千葉県の『石郷岡病院』の精神科に入院していた男性が2名の男性准看護師に暴行を受け、寝たきりになり
2年後に肺炎を患い死亡した事件で、入院中に密閉された保護室内で男性患者を暴行する看護師の姿が映し
出された動画が証拠の決め手となり、傷害致死容疑での逮捕となった。裁判では准看護師の男性一人に無罪が、
一人に30万円の罰金が科せられた。 膝で患者を押さえる行為は「医療行為」と認められ頸髄損傷に関しては
「ケガとの因果関係が断定できない」とした。
死亡した被害者が自由に体が動かせる健常者で場所が精神科の密閉された保護室で無い場合に限り、この判決に
不服は無いが、どうも裁判官が被害者が身体の不自由な人であることを無視しているようだった。
死亡した患者家族の必死の努力が報われて裁判にまで至った例は稀で注目されるべき事件内容だった。
しかし結果は毎度毎度の検察や裁判所にお株を奪われるような結果になってしまった。やはり不健全ながらも
行政組織がイニシアティブを発揮して、病院側に都合の良い結末を迎えるケースであることは否めなかった。
広義の意味で身内である裁判所と検察そして病院。行政上のサービスを担う機関同士による罪の擦り付け合いは、
どうしても、立場が弱い人に嫌な思いをさせてしまう。それは被害者となった患者ばかりでなく逮捕された
2名の男性准看護師にとっても同じだろう。
裁判は真実の追及や罪を咎める事が目的でも無く、結果的にどこかで妥協点を探るものだったかもしれない。
もしもこの事件で病院側の責任を追及した場合、多額の損害賠償が請求され、病院側は経営が厳しくなる。
看護師個人の責任に押し付けるのが法の網を掻い潜る抜け道のように準備されているのが今の法廷だ。
それは仙台で起きた筋弛緩剤点滴事件で准看護師の逮捕された守大助の無罪主張の内容と非常に輪郭が似ている。
20年近く経っても医療の法的な根拠が成長して無いのが一番問題だと思う。実際にはもっと長い間医療ミスは
放置されている。社会で議論され初めて40年以上の時間が経った。
これは明らかに検察をはじめ法曹界の甘えや緩慢さである。医療の問題は専門的でデリケートであるが為に非常に
慎重に扱われ、被害者の負担を減らしながらも器用に上手に対処されてしまって、法による統治よりも病院の自主的な
モラル規範による病院統治が当然になっている。余りにも慣れ過ぎて医療事故の対処が上手に成り過ぎて返って、
具体的な事例が発生し難くなり、何時かは超法規的な存在として独立独歩が始まっているのかもしれない。
今回に限らず医療や法廷の場に置いて、失ってはいけない大切な良心の中に「被害者は生きていても仕方が無い存在」
の認識が心情に縺れて、改めて本質を考え直させられたり、信念が揺らいだりすることもあるだろう。
去年2016年に起きた重大事件の相模原市の障害者施設津久井やまゆり園大量殺戮事件、犯人の元介護士の植松聖容疑者が
障害者を殺害する理由に社会保障費などの財政的な負担を主張しており、時間が経つにつれて事件の残虐性が薄れて、
彼の書いた手紙の内容に一定の理解を示す人も増加し、精神障害者の尊厳を軽視する傾向がある。
以前のように無尽蔵なまでの人権の尊重とは別に、公共の福祉の範囲内の限定的な意味を重視する他に、
タダ生きているだけでは人権は達成されず、不断の努力として人間的な価値観を持てなければ、尊厳が踏み躙られる
場合もあるだろう。生きる権利は社会の中で生存権としての意味合いを強めている。
実際に社会の中では暗黙の了解として精神障碍者は忌み嫌われ、社会の中で関わり合いを持つことを拒まれるのが
当然とされる。偏見のようでありながら、人間性や社会性の尊重の意味では分配的平等としてそれが正義となる。
しかし患者の近い将来の健康上の運命が解っていても、障害者だからと言って暴力的でゴミのように扱ってはいけない。
例え、評価が最低でも精神障害者を手段においてもお行儀よく社会性と人間性を失わず丁重に扱わなくてはいけない。
それがお仕事というもので、准看護師の男性2名が非難されるべき場所はそこにある。
精神障害者が社会から疎外される事を肯定的にする意志は、イジメの発想とは対極な位置から発生しているようだ。
姥捨て山に捨てられる事と、津久井やまゆり園で殺害される事は、結果的に同じであっても、
意義に於いては全く対照的なモノである。立派に最後の時を迎えさせるのも社会性な努力である。
こうして精神障碍者は外堀を囲まれていくんだなと知った。
2年後に肺炎を患い死亡した事件で、入院中に密閉された保護室内で男性患者を暴行する看護師の姿が映し
出された動画が証拠の決め手となり、傷害致死容疑での逮捕となった。裁判では准看護師の男性一人に無罪が、
一人に30万円の罰金が科せられた。 膝で患者を押さえる行為は「医療行為」と認められ頸髄損傷に関しては
「ケガとの因果関係が断定できない」とした。
死亡した被害者が自由に体が動かせる健常者で場所が精神科の密閉された保護室で無い場合に限り、この判決に
不服は無いが、どうも裁判官が被害者が身体の不自由な人であることを無視しているようだった。
死亡した患者家族の必死の努力が報われて裁判にまで至った例は稀で注目されるべき事件内容だった。
しかし結果は毎度毎度の検察や裁判所にお株を奪われるような結果になってしまった。やはり不健全ながらも
行政組織がイニシアティブを発揮して、病院側に都合の良い結末を迎えるケースであることは否めなかった。
広義の意味で身内である裁判所と検察そして病院。行政上のサービスを担う機関同士による罪の擦り付け合いは、
どうしても、立場が弱い人に嫌な思いをさせてしまう。それは被害者となった患者ばかりでなく逮捕された
2名の男性准看護師にとっても同じだろう。
裁判は真実の追及や罪を咎める事が目的でも無く、結果的にどこかで妥協点を探るものだったかもしれない。
もしもこの事件で病院側の責任を追及した場合、多額の損害賠償が請求され、病院側は経営が厳しくなる。
看護師個人の責任に押し付けるのが法の網を掻い潜る抜け道のように準備されているのが今の法廷だ。
それは仙台で起きた筋弛緩剤点滴事件で准看護師の逮捕された守大助の無罪主張の内容と非常に輪郭が似ている。
20年近く経っても医療の法的な根拠が成長して無いのが一番問題だと思う。実際にはもっと長い間医療ミスは
放置されている。社会で議論され初めて40年以上の時間が経った。
これは明らかに検察をはじめ法曹界の甘えや緩慢さである。医療の問題は専門的でデリケートであるが為に非常に
慎重に扱われ、被害者の負担を減らしながらも器用に上手に対処されてしまって、法による統治よりも病院の自主的な
モラル規範による病院統治が当然になっている。余りにも慣れ過ぎて医療事故の対処が上手に成り過ぎて返って、
具体的な事例が発生し難くなり、何時かは超法規的な存在として独立独歩が始まっているのかもしれない。
今回に限らず医療や法廷の場に置いて、失ってはいけない大切な良心の中に「被害者は生きていても仕方が無い存在」
の認識が心情に縺れて、改めて本質を考え直させられたり、信念が揺らいだりすることもあるだろう。
去年2016年に起きた重大事件の相模原市の障害者施設津久井やまゆり園大量殺戮事件、犯人の元介護士の植松聖容疑者が
障害者を殺害する理由に社会保障費などの財政的な負担を主張しており、時間が経つにつれて事件の残虐性が薄れて、
彼の書いた手紙の内容に一定の理解を示す人も増加し、精神障害者の尊厳を軽視する傾向がある。
以前のように無尽蔵なまでの人権の尊重とは別に、公共の福祉の範囲内の限定的な意味を重視する他に、
タダ生きているだけでは人権は達成されず、不断の努力として人間的な価値観を持てなければ、尊厳が踏み躙られる
場合もあるだろう。生きる権利は社会の中で生存権としての意味合いを強めている。
実際に社会の中では暗黙の了解として精神障碍者は忌み嫌われ、社会の中で関わり合いを持つことを拒まれるのが
当然とされる。偏見のようでありながら、人間性や社会性の尊重の意味では分配的平等としてそれが正義となる。
しかし患者の近い将来の健康上の運命が解っていても、障害者だからと言って暴力的でゴミのように扱ってはいけない。
例え、評価が最低でも精神障害者を手段においてもお行儀よく社会性と人間性を失わず丁重に扱わなくてはいけない。
それがお仕事というもので、准看護師の男性2名が非難されるべき場所はそこにある。
精神障害者が社会から疎外される事を肯定的にする意志は、イジメの発想とは対極な位置から発生しているようだ。
姥捨て山に捨てられる事と、津久井やまゆり園で殺害される事は、結果的に同じであっても、
意義に於いては全く対照的なモノである。立派に最後の時を迎えさせるのも社会性な努力である。
こうして精神障碍者は外堀を囲まれていくんだなと知った。