
【吉田松陰の教育法】5143
小林正観さんの心に響く言葉より…
吉田松陰は、思想的には攘夷論(じょういろん:外国と戦わなければならないという主張)。
しかし、浦賀(うらが:横須賀市)にやってきたペリーの黒船4隻を見て、戦ったところでとても勝ち目はないことを知ります。
そして、外国を倒すにはまず外国のことを知ろう、と思い立ち、なんとペリーの黒船に乗ってアメリカに渡ろうと企てたのです。
しかし、密航しようとしたのが発覚して、松陰は野山獄(のやまごく:山口県萩市)という牢屋に入れられてしまいました。
終身刑の牢獄です。
ここに入れられたら、もう生きて出られないという獄なのですが、松陰はそこで、囚人たちに講義を始めました。
さらに、「あなたは書が上手だ。だからみんなに書を教えてください」
「あなたは俳句が作れるのだから、俳句をみんなに教えてください」
と、獄中で座談会が始まり、囚人の一人ひとりが先生と呼ばれての講義は進められたのでした。
そして、社会が激動と変革の波に飲まれていく中で、奇跡的に牢屋から出されます。
松陰とともに、「先生」と呼ばれた囚人のうち8人も、出獄を許されます。
「自分はこれまで、このように教えを請われたことなどなかった」と、彼らは感激し、自分の力を人々に喜ばれるように使っていったらしいのです。
誰も獄に戻った人はいなかったといいます。
松陰の人を見る目は、「比べる」のではなく「一人ひとりに素晴らしい天分がある」という優しいものでした。
『魅力的な人々の共通項』清談社
https://amzn.to/3MZlTws
本書の中に松下村塾についてこう書いてある。
『出獄してから、いよいよ松陰の私塾が開かれることになります。
実家の邸内で、以前か ら叔父が使っていた「松下村塾」という名をそのまま使いました。
松下村塾に集まった人たちは、「藩校明倫館(めいりんかん)」から締め出された、いわば下級武士の子弟たちでした。
面白いことに、明倫館に集まっていた上級武士の子弟よりも、この下級武士の子弟たちのほうがのちに力を発揮していくことになりました。
伊藤博文のほか、その門下に集まった人には、高杉晋作、久坂玄瑞(げんずい)、吉田稔麿(としまろ)、品川弥二郎、山県有朋など、明治維新に大きな足跡を残した人たちです。
いけないところを指摘するのではなく、よいところを教えてあげるという教育に、門人 たちはどんどん花開いたのでしょう。
よいところを見つけてそれを伸ばす、というやり方で育ってきた人たちが、 明治維新の原動力となっていったわけですが、ここで気づくのは、「明治維新」とは「維新」であって「革命」ではなかったということ。
「明治維新」という語は、当時の志士たちが自ら言った言葉であり、後世の歴史学者が作った語(ご)ではありません。
この時代に起こったのはいわゆる「革命」ではなく、「古きよきもの は維持し、さらに新しいものを上乗せする」という意味で「維新」なのでした。』
舩井幸雄氏は、長所を伸ばすことで、不思議と短所や欠点も消えていくという。
また、ツキを呼び込むために必要なのが、すぐれたもの、得意なもの、自信のあるものという長所を伸ばすことだともいう。
なぜなら、ツキをもたらす初歩的な方法が、「ツイているものとつきあう」ことだから。
自分の中のツイているもの、「うまくできること」「得意なもの」を伸ばすのが「長所伸展法」。
吉田松陰は、この長所伸展法の名人だった。
自分も、人も、あるいは会社でも、その中で…
長所を見つけ、伸ばす「長所伸展法」の実践を重ねたい。
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小林正観さんの心に響く言葉より…
吉田松陰は、思想的には攘夷論(じょういろん:外国と戦わなければならないという主張)。
しかし、浦賀(うらが:横須賀市)にやってきたペリーの黒船4隻を見て、戦ったところでとても勝ち目はないことを知ります。
そして、外国を倒すにはまず外国のことを知ろう、と思い立ち、なんとペリーの黒船に乗ってアメリカに渡ろうと企てたのです。
しかし、密航しようとしたのが発覚して、松陰は野山獄(のやまごく:山口県萩市)という牢屋に入れられてしまいました。
終身刑の牢獄です。
ここに入れられたら、もう生きて出られないという獄なのですが、松陰はそこで、囚人たちに講義を始めました。
さらに、「あなたは書が上手だ。だからみんなに書を教えてください」
「あなたは俳句が作れるのだから、俳句をみんなに教えてください」
と、獄中で座談会が始まり、囚人の一人ひとりが先生と呼ばれての講義は進められたのでした。
そして、社会が激動と変革の波に飲まれていく中で、奇跡的に牢屋から出されます。
松陰とともに、「先生」と呼ばれた囚人のうち8人も、出獄を許されます。
「自分はこれまで、このように教えを請われたことなどなかった」と、彼らは感激し、自分の力を人々に喜ばれるように使っていったらしいのです。
誰も獄に戻った人はいなかったといいます。
松陰の人を見る目は、「比べる」のではなく「一人ひとりに素晴らしい天分がある」という優しいものでした。
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本書の中に松下村塾についてこう書いてある。
『出獄してから、いよいよ松陰の私塾が開かれることになります。
実家の邸内で、以前か ら叔父が使っていた「松下村塾」という名をそのまま使いました。
松下村塾に集まった人たちは、「藩校明倫館(めいりんかん)」から締め出された、いわば下級武士の子弟たちでした。
面白いことに、明倫館に集まっていた上級武士の子弟よりも、この下級武士の子弟たちのほうがのちに力を発揮していくことになりました。
伊藤博文のほか、その門下に集まった人には、高杉晋作、久坂玄瑞(げんずい)、吉田稔麿(としまろ)、品川弥二郎、山県有朋など、明治維新に大きな足跡を残した人たちです。
いけないところを指摘するのではなく、よいところを教えてあげるという教育に、門人 たちはどんどん花開いたのでしょう。
よいところを見つけてそれを伸ばす、というやり方で育ってきた人たちが、 明治維新の原動力となっていったわけですが、ここで気づくのは、「明治維新」とは「維新」であって「革命」ではなかったということ。
「明治維新」という語は、当時の志士たちが自ら言った言葉であり、後世の歴史学者が作った語(ご)ではありません。
この時代に起こったのはいわゆる「革命」ではなく、「古きよきもの は維持し、さらに新しいものを上乗せする」という意味で「維新」なのでした。』
舩井幸雄氏は、長所を伸ばすことで、不思議と短所や欠点も消えていくという。
また、ツキを呼び込むために必要なのが、すぐれたもの、得意なもの、自信のあるものという長所を伸ばすことだともいう。
なぜなら、ツキをもたらす初歩的な方法が、「ツイているものとつきあう」ことだから。
自分の中のツイているもの、「うまくできること」「得意なもの」を伸ばすのが「長所伸展法」。
吉田松陰は、この長所伸展法の名人だった。
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