のように考えた。
「特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました」
ならば廃品置き場に捨てられたクララの現状は、彼女は特別な存在ではなく、彼女を愛している人など一人もいないということの証左なのか。
作中にはリックやポールなど、クララとある程度深いところまで話し合った人物はいたし、AFを気にかけ廃品置き場までを訪ねてくる店長さんもいた。
でも彼らはクララを救い出すまでには至らない。そもそもクララは役目を全うした結果の現状を幸福と考えている。
クララの祈りは、お日さまの光がジョジーの部屋にシャワーのように差し込んだ、あの奇跡の瞬間に成就した。ジョジーの健康は大学に行けるまでに回復し、それに伴って母親との関係も好転した。
でも、あの奇跡はジョジーのために起きたのではない。
クララは自分のことは祈らない。そんなクララの祈願だからこそ、お日さまは応えたのだと思う。誰もクララを愛していなくても、お日さまだけは彼女を包んでいるのだ。