青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

糠漬け始めました

2020-01-30 07:54:00 | 日記

最近ぬか漬けにハマっています。
どのくらい最近かというと、まだ糠床を仕込み始めて2カ月ちょっとといったところです。まだまだ、私オリジナルの味にはなっていませんね。
糠床はうまく管理すれば半永久的に使えるとのこと。年季が入るほどその人独自の味に仕上がっていくのだそうです。
今のところ、昆布、山椒、鷹の爪、きな粉、薄皮を剥がして煮沸消毒した卵の殻などを混ぜています。あとは、鉄分補給に小さな鋳物も入れっぱなしにしていますよ。


家族に一番人気なのはキュウリです。


私は大根が一番好きですね。今の季節はキュウリより安く手に入りますし。


葉付き大根が手に入ったら、葉っぱも漬けます。


ニンジンも。


糠床の水抜き対策に時々切り干し大根を漬けています。
軽く洗ってから水をぬぐって、お茶パックに入れてから糠床に漬けるだけです。キッチンペーパーで吸うよりたくさん水が取れるし、食べることも出来るので一石二鳥です。


高野豆腐も水切りに使ってみましたが、こちらはお漬物としてそのまま食べると喉につかえてあんまり…。サラダのトッピングに使ってみましたが、不評だったので一回こっきりです。

糠漬けを始めたのは腸活のためです。
元々便秘症ではないので特に腸の状態を気にしたことはなかったのですが、最近になって腸が免疫力に大きな影響を与えていると知りまして。
私は子供のころから免疫力が弱く、すぐに風邪を引いたりお腹を壊したりするのに悩まされてきました。腸活の必要性を知ってからは、いろんな種類のヨーグルトやビフィズス菌サプリを試したりしてきたのですが、どれもこれといった成果は見られず。

なんでも、日本人の腸にはヨーグルトなどの動物性乳酸菌より、糠などの植物性乳酸菌の方が合っているらしいのですよ。
まだ始めたばかりなので、体質改善の自覚は得られていませんが、気長に続けようと思います。糠漬けは普段の食事に取り入れやすいので、あえて腸活のために頑張っているという感じじゃないのが良いですね。糠床のお世話も楽しいです。私、生き物を育てるのが好きなので。
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ラテンアメリカ五人集

2020-01-27 07:43:20 | 日記
『ラテンアメリカ五人集』には、J・E・パチェーコ(メキシコ)、М・バルガス=リョサ(ペルー)、シルビーナ・オカンポ(アルゼンチン)、オクタビオ・パス(メキシコ)、M・A・アストゥリアス(グアマテラ)という、ラテンアメリカ各地から選ばれた五人の作家の短編を収録している。
このメンバーの中では、バルガス=リョサが2010年、パスが1990年、アストゥリアスが1968年にノーベル文学賞を受賞している。

収録順は、J・E・パチェーコ「砂漠の戦い」、М・バルガス=リョサ「子犬たち」、シルビーナ・オカンポ「鏡の前のコルネリア」、オクタビオ・パス「白」、「青い目の花束」、「見知らぬふたりへの手紙」、М・A・アストゥリアス「グアマテラ伝説集」の並びだ。

本書は、パスが目当てで手に取った。
ガルシア・マルケス他『美しい水死人 ラテンアメリカ文学アンソロジー』(2018-10-05 の当ブログ)に収められていたパスの「波と暮らして」があまりにも私好みだったので。
アンソロジーの良いところは一定の括りで作品が編集されているので、カンで適当に選ぶよりは好みの作品に出会える確率がグンと高くなるところだ。本書はラテンアメリカ文学で、しかもパスが選ばれている。これは、ほかの作家の作品にも期待できる……。

今回は、J・E・パチェーコの「砂漠の戦い」と、М・A・アストゥリアスの「グアマテラ伝説集」が好きになった。
特に「砂漠の戦い」は、出会った時期が今で本当に良かった。時期が違っていたらそれほど心に響かなかったかもしれない。パチェ-コの作品は、『美しい水死人』の中にも「遊園地」が載っていたのだが、こちらはあまり記憶に残っていないのだ。印象が変わるかもしれないので、「遊園地」ももう一度読んでみよう。
アストゥリアスは、いつの時期に読んでも好きになったと思う。


「砂漠の戦い」は、タイトルからメキシコ革命の話かと思ったら、胸の疼くようなノスタルジーに浸された青春文学だった。失われた故郷の町と初恋の記憶。思い出の中で、マリアーナはいつまでも世界一美しい女性のままだ。
不潔で不味い食事。下品でがさつな人々。家も学校も町も、喧騒と貧困と悪臭に塗れていた。あの頃、まだ十代前半の少年だった主人公の目には、マリアーナだけが優しく、美しく、エレガントに映っていたのだ。

少年時代の回想ということで、当時の社会情勢、政治、風俗、テレビやラジオの番組、流行歌、人気車種など、細かく固有名詞を挙げながら、回顧録的な調子で綴られている。
それらのすべてがすでに失われているという事実と、マリアーナ母子の曖昧な存在感とが、奇妙に不安定で夢見心地な印象を読者に与えるのだ。

“過去は外国である。そこでは人は変わった振る舞いをする   L・P・ハートリー『仲介者』”

それは、はっきり思い出せないが、30年は昔の話、ミゲル・アレマンが政権(1946-52年)をとった頃のことだ。主人公の名はカルロス。物語はカルロスの一人称〈わたし〉で綴られていく。

〈わたし〉たちの住む町では、階層によって住む区画が異なり、子供たちの通う学校も違った。教室の中でも階級差は歴然としていた。ロサーレスと比べれば〈わたし〉は百万長者、ハリー・アサトンと比べれば乞食だった、という具合に。

〈わたし〉は、クラスメイトのジムの住む高級アパートに遊びに行き、彼の母親マリアーナに一目惚れする。
マリアーナは当時28歳、〈わたし〉の母親よりはだいぶ若かった。美しく親切でエレガントな物腰の彼女は、〈わたし〉の周囲にいる人々とは何もかもが違っていた。

〈わたし〉の初恋は障壁だらけだった。
友人の母親で、かなり年上。それよりなにより、メキシコを代表する実業家の愛人で、一人息子ジムの父親は、その愛人とは別の男。〈わたし〉の母親をはじめとする町の大人たちからの評判はかなり悪い。
誰にも言えない片想いに苦しむ〈わたし〉は、ある日、発作的に学校を抜け出してマリアーナに会いに行き、想いを伝える。それに対して、マリアーナは、今まで通り息子の友人として遊びに来て欲しいと、〈わたし〉の告白を聞かなかったことにした。〈わたし〉たちの間には何も起こらなかった。しかし、アパートの管理人の口から悪い噂が広まり、〈わたし〉は学校に行けなくなる。

完全に問題児扱いとなった〈わたし〉は、ある日は牧師には告解をさせられ、また別のある日は精神科医に分析されと、苦い思いを噛み締める日々を送ることとなる。
唯一好意的なのは、大学で〈活動家〉をしている兄のエクトルだが、この人は家庭内で厄介者ポジションなので、〈わたし〉の力にはなり得ない。ただ恋をしただけで、〈わたし〉はひとりぼっちになってしまった。

“あなたたちは誰にも恋をしたことがないんですか?”

〈わたし〉は転校させられ、二度とマリアーナにもジムにも会うことがなかった。
ある日、〈わたし〉はロサーレスから、マリアーナが愛人からパーティの席上で侮辱を受け、自殺したと聞かされる。
〈わたし〉は泣きながら彼女のアパートに駆けつける。しかし、そこには別の住人が住んでいて、その人物もアパートの管理人もマリアーナなんて知らないと言う。アパートの所有者はマリアーナの愛人だ。管理人を雇っているのもあの男だ。〈わたし〉はアパートの部屋を一軒一軒聞いて回ったが、誰もが、「知らないね」「1939年からこのビルに住んでいるけど、あたしの知るかぎり。ここにはマリアーナなんて人はいたためしがないね」「ジム?そんな子も知らないね」といった具合だった。

〈わたし〉は家に帰った。その後、どうしたかは思い出せない。やがて、〈わたし〉たちはニューヨークに渡った。
あれからロサーレスにも、当時の仲間にも会ったことがない。学校はつぶされ、マリアーナのいた建物はつぶされ、〈わたし〉の家はつぶされ、町は無くなった。あの頃のメキシコを偲ばせるものは何もない。
だが、マリアーナはいたのだ。ジムもいた。マリアーナの自殺が本当のことなのか、実は彼女はまだ生きているのか、〈わたし〉は絶対に知ることはないだろう。

このあたりの描写があっさりしているのが、却って深く切ない余韻を残す。
マリアーナは本当に自殺したのかとか、その後の〈わたし〉がどんな思いで生きて来たかとか、余計な描写をくどくどと重ねず、読者の想像にゆだねる思い切りの良さにセンスを感じた。

“自然なものは憎悪だけといった世界では、恋はひとつの病なのだ。”

急速なスピードで近代化していった40~50年代のメキシコ。
人々は僅かな期待と多大な不安に包まれていた。その目まぐるしい時代の動きに合わせるように、この物語の場面展開も早い。そして、思い出せないこと、分からないことが放り出されたまま物語は終わる。得体の知れない社会の闇に飲まれてしまったマリアーナや、カルロス少年の初恋、失われた故郷への、限りない哀切を瞬間冷却保存するかのような鮮やかな幕切れだった。


オクタビオ・パス「青い目の花束」は、これものすごく好きだなぁ、と幸福感でいっぱいになりながら読んだ。

目覚めるとぐっしょり汗をかいていた〈私〉は、ハンモックから飛び降りると、宿の主人が止めるのに対して、「すぐにもどる」と告げて、散歩に出かける。
道中の自然や〈私〉の仕草、心情の描写は、詩人パスらしい夢見るような繊細さだ。

“私は宇宙とは巨大な信号のシステムであり、森羅万象の間で交わされる会話であると思った。私の行為、コオロギの鳴き声、星のまたたきは、この会話の中にちりばめられた休止と音節にほかならない。私が音節であるのはどんな言葉だろうか。”

“煙草が落ちるとき、この上なく小さな彗星のように火花を散らしながら、光の曲線を描いた。”

〈私〉は自分が自由で確かな存在であることを感じながらゆっくりと歩き続けた。
だが、暫くすると、何かがひたひたと近づいてくる気配を感じるようになった。走ろうと思ったが出来なかった。背中から、ナイフを突きつけられている感触と、優しい声がした。
その穏やかな、恥ずかしげなと言ってもよさそうな声の持ち主は、〈私〉の目が欲しいというのだ。怖がらないでほしい。殺すつもりはない。ただ目が欲しいだけ。声の持ち主は、恋人のために青い目の花束を作りたいだけなのだ。

“恋人の気まぐれなんです。青い目の花束が欲しいって。この辺りに青い目をした者はほとんどいません”

男の出現から、それまで物語を覆っていた、潤んだような夢幻が霧消し、別の悪い夢が始まる。
愛し合う恋人同士に花束は欠かせないアイテムだ。
それがただの青い花束ならどうということはない。なのに、「青い」と「花束」の間に「目の」が入るだけで、途端に世界が足元から歪むような恐怖を感じる。男の妙に穏やかな口調が、シチュエーションの異様さを増長させる。そして、〈私〉が逃げ帰った宿の主人は、片目を失っているのだ……。
冷たくロマンティックな狂気に、青という色はよく似合うと思った。


М・A・アストゥリアス「グアマテラ伝説集」は、グアマテラの伝説をそのまま集めた作品集ではなく、伝説を下敷きにしたシュールレアリスム的な掌編集である。

本書にはその中から、「「火山」の伝説」、「「長角獣」の伝説」、「「刺青女」の伝説」、「「大帽子男」の伝説」、「「花咲く地」の財宝の伝説」、「春嵐の妖術師たち」の6篇が選ばれている。タイトルを並べただけで、詩的な異国情緒に陶然とする。
難解という感想が多いようだが、風も、花も、鳥も、海も、根も、道も、この世に存在するものがひとしなみに自我と魂を持っている世界観は大変心地よい。フレーズの一つ一つから、色彩と、香りと、命の息吹を感じた。
岩波文庫から『グアマテラ伝説集』が出ているので、そちらを読んでから感想を纏めようと思う。

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華氏451度〔新訳版〕

2020-01-23 07:53:52 | 日記
レイ・ブラッドベリ著『華氏451度〔新訳版〕』

1953年に刊行された『華氏451度』は、ブラッドベリの代表作であり、1967年には映画化もされている。日本でも何度か翻訳されているが、今回私が読んだのは2014年に早川書房から出版された伊藤典夫訳のものだ。

華氏451度――この温度で書物の紙は引火し、そして燃える。それは、思考や表現の自由が殺される温度と言ってもいい。

全ての情報が政府によって管理された近未来のアメリカ。
人々に許されている情報は、〈ラウンジ壁〉と呼ばれるモニターや〈巻貝〉と呼ばれる超小型ラジオなどが垂れ流す、思考することなく受け取れるものに限られ、あらゆる種類の本の所持が禁止されている。これを犯した者は、ファイアマンと呼ばれる焚書専門機関の隊員によって隠し持っていた本を住居ごと焼かれ、逮捕されることになっている。451と刻印されたヘルメットを被ったファイアマンは、国家権力の代行者だ。

焚書の理由は、本から齎される有害な情報が、人々を惑わせ社会秩序を乱すことを防ぐためとされている。
密告が推奨され、互いの生活を監視するのが日常となっているが、そこに疑問を持つ者は殆どいない。焚書の効果は覿面で、人々は数年前の出来事や親しい者との関係すら朧気にしか思い出せないほど、思考力、判断力、記憶力が低下している。一見穏やかだが、半ば死んでいるような社会だ。

「いい仕事さ。月曜にはミレーを焼き、水曜はホイットマン、金曜はフォークナー。灰になるまで焼け、そのまた灰を焼け。ぼくらの公式スローガンさ」

主人公のガイ・モンターグは、祖父の代からファイアマンの仕事に就いている。
モンターグは仕事に誇りを持っており、火を燃やすのを愉しんでいた。彼が昇火器に触れると、ケロシンの充満した家は忽ち猛火に包まれ、夜空を赤と黄と黒に染め上げてゆく。熱風に撒かれた本が、鳩のように羽ばたきながら死んでゆく。炎が有毒な情報を浄化するのを眺めていると、心身が高揚し格別の快感を得られるのだ。
しかし、このところ幾晩か、帰宅する途中の道で、彼はかつて経験したことのない雲を掴むような感覚に襲われていた。誰かに呼ばれている気がする。

そんな日々が続いたある晩、彼はクラリス・マクラレンという少女から話しかけられる。彼女は最近になって両親と伯父と一緒にモンターグの隣家に引っ越して来た。
クラリスは17歳だが学校には行っていない。その代わり、伯父から様々なことを教わっている。国が善良な市民には決して教えない〈イカれた〉情報だ。
クラリスは〈ラウンジ壁〉を殆ど見ない。だから、〈イカれた〉ことを考える時間がたっぷりある。散歩をし、目にしたものの意味を考えるのだ。
クラリスはモンターグに、遠い昔、ファイアマンは火をつけるのではなくて、火を消すのが仕事だったと言う。が、現役ファイアマンのモンターグは、それを知らなかった。
別れ際、モンターグはクラリスに「あなたは幸福?」と聞かれる。

家に帰り寝室に入ると、妻のミルドレッドが、〈巻貝〉を耳に突っ込んだまま、睡眠薬の過剰摂取で意識不明になっていた。
モンターグは救命職員を呼び、薬で汚染された血液の入れ替え処置をしてもらう。この種の事故は割とよくあることらしく、救命職員は大忙しだ。
翌朝になると、ミルドレッドは、昨晩自分が死にかけていたことをすっかり忘れていた。

モンターグは、毎日のようにクラリスと会った。
クラリスは雨の日に外出して、雨粒を口に入れるのが好きだ。森を歩き回って、鳥を眺めたり蝶々を集めたりするのも好きだ。彼女は聞いたこともない話をたくさんしてくれる。彼女との会話は楽しい。タンポポで顎の下を擦ったらなんて話、モンターグは全然知らなかった。
クラリスと別れた後、モンターグは雨に向かって数秒だけ口を開けてみた。

昇火局に出勤すると、モンターグは機械仕掛けの猟犬に吠え立てられる。
この猟犬たちは、書物隠匿者の摘発のために開発された機械で、感情を持っていないはずだ。猟犬の異変を気にするモンターグに、隊長のベイティーは、「なにかやましいことでもあるのか?」と声をひそめて笑った。

密告を受けて、モンターグはベイティーらと共に旧市街のとある三階家の摘発に出動する。
住人の老女は、イングランドのラティマー主教が死の直前、ともに処刑されるリドリー主教にかけた言葉を引用する。狂信的なカトリック教徒として知られるメアリー一世は、プロテスタントの指導者を数多く処刑したが、ラティマー主教はその犠牲者の一人だった。

「男らしくふるまいましょう、リドリー主教。きょうこの日、神の恵みによってこの英国に聖なるロウソクをともすのです。二度と火の消えることのないロウソクを」

老女は正面のポーチに出ると、ファイアマンたちの罪の重さを量るように、彼らを見据え、キッチンマッチを擦った。ケロシンが充満した家屋は老女ごと火の海になった。

老女の死に衝撃を受けたモンターグは、その夜眠ることが出来なかった。きっと明日も眠れないだろう。
ミルドレッドは今夜も耳に〈巻貝〉をはめ込み、モンターグの知らない遠い人々の声を聴いている。それは明日もその先の日々もきっと変わらない。
ミルドレッドは〈ラウンジ壁〉と〈巻貝〉に心を奪われていて、夫婦の間に会話らしい会話は久しくない。それどころが、二人とも、自分たちの出会いがどんなものだったのかも思い出せない。モンターグは、自分たち夫婦の間には壁があり、相手が死んでも泣かないだろうと思っている。

モンターグは、ミルドレッドにクラリスの話をする。
毎日モンターグの世界にいたクラリスが、ふっつりと姿を見せなくなって、既に四日も経っていたのだ。マクラレン家はもぬけの殻だ。ミルドレッドは、はっきりと思い出せないが、クラリスは死んで一家は引っ越したらしいと言う。彼女は思い出せないことばかりだ。

モンターグは、ミルドレッドに暫く仕事を休みたいと持ち掛ける。
それに対して、ミルドレッドは「本なんか持っているのがいけない。その女の責任よ」と真っ向から反対する。妻にとって、老女は考え無しの狂人に過ぎない。そんな女のために夫が無職になり生活の安寧を失うなんてあり得ない。
しかし、モンターグは、老女は自分たちよりも正常だったと感じている。本を千冊焼いて、女をひとり火焙りにした……つい数日前まで香水のように感じていたケロシンの匂いを、今は思い出すと吐き気がする。彼はもうファイアマンの仕事に誇りを持てない。


クラリスとの出会いから緩やかに変化しつつあったモンターグの価値観は、老女とクラリスの死をきっかけに、大きな変革を迎え、彼を大胆な行動に駆り立てる。
モンターグは、昇火局の保管庫から密かに押収品の本を持ち出すと、手当たり次第に読み始める。が、読書経験の無い彼には理解出来ないことばかりだ。彼は妻に協力を求めるが、彼女は夫を見放し通報する。

モンターグはベイティーの追及を受けることになるが、昇火局の隊長として歴史と書籍の知識を豊富に持つベイティーには歯が立たない。ベイティーは押収した本に目を通し、歴史を学んだうえで、本には意味のあることは何も書かれていない、と判断している。
このベイティーとの舌戦(と言ってもほぼベイティーが話しているだけだが)の場面は、怖くなるくらい現実の現代社会を予言している。
すべての情報は単純化とスピードアップが求められている。要約、概要、短縮、抄録、略称だ。芸術や娯楽は大味になり、スカスカの中身をバン、ボコッ、ワーオ!の刺激物で誤魔化す。楽しめさえすれば何でもいい。規律は緩み、哲学、歴史、外国語は捨てられる。母国語の綴りの授業は遠ざけられ、ついには殆ど無視されてしまう。政治ニュースは見出しの下に二行だけ。あらゆる手段をもって、人々はものを考える必要を奪われる。極めつけは〈ラウンジ壁〉と〈巻貝〉だ。この二つの中毒者は、PCやスマホなどの依存者に酷似している。
ベイティーの言う「これはけっして、政府が命令を下したわけじゃないんだぜ」「一般大衆は自分が欲しいものをちゃんと心得ている」「みんな似た者同士でなきゃいけない」は、詭弁ではない。人々が自ら望んで現状を受け入れているのだ。皆が平等であるように互いを監視し合って、余計なことばかり考えるはみ出し者は速やかに排除し、社会秩序を常に一定の水準に保つ。それが、平和な世界だ。

本書が刊行されたのは1953年だが、ブラッドベリはいつからこのようなディストピアを幻視していたのだろう?今、幻視と言ったが、本作はSFでありながら、多くの引用と暗喩が散りばめられた詩的で幻想的な空気を纏っている。文芸作品からの引用については、巻末に出典が纏められているので参考にしたい。
しかし、これほどの情報を持ちながら、そこに何の価値も見出さないベイティーとは、一体何者なのだろうか?「哲学だの社会学だの、ものごとを関連づけて考えるような、つかみどころのないものは与えてはならない。そんなものを齧ったら、待っているのは憂鬱だ。(略)人間が野蛮で孤独だってことを思い知らされるだけだからな」彼はなぜこれほどまで絶望し、自殺に近い死を遂げることになったのか?

ところで、本書には希望がまるで描かれていない訳でもない。
モンターグをサポートするのが、大学を追われた英文学者のフェーバー教授だ。
モンターグは一年前のある晩、公園でほんの一時間だけフェーバーの話を聞いたことがあった。「わたしは事実については話さんのだよ。事実の意味をこそ話す」と語ったフェーバーは、事実を知りながら何の意味も見出さないベイティーと対極にいる人物だ。モンターグはフェーバーに電話をかけ、彼の家を訪ねる。

友達になれたクラリスは死んでしまった。友達になれたかもしれない老女も死んでしまった。だが、彼女たちの死は、モンターグにフェーバーの存在を思い出させた。フェーバーとの再会は、グレンジャーら移動キャンプとの出会いに繋がった。
グレンジャーたちの登場から、本書の中で火は別の意味を持つようになる。彼らの登場する第3部のタイトルは「明るく燃えて」だ。
彼らは一度読んだ本の内容をいつでも完璧に思い出せる技術を完成させていた。だから、彼らは本を読み終わったそばから、焚火の中に入れて燃やしてしまう。職質を受けた時に違法なものは何一つ身に着けていてはいけないからだ。本を読んだ経験のあるモンターグは彼らに歓迎される。「一度だって正しい理由でものを燃やした事はなかった」モンターグが、この焚火に参加するということの意味。焚火を囲む彼らの一人一人が本そのものであり、図書館なのだ。
遠い昔から世界各地で焚書は行われていた。たくさんの知識が灰になった。人間の愚行の歴史を、グレンジャーは不死鳥に例える。我々は、自分が今どんな愚行を演じたかを知っている。記憶している人間が増えれば、いつかは愚行を止めることが出来る。いつか誰かに伝えるために、頭の中にいつでも取り出せる知識を無傷で保存し続けるのだ。それは、誰もが参加できる草の根運動だ。グレンジャーはこうも言う。

「われわれがただひとつ頭に叩き込んでおかねばならないのは、われわれは決して重要人物などではないということだ。知識をひけらかしてはならない。他人よりすぐれているなどと思ってはならない。われわれは本のほこりよけのカバーにすぎない、それ以上の意味はないのだからな。」
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「浮世絵双六と七福神」展と「新春だニャン福来たる!」展

2020-01-20 07:54:49 | 日記
藤澤浮世絵館の「浮世絵双六と七福神」展と、藤沢市アートスペースの「新春だニャン福来たる! 招き猫亭コレクション」展をハシゴしてきました。


まずは浮世絵館から。
2月16日までは、東海道五十三次コーナー「国貞の美人東海道」、藤沢宿コーナー「新版画に描かれた名所」、江の島コーナー「浮世絵七福神大集合」、企画展示コーナー「江戸の楽しみ 浮世絵双六と七福神」の四つのコーナーで、合計61点の浮世絵や草双紙が展示されています。
館内はフラッシュを焚かなければ撮影できます。



歌川国貞「東海道五十三次之内嶋田ノ図」(天保4年頃1833)。中判錦絵。


歌川国貞「東海道五十三次之内御油之図」(天保4年頃1833)。中判錦絵。

東海道五十三次コーナー「国貞の美人東海道」には、歌川国貞の「東海道五十三次」のうち19点が展示されています。


お目当ての七福神と双六は、江の島コーナーと企画展示コーナーに集められています。合計30点。

七福神巡りは正月に欠かせない庶民の行事で、双六も正月に家族そろって楽しむ遊びでした。
七福神巡りは一般的に、弁財天、毘沙門天、恵比寿、大黒天、布袋、寿老人、福禄寿となっていて、一定の区域内での七福神巡りが各地で設定されています。
双六の起源は古くは5~6世紀に遡るとされていますが、江戸時代になると印刷技術の発達により、浮世絵双六(絵双六)が誕生しました。絵双六は、遊ぶだけでなく観賞用にも用いられていて、特に流行ったのが、旅行をテーマとした道中双六だそうです。


歌川広重「七福神宝船」(制作年未詳)。大判錦絵。
七福神は宝船と共に描かれることが多いようです。










歌川国芳の「七婦久人」(弘化・嘉永年間頃1845-55)。大判錦絵。
七福神を女性に見立てたシリーズ作品で、女性たちは画面右奥に描かれた七福神に所縁の道具を自分たちの持ち物にしています。
本来は紅一点の弁天が一番地味なのがちょっと意外。毘沙門天はさすがにパリッとしていました。








歌川国貞「俳諧七福神」(弘化・嘉永年間頃1845-55)。大判錦絵。
タイトル通り、俳諧と七福神のコラボです。こちらも七福神が女性になっています。


歌川国芳「(福神弁財天)銭幣館」(制作年不詳)。


喜多川歌麿「見立七福神舟遊び」(文化年間1804-18)。大判錦絵三枚続。
舟遊びの人々に扮する七福神たち。画面の人物は九人ですが、禿二人を除いた女性たちと若衆が、それぞれ七福神にあてはめられています。


正解。
弁財天が唯一男性の姿で、男神たちが女性になっています。性別逆転ですね。


歌川芳員「蚕いとなみの図」(嘉永5年1852)。大判錦絵三枚続。
蚕から絹糸を作る作業の人々に、七福神が混じっています。


歌川芳艶「七福神見立て小道具」(文久元年1861)。大判錦絵三枚続。
七福神のお面と小道具が置かれた棚の前で、歌舞伎役者が七福神に見立てた小道具を持っています。


歌川国貞「五十三次駅看立双六」(嘉永5年)。紙本木版多色摺。


歌川広重「参宮上京道中一覧双六」(安政4年)。紙本木版多色摺。


落合芳幾「東海道宿々名所名物寄俳優芸道細見図」(安政2年1855)。紙本木版多色摺。
東海道各宿の名所名物に所縁のある歌舞伎役者などの詩歌が、マスごとに挿入されています。




美図垣笑顔作・歌川国貞画「児雷也豪傑譚」より2点。(天保10年1839)。紙本木版多色摺。
「児雷也豪傑譚」は、全43編からなる長編草双紙で、藤澤浮世絵館ではそのうちの4点が展示されていました。


歌川国輝「児雷也豪傑双六」(嘉永5年1852)。紙本木版多色摺。


三代目歌川国貞「世進電話双六」(明治26年1893)。紙本木版多色摺。
東京―横浜間で電話のサービスが開始されたのが明治23年。この作品は、電話線で当時の人々の日常の事象を繋いでいます。


奈良沢兼蔵「東海道汽車進行双六」(明治35年1902)。紙本木版多色摺。
明治22年に東海道本線が全線開通し、マスの名称も宿場名から駅名に変わっています。

子供の遊びとされる双六もなかなか馬鹿にしたものではなく、それぞれの年代で当時の世情を知ることが出来ます。明治になると、首都が京都から東京に移ったため、双六も東京行きが「上がり」に変わりました。





館内には展示室のほか図書コーナーもあります。浮世絵や江戸風俗に関する蔵書や浮世絵の工程の図解などが置いてあります。
夫と娘コメガネは、双六に興じていました。
職員の方のお話では、この双六は早い人では5分、遅い人だと一時間経っても上がれないとのこと。

一通り楽しんだ後、藤沢市アートスペースに移動しました。




「新春だニャン福来たる! 招き猫亭コレクション」展は館内撮影禁止でしたので、入り口のポスターとパンフだけ。

館内では、猫をテーマにした作品が126点展示されていました。2月2日まで。
1800年代の大判錦絵から現代の水彩画、油絵、リトグラフまで、時代も形質も多岐にわたっています。
猫と美女、猫と蝶、猫とタコ、猫とネズミなど、組み合わせも様々ですが、生田宏司の猫とフクロウの作品が特に可愛らしかったですね。我が家の猫たちの中では、桜がフクロウに似ているなと前々から思っていたので、特に。







帰りにお食事。
夫とコメガネはハンバーグ。私は白身魚。
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死体展覧会

2020-01-16 07:46:35 | 日記
ハサン・ブラーシム著『死体展覧会』には、「死体展覧会」「コンパスと人殺し」「グリーンゾーンのウサギ」「軍の機関紙」「クロスワード」「穴」「自由広場の狂人」「イラク人キリスト」「アラビアン・ナイフ」「作曲家」「ヤギの歌」「記録と現実」「あの不吉な微笑」「カルロス・フエンテスの悪夢」の14の短編が収録されている。

アラビア語圏の小説を読むのは初めてだ。
ブラーシムは、1973年にバクダッドで生まれ、少年時代をバクダッドの北方に位置するキルクークで過ごした。キルクークは主にクルド人とトルクメン人の住む都市で、本書収録の短編にはクルド人が登場する作品がいくつかある。油田を抱えるこの地では、サダム・フセイン率いるバアス党のアラブ化政策によって、1980年代以降紛争が絶えない。フセイン亡き後も、石油利権の絡む深刻な宗派・民族間の対立が続いている。

訳者あとがきによると、バクダッドで映像作家として活動していたブラーシムは、政府から圧力を受けたため、1990年代にバグダッドを離れ、クルド人地域に戻り、偽名で映像作品制作に取り組んだ。2000年にイラクを出国し、イラン→トルコ→ブルガリアと渡り、2004年にフィンランドに到着した。2016年にはフィンランドの市民権を得ている。
その後は、テレビ局向けにドキュメンタリーを制作する傍ら、アラビア語での創作を続けた。2009年にイギリスで英語版の『自由広場の狂人』が出版されたが、アラビア語版の出版はかなり遅れ、検閲版『自由広場の狂人』が、2012年にレバノンの出版社から刊行されるも、ヨルダンではすぐに発禁処分になった。

ブラーシム自身が分析する通り、暴力を直截的に描くのが彼の作風だ。
これは、作品の舞台であるイラクを支配しているのが暴力であるという事態を表している。あえてだと思うが、暴力の背景にあるはずの政治的、宗教的な信条については、意外なほど描写が少ない。
ブラーシムは、イラクに蔓延する暴力に、解決策や希望を見出そうという描き方はしていない。逆に、暴力を凝縮して見せることで、その非人間性を浮き彫りにする。それが読者の心を抉る。
ブラーシム作品の暴力は、唐突で理不尽で執拗だ。
しかし、彼は暴力を礼賛しているのでも、暴力を描くことを愉しんでいるのでもない。彼の作品には、屈折した倫理が貫かれている。登場人物を容赦なく襲い、彼等の人生を無慈悲に破壊する暴力を研ぎ澄ますように描き出すことで、恐怖政治や戦争に襲われた人々の心の傷を探求しようとする。その先にあるのは、人間の尊厳とは何かという問いかけだ。

そして、暴力を描くのに、SF的な要素や暴力的・寓話的な要素を多く用いることも彼の特徴である。
「穴」の、主人公が時空の歪んだ穴に落ちるというタイムトラベル的な設定、「アラビアン・ナイフ」の、ナイフを消したり出したりできる超能力、「グリーンゾーンのウサギ」の、何かを暗喩するような非現実的な存在のウサギ、等々。


「死体展覧会」

人を殺し、その死体をいかに芸術的に市街に展示するかを追求する団体。
あくまで架空の団体であるが、その下敷きになっているのは、イラクでの暴力で命を落とし、晒し者とされてきた数多の人々の、すべての価値や尊厳を剥奪された死体群だ。

物語は団体の幹部〈彼〉が、エージェント契約を交わす予定の研修生〈私〉に仕事の流れと心構えを説く場面から始まる。
「我々は狂信的なイスラーム集団ではないし、非道な政府の手先でもない」と言う〈彼〉の言葉は、いっそ純粋と言えるまでに人間性が欠落した理論に貫かれている。〈彼〉は、エージェントが陳腐な人道的感情に流されることを許さない。
〈私〉が馬鹿か天才のどちらなのかを心配する〈彼〉は、団体を愚弄しようとした馬鹿についてのちょっとした話を紹介する。

その馬鹿――〈釘〉というコードネームのエージェントは、他人を殺して何の利があるのかと疑問を抱き、遺体安置所(テロや無差別殺人が生んだ死体で常に満杯なのだ)から盗んだ死体を使って作品を仕上げようと考えた。目論見を察知され、捕らえられた〈釘〉が受けた恐ろしい制裁とは。


「軍の機関紙」

戦死した兵士の創作ノートを盗み、自分の作品として発表して国民的大作家となった男。
名声が絶頂を迎えたころ、男の元に死んだはずの兵士から、イナゴのように大量の原稿が毎朝送られて来るようになる。
今日は百篇、明日は二百編……。日を追うごとに嵩の増す原稿は、保存のために密かに借りた倉庫の容量を超え、男の精神を削っていく。

追い詰められた男は、兵士を見つけ出すべく、猛烈な勢いであちこちに連絡を取った。
しかし、すべての返信が、件の兵士は戦死したことを裏付けていたのだ。男はついには、兵士の墓を掘り返すが、そこには兵士の母親の証言通り、額に穴が開いた腐乱死体があった。兵士は確かに死んでいたのだ。
その後も兵士の名前で各地の前線から送られ続ける原稿は、さらに素晴らしく独創的になっていく。男は身震いし、この原稿の洪水が止まらなければ身の破滅は近いと思うのだった。


「穴」

〈僕〉は、店の倉庫を襲い、酒と食料を詰め込んだ袋を抱えて逃走中に、公園近くの穴に落ちた。
穴の中で〈僕〉は、老人に話しかけられる。老人が蝋燭をつけると、古い兵士のような格好の死体が見えた。老人が言うには、その死体は、ソ連とフィンランドが戦った冬戦争(1939年11月30日―1940年3月13日)の頃に穴に落ちたロシア兵なのだ。

老人は自分の正体はジン(イスラームの精霊・魔神)だと言い、ロシア兵の死体を食べながら奇妙な話を続ける。
ロシア兵は、この穴では死んでいるが別の穴では違う。老人は、アッパーズ朝(750-1158年)のバグダッドで、教師にして作家、発明家だった。家の近くで、自分の外衣に足を取られ、穴に落ちたのだ。
老人が教えてくれたのは、穴を訪れる者はみな過去・現在・未来の出来事を知る方法を会得するということや、このゲームの開発者たちが参考にしたのは、偶然を理解する一連の実験だったということだった。しかし、ゲームは彼らの制御から暴走してしまい、止まることなく時の曲線を転がり続けているらしい。

我々が何でこんなゲームに参加させられているのかと言えば、科学者たちが記憶の実験を続けているからだ。
このゲームにおいては、記憶が勝利の決め手になるのか?それとも、我々はただ楽しめばいいのか?ここに落ちてくる者はみな、食べ物になるか、本能を満足させる材料になるか、ほかの組織のためのエネルギーとなる。我々は何者なのか?


「アラビアン・ナイフ」

サッカーの審判ジャアファル、選手のアッラウィー、子供のころにジャアファルのサッカーチームに入っていた〈僕〉、肉屋のサーリフには、ナイフを消すという能力がある。ジャアファルの妹で〈僕〉の妻スアードは、消えたナイフを取り戻すことが出来るが、消すことはできない。

ジャアファルは、クウェート戦争に送られ、帰って来た時には両脚を失っていた。
だが、彼のサッカーにかける情熱は本物だった。彼は少年サッカー試合を開催しては審判を務めたり、才能のある少年を見つけ出しては選手として育てたりした。それらの費用や生活費を稼ぐのに、彼はポルノ雑誌の販売をしていた。ポルノは禁止されていたが、販路をうまく隠し、裕福な地区だけで売りさばいていたのだ。

“ナイフはジハードのため、裏切りのため、拷問と恐怖のための道具だ。剣と血。砂漠の戦いと未来の戦いの象徴。神の名を押印された勝利の御旗と、戦争のナイフ。”

ジャアファルは、突如として消息不明になった。
日々はゆっくりと、悲しく、惨めに過ぎていった。〈僕〉たちはみな、苦痛によって同じように作られた顔になった。仲間たちは、もう集まることも話し合うことも無かった。アッラウィーは首都から出て行った。

ある冬の朝、ハッサーンと名乗る若者によって、〈僕〉は、ジャアファルに何があったのかを知らされた。
治安部隊の手で、テロリストの巣窟から何人かの人質が解放された。ハッサーンはその中の一人だった。人質が拘束されていた首都のはずれの農家で、彼はジャアファルが残忍な拷問を受けているのを見たと言う。

テロリストたちは、既に両脚を切断されているジャアファルの両腕を斬り落すことにした。
人質たちは、両腕を切断する一部始終に立ち会わされた。
テロリストたちがジャアファルに近づくたびに、彼らの手にした刃物が消えた。テロリストたちは、ジャアファルを悪魔と呼ぶと、彼の服を剥ぎ取り、壁に磔にした。そして、両掌に釘を打ち込まれ、苦痛で身を捩るジャアファルの両腕を、銃弾で切断したのだ。
ナイフを消す能力は、ジャアファルを助けなかった。彼の死体は、ガソリンを撒かれ、燃やされた。


私の好きな作家は、殆どが故人か、かなり年上かなのだが、このブラーシムはほぼ同年代である。
彼の描く、血も涙も枯れ果てるような凄惨な物語群を読んだ後では、自分の人生の不如意があまりにもチンケで、しょうもないことで悩めるのが平和の証のように感じてしまう。
我々の日常では、レストランで食事中に体に爆弾ベルトを巻かれて自爆を強要されたり、仕事帰りに電気ドリルで体を穴だらけにされてから首を斬り落されたりすることなどは無い。あったとしても、それは既に事件という名の極めて稀な非日常である。
同じ時代のイラクでは、誰もが日常的に暴力と殺戮に晒されながら生きている。
「死体展覧会」のエージェントが、宗教や政治的信条とは何の関係もなく、素材となる人間を選んでいるように、かの地では暴力は犠牲となる者を選別しない。善人も悪人も等しく、理不尽に虐殺される可能性の中で日々を暮らしている。
現実と幻想がシームレスな作風は、私の大好きな南米文学に近いものがあって、大変面白かった。が、面白いだけでは済まされない残酷な背景がある。同じ時代の、全く異なる環境に生きる作家の、書かれる必然性のある物語を今後も追い続けたいと思った。
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