これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

フジテレビと中居正広氏の問題

2025-01-25 15:55:17 | 報道の問題
【はじめに】
 フジテレビと中居正広氏の問題が連日の様に報道されています。

 中居氏が何か悪い事を女性(✕女史)にやってしまった様ですが、❶既に示談が成立し、❷引退を表明し、❸刑事事件にならない様なので→→この件は落着していると、私は思っています。

 「フジテレビの社員が、社員の女性(✕女史)を中井氏に紹介したのでは?」と疑われています。 多分、「公序良俗に反する紹介のやり方だった」と想像します。 そうで無ければ、中井氏が✕女史に示談金(9,000万円?)を支払う必要は有りません!

 フジテレビは早急に体質を改善しないと→→広告収入が入らなくなり→→最悪の場合は総務省が放送認可を取り消す可能性が有ります。存亡の危機になっているのです!

《余談 :私の中居氏についての知識》
 私はクラシック音楽は好きですが、演歌やポップス等は聴きません。中居氏(52歳)が出演した番組を見た事が、全く有りません。 妻に「中居氏とはドンナ人物か?」聞いて見ました。 「私は昔から大嫌いだ!」、「女性を馬鹿にした様な話しをする」・・・と言っていました。

 松本人志氏(61歳)と中居氏は、❶沢山金を稼いでいて、❷独身で、❸女性にモテ無いけど女性と愉快な夜を過ごしたい、と言う共通点が有る様です。 松本氏は風貌(ルックス)が悪いので女性に持てないのは納得できますが、中居氏は身長が170cm有り、マアマアの顔だちをしています。 中居氏は「女性に対する態度が悪いのでは?」と想像します。

【事件の経緯】
 御参考までに、事件の経緯を書いておきます。

★ 23年6月 :食事会 ・・・中居氏が性的トラブルを起こした。
★ 23年6月頃 :フジテレビのトップは、中居氏の問題を把握していた模様→→隠蔽した。
★ 24年12月 :週刊文春が中居氏の問題を報道
★ 24年12月 :フジテレビが「社員は関与していなかった」様な説明
★ 25年1月9日 :中居氏が20歳代の女性と性的トラブルが有ったと認めた。
★ 25年1月17日 :フジテレビの社員への説明会兼記者会見
★ 25年1月23日 :中居氏が引退発表
★ 25年1月23日 :フジテレビが第三者委員会を立ち上げた。
★ 25年1月27日 :フジテレビが2回目の記者会見を予定
★ 25年3月 :第三者委員会が結論を出す予定

【フジテレビの問題と解決策】
 中居氏の問題でフジテレビの社長港浩一氏(72歳)が1月17日に行った記者会見の内容が問題なのです。 港氏は、23年6月時点で中居氏の性的トラブルの内容及び女性の氏名を把握していた模様で→→1年半ほども隠蔽していた様に報道されています。

 報道機関は、「隠蔽を暴く事」が使命の一つです。 そして、セクハラなど女性の権利を尊重すべきだと言う考え方が日本でも定着しています。 「嘉納修治会長と港浩一社長は現在の報道機関のトップになる資格の無い人間だ!」と言う事実を世の中に示してしまいました。

 フジテレビから広告を出していた100社ほどが、契約を解除した様です。フジテレビは現在の役員を全て追放して、世の中に通用する人間をトップにして→→生まれ変わる事が肝要だと思います。

 外部の適任者を探そうとしても沢山のスポンサー企業が離れてしまった現在、「社長を引き受ける方はいないのでは?」と想像します。 私は、社員の『反町理氏(60歳)』を説得して→→社長に抜擢するのが最善の策だと考えます。

《余談 :私とフジテレビ》
 私は、BSフジテレビで月~金曜日に放映される『プライムニュース』を時々見ています。 番組表で「今日の主題は何か?」チェックして→→興味の有りそうな時は必ず録画しています。

 キャスターの反町理(そりまち おさむ)氏のファンです。 反町氏はコメンテーターに鋭い質問をしてくれます。

【御参考 :フジサンケイグループ】
 フジテレビは『フジサンケイグループ』の1社です。 全体の従業員が、(ウイキペディアによると)『13,000人』もいる巨大なグループです。 傘下の会社は79社も有ります。

・・・ フジサンケイグループ ・・・
① テレビ :フジテレビ、関西テレビ、ビーエスフジ
② 新聞  :産経新聞、日本工業新聞など
③ ラジオ :ラジオ大阪、ニッポン放送
④ 音楽 :ポニーキャニオン
⑤ 美術館 :彫刻の森美術館、美ヶ原高原美術館、上野の森美術館

【吉永小百合さん】
 私は吉永小百合さんと同年配です。 吉永さんが主演された『キューポラのある街』が1962年に公開され→→ファンになりました。 吉永さんは、フジテレビの社員だった岡田太郎氏と1973年に結婚されました。 その後も女優として大活躍されましたが、子供はもうけられませんでした。 (岡田氏は昨年(24年)に亡くなられました。)

いい加減な性格が福をもたらした話し (その3)

2025-01-18 18:14:16 | 人生
【はじめに】
 今回は、私の幼馴染のS氏の話しの最終稿です。

 このシリーズで、S氏との思い出話しを3回書いた事になります。 省略した楽しい思い出が沢山!沢山!有ります。 書いていると、私の故郷・龍神村の風景や田辺市の昔の街並みも思い出しました。 S氏は私にとって掛け替えのない『大切な友』だと痛感しました。

【太陽光発電事業】
 10年ほど前にS氏から、「太陽光発電事業を始めた」、「僕はこの事業に専念する」、「会社(SR社)は息子に譲った」と電話が有りました。

 傾斜の穏やかな山林を借りて→→ソーラーパネルを設置するのだそうです。S氏が山林所有者と借地交渉して→→パネルの設置や電気工事は専門業者に委託して→→S氏はパネル周りの草刈りをしていた様です。 3年ほど前から「長女が草刈りをしてくれる」と喜んでいました。

 既に数町歩(数ヘクタール)にパネルを設置している様ですが、まだ増やしたい様です。 10前から「完成までに3年掛かる」と言い続けています。 去年の年末にも同じ事を言うので、「いい加減にしないと、完成前に死んで→→家族に迷惑を掛ける事になる」とアドバイスしました。

【S氏が前立腺癌になりました】
 10年ほど前にS氏の前立腺に癌が見付かりました。 二人の医師(D1医、D2医)に見て貰ってきた様です。 D1医は外科手術で前立腺の除去を、D2医は陽子線治療を推奨しています。

 外科手術をしたらセックス出来なくなり、陽子線治療だと前立腺に癌が再発した時→→外科手術が出来ない。 「僕の身体は、医者達より自分の方が分かる。僕の癌は成長しないし、転移もし無い。」と言い続けて来ました。 然し、少し尿が溜まると→→我慢出来なくなって→→頻繫にトイレに行っている様です。

 昨年(24年)末に、二人の医師の何方かが『高濃度ビタミンC点滴療法』を推奨したので、週に1回ほど通院している様です。 3月頃に、「癌が小さくなっているか?」MRIなどで検査する様です。 私は、奇跡が起こってS氏の癌が縮小する事を祈っています。

【大店の息子】
 2015年頃、S氏から例の通り突然電話が掛かって来て、「大阪に来ているので会いたい」、「飛行機で帰るので余り時間が無い」と言いました。 JR大阪駅で待ち合わせ→→例のごとく、安い定食屋で昼食を取って→→喫茶店で1時間以上話を聞きました。

 東京の有名な大学を卒業した青年(O氏)が、就職せずに自転車で旅をして回った様です。 持ち金が少なくなると→→旅を中断して、バイトして金を溜めて→→溜まると旅を続けていました。 二、三年後に、S氏の会社に来て、正直に「バイトさせて下さい」と言ったそうです。 S氏の会社は職人の集団ですから、S氏の奥さんと社員達は反対した様ですが、S氏はO氏が気に入って、「会社は黒字だから、一人ぐらい冷や飯食いがいても良いだろう!」と決断したそうです。

 10年ほどして、O氏の父親が訪ねて来て、「Oは一人息子なので、会社を継いでもらいたい!」、「是非とも返して欲しい!」と懇願されたそうです。 調べて見ると、O氏の父親が経営している大阪の会社は、S氏の会社とは比較にならない大規模な会社だったそうです。 それで、気持ち良くO氏を送り出しました。

 二、三年後に、O氏の結婚式に招待されて→→大阪に来て→→私と会った次第です。

【S氏の優しさの一例】
 新型コロナウイルスが問題になり始めた2020年に、S氏から超!超!豪華なマンゴーが届きました。 お礼の電話を入れたら、「新型コロナの影響で、知り合いのマンゴー農家が、売れなくて困っているので、沢山買って知り合いに送っている」と話しました。 我が家が、その第一弾だったのです。

 次男の娘(孫)はマンゴーが大好きなので→→御裾分け(おすそわけ)しました。トンデモナク美味しかった様です。

【S氏の子供と孫】
 S氏は結婚して直ぐに長男→→二、三年後に長女を授かりました。長男は”鳶(とんび)が鷹を生む”の如く、学校の成績は良かった様で→→「東大に進学するだろう」と期待していました。結局、東京の有名な私大を卒業して、SR社を引き継ぎました。

 長女の事はボロクソに言っていました。 「こんな女を貰ってくれる男はいない」、「結婚したら男がダメになる」・・・などと言っていました。 然し、長女は二十歳前半に結婚し→→長男を産んで→→もう一人生みました。 結婚されて3年程で離婚し→→実家に帰ってきた様です。 「孫と楽しく暮らしているのだろう」と想像していたのですが! 

 長女が結婚した相手は、東大の法学部卒で超有名な企業に勤めていました。 離婚する時、親権を父親が取って→→母親(長女)は年に二、三回、子供に会いに行っている様です。 子供が二、三年前に東大法学部卒を卒業し→→超優良企業で/高給で有名な会社に就職したそうです。長女は、今でも年に何回か子供に会いに行っている様ですが、S氏と奥さんは孫には会えない様です。

 最近になって、S氏が次女の話しをしました。次女も若くして結婚し→→子供を二人生んで→→離婚して→→S氏の家の近くで、子供と一緒に住んでいる様です。 然し、S氏は何故か?次女と孫の話しはしません。

【最近の将棋】
 2年ほど前にS氏から「今大阪に来ている、将棋会館出身の若者がプロ棋士になった祝いが有って→→スピーチを頼まれた」と嬉しそうに言いました。 24年末現在で、プロ棋士が二人育ったそうです。

 S氏は先日、「最近は中学生に負ける時が有って、忌々(いまいま)しいので、余り指さない!」と嘆いていました。 「他に趣味が無いんだから、将棋を楽しんだ方が良い」と話しました。

 「S氏にとっての将棋は単なる趣味では無い」と私には思えます。「最大の生き甲斐」だと思うのです。S氏がドン底から立ち直り→→造園会社(SR社)を起こして、大成功したのは→→信頼出来る人達に会社を任せて→→将棋三昧の日々を送った為だ!と私は見ています。

【S氏の最近の体調】
 S氏は前立腺癌の話しはしますが、心臓にも問題が有る様です。 「2年ほど前に道で意識不明になって救急車で運ばれた、もう少しで死ぬ所だった!」と昨年白状しました。 「それ以来、奥さんが優しくしてくれる様になった」、「通院する時等など、必ず車で送り迎えしてくれる」そうです。

 昨年(24年)、高校の同窓会が紀伊田辺市で有り、無理して出席した様です。 「今、田辺にいる、同窓会で、一番親しかった友人が亡くなったと聞いた」と元気の無い声で話しました

 今年の年賀状に、「会いにきてくれ! 二人分の飛行機代と宿泊費は持つから」と書いていました。

【棺を蓋いて事定まる】
 「棺を蓋いて事定まる」と言いますが、亡くなった後に遺産相続で親族が揉(も)めに揉めて→→バラバラになってしまった例を幾つか知っています。

 S氏が息子さんに会社(SR社)を譲った時点で、社員が70人ほどになっていました。 太陽光発電事業に失敗しないで、S氏が亡くなった後→→親族が仲良く出来たら→→「S氏は素晴らしい人間だった!」と評価されるでしょう! 私は祈っています。

いい加減な性格が福をもたらした話し (その2)

2025-01-12 19:32:30 | 人生
【はじめに】
 今回も、私の幼馴染のS氏の話しです。 自動車事故を起こして→→経済的に窮地になりましたが→→メゲル事無く→→造園会社(SR社)を設立して→→SR社が順調に発展し→→S氏が将棋三昧の楽しい生活を始めた話しです。

 S氏は”おっちょこちょい”で”いい加減”な性格ですが、楽天家で、『近欲』では有りません! そして、社員を大切に思っている様に見えます。

【S氏と奥さんが屋台の商売】
 S氏は、27歳の時にホテルを止めて→→奥さんと”屋台の商売”を始めたと電話が有りました。 二人子供を授かったばかりだったので、「奥さんが体調を崩すのでは?」と私は心配しました。 足掛け3年ほどやった様でした。

【S氏が自動車事故】
 S氏は重大な人身事故を起こし→→相手の方が生きている限り、生活出来る金を渡さなくてはならなくなりました。 当初はS氏の所得が少なかったので→→毎月、六、七万円を除いた金を→→相手に渡していた様です。 奥さんの所得で、何とか食べていた様でした。

 私は心配になって、二、三ヶ月に一度電話を掛けてS氏を励まし、奥さんの様子を確認しました。

【S氏がひょっこり我が家に来ました】
 30歳になった頃、夜の9時ごろ、S氏が突然我が家にやって来ました。 頑丈な/大きなボストンバッグを二つ持っていました。 提げて見たら、二つとも非常に重かったです。 S氏は元気そうで、奥さんも「元気だ」と言うので安心しました。

 有る方が、プレミヤ価格で取引されているコインを教えてくれたので→→沢山の商店を車で回って→→「○○年発行の50円貨幣を60円で買い取る」などと言って置いたら→→沢山!沢山買えたのだそうです。 「明日、東京に行って売るんだ!」と言いました。

 数日後、電話が掛かって来て「数百万円儲かった!」と喜んでいました。 その金は造園業を始める資金の一部になった様でした。 (二つのボストンバッグにはコインが入っていたのです。)

 私の妻がS氏に会ったのは、この時一度きりです。 妻は、土産も着替えも持たずに→→突然来て→→一泊した事に呆れていました。 私は、コインが余りにも重かったので、「仕方が無い」、「私でもそうするだろう」と思いました。

【S氏との食事】
 S氏は関西にやって来ると、午前11時頃に「今、大阪にいるから、会いに来てほしい」と電話して来ます。 大抵、ウイクデーで仕事中なので、2回に1回程しか会いに行けません。 会うと昼食を奢(おご)ってくれるのですが、安い飯屋で秋刀魚や鯵や鯖の塩焼きの定食です。 S氏の安い定食屋を探す才能は大したものです。 梅田の近辺でも安い定食屋を見付けます!

 定食屋の後、喫茶店でコーヒーを飲みます。 1時間~2時間、S氏が近況を話してくれ→→伊丹空港から飛行機で帰ります。

 一度だけ、JR尼崎駅近くの会社に勤務していた時、尼崎駅まで来てくれました。尼崎駅の近くに美味しい”うどん屋”が有るのですが、「定食屋の方が良い」と言いました。

 S氏と酒を飲んだ事は全く有りません。 刺身、寿司、天婦羅、ステーキ、すき焼き等の話をした事が有りません。 食べ物の話をした事が無いのです!

【造園業を始めました】
 30歳の頃に九州の某県で、造園業(SR社)を始めました。 最初は若い社員を二人雇った様です。 直ぐに、一回り以上年上のベテランの職人さん(T氏)を雇う事が出来ました。 T氏は腕の良い職人さんで、若い社員の面倒見が良く、何よりも人格者だった様です。

 SR社は、経理を奥さんが担当し、T氏が若い社員達を指導しながら運営し→→直ぐに黒字体質の会社になりました。 そして、順調に若い社員が増えていった様です。

【将棋に熱中】
 会社が黒字体質になるまでの数年間、S氏は真面目に毎日フルタイムで出社していましたが→→午前中二、三時間だけ出社して→→将棋を指しに出掛ける様になりました。

 S氏の出社時間が少なくなると→→SR社の売上が増加して→→社員が15人程に増えました。 まさに『亭主元気で留守が良い!』だったのです。

《余談❶ :奥さんが実家に帰ってしまいました!》
 会社に出社しないで、三日間将棋を指し続け→→S氏がクタクタになって家に帰ったら→→奥さんが実家に帰っていたそうです。 「離婚されそうになった!」と言っていました。

 何日かして、奥さんは帰って来られましたが→→徹夜将棋は止められ無かった様です。 「会社は順調だし、浮気している訳でも無いから、マアいいか!」と諦めておられる様に思えます。

《余談❷ :全国大会に出場》
 S氏は腕を上げて→→某県の将棋大会に優勝して→→全国大会に出場した事も有ります。 アマチチュアの”四段”以上になっていると思われます。

《余談❸ :将棋会館を建設》
 S氏は会社(SR社)で得た金を、某県の将棋会館の建設に億単位の金を寄付した様です。 私の妻だと許してくれません。奥さんは”太っ腹”ですね! 感心しています。

【利益の配分と特別ボーナス】
 黒字体質が定着して→→S氏は思い切った事を始めました。 大学卒の社長や世襲の社長では思い付かない『素晴らしい経営方針だ!』と感心しました。S氏から「感想を聞きたい」と電話が有り→→「SR社の発展は間違いない」と絶賛しました。

(1) 会社の経営状況をガラス張りにしました。 ・・・「赤字なのか?」、「黒字なのか?」、「幾ら儲かったのか?」を社員が分かる様にしたのです。

(2) 利益の『1/3』を社長(S氏)の取り分、『1/3』を会社の設備投資や内部留保、残りの『1/3』を特別ボーナスとして→→3月に社員に支給するのです。

(3) 特別ボーナスは各社員の業績で配分し、誰に幾ら渡したか公表しました。

 SR社の社員達は、「社長は、日に二、三時間しか出社し無いのに、社員一人一人の仕事ぶりを見てくれており→→評価している。 社長は元気で留守が良い!」と思ったと推察します。

(余談 :ガラス張り) SR社は個人向けに商売しているので『ガラス張り』に出来ます。 然し、国、都道府県、市町村との取引をする為には→→領収書が貰えない『金(かね)』が必要になります。 民間企業との取引でも、「この注文が欲しかったら『金』をよこせ」と言う輩がいます。

 非上場の会社から、8,000万円の商談が纏まった後で→→「11,000万円支払うから、3,000万円フィードバックしてくれ!」と言われた事が有ります。オーナーは税金の掛からない『3,000万円』を得る事になります。 私の勤務していた会社は、あの手この手使って→→『3,000万円』分の領収書を搔き集める必要が有りました。

 輸出案件でも『裏金』を要求されるケースが多々有りました。『ガラス張り』にするのは難しいです!

《余談 :N社の話し》
 私は50歳の時に機械の設計/製造をする小企業(N社)に出向しました。 数年前から少し赤字で、債務超過に陥る寸前でした。 毎年、それなりに受注していたのですが、社長(N氏)が勘で見積金額を出していました。 どの案件が赤字か/黒字か把握していませんでした。 経理をN氏の奥さんと私と同い年の女性が担当し、パソコン(PC)を使っていました。 PCで作成したデーターを貰って→→見積計算ソフトを作成し→→引き合いが有ると→→私が適正な見積金額を計算して→→社長(N氏)の了解を得て→→見積書を作成しました。

 予算管理計算ソフトも作成して→→進行中の受注案件の予算/実績の差異が把握出来る様にしたので→→期末にどの程度利益が出るか?→→高精度で予想出来る様になりました。 私が出向して、一年もしない内に→→N社は黒字体質になりました。

 N社には、製造部長と設計部長がいて→→ボーナスの時期になると、二人が社長(N氏)に→→「今年は黒字になるから、(税金を減らして)社員のボーナスをアップして欲しい」と懇願しました。 然し、N氏の回答は何時も『ノー(NO)』でした!

 私は、「SR社が特別ボーナスを支給する制度にして、大成功した」話しをN氏にしましたが、N氏は何故か?税金を増やす事に固守しました。

【造園技能士】
 SR社では社員が造園技能士の国家試験を受けるのを積極的に支援しています。 国家試験は1級~3級まで有ります。3級に合格した社員は→→2級の資格を得て→→1級になりました。 社員の定着率が高かったので、アイディアの豊富な社員が増えて→→SR社の評判が高まり→→社員数が増えました。

 SR社の発展に寄与したT氏は一回り程年上でしたから、2005年頃にはリタイヤされていたのではと思われます。 SR社では、優秀な社員が育ちましたから、「T氏がリタイヤされても困らなかった」と推察します。

【造園コンテスト】
 SR社の社員達は何人かでチームを作って→→何組も→→全国造園デザインコンクールやLIXIL(リクシル)エクステリアコンテスト等に参加し→→毎年、毎年、優秀な成績を収めています。 勿論、旅費、宿泊費などを支給しています。

【陶器窯の廃レンガ】
 S氏が、岡山県の飯屋の広い駐車場に乗用車を止めると、陶器窯に使用していた耐火レンガを山積みしていました。 色がマチマチで、「これは面白い」と思い→→店の主人に話すと→→「廃棄する為に置いている。」、「欲しかったらタダで上げます。」と言ってくれたそうです。 乗用車に積めるだけ積んで会社に持ち帰ると→→社員達が大喜びして→→トラックで残りを取に行き→→受注していた住宅の花壇に使ったら→→顧客が気に入ってくれたそうです。

 S氏は余程嬉しかった様で、この話を何回もしました。 「僕が会社に貢献したのは、これぐらいだ」と言いましたが、「特別ボーナスを支給する様にしたり、社員の自主性を尊重したり、会社にあまり出社し無かったり、君は沢山!沢山!貢献している」と話しました。

いい加減な性格が福をもたらした話し (その1)

2025-01-06 13:18:40 | 人生
【はじめに】
 今回は、私の幼馴染のS氏の話しです。 S氏は、楽天家/おっちょこちょい/いい加減な性格ですが、人に好かれるタイプです。

 いい加減な人間は大成しないのが普通ですが、S氏の場合は真逆で、彼の欠点が幸いして→→S氏が設立した会社は現在従業員が70人もいて→→殆ど、赤字になった事が無い様です。

 去年の年末にS氏から電話が有り、「最近物忘れが激しく、いい加減な仕事しか出来ない」と嘆くので→→「昔から忘れ物が多かったし、いい加減な事をやっていた。年のせいでは無いよ!」と慰めました。

【S氏と私】
 S氏は、小学校と中学校の同級生です。小学校の同級生は22人で、中学校は36人しかいませんでした。S氏と私は、田辺市の別々の高校に進学しました。中学校から田辺市の高校に入ったのは二人だけでした。

 高校を卒業してからは、数年に一度会っており、二、三年に一度は電話で話しています。10年ほど前にS氏の前立腺に癌が見つかってからは、毎年1回は電話しています。 S氏は、自分の近況を1時間以上話します。 その為に、私はS氏のことを良く知っていますが、S氏は私の事は殆ど知らない/覚えて無いと思います。

【小学生の頃のS氏】
 小学4年生から週に一回クラス会の時間が有りました。 「民主主義を体現する時間だったのでは?」と思います。(先生は立って見ているだけでした。) 持ち回りで議長になって、草引きの日等を決めるのです。 そして、遅刻や忘れ物をした生徒に罰を与えました。 S氏以外に罰せられた生徒はいませんでしたが、S氏は毎日の様に遅刻し、忘れ物をしました。

 S氏に与えられた罰は、漢字を書く事でした。中学校や高校で習う漢字まで書いていました。 その為に、S氏は漢字博士の様になりました。

 好天の日の休み時間に皆でキャッチボール、ドッチボール等を、雨の日は卓球等をしましたが、S氏は参加しませんでした。 小学5年生まで、私はS氏と遊んだ記憶が有りません。

【S氏に将棋を教えました】
 私は小学生になった頃、近くに住んでいた父の弟(MI叔父)に将棋を教えてもらいました。 毎週、一局以上指しました。 一年もすると結構上達しました。 MI叔父は強かったので、「今日は、この升で詰ませる」と宣言し→→私がドンナニ頑張っても→→私の『王』は指定された升に行かざるを得ませんでした。

 小学校6年生の担任の先生が末期癌だったので、一年間授業が全く無く→→毎日自習でした。 雨の日に教室でS氏に将棋を教えました。S氏の上達は早く→→直ぐに私と対等で指す様になりました。

《余談 :囲碁の思い出》  私が小学の高学年になった頃、父に囲碁を教えてもらいました。 一番上の姉は中学校の教師と結婚していて、夫(義兄)と子供を連れて良く帰省していました。 父と義兄が碁を打つのを観戦しました。 私が中学生になった頃、碁盤と碁石は義兄が持って帰りました。

 大学4年生の時に、同じゼミの友人(K氏)に囲碁を教えました。K氏は熟慮するタイプで、直ぐに上達して→→ほぼ互角で打てる様になりました。 ゼミには教授と助教授(現在の准教授)がおられ、二人に共通する趣味は囲碁でしたが、二人で打つことは有りませんでした。

 K氏と打っていると、教授と助教授が来られて→→K氏の後ろに教授が、私の後ろに助教授が立って→→次の手を指示するのです。 お二人ともかなりの腕前で→→素晴らしい指示だったので→→勉強になり→→卒業する頃には、私はアマチアの初段以上の力が有ったと思います。

 私の妻の兄(義兄)は、NHKの囲碁番組を今でも毎週録画しています。 彼は負けず嫌いです。 義兄と数局打ったのですが、何時も私が勝ったので→→二度と打とうとはしません。

 対戦相手がいなかったので、1990年頃に囲碁のパソコン・ソフトを買ったのですが、弱すぎたので楽しめませんでした。20024年に新しく出たソフトを買いました。「AIソフト」となっていますが、学習能力は有りません。 「こう打ったら勝てる」と言う手をわざと避けて→→次善の手を打って→→ソフトがドンナ手を打つのか?・・・楽しんでいます。 そろそろ、新しいソフトを買いたいと思っています。

【中学生の頃のS氏との思い出】
 小学5年生と6年生の時は、私は野球部で活躍したのですが、中学校に入って部活には参加しませんでした。 S氏と殆ど毎日一緒に下校し→→お互いの家に遊びに行く様になりました。

(思い出❶ :給食) 戦後、ユニセフが日本の子供達に食料品を支給してくれていました。 故郷(龍神村)では、外米と脱脂粉乳を支援してもらって→→小学校と中学校では給食が有りました。余裕の有る家の子供は、野菜と薪を持って来ました。 ご飯、脱脂粉乳を溶かした牛乳、味噌汁と言うヘンテコリンな給食でした!

 小学5年か6年の頃、外米の支援が無くなったので、農協(JA)が龍神村の全小中学校向けのパン工場を建設しました。 (パン工場は、龍神村・福井・横畑に有りましたが、現在は無くなっています。)

(思い出❷ :シュガーマーガリン・パン) 中学校下校時に、週に一、二回、S氏とパン工場に寄って、熱々のシュガーマーガリン・パンを買って食べました。 マーガリンに砂糖を練り込んだ物を→→職人さんが目の前で、コッペパンを割いて→→タップリ入れてくれました。 (スーパーでシュガーマーガリン・パンを見掛けたら、必ず買っています。)

(思い出❸ :補習授業と弁当) 現在は土曜日は休校すが、昔は”半ドン”でした。中学3年生になると、高校進学を目指している生徒には土曜日に補習授業が有り、給食は休みでしたので弁当持参でした。1ヶ月に一度、模擬試験を受けましたが、その時も弁当持参でした。S氏と私は補習授業を受けました。

 母が作ってくれる弁当は、白いご飯と梅干一個の”日の丸弁当”でした。鶏を沢山飼っていたのですが、卵焼きは作ってくれません→→その代わり、缶詰を買う金を渡してくれました。 鰯や鯖の缶詰を買いました。

 S氏の父親はキノコ採りの名人で、毎年沢山!沢山!採って来て→→塩漬けにしていました。 S氏の弁当には塩漬けにしたキノコの炒め物が沢山入っていました。 S氏と御菜(おかず)を半分ずつ交換しました。キノコの炒め物は美味しかったです!

【高校受験】
 S氏は田辺商業高校(田商、現在=神島高校)を、私は田辺高校(田高)を受験しました。 入学試験が終わって、校庭で父が友人と雑談している時、父の近くでボンヤリしていました。 S氏と彼の父親がやって来て、「答案用紙に氏名と受験番号を書かなかった、どうしよう?!」と言ううのです。 私に言っても、どうしようも無いですよね!

 そばで聞いていた父が、「義弟(母の弟=私の叔父)に頼んでみる」と言って出掛けました。 ラッキーな事に叔父が田辺商業高校の教頭だったのです。

 後で叔父から聞いた話しでは、S氏は全ての答案用紙に氏名と受験番号を書いていなかったそうです。 そして、他に氏名と受験番号を書き忘れた受験生がいなかったので→→S氏の答案用紙を見つけるのは簡単だった様です→→叔父が氏名と受験番号を書き加えて→→S氏は合格になりました。 多分、今だと許されない事だと思います。(叔父が、「S氏は字が上手だ」と言っていました。)

【高校生時代】
 S氏は、田商から田辺駅のほぼ中間に有った、共用の台所が付いた四畳半のアパートを借りて自炊していました。 実家から米、沢庵、味噌等を送って貰い→→部屋に置いた電気炊飯器でご飯を炊いていました。

 学校が終わると、同級生を五、六人引き連れてアパートに帰り→→将棋を指すのが日課になっていました。 S氏の将棋の腕はドンドン上がって、田商の生徒の間では無敵になりました。

《余談 :若草寮の夕食》
 私は間借りして、夕食は田高の寮(若草寮)に食べに行っていました。一年先輩に背の高い/ガッシリした体格のバスケットボール部の男性が二人、若草寮に入っていました。

 若草寮の夕食は、ご飯は少し大きめの飯茶碗一杯だけ(お代わり無し)、味噌汁、簡単な御数(おかず)だけの質素な物でした。 バスケットボール部の二人が、毎日他人の分を食べてしまいました。

 私の夕食も週に一回か二回は食べられました。そんな時、月に二、三回、S氏のアパートに行って、冷めたご飯と沢庵を貰って飢えを凌ぎました。

(余談の余談 :若草寮) 田高の前進の一つが田辺高等女学校です。若草寮は田辺高等女学校の寮でした。 母は5年間、私の一番上の姉は1年間・若草寮に住んでいた様です。若草寮は現在も田高の寮として存在しますが、私が高校生だった頃は、ボロボロの木造で、旧市街地に有りました。

(余談の余談 :チキンラーメン)  私は間借りだったので、電気ポットしか有りませんでした。 寮の夕食を食べられた時は、S氏の所に行くか、日清のチキンラーメンにお湯を掛けて食べる以外に手が有りませんでした。

 上から三番目の姉が内職して貯めた金を、時々・5,000円程送ってくれていました。 間借りしていた家の近所の店に、結婚したての二十歳過ぎの奥さんが店番をしていました。 私が貧しい事を知っていて、「チキンラーメンを段ボール箱で買ったら安くしてあげる」と言ってくれたのです。姉が送ってくれた金で買いました。 涙が出るほど嬉しかったです。

【マラソンの思い出】
 中学3年生になると男子は、往復で5km程の距離を走らされました。 一山を超える5kmですから、『箱根駅伝の5区』の様な物でした。 S氏と私が一着か二着でした。

 高校でもマラソン大会があり、3学年の男子生徒が一斉に走りました。S氏は3年間良い成績だった様で、3年生の時は『トップ』だったそうです。

 私は高校一年生の時は剣道部でした。 昔から、剣道部と柔道部は「マラソン大会では絶対に負けない」と競い合っていました。マラソン大会が近付くと、両部ともマラソンコースを走って練習しました。 私は三、四回走った様に記憶しています。 私は両部の一番になりました。

 私は、3年間三十番以内に入っていました。 特に3年生の時は学年で一番になりました。

【高校卒業後のS氏】
 S氏は高校卒業後、大阪の電気店に就職しましたが、2年ほどで辞めてしまいました。 その店のお得意さんは、芦屋などの超!金持ちの家が多かったそうです。 高級な電気製品を買ってくれると→→トラックに派手な”幟旗(のぼり)”を付けて配達するのが、仕事だった様です。

 その後、京都のミシン販売店に就職しました。 殆ど基本給は無く、歩合制だった様です。ミシン販売店で、女性を”千人切り”したと言う話は次のブログに書きました。

★ 不倫報道は禁止すべきです。 :投稿日=2024年11月16日

【S氏は九州の某県に転居しました】
 1971年にS氏は、九州の某県に有った大きな観光ホテルに就職しました。

 ミシンの販売店に勤務していた時、(S氏よりも数歳年上の)ホテルのオーナーの次男か三男(M氏)がいて、ホテルの経営に参加する事になりました。 M氏に誘われて、好条件でホテルに転職したのです。M氏は、父親や他の兄弟と考え方が違ったので、S氏が27歳になった頃→→ホテルを追放され→→S氏もホテルを辞めました。

【S氏が素晴らしい女性と結婚しました】
 25歳になった年にS氏は地元の女性と結婚しました。 当時、私は神戸市に勤務していて→→フェリーで結婚式に参列しました。 しっかりした女性に見えたので、安心しました。 S氏は”いい加減”な男ですから、「奥さんが支えてくれるだろう」と思ったのです。 その後、私の予想通りになりました。

 その後、S氏には色々辛い事が有りましたが、奥さんが頑張って→→立ち直り→→事業に成功して→→今日が有るのだと、私は思っています。 次回に、その後の出来事を書きます。