『 夕暮れ時 』 茅ヶ崎海岸
高橋 裕一さん 撮影
今から83年前の今日、ところは東京で、玉のような?男の子が生まれた。
朝だったのか夜だったのかは分からない。昔、母から聞いた記憶は有るの
だが忘れてしまった。
貧乏絵描きの次男で、戦雲たなびく不穏な世の中だったが、周りの皆に、
愛らしい、可愛いい、めんこい(会津弁)と言われて可愛がられ(私の聞き違い
かも知れないが)、物質的には不便な時代だったが、それなりに幸せな幼年時代だった。
やがてますます戦雲暗く、親の故郷の会津若松へ疎開。同地の小学校入学。
学校で唯一の坊ちゃん刈りが特徴だった。東京っ子のひ弱さで病弱だったが
親戚の兄さんお姉さん達に(いとこの中で一番年下だった)可愛がられて
幸せな小学校時代だった。
6年生の最初に帰京する。夜行で上野に着いて明け方の東横線から見た薄暗い灰色の
東京の景色は、今でも眼に焼き付いている。
これからここで生活が始まるぞといった奮えるような緊張感を思いだす。
転入した小学校では、皆が半ズボンで格好良く、坊ちゃん刈りが多かった。
図工の時間には、今までに見たこともないような鉱石ラジオを作っているのに驚いた。
国語の本を読まされると、皆がそのアクセントに笑った。
どちらかというと劣等感的で、人前での話嫌い、消極的な性格は、この時代に芽生えた
ような気がする。
以降、家族4人で実家の目黒区平町という所で北窓の大きなアトリエのある家で生活。
中学、高校、大学を終え、日立系の商社に就職し、やがて社会人5年生の時に家族で
茅ヶ崎へ移った。脳溢血を患った父が少しでも散歩の気分が出るように、そして絵も
描けるようにと言うことだった。
まもなく母が亡くなったりがあったり、結婚したり、単身赴任とかといろいろあったが、
女房には子供のことと父の面倒を一切みて貰って有難かった。
今でも頭が上がらないのはその所為である。
お陰で無事に仕事もリタイアし、すぐに趣味としての水彩画を始め、その後まもなく
誘われてピンポンも始め、未だ共に20年続いている。
良き画友とピンポン仲間に恵まれ、努めて病気を忘れて楽しく過ごしている。
ざっとこんな様な、長くて短い83年であった。
さて、夕方には盛大な誕生パーティに行かなくてはならない。
と言いたいところだが今年は何もないそうだ。
それでも数日後に孫の可蓮の19才の誕生会の序でに、皆で一緒に、
家でお寿司での会食会にでもするそうだ。私はそれで充分満足だ。