「 フエリーでの夕焼け 」
森川 雅昭さん 撮影
人間は不思議なもので、格別これといった理由もないのに他人を無意識のうちに、
好き(好ましい、許容できる、抵抗感ないという範囲)と、嫌い、何も感じない興味もない、
といった3つに選別している。
意見が合わない、自分の話を聞かない、虫が好かない、なんだかあの顔つきが、言葉使いが嫌だ、
あの傲慢な不遜で無礼な自分中心の言動が堪らず嫌だ(第三者は同じ人に対してでも決してそうは
思わぬケースが多いのだけど)というように極めて主観的でエゴ的な感覚で近視眼的な判断をしている。
例えば私はタレントでは、IKKO、マツコ・デラックス、食べてる時のギャル曽根、松本人志、サンマ,
タケシ、アッコなんてタレントが好きになれない。
できれば見たくもない方である。なんか生理的に受け付けない。
しかしどうして素敵じゃないかというフアンも一杯いるし、たしかに彼らは実はとても好人物で頭がよく
才能いっぱいなのかもしれない。案外そういうケースが多いのだろう。
いったいどうしてこうした好き嫌いが分かれるのか、人によってさまざまなのだから不思議である。
他人の言動、容貌、雰囲気、思考などをキャッチする各人独特の感性のアンテナを持っていて、それに
よって受け止めているので、同じ人に対しても人によってその好悪は分かれるのだろう。
万人に好かれる人というのは滅多にいないもので(大谷選手は特別例外だが、そして大人気の誰にも
好かれるタレントなどは、作られた虚像が多いというからこれも例外として)、そういう人は好ましい
人ではあるが、個性のない平凡で生ぬるい春風のような人で案外つまらない人物なのかもしれない。
今や我々はもう特に人に好かれる必要もない。しかももうこれから人を嫌うのも面倒で疲れるものである。
人を嫌う事もしたくないものだ。
「汝、万人を愛せよ!」なんていうのは不思議な教えで、特にすべての人を好きになれというのじゃなく、
好きでなくとも人を慈しめよという事なのだろう。
しかし何かの拍子に相手が自分を嫌っていると分かると、これはもう本能的に自分もその相手のすべてが
嫌いになるものである。
しかしこの嫌いな人をも愛せよということが出来れば、自分も相手もそして周りも世間にも幸せが広がるのだろう。
私などこの年になってもまだその境地に達することが出来ないでいる。
私の如き凡人は、もう少ししてボケて誰彼が分からなくなるまでは、その境地にはなれないのかもしれない。