チェスタトン著『アポロンの眼』には、ボルヘスの序文と、「三人の黙示録の騎士」「奇妙な足音」「イズレイル・ガウの名誉」「アポロンの眼」「イルシュ博士の決闘」の五編が収録されている。
本書は、ボルヘス編集“バベルの図書館”の1巻であるが、私にとっては3冊目の“バベルの図書館”の作品である。
タイトルに惹かれて3冊目はこれにしようと決めたのだが、チェスタトンと言う作家名には覚えがなかった。チェスタトンが私にとって未知の作家ではないことを思い出したのは、ボルヘスの序文を読んでからだ。
ブラウン神父…私はこの名を知っている。
そこに気が付くと、記憶が蘇るのは早かった。小学3年生の頃である。クラスに江戸川乱歩好きの子がいて、彼女と一緒に図書館の児童向け探偵小説を競うように読んでいた時期があったのだ。
児童向け探偵小説と言えばポプラ社で、彼女がポプラ社の乱歩全集を好んで読んでいたのを覚えている。あの、一度見たら忘れられない独特の表紙のシリーズである。
私の方は、ポプラ社の乱歩から入りつつも、すぐに海外の探偵小説の方に興味が移った。そして、同社の世界名探偵シリーズをはじめ、各出版社から刊行されている児童向けに平易に訳された海外の探偵小説を乱読するようになった。その中に、チェスタトンのブラウン神父シリーズがあったのだ。
その後、五年生の終わりに転校し同好の士と離れたことで、私の名探偵ブームはあっさり終わってしまった。そうして、気に入った作家以外は、探偵の名ごと忘れた。チェスタトンのブラウン神父シリーズも、そんな作品の一つである。当時の私は、この貧しく小柄な老神父があまり趣味ではなかった。作風そのものも地味で心躍らないと感じていたように記憶している。
ボルヘスは序文で、“G・K・チェスタトンのように温良で気立てのやさしい人が、同時にまた、事物にひそむ恐怖を感じ取っていた端倪すべからざる人物でもあった”と述べているが、当時の私はチェスタトンの作品から前者のみを感じ取っていたのだと思う。“その気になればカフカにもポーにもなり得たであろうに、彼は雄々しくも幸福であることを選んだ、というか、幸福を見出したかのように振る舞ったのである”というチェスタトンの独創性には気がつかず、“カトリックは彼によれば常識に根拠を置いている”というチェスタトンの健全なカトリシズムをうっすらと退屈に感じていたのかもしれない。当時の私は、珍奇なもの、非常識なもの、刺激の強いものを求めて探偵小説を読んでいたので。
ボルヘスは、チェスタトンの批評家としての仕事や神秘的だったり幻想的だったりする小説類には、あまり高い評価を与えていないようだ。チェスタトンの“実際の名声は、なによりもブラウン神父の手柄と呼べるものに依っている”と言い切っているし、“チェスタトンの代表作と私が感じているもの”として本作に収録した五編のうち、「三人の黙示録の騎士」を除く四篇がブラウン神父シリーズだ。
小説は顔面の戯れであり、探偵小説は仮面の戯れである、とはチェスタトンの言葉だ。
一人の人間が仮面のように自在に人格をつけ替える「イルシュ博士の決闘」が、その典型である。一人の人間が発する二種類の足音が事件の肝である「奇妙な足音」もまた、仮面性を強く感じさせる作品だ。「奇妙な足音」は、ブラウン神父の懇切丁寧な謎解きに読んでいてワクワクさせられたが、子供時分の私はこの論理的秩序を地味と感じていたと思われる。
子供時代に僅か二年ほど探偵小説に夢中になっていた時期があるだけの私が言うのもおこがましいのだが、ブラウン神父シリーズの良さは、雰囲気や反則技で誤魔化さない手堅さにあると思う。オカルトに流れそうで流れない「イズレイル・ガウの名誉」からは、邪道に対する批判精神すら感じた。
「イズレイル・ガウの名誉」は、代々、神秘的悲哀に包まれた城館に住むスコットランド貴族の末裔の消息を探る物語。
ブラウン神父は一日だけ暇をとって、グレンガイル一族の城に滞在中の友人フランボウを訪ねた。素人探偵フランボウは、故グレンガイル伯爵の生死を調査中なのだ。ブラウン神父は、フラウボウとクレイヴン警部に協力して、城内を調査する。
この度亡くなったとされる伯爵は、勇猛、狂気、狡猾によって恐れられた一族の末裔であった。
この土地で唄われる韻文が、グレンガイル一族の策謀の動機と結果を明示している。
“夏の樹の緑の液のよう
オーグルヴィーの赤い金は“
何世紀もの間、奇人変人ばかりを産出してきた一族の最後の代表者は、一族の狂気の総仕上げのように謎の失踪を遂げた。
長年隠遁生活を続け、陽光のもとで伯爵の姿を見た者は誰もいない。城館の使用人は、聾啞で愚鈍なイズレイル・ガウただ一人。この男が、伯爵の死を見届け、自分の主人を棺に納めて釘を打ち、丘の上の小さな墓地に埋葬したと供述している。と言うことは、伯爵は何らかの理由で己の死を偽って、未だ城館に潜んでいるのかもしれない。
ブラウン神父たちが城内で見つけた様々な珍品…嵌め込み台から外された大量の宝石類、箱から出された嗅ぎ煙草、ケースから外された鉛筆の芯、文字盤のない時計、握りの外された杖、飾り文字の削られた祈祷書等々。それから、墓地に埋葬されていた、伯爵のものと思われる首のない遺体。何やらオドロオドロしい小道具たちである。
ブラウン神父はそれらを繋ぎ合わせて、「見当違いのことを言う十人の哲学者の説も宇宙の秘密を解き明かすことだってある。十のいい加減な説もグレンガイル城の秘密を説明することが出来るのです」と嘯き、つらつらと珍説を挙げては自ら否定するという、悪ふざけみたいなことを繰り返す。その心は?
“これは犯罪の物語ではないのです。むしろ、一風変わった、偏屈な正直者の物語でしょう。わたしたちが相手にしているのは、自分の分け前しか受け取らなかったおそらくは地上でただ一人の男なのです。”
グレンガイル一族について唄った古い詩は、比喩的なだけではなく、字義通りでもあった。
イズレイル・ガウは見かけほど愚鈍ではなかった。彼は、一種独特な良心の持ち主だったのだ。私は、この奇妙な守銭奴が丘の墓を掘り起こしている姿から、やっていることに反して、ひどく神聖な印象を受けたのだった。
「アポロンの眼」では、ブラウン神父はフランボウと再びコンビを組み、太陽を崇拝する新興宗教の祭司長と彼の信者の墜落死の謎に迫る。
ブラウン神父らが対峙した事件は、一つの犯罪のように見えて、実は同一人物になされた二つの犯罪だったのだ。
アポロンの祭司長を名乗るのにふさわしい美男子カロンと貧相な小男のブラウン神父の対比の繰り返しと、その後に導き出される事件の真相に、皮肉を通り越して心が痛む作品だった。
冒頭で、カロンの主宰する新興宗教団体の看板を見上げた時の、「本当に健康な人間ならば」「わざわざ太陽をじっと見つめたりなんかしないでしょう」というブラウン神父の言葉には、真相を知った後に思い返すとなんともやりきれない気持ちになるのだった。
私が三十数年ぶりに再会したブラウン神父は、風貌こそ地味だがなかなか攻めている探偵だった。
作中でその貧相な風貌を小さな黒いシミのようだと評されながらも、ブルジョアの集団や新興宗教の祭司といった押し出しの強い連中を相手に、岩のように微動だにしない態度からは、彼の胆力とその源であるカトリシズムが伺えた。
この健全であること、正道であることを一歩も譲らないブラウン神父の姿勢が、そのままチェスタトンの姿勢であるとするなら、下のボルヘスの言葉もなるほどと肯けるのだ。
“文学は幸福というものの数ある多様な形態のうちの一つである。たぶんいかなる作家も、チェスタトンほど私に多くの幸福な時をあてがってくれはしなかった。私は彼の神学を共有するわけでもなく、『神曲』に霊感を与えた神学とも無縁の徒だが、この二つが作品の構想にとって不可欠であったことは知っている。”
本書は、ボルヘス編集“バベルの図書館”の1巻であるが、私にとっては3冊目の“バベルの図書館”の作品である。
タイトルに惹かれて3冊目はこれにしようと決めたのだが、チェスタトンと言う作家名には覚えがなかった。チェスタトンが私にとって未知の作家ではないことを思い出したのは、ボルヘスの序文を読んでからだ。
ブラウン神父…私はこの名を知っている。
そこに気が付くと、記憶が蘇るのは早かった。小学3年生の頃である。クラスに江戸川乱歩好きの子がいて、彼女と一緒に図書館の児童向け探偵小説を競うように読んでいた時期があったのだ。
児童向け探偵小説と言えばポプラ社で、彼女がポプラ社の乱歩全集を好んで読んでいたのを覚えている。あの、一度見たら忘れられない独特の表紙のシリーズである。
私の方は、ポプラ社の乱歩から入りつつも、すぐに海外の探偵小説の方に興味が移った。そして、同社の世界名探偵シリーズをはじめ、各出版社から刊行されている児童向けに平易に訳された海外の探偵小説を乱読するようになった。その中に、チェスタトンのブラウン神父シリーズがあったのだ。
その後、五年生の終わりに転校し同好の士と離れたことで、私の名探偵ブームはあっさり終わってしまった。そうして、気に入った作家以外は、探偵の名ごと忘れた。チェスタトンのブラウン神父シリーズも、そんな作品の一つである。当時の私は、この貧しく小柄な老神父があまり趣味ではなかった。作風そのものも地味で心躍らないと感じていたように記憶している。
ボルヘスは序文で、“G・K・チェスタトンのように温良で気立てのやさしい人が、同時にまた、事物にひそむ恐怖を感じ取っていた端倪すべからざる人物でもあった”と述べているが、当時の私はチェスタトンの作品から前者のみを感じ取っていたのだと思う。“その気になればカフカにもポーにもなり得たであろうに、彼は雄々しくも幸福であることを選んだ、というか、幸福を見出したかのように振る舞ったのである”というチェスタトンの独創性には気がつかず、“カトリックは彼によれば常識に根拠を置いている”というチェスタトンの健全なカトリシズムをうっすらと退屈に感じていたのかもしれない。当時の私は、珍奇なもの、非常識なもの、刺激の強いものを求めて探偵小説を読んでいたので。
ボルヘスは、チェスタトンの批評家としての仕事や神秘的だったり幻想的だったりする小説類には、あまり高い評価を与えていないようだ。チェスタトンの“実際の名声は、なによりもブラウン神父の手柄と呼べるものに依っている”と言い切っているし、“チェスタトンの代表作と私が感じているもの”として本作に収録した五編のうち、「三人の黙示録の騎士」を除く四篇がブラウン神父シリーズだ。
小説は顔面の戯れであり、探偵小説は仮面の戯れである、とはチェスタトンの言葉だ。
一人の人間が仮面のように自在に人格をつけ替える「イルシュ博士の決闘」が、その典型である。一人の人間が発する二種類の足音が事件の肝である「奇妙な足音」もまた、仮面性を強く感じさせる作品だ。「奇妙な足音」は、ブラウン神父の懇切丁寧な謎解きに読んでいてワクワクさせられたが、子供時分の私はこの論理的秩序を地味と感じていたと思われる。
子供時代に僅か二年ほど探偵小説に夢中になっていた時期があるだけの私が言うのもおこがましいのだが、ブラウン神父シリーズの良さは、雰囲気や反則技で誤魔化さない手堅さにあると思う。オカルトに流れそうで流れない「イズレイル・ガウの名誉」からは、邪道に対する批判精神すら感じた。
「イズレイル・ガウの名誉」は、代々、神秘的悲哀に包まれた城館に住むスコットランド貴族の末裔の消息を探る物語。
ブラウン神父は一日だけ暇をとって、グレンガイル一族の城に滞在中の友人フランボウを訪ねた。素人探偵フランボウは、故グレンガイル伯爵の生死を調査中なのだ。ブラウン神父は、フラウボウとクレイヴン警部に協力して、城内を調査する。
この度亡くなったとされる伯爵は、勇猛、狂気、狡猾によって恐れられた一族の末裔であった。
この土地で唄われる韻文が、グレンガイル一族の策謀の動機と結果を明示している。
“夏の樹の緑の液のよう
オーグルヴィーの赤い金は“
何世紀もの間、奇人変人ばかりを産出してきた一族の最後の代表者は、一族の狂気の総仕上げのように謎の失踪を遂げた。
長年隠遁生活を続け、陽光のもとで伯爵の姿を見た者は誰もいない。城館の使用人は、聾啞で愚鈍なイズレイル・ガウただ一人。この男が、伯爵の死を見届け、自分の主人を棺に納めて釘を打ち、丘の上の小さな墓地に埋葬したと供述している。と言うことは、伯爵は何らかの理由で己の死を偽って、未だ城館に潜んでいるのかもしれない。
ブラウン神父たちが城内で見つけた様々な珍品…嵌め込み台から外された大量の宝石類、箱から出された嗅ぎ煙草、ケースから外された鉛筆の芯、文字盤のない時計、握りの外された杖、飾り文字の削られた祈祷書等々。それから、墓地に埋葬されていた、伯爵のものと思われる首のない遺体。何やらオドロオドロしい小道具たちである。
ブラウン神父はそれらを繋ぎ合わせて、「見当違いのことを言う十人の哲学者の説も宇宙の秘密を解き明かすことだってある。十のいい加減な説もグレンガイル城の秘密を説明することが出来るのです」と嘯き、つらつらと珍説を挙げては自ら否定するという、悪ふざけみたいなことを繰り返す。その心は?
“これは犯罪の物語ではないのです。むしろ、一風変わった、偏屈な正直者の物語でしょう。わたしたちが相手にしているのは、自分の分け前しか受け取らなかったおそらくは地上でただ一人の男なのです。”
グレンガイル一族について唄った古い詩は、比喩的なだけではなく、字義通りでもあった。
イズレイル・ガウは見かけほど愚鈍ではなかった。彼は、一種独特な良心の持ち主だったのだ。私は、この奇妙な守銭奴が丘の墓を掘り起こしている姿から、やっていることに反して、ひどく神聖な印象を受けたのだった。
「アポロンの眼」では、ブラウン神父はフランボウと再びコンビを組み、太陽を崇拝する新興宗教の祭司長と彼の信者の墜落死の謎に迫る。
ブラウン神父らが対峙した事件は、一つの犯罪のように見えて、実は同一人物になされた二つの犯罪だったのだ。
アポロンの祭司長を名乗るのにふさわしい美男子カロンと貧相な小男のブラウン神父の対比の繰り返しと、その後に導き出される事件の真相に、皮肉を通り越して心が痛む作品だった。
冒頭で、カロンの主宰する新興宗教団体の看板を見上げた時の、「本当に健康な人間ならば」「わざわざ太陽をじっと見つめたりなんかしないでしょう」というブラウン神父の言葉には、真相を知った後に思い返すとなんともやりきれない気持ちになるのだった。
私が三十数年ぶりに再会したブラウン神父は、風貌こそ地味だがなかなか攻めている探偵だった。
作中でその貧相な風貌を小さな黒いシミのようだと評されながらも、ブルジョアの集団や新興宗教の祭司といった押し出しの強い連中を相手に、岩のように微動だにしない態度からは、彼の胆力とその源であるカトリシズムが伺えた。
この健全であること、正道であることを一歩も譲らないブラウン神父の姿勢が、そのままチェスタトンの姿勢であるとするなら、下のボルヘスの言葉もなるほどと肯けるのだ。
“文学は幸福というものの数ある多様な形態のうちの一つである。たぶんいかなる作家も、チェスタトンほど私に多くの幸福な時をあてがってくれはしなかった。私は彼の神学を共有するわけでもなく、『神曲』に霊感を与えた神学とも無縁の徒だが、この二つが作品の構想にとって不可欠であったことは知っている。”