キャサリン・グラハム(Katharine Meyer Graham)
が亡くなったのは、8年前の2001年7月。
世界中の名士が葬儀にかけつけ、
ヨーヨーマが彼女の死を悼み演奏しました。
日本での知名度はさほどではないけれど、
1969年以後ワシントン・ポストの発行人から社長、そして会長を歴任した、超有名人にして、
影響力のある女性。
でも、彼女は、もともとは、箱入りのお嬢様。
ユージン・マイヤーの娘なんですよ。
そして最愛の夫フィリップ・グレアムが浮気と心の病の後、猟銃で自殺したのを
別荘で発見するという悲劇にみまわれます。
そしてその悲しみを癒す間もないまま、
経営にはほとんどど素人の状態で、
ワシントンポスト社を経営することになってしまうのでした。
ここまでだったら、ただの波乱万丈人生で
終わるけれども、
彼女はここで終わらなかったんです。
ど素人からはじめて、コツコツじわじわ
経営をモノにし、
ワシントン・ポスト紙を発展させていきました。
そして、あまりにも有名な、
ウォーターゲート事件報道。
この事件をいちはやく報道し、
闘い続けたことは、
ワシントン・ポストの評価を高めると共に、
報道に踏み切った英断を行った発行人として
彼女の名を一躍有名にし、
アメリカで最も影響力のある女性の1人として
広く語られることとなりました。
この事件で、
リチャード・ニクソン大統領が、
辞任に追い込まれたのはあまりのも有名です。
この「キャサリン・グラハム わが人生」
で、ケイ(グラハム夫人の愛称)は、
ピューリッツァー賞(伝記部門)を受賞しました。
やはり、一番、感動するところは、
大きなリスクを知りながら、
彼女がウォーターゲート報道に踏み切る決断をする瞬間。
スタッフの意見が出尽くし、
「やるべきだ」という声と「危険だ」
という意見が双方出る中、
報道するかどうかを最後に決断するのは、
発行人であるケイの役割でした。
勿論、その決定がもたらす結果の
責任もとらなければならない。
「やりましょう」「報道しましょう」
この瞬間に、彼女は世襲で会社を継いだ、
創業者一族のお嬢様から
「あの、ワシントン・ポスト紙」の、
「あの、キャラリン・グラハム」
へと脱皮したのだと
私は感じました。
が亡くなったのは、8年前の2001年7月。
世界中の名士が葬儀にかけつけ、
ヨーヨーマが彼女の死を悼み演奏しました。
日本での知名度はさほどではないけれど、
1969年以後ワシントン・ポストの発行人から社長、そして会長を歴任した、超有名人にして、
影響力のある女性。
でも、彼女は、もともとは、箱入りのお嬢様。
ユージン・マイヤーの娘なんですよ。
そして最愛の夫フィリップ・グレアムが浮気と心の病の後、猟銃で自殺したのを
別荘で発見するという悲劇にみまわれます。
そしてその悲しみを癒す間もないまま、
経営にはほとんどど素人の状態で、
ワシントンポスト社を経営することになってしまうのでした。
ここまでだったら、ただの波乱万丈人生で
終わるけれども、
彼女はここで終わらなかったんです。
ど素人からはじめて、コツコツじわじわ
経営をモノにし、
ワシントン・ポスト紙を発展させていきました。
そして、あまりにも有名な、
ウォーターゲート事件報道。
この事件をいちはやく報道し、
闘い続けたことは、
ワシントン・ポストの評価を高めると共に、
報道に踏み切った英断を行った発行人として
彼女の名を一躍有名にし、
アメリカで最も影響力のある女性の1人として
広く語られることとなりました。
この事件で、
リチャード・ニクソン大統領が、
辞任に追い込まれたのはあまりのも有名です。
この「キャサリン・グラハム わが人生」
で、ケイ(グラハム夫人の愛称)は、
ピューリッツァー賞(伝記部門)を受賞しました。
やはり、一番、感動するところは、
大きなリスクを知りながら、
彼女がウォーターゲート報道に踏み切る決断をする瞬間。
スタッフの意見が出尽くし、
「やるべきだ」という声と「危険だ」
という意見が双方出る中、
報道するかどうかを最後に決断するのは、
発行人であるケイの役割でした。
勿論、その決定がもたらす結果の
責任もとらなければならない。
「やりましょう」「報道しましょう」
この瞬間に、彼女は世襲で会社を継いだ、
創業者一族のお嬢様から
「あの、ワシントン・ポスト紙」の、
「あの、キャラリン・グラハム」
へと脱皮したのだと
私は感じました。
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