青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

白い果実

2017-07-29 08:46:39 | 日記
ジェフリー・フォード著『白い果実』は、1998年に世界幻想文学大賞を受賞したモダンゴシックの傑作。三部作の第一部目だ。金原瑞人・谷垣暁美が訳した文を山尾悠子がリライトしている。なるほど、偏狂的なまでに精巧な〈理想形態都市〉の描写には、山尾悠子の無機質な文体がふさわしい。


全知全能と謳われるドラクトン・ビロウの支配する〈理想形態都市〉は、すべてがビロウ唯一人の頭脳によって創造されている。珊瑚と鋼鉄で出来た都市は、完璧なまでに均整がとれていて、美しく清潔だ。そこでは、すべての市民の生殺与奪がビロウに握られている。ビロウにとってはユートピアだが、彼以外の人々にとっては暗黒のディストピアだ。

観相官クレイは、辺境の属領アナマソビアにて盗まれた〈白い果実〉の在処と犯人探しを命ぜられる。〈白い果実〉とは、鉱山で発見されて、いつまでも腐ることなくガーランド司祭の教会に祀られていたもので、食べると不死身になると噂されていた。

アナマソビアでは、エネルギーの源である青い鉱物〈スパイア〉が産出されている。
坑道での採掘作業は過酷で、坑夫の多くは長く生きることは出来ない。稀に長く生きた者も体組織を鉱毒に侵され年々肌が青く変色し、ある日突然青い石像と化して死ぬ。その後は、見世物にされたり燃料にされたりする。

高慢で自意識過剰なクレイは、今回の任務が左遷のようで気に入らない。
しかし、ビロウに楯突くことは出来ないので、バタルド町長をはじめとする属領の領民たちに暴言を吐き、時には暴力をふるうことで、何とか心の均衡を保とうとしていた。
それでも、平安を得られない時には、〈美薬〉と呼ばれる幻覚剤に耽溺する。
〈美薬〉による幻覚は、クレイに様々な啓示を齎した。殊に、クレイが告発したためにドラリス島での硫黄採掘に就かされ、凄惨な死を遂げた恩師フロック教授との対話では、クレイは罪の意識も感じずに助言を強請るのだった。

〈白い果実〉盗難の容疑者は、アナマソビアの領民全員である。
クレイはすべての領民の外貌を観相学の知識でもって測定し、犯人と果実を見つけ出さねばならない。任務に失敗すればビロウの逆鱗に触れ、極刑に処せられることは明らかだ。クレイは、自覚しているよりもずっと精神的に追い詰められていた。

マスター・ビロウ以外のすべての人間を蔑んでいるクレイであるが、女性への蔑視は特に酷い。その差別意識とアカデミー時代の陰惨な初恋の記憶が、現在の荒淫に繋がっている。つまりは、真っ当な恋愛をしたことが一度もない。
そんなクレイが観相学の知識を持つ女性アーラと出会い、一目惚れをした。クレイは、本来なら女性が付くべきではない観相の助手にアーラを任命する。自分が女性への恋心に振り回されていると認めたくないクレイは、アーラに対しても他の女性に対するのと変わらない冷酷な態度を取っているつもりでいる。しかし、実際には彼女を特別扱いしているのだ。そのことが、彼の運命を狂わせていく。

アーラへの捻じれた恋心から奇矯な行動に走り、一時的ではあるが観相学の知識を失い、許されない失態を犯したクレイは、マスター・ビロウの元に強制連行され、フロック教授と同じく、ドラリス島での硫黄採掘に就かされることになった。以降、クレイは己の意図しない運命の大きなうねりに翻弄されていく。

アーラへの恋心が引き金となった失脚。そのことで自覚した弱さと自惚れ。
硫黄鉱山での労役の中で芽生えた、フロック教授をはじめとするクレイのせいで命を落とした人々への贖罪の念。
それらが、今更ながらにクレイの心を変えた。フロック教授が坑道に刻んだ「赦ス」という言葉は、クレイの心にも深く刻まれたのだ。遅く来た精神の成長期である。

その後、クレイは、マスター・ビロウの気まぐれによって無罪放免され、観相官として復職した。
しかし、彼の眼には〈理想形態都市〉も己自身も以前とは全く違うものに映っていた。
クレイは、彼に媚び諂う人々の態度を寂しく思うようになっていた。そして、これまで彼が見下してきた人達の中に、たとえばスタリー荘のマンタキス夫妻のように、手のかかる彼の面倒をみてくれた人達も居たことに気づくのだった。

そんなクレイに、少数ではあるが、新愛を込めた態度をとる者も現れるようになった。
彼らは、指で0の形を作る挨拶を送ってきた。そのサインの意図するところは不明だが、クレイもまた指で0の形を作って挨拶を返すのだった。

復帰第一弾の任務として、クレイは観相学を用いて市民の中から相の劣った人々のリストを作成し、そこから見せしめのために公開処刑される者を選ばなければならなかった。以前のクレイなら、意気揚々と着いたその任務を、今のクレイは実行する気にはなれない。

〈白い果実〉を口にしたマスター・ビロウは、その後遺症なのか酷い頭痛に苦しむようになり、これまでの仕打ちも忘れて、クレイを頼みにするようになっていた。
好機と見たクレイは、上手く時間稼ぎをしつつ、〈理想形態都市〉を脱出し、アーラの祖父ビートンが探した〈白い果実〉の楽園ウィナウに行く方法を考える。その際に相棒としてカルーを連れて行くことにした。
カルーは、バタルド町長のボディガードだったが、大量虐殺が繰り広げられるアナマソビアからの逃走の際、クレイを助けたため、共にビロウの兵隊に捕らえられた。その後、両腕を縛られた状態で人狼グレタ・サイクス(グレタもクレイによって摘発され、ビロウによって改造された不憫な娘だ)と戦わされ負傷し、脳と体の大部分を機械化された。〈理想形態都市〉に連れて行かれてからは、剣闘士としてショッピングモールでのショーに使われていたのだ。

深夜、カルーの救出を実行したクレイは、再会したカルーが度重なる剣闘ショーのために体がボロボロになっている上、損壊と修復の繰り返しによって会話もまともに成立しないほど知能が退行していることを知る。
以前のクレイだったら、舌打ちの一つでもしてカルーを見捨てていただろう。しかし、彼は変わったのだ。利用価値の有無で付き合う人間を選んできた彼が、最早お荷物でしかないカルーを“私がもっとも切実に必要としていたもの――味方”と言い切る。この後、カルーを伴って下水処理場を逃走するクレイの献身は、物語の前半での高慢ちきで甘ったれた彼と同じ人間とは思えない。

クレイは、アーラと彼女の赤ん坊、それから〈旅人〉と再会する。
アーラは、クレイから受けた仕打ちを許してはいなかった。そればかりか、彼女の口から〈旅人〉と彼女があらゆる意味で愛し合っていることを聞かされ、クレイはどす黒い嫉妬の念に駆られる。それでも、彼はアーラに償いたいと願うのだ。

〈旅人〉は、エアという名だった。
「〈白い果実〉は本当に楽園の果実なのか」と訊ねるクレイに対して、エアは「違う」と答えた。
〈白い果実〉は何千年も前、エアの故郷ウィナウに齎された。
〈白い果実〉はたしかに、奇跡のように思われる変化を起こすが、そういう変化は自然に反するものなので、人生で何が大切なのかを分かり難くさせる。長老たちは果実の正体を見抜き、それが実る木を燃やすように命じた。しかし、ウィナウの人々は、〈白い果実〉を絶滅させることが忍びなかった。〈白い果実〉もまた、自然が生み出したものであり、それを絶滅させる権利など誰にも無いからだ。
エアは〈白い果実〉を遠方に隠した後、呪術師の調合した薬を飲んで長い眠りにつき、果実が二度と生き物に食べられることが無いように守る役目を担った。

しかし、眠りについていたエアにガーランド司祭が果実を食べさせた。
そうして、目覚めたエアは、クレイによって顔面をズタズタにされたアーラを見つけ、助けるために彼女にも果実を食べさせた。そのために、エアはここでもウィナウでも犯罪者となったのだった。種の違いを超えてエアとアーラは愛し合い、家族になった。
クレイはアーラとエアと赤ん坊を守るために、必要とあらばビロウの命を奪うことを決意する。緑人モイサックが種を残したように、自分はあの家族を残すのだ――。


〈美薬〉が齎す幻覚。高度な知性の相を持つ〈旅人〉。人間と植物の体を併せ持つ緑人モイサック。バーテン猿のサイレンシオが調合するカクテル〈甘き薔薇の耳〉。ガラス玉の偽楽園。ウィナウの〈白い果実〉。これらの幻想的なピースが、〈理想形態都市〉の無機質な描写と化学反応を起こし、独特の清潔で陰鬱なディストピアを構築している。

物語の舞台は個性的なのに、登場人物は意外なほど普通の人たちばかりだ。
クレイもビロウも常人の範囲での嫌な奴。特にクレイは、自意識過剰な割に間抜けで迂闊な言動が多く、悪人だったころから憎みきれない人だった。
クレイの年齢は定かではないが、経歴から既に若者でないことは推測される。それでも、彼はまるで思春期の少年のように飛躍的な成長を遂げるのだ。
前半では、クレイの主人公らしからぬ傲慢で冷酷な言動がこれでもかと綴られている。
物語が進むにつれ、それらの言動がブーメランのようにクレイ自身に突き刺さり、彼を追い詰めていく。すべてを失ったところで、漸く覚醒し人並みの情感をもち、感謝と贖罪に基づく行動ができるようになる。彼が変わることで、周囲の人々の態度も変わっていく。
カルーは壊れた体で何度もクレイを守り、ついには華々しい爆死を遂げた。
エアはクレイが今では全く違う人間になっていると断言し、アーラもきっといつかクレイの凶行を許せる時が来るだろうと述べた。
叛徒の地下組織〈0の同盟〉の参加者たちは、クレイの過去の悪行を知ったうえで、エアの言葉を信じてクレイを同志と認めた。
そうして、彼に主人公にふさわしい品格が備わり始めたところで、『白い果実』は終わる。

第二部の『記憶の書』は、クレイ以上に好感度の低いマスター・ビロウを中心に〈理想形態都市〉が崩壊した後の物語が展開されるらしい。
全知全能の割には、みっともない振る舞いの多かったビロウなので、続編では更に突っ込みどころ満載な言動を見せてくれるのではないか。この無機的な世界観と登場人物の人間臭さとのギャップが、このシリーズの特色なのだろう。
コメント

植物は〈知性〉をもっている

2017-07-25 08:24:23 | 日記
ステファノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラ著、マイケル・ポーラン序文。

植物は知性をもっているのだろうか?周りの環境や他の植物、昆虫、高等動物とコミュニケーションをとっているのだろうか?それとも、受動的な生き物で、感覚を持たず、個体として自発的に行動することも、社会的に行動することも、まったくないのだろうか?
著者は、植物が、〈動かない〉、〈脳をもたない〉といった理由から、不当にその地位を貶められてきたと考えている。同じ研究でも、対象が動物であるか植物であるかで、評価が全く異なるのだそうだ。

問題の根っこは、古代ギリシャ時代のアリストテレスの主張にまで遡る。
アリストテレスは、「魂を持つものと持たないものとの相違をもっとも顕著に示すと考えられているのは、次の二つの点、すなわち動(運動変化)と感覚することである(「魂について」)。」と述べ、はじめは植物を「魂を持たないもの」と考えた。しかし、その後、植物にも繁殖能力があることを知ったアリストテレスは、考えを改めなければならなくなった。解決策として、植物に低級な魂を与えたのである。それが「植物的魂」である。これは、もっぱら繁殖だけが可能な魂だ。繫殖能力がある限り、生命の無い物体とみなすことは出来ないとはいえ、植物と無生物にそれほど違いがあるまい、と結論づけたのである。

このアリストテレスの考えは、長い間西洋文化を支配し続けた。
宗教、文学、哲学、更には科学といったあらゆる分野で、植物は無脊椎動物と同じ段階にさえ進化してない、岩石などの動かない物体のすぐ上程度の地位であると考えられてきた。植物には知性があるという説を支持する者は、プラトン、デモクリトス、フェヒナー、ダーウィンといった一部の天才のみであった。
「植物は受動的な存在で、感覚をもたず、コミュニケーション、行動、計算の能力をまったくもっていない。これは完全に誤った進化の道筋をたどった結果である」という考えは、現在での科学界にもしつこく根付いたままだ。こうした植物観が全くの的外れであることは、チャールズ・ダーウィンがはっきりと証明したにも関わらず。

ダーウィンの考えはこうだ。
「地上に現在生息している生物はどれも、それぞれの進化の道筋の最先端に位置している。さもなければ、既に滅んでいたはずだ」。植物が現在のスタイルをとっているのも当然、進化の過程において驚異的な適応能力を発揮した結果なのである。けれども、ダーウィンの膨大な植物研究(六巻の著作とおよそ七十本の論文)は、所詮彼の偉業のおまけに過ぎないと考えられてきた。

本書は以下の五章に分けて、人間とは異なる植物の驚異的な知性について、これまでの植物研究の成果を検証し、植物に与えられてきた不当な評価を撤回せよと迫る。更には、植物を見下す人間の思い上がりや偏見がどうして生まれたのかについても触れている。

第1章 問題の根っこ
第2章 動物とはちがう生活スタイル
第3章 20の感覚
第4章 未知のコミュニケーション
第5章 はるかに優れた知性

ダーウィンの植物研究の概要や、人類よりも洗練された植物の感覚(人類の五感に対し、植物は二十もの感覚を持っている)についての記述は興味深く納得のいく内容だったが、日本人である私には正直言って、欧米人がなぜここまで頑なに植物を貶めるのかがピンとこなかった。長年アリストテレス説とルネサンス期の哲学者の啓蒙に支配され続け、それが文化の土壌になっている欧米人と、近年まで西洋文化にそれほど触れずに来た日本人とでは、共有できる感覚が少ないのかもしれない。
ルネサンス期の数学者・哲学者のシャルル・ド・ボヴェルの『知恵の書』なんて、傲慢を通り越して冒涜ですらあると思う。ド・ボヴェルは『知恵の書』に「生物ピラミッド」なるものを掲載しているのであるが、これがなかなか酷い内容なのだ。
啓蒙を目的としたこの図は、生きている種と生きていない種を発達段階ごとに整理している。この分類は、アリストテレス説に基づいているのであろう。
最初の段階(最下層)は石で、「Est(存在する)」という碑銘が付けられている。つまり、存在する、ただそれだけである。続いて植物。「Est et Vivit(存在し、生きている)」。つまり、存在し、生きているだけである。その次の段階が動物で、「Sentit(感じる)」。最後の人間に至ってようやく「Inteligit(知能を持つ)」になる。つまり、人間だけが知能を持っているということを主張したいわけだ。生き物の間には進化段階の違いや生命能力の上下があるというルネサンス的な観念の原型だが、この考え方は現代においても多くの人々の意識に染み付いていて、文化の土壌の一部になっている。チャールズ・ダーウィンの『種の起源』出版から150年たった今でも、だ。

以下の文は、『種の起源』のエピローグである。

“……この生命観には荘厳さがある。生命は、もろもろの力と共に数種類あるいは一種類に吹き込まれたことに端を発し、重力の不変の法則にしたがって地球が循環する間に、じつに単純なものからきわめてすばらしい生物種が際限なく発展し、なおも発展しつつあるのだ(『種の起源・下』、光文社古典新訳文庫)。”

ダーウィンはこの考えに基づいて、植物の根端には動物の脳が持つ機能の多くを備えた植物なりの脳に対応するものがあるという仮説を立てた。
ダーウィンと彼の息子フランシスの主張は大きな反響を呼び、研究者たちは二つに分かれて論争を繰り広げた。しかし、ダーウィン親子の説が定説となった今でも、植物研究は軽んじられている。まるで、見たくないものは視界に入れないようにしているかのようだ。
グレゴール・ヨハン・メンデルのエンドウ豆についての実験は、遺伝学の誕生を告げる画期的なものだが、40年もの間ほぼ黙殺されていた。
バーバラ・マクリントックは、「動く遺伝子」の発見によってノーベル賞を受賞したが、元々がトウモロコシを使った実験であったために、40年もの間、学会から無視されていた。マクリントックの功績が正当に評価され、ノーベル賞を受賞するには、80年代に同様の研究を動物に対して行い、「再発見」する必要があったのだ。

著者は、「植物が人間と異なる構造をもっているために、我々は植物を異質で、自分たちとは無縁な存在だと思うようになってしまった」と言う。なるほど、異質ではあるかもしれない。しかし、劣っているという証左にならないだろう。
それ以上に、植物が人間と無縁な存在と考えるのは、大いなる傲慢である。何故なら、植物は私たち人間がいなくても、何の問題もなく生きることが出来るのに対し、私たち人間は植物無しでは忽ち絶滅してしまうからだ。人間が植物に依存しているもののうち、最も解り易いのが食料である。その次が酸素だ。人間が使っているエネルギーの大半が植物由来であることや、数千年前から人間はそのエネルギーを使わせてもらっていることも忘れてはならない。
食料、空気、それからエネルギー。人間が植物に頼っているのはこの三つだけではない。医薬品の成分は、植物から作られた分子か、人間が植物のつくった化学物質を真似て合成した分子だ。地球上の多細胞生物の99パーセントを植物が占めていることをからも、決して無視できる存在などではない。

本書を最後まで読めば、「脳がないなら植物はものを考えていないのではないか?」という疑問が偏見に過ぎないことが理解できる。
「知性は問題を解決する能力である」と定義するなら、植物は人間よりもはるかに知略に富んだ生き方をしている、と言えるかもしれない。
「知性は人間にしかない認知能力や抽象的な嗜好と関わっているため、人間だけが特権的に持っているもの」という人間中心主義から一歩引いて、「そもそも知性とは何か?」を考えると、植物は豊かな可能性を提示してくれる。それは、植物に依存して生きている人間にとっても深く関わりのあることなのだ。
コメント

夏休み2017

2017-07-22 08:41:47 | 日記

今年の夏も異常に熱いですね。
梅雨が明けたばかりなのが噓みたいです。凜と桜もグッタリですよ。エアコンはかけっぱなしにしているのですが、不自然な冷気が堪えるのでしょうか。二匹とももう中年ですので、健康管理をちゃんとしてあげないといけませんね。桜ちゃんは尿路結石のこともあるので、特に水分補給に気を配っています。


仔猫の蓬&柏は、相変わらず弾丸のように走り回っています。でも、お昼寝は桜姉ちゃんと一緒が落ち着くのです。




お姉ちゃんぶる柏と甘えん坊な蓬。

異常気象も毎年続けば、それが正常なのかもしれませんが、寄る年波もあって私の身体はついていけません。毎日のように、吐いたりお腹下したり発熱したりですよ。主人から「アレじゃないのか?」と訊かれたので、「更年期障害?」と聞き返したら、「そうじゃないよ!熱中症だよ!!」と言われました。熱中症ってそんなに長期的に症状が続くものなのでしょうかね?それとも、日々新しい熱中症に罹っているのでしょうか? ブランニュー熱中症。すごく残念な響きです。

ところで、金曜に娘・コメガネの小学校が夏休みに入りました。
相変わらず宿題の少ない学校です。去年一番梃子摺った理科の自由研究も今年は無いです。その代わりに家庭科の宿題が出ましたが、雑巾縫いと調理実習のみですから楽なものですね。

夏休みは子供にとっては天国ですが、お母さんにとってはしんどい月間です。
これから始業式まで、一日中コメガネの肉弾戦に付き合わされるのかと思っただけで、夏バテがひどくなりますね。
コメガネは五年生だというのに甘えっ子で、普段からド~ンとかピョ~ンとかの体当たり的なスキンシップが好きなのですよ。マジで体当たりを食らって倒れたところに馬乗りになられて、「リ~ン、たすけて~!」と叫んでも、凜には無視されて(犬のくせに狸寝入り)、お母さんはいつだって孤立無援です。「たまにはお父さんの所に行きなよ」って促してみても、「お父さんはリアクションが詰まらない」と言って私にへばり付いて離れてくれません。お母さんはリアクション芸人じゃありませんよ。
コメガネもこのままではいけないと感じたのか、今年になってから一人で自分の部屋で寝るようになったのですが、毎晩のようにトイレに行ったついでに私の部屋を訪ねてくる為体で、自立への道は険しいようです。

担任の先生からは、コメガネはクラスの癒し系だとのコメントを戴きましたが、幼稚なので扱いやすいのだと思います。あと、見た目がゆるキャラっぽいからとか。
小五女子なんて、普通だったら大人並みに面倒臭い駆け引きの術を身に着けているものですが、コメガネは単純明快、見たまんまです。腹の底を探る必要がなくて付き合いやすくはありますが、このままでいいのでしょうか?一日三十回くらい「コメガネってアホだな」と思っていますけど。

今夏は、国立西洋美術館の《アルチンボルド展》と、パシフィコ横浜の《ヨコハマ恐竜展》に行く予定です。《アルチンボルド展》と《ヨコハマ恐竜展》は、もう前売り券を入手していますよ。
《アルチンボルド展》は特に楽しみ。日本で本格的にアルチンボルドの作品が展示されるのは、今回が初めてだそうです。中学生の時に澁澤龍彦の本でアルチンボルドの絵を見て以来、死ぬまでにぜひ実物を見てみたいと思っていましたが、人生の半ばで夢が叶いました。
他には、夜のズーラシアに行こうかと考えています。10月1日まで国立科学博物館でやっている《深海2017展》も面白そうです。深海魚って、ラヴクラフトのクトゥルフ神話体系に出てくる邪神みたい。ヌメッと気色悪いデザインが好きです。
コメント

フウセンカズラのグリーンカーテン

2017-07-18 07:18:04 | 日記

今年はプランター三つ並べてフウセンカズラを育てています。
盛夏を前にグリーンカーテンになってきましたよ。フウセンカズラはゴーヤほど葉っぱを繁らせるわけでは無いので遮光効果は低いですが、見た目は爽やかです。日中にあまり部屋が暗くなるのも気が塞ぎますしね。


屋外に出したハイビスカスがたくさん花を咲かせています。
冬季に室内に取り込んでいる間も二~三日に一輪くらい咲かせていましたが、やはり夏の花ですね。今の時期は勢いが違います。


朝顔も毎朝花を咲かせていますよ。


夏の定番、日日草。


ランタナ、もっさり。


ブーゲンビレア。


お隣さんから株分けしていただいたお花。
名前はお隣さんもわからないそうです。
コメント

仔猫はカゴとバケツが好き

2017-07-15 08:19:54 | 日記

珍しく柏の写真がまともに撮れました。
仔猫らしからぬ鋭い眼光。これでも女の子です。


柏は落ち着きがないので、なかなか良い写真が撮れません。
10枚のうち9枚はこんな感じでブレブレ。


柏がカゴの中で寛いでいたら、蓬に襲撃されました




二匹の騒ぎを聞きつけて、様子を見に来た桜です。


洗濯籠の中の柏。


その横の蓬。




カゴも好きですが、バケツも好きです。


元気溌剌のチビッ子達と四六時中一緒ではストレスが溜まるので、桜は午前中は私の部屋でゆっくり過ごさせています。
桜の尿路結石の経過ですが、今のところ悪化する様子はないみたいです。目視では尿に血が混じっているのはわかりません。猫トイレ以外の場所で粗相することもなくなりました。注射と食餌療法が効いているようでホッとしましたよ。


桜と私が二階に上がると、後から凜ちゃんも付いてきます。「入れて」と言わんばかりに、ドアをカリカリ引っ搔く音が可愛いです。二匹とも大人なので、一緒にしていても静かに過ごしていますよ。その間にも一階からは、蓬&柏がバタバタ走り回っている音が聞こえてきます。蓬・約1750g、柏・約1500g。小さい体なのにすごい騒音です。


急に静かになったと思ったら、だいたい寝ています。
コメント