- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

ちょっとカメラ持ち ブラブラ 承天寺(2)

2016年12月20日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
島屋村上家  出稽古に行ってた島屋(表組入りした島屋のおきく)のことは『葛原勾当日記』にもふれられている。


本村上家・・・・これももとは島屋村上一族。そのうちの中核が松永村の庄屋・郷侍の家筋を形成。


寛政3(1791)年に64歳で没した慎斎邨(村上士鑑)先生墓・・・庄屋・村上久兵衛尚政の季子(末っ子)。能島→田島経由で松永に転住した島屋村上一族だ。詳細は村田露月『松永町誌』,433-434頁の説明文に譲る。


吉和屋亀田氏


鹿市屋漆原氏


福山屋藤原氏




干濱屋・・・・徳島・大木屋浜の隣に同名の塩田業者がいた。 三谷氏(要確認)


宇津戸屋芳蔵

尾道久保に宇津戸屋要助寄進の稲荷さん。

尾道・勇徳稲荷の「宇津戸屋要助」・・・尾道の宇津戸屋は長江口辺りに本拠があった豪商。

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九十九巳之吉

2016年12月19日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
九十九巳之吉さんの子孫を訪ねたが・・・・
子供時代は広島で生活し、後年は新聞記者で外にいたため、むかし醸造業をしていたことは知っていた。それ以外は不知。微かな記憶の中から九十九氏答えていわく、屋号は東(東)・・・●●、おいおい東屋は小川喜三次家の屋号だ。
九十九家は草戸・神島当たりにルーツを有するようだが、すべては不確か(再度確認予定)。


高須屋の居宅の場所が知りたいのだが・・・・・。九十九さんは私の従兄弟の幼友達ということで話が早かった。

麻生家墓地には新しい榊が立てられており、子孫は健在のよう。小川家墓地の雑草の刈り払いを行ったが、3年前に買った高性能のこりぎ紛失。やれやれ。


北隣の宅地の建築現場


巳之助さんが伊勢宮さん境内に桜を植えたことを話すと87才の九十九さんは喜んでおられた。

わたしは承天寺墓地で行ってきたことは松永村の富裕層の人たちの話。これでは零れ落ちるものが相当に出てくる。方法論的に問題ありだ。
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麻生吉兵衛親盈墓

2016年12月19日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

村田露月『松永町誌』に導かれつつ承天寺墓地で撮った写真の整理中に偶然麻生吉兵衛親盈墓をとった一カットを見つけた。親盈(ちかみつ)という大名級の名前には誠に恐れ入る
松永潮崎さんに玉垣を奉納した松永・麻生吉兵衛親盈と尾道高橋七郎右衛門治信。両者は姻戚関係にあったようだ(『松永町誌』、450頁)。弘化3年の月代所規定書(今津・若木屋矢野梅哉旧蔵)に麻生吉兵衛は松永浜並びに柳津歌浜持主とある。

承天寺の麻生家墓地



夫人は桑田祖矩の妹とある。桑田祖矩を山南・桑田氏系図の中に探してみたが・・・・・・
祖の文字を通字とした系統もあったが、祖矩の名はなかった。


なお、高須屋麻生吉兵衛家の古いお墓は神村・万福寺の本堂裏にもある。この麻生連蔵家は松永駅裏(西川國臣家の隣家、旧西川國臣家住宅自体、松永高等小学校に隣接するということで、明治30年頃高須屋麻生氏から買得した物)

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井出重遠(1829-1872)

2016年12月18日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
井出三省供重夫婦塔とある。これが幕末期松永の医師&文人井出重遠の墓(墓誌なし)である。江木鍔水らに漢学を学ぶ。村田露月編『松永町誌』昭和27によれば先妻は明治2年、後妻は大正7年歿。

画像整理の段階に井出三省供重が井出重遠を指すことを村田露月『松永町誌』の中で知った。

墓地全景・・西川國臣墓地の一段下。

医業をなりわいとした浜(塩田)持主井出家一派の家族の温もりすら伝わってきそうな墓石たち(。小さい墓の多さは江戸後期に於ける乳幼児死亡率の高さの反映)。

西川國臣の墓地のすぐ上。


こちらも医師の家系高橋家のやや堅苦しいが洗練された感じの墓石たち。


『未開牡丹詩』の最後に井出の漢詩が掲載されている。







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吾輩は武井節庵の墓守である。

2016年12月09日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
こんな記事を目の当たりにすると武井節庵という人が少し気の毒になる。

実をいうと目下わたしは節庵墓の私設墓守だ。


武井節庵は頼山陽門下の大物漢学者森田節斎(1811-1868)の登場(山路機谷のもとに転がり込んできた関係)で出る幕をなくしたか。なんといっても長州藩の勤王志士たちは吉田松陰を介して森田節斎の孫弟子たちなのだから。そういう点でいえば江戸生活を体験した垢抜けした武井節庵だったが、故郷でも今津でも誰からも慕われないという面でやはりダメ人間だったのだろか(福山藩の江木鰐水は阪谷朗蘆宛ての手紙の中で武井を小馬鹿にしてた)。わたしには決してそうは思えないのだが・・・。お墓は没後7年目(墓誌には17年目に墓石を建立とあるが、これは弔い上げを念頭に置いた記述だろうか、正しくは7年目に墓石を立てている)に二人の弟子によって建てられたもの。2022年6月1日知ったことだが、武井節庵の伯父見龍(1781-1844)は江戸中期の勤王家で後年諏訪に定住した「天龍道人」こと渋川虚庵 の依頼で文化5(1808)年に「天龍道人碑碣銘」なるものを撰文(『諏訪史料叢書』の「天龍道人史料」のなかにも収録)。
参考)天龍道人碑碣銘の紹介文
高橋碧山の墓誌に武井の記述があった。節庵は高橋西山と交友があったので、息子碧山の教育を武井節庵(や北条晦堂(『松永町誌』に寺子屋の先生高橋氏の項目で言及)坂谷朗蘆)に委ねたのだろう。


この人は肉親からも備後の漢詩愛好家たちからも見捨てられた存在だったのだろうか。わたしは茅野市と武井父子が出した『諏訪八勝図詩』第二版の復刻版(昭和56年、限定300部・・・・116号を2020年9月15日東京の古書店より購入済み)を出した印刷屋(考古学者でもある武井幸重さん)にもこの辺の情報は提供済。あちらにはまったく武井節庵情報が不足しているということだった。
【メモ】山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』、岡谷書店が”武井見龍一族と松島北渚”(204-207頁)の中で武井節庵について言及

墓石のサイズは尾道・慈観寺にある宇都宮龍山のものより大きめ。この地方の一番の大馬鹿(大墓)は山路機谷が生前に建てたもの。



なお、武井節庵墓の周辺には寛文~宝永といった近世前半の墓石がかなりあるが、それらは神村石井家(和田石井氏ヵ)とか沼隈町の枝広といった寺の創建に関わった大旦那筋のものだ。江戸前半期の石井清十郎墓(笠石付き墓石/石井清十郎は和田石井氏系、寛文ー元禄期の神村庄屋ヵ⇒『松永市本郷町誌』、316頁・・・石井清十郎は和田石井氏の公儀名⇔元禄13年検地帳記載の松永村槙島新涯の開発者=所有者”五左衞門”)はこの墓地で一番ジャンボ。話が横道にそれるようだが、この寺の西側河谷はかつて「西迫」(明治以後は字・東坂)という地字の場所だったが、この一角は中世の沼隈郡神村分の土地があったことが判っている。神村石井はそのことと何らかの関係があったのかどうか、いまのところ不明だ。参考までに石井右京進(松永石井家の祖・石井石見守清信の親族)の位牌か過去帳は今津蓮花寺にあるらしい(要確認・・・蓮花寺住職に確認をとったが無いとの回答だった)。






武井のお墓の手前、斜め奥の笠石付きの大きな墓は石井孫右衛門の墓だ。神村石井家の墓石は入江屋系のそれよりも100年ほど古い。この寺の創建に深くかかわった家なのだろう。舟形光背墓・板碑型墓石については今後注意して見て行きたい。参考までに言及しておくと福山藩主阿部家家中で戒名に院殿-大居士号を付された御仁の墓石(@福山実相寺)より、江戸中期の神村屋石井氏の墓石の方が大きい。ただしこちらの戒名は「院号なしの信士」止まり。


関連記事
『山路機谷先生傳--附森田節斎と平川鴨里』復刻版昭和60年(元版昭和8)が平川鴨里に対して薫陶を与えた先生筋の人間の一人として森田節斎夫妻、山路機谷らと並んで武井節庵に言及(105頁)。墓誌が126-127頁。
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史料紹介 小倉豊文校訂 『葛原勾当日記』

2016年12月09日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
数か月前までネット上(藤沢市の渡内書店)で販売されていた。たしか¥4000。



いま私が知る限り、福山の児島書店(天満屋裏)で¥18000、アマゾンで¥32800。笑ってしまうくらいの高値で売り出されている。地元の公立図書館には禁帯出のものを含めかなりの冊数が所蔵されている。校訂者の小倉は広島大学の先生だった御仁。精魂(ご当人は80歳の老体に鞭打ちつつ全身全霊を)傾けて取り組んだ感じで社会史研究の史料として使えそうだ。
江戸末から明治初期にかけて活躍した、京都以西では並ぶものなしと言われた生田流筝曲(琴)の名人で、童謡作家葛原しげるの御祖父さんに当たる人物の、文政10(1827)年から明治15(1882)年までの出稽古記録だ。


凡例の一部


目次の一部(本文註・補註は小倉豊文の研究成果で、有用・・・・ただし、率直に言って内容的には遣り残し多々という意味では不徹底さ・手抜きも・・・・・・まあ、そう考えるよりも少年時代から、葛原しげるによる特別の薫陶を受けてこられた小倉氏は後学のものに多くの課題を残されたと解して感謝するというのがよいのだろうと思う。)   

記述はこんな感じ・・角倉志朗『禅道探究日録』の最晩年の記述がこんな感じ。松永村の高須屋とは麻生吉兵衛家のこと(下之町に別荘)。天保期には高須屋を稽古場として使っている。黒鉄屋とは福山・深津の藤井与一右衛門家のことだろう。文字通りのお稽古日誌。しかし、なかなか・・・・・・


勾当の愚痴まじりのユーモアーこの頃の文面は珍しく豊かな感情表出


私としては邦楽の知識がないのが悔やまれるが、如何にこの史料を料理するか思案するのは実に楽しい。
弟子たちを演奏技術に応じて組(表組・裏組・中組・奥組・四季組・外組)に分け、それぞれ組別にいくつかの課題曲を練習させている。この辺は邦楽の楽曲に関する知識不足を補ってくれそう。

三吉傾山の大成館で漢学を学んだ三井勝治郎は其の後数学・英語をそれぞれ別個に塾経営をする先生のもとを訪れそこで学んでいる。高島平三郎の場合も同様であった。そういう意味においてここで紹介した葛原は良家の子女たちにお琴・三味線を教えるために備後・備中各地の会場(豪商・豪農の屋敷の一角)を使ってその土地土地の入門者たちに対して出稽古を行っていた訳だ。

出稽古先として松永・柳津・藤江が記載されている頁に付けた付箋 江戸時代は松永・高須屋が中心、明治期に入って件数は少ないが、松永岡本某、島屋(村上氏)おきく、入江屋石井(石井竹荘夫人が勾当の弟子)が出てくる。幕末期に柳津の西屋(干鰯商柳田氏)、藤江・岡本は山路機谷家だろうか、少々。


この日記には若干、社会史的出来事、一年を振り返った勾当の社会生活面での所感、安政元年に岡山県邑久郡尻海(牛窓の北に位置する港町)で受けた大地震とそのとき勾当らがとった津波に対する警戒行動、藩主が危篤の折に国中での歌舞音曲の禁止令、四国に渡海するときに、村上とはともに乗船したくないとの気持ちの吐露・風の神送りに鐘太鼓を鳴らすことが禁止されたとか、最近(安政六年)コロリが流行しているとの記述、慶應元年の記事として当時評判の漢学者・興譲館の坂谷朗蘆先生のことなどまことに興味深い。
朗蘆の死の報(明治14年正月)に接し、挽歌一首「散る花はまた咲く頃のあるものを春待つ甲斐の無きぞ悲しき」。勾当は朗蘆の事を老いらくの友だと感じていたようだ。
嘉永五年5月28日柳津で読んだ歌の一首「誠とは誠無きこそ誠にて,誠は仏の誠をぞ得る」というのは思索的だった勾当の一面を垣間見せるもの。
そのほか雨乞神事に3日3晩琴の演奏をさせられ、その暑さには往生したことなど、断片的ならが史料としてつかえそうな記述もあるし、母親の病死とその直後の父親の自殺(心臓下を短刀か何かで刺したもの・・・「切れものを取り出し、手業に心下を突き」と記述)。世相に関する盲人の感度、安政大地震の余震・雷に対する感じ方は盲人勾当の身体性を知る手掛かりが得られるだろう。
山本瀧之助『月と親』、大正14という著書(小冊子)があったが、この諺「月と親は何時もよきもの」を人が話すの聞いて歌を詠んでいる。嘉永5年当時の人たちにとってはポピュラーな諺(親は良い、月は宵とを掛けた一種の洒落を含んだもの)だったようだ。
ここから先は研究次元の話題になるので非公開

本日記については紀田順一郎『日記の虚実』、新潮選書、1988、9-24頁が取り上げている。アマゾンでは雑本扱い(価格1円)で入手できるが、まあ、文芸的過ぎて読んでも読まなくてもよい内容だ。


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元禄検地帳に見る今津村など近隣数ヶ村における郷倉屋敷・牢屋敷の立地点

2016年12月08日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
『松永市本郷町誌』には郷蔵・牢屋の記述がある。それは御領・下土井石井家の近く、森下自転車店のところにあったとか。元禄検地帳には地字「市」に郷蔵屋敷と牢屋屋敷とを続けて記載している。


本郷温泉口付近(字・「山手いたやさこ」)に番所屋敷「いたや」は板屋佐藤武彦家の屋号起源ヵ

松永村では番所屋敷・牢屋敷・・・潮崎神社南、明神端・つるぎ下にあった。高札場が潮崎さんの前だから松永村の中心地をこれらの施設が形成していたことが判る。しかし、こういうケースばかりではない。


西村には「柳升」に番所屋敷、「長くろ」に郷蔵屋敷


東村の郷蔵屋敷と牢屋敷は検地帳の記載箇所から見て一つの場所にではなく地字・「岩崎」・「岩川」というところに別個に布置されていたようだ。後日確認調査をしてみよう。牢屋・郷蔵が村の地域的な中心地に立地したとかいなかったりとかいったことはケース・バイ・ケース。個々の事例に即してみていくことが大切だ。


今津村の牢屋敷と郷蔵屋敷は蓮花寺(境内は3畝15歩の屋敷と周辺の上畑、および除地扱いの阿弥陀堂から構成されていた)と共に地字「西ノ坂」に立地。ここは現在では町外れだが元禄期にはそうではなかったことが判る。


高須村には「まえ」の郷蔵屋敷、「坊示うね」の番所役所+附属畑。いずれも高須村検地帳の第一分冊に記載されている。


メモ)数詞区小地名をもつ神村の場合、松永境にある確か神村第八区が「郷蔵」という。松永町東町上ノ町の北隣にある万福寺一帯がそれにあたる。

「きょうめん」は京免だろうか。郷蔵の規模はかなり大きい。近所にはかなりジャンボな「千右衛門」屋敷があった。
  

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今津町の「土手」と「柳町」

2016年12月07日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
今津町・土手 合原醤油店(販売)・・・・坂本屋村上さん(醤油醸造)のところに残っていた醤油壺


川本酒店(屋号「あぶらや」)に残っていた佐野酒店(吾妻橋東詰にかつて立地)の清酒壺に「今津・柳町」。柳町の呼称は字地名「柳ノ内」起源らしい。吾妻橋東詰め経由での鞆往還の入り口部分が「柳町」。明治・野取帳では村上重右衛門所有地だった場所。



赤丸・青マークは合原姓住宅。図中の「土手」は便宜的に注記したもので、「今津町 土手」が含意したものとは異なる可能性があり、要確認。


これら2店舗の場所の特定は他日を期す。屋号についても九州往還・鞆往還筋の旧家のそれに関しては悉皆的に調べ上げる必要がある。
麻生酒場を経営した麻生唯右衛門、岡田熊太郎(呉服の広田屋)辺りまでの坂道添いの町家地区を柳町といった。

この住宅地図は河本基一家資料ではなく河本英三郎家資料。各種地方史料と校合してみたが誤りが多く、ここでは区域を限って便宜的に引用した。



大正期の今津町・土手(部分)。吾妻橋東詰めに当たる。



最近見つけた古地図。明治地租改正事業の中で作成された野取帳と対応するが、松永村の末広町分の記載もある。旧石井保次郎所有地(旧島田薬局~福田嘉三郎経営の旧衣料品店「まねき」)


山陽鉄道会社の松永駅開業後町場化が促進されたわけだが、当時の土手部分を除く一帯の土地所有は平櫛又四郎、平櫛小兵衛(426番地only)、石井保次郎によるものだった。この辺の事情(地代収入および不動産売却益面での、地主側の増収増益願望)は田畑の宅地転用を円滑に進め、商業者の来住に対してプラス側に作用したと思われる。この点で一般の自作農の場合は、吾妻橋東詰め以東の西国街道筋において町場化がみられなかったことからも判るように、田畑に対する家産意識の大きさが作用して、当該鞆往還沿いの町場形成に必要な土地の売却、田畑の宅地転用はもっと難航したはず。

明治期の鞆往還・・・神村の「げんこうさん(石井病院)」前経由で松永東町に至る道路と今津・柳町経由で松永東町に至る道路の2系統があった。前者が本来の鞆往還。

明治30年正式2万


大正3年沼隈郡明細全図

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野取帳にみる明治初年の沼隈郡今津村における地主的土地所有状況

2016年12月04日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
藤井与一右衛門(黒金屋)・山路右衛門七(岡本)・石井四郎三郎(入江屋)、村上重右衛門(竹本屋)が地主の主だったところで、そのほかに石井保次郎(益田屋)・平櫛又四郎(大久保)といったところが挙げられる。彼らの所有地が多いのは沖田地区の往還南側と今回紹介する爲安だ。


地元の自作農:大村仁左衛門(大村軍太の親父か御祖父さん)の所有地を参考のため入れて置いた。
字爲安の138筆の農地のうち、51筆が何人かの不在地主と在地の資産家(中小地主だが竹本屋・村上重右衛門)の所有地であった。石井四郎三郎の所有地は本郷川の堤防沿いにあり、『松永市本郷町誌』にも同町管内の本郷川河岸には同人の所有地がかなりあったと記述をしており、もしかすると福山藩による本郷川堤防の普請が石井四郎三郎のお手伝いのもと行われたか・・・・。
この辺りの問題は藩側の史料での確認が必要だ。


ところが農地解放前後には土地所有関係は大きく変化し、ほとんどが地元民による自作地に。この史料を見る限り、尾庵・村上薫の場合と異なり、竹本屋は【不在地主】として扱われたのか農地は完全に小作人の手に渡った感じだ。大久保平櫛又策さんは一時期地元銀行の重役をしたりしていたが、農地解放で田地を失い、大きなショックを受けたようだ。

1981-83番地の土地(生産性の低い、崖下の低湿田)の所有者名に大村軍太(野取帳では大村仁左衛門)とある。








爲安河原(写真中央部、榎の大木のある、白壁の土塀をもつジャンボサイズの居宅が村上重右衛門家住宅)


現在の爲安地区

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黙庵石井友三郎の筆跡

2016年12月04日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
石井亮吉の親父・石井友三郎(漢詩人としては黙庵、俳人としては瓢水)。蓮華寺の住職時は善学。この地方の名士、社交的で多趣味の人だった。

最晩年に坊さんになる前は、第三代目松永町町長。その前は助役、明治30年代初めに一時期入江屋石井一族の創設した金穀貸付業者穀蕃社の代表社員。穀蕃社が休業後はやがて出家し京都へ。大坂とあるのでその夜逃げしていたころものだろう。

福山城博物館蔵

三列目 向かって左から2人目の洋装の御仁:大林一彦(医師・投資家、映画監督大林の御祖父さん)。その右側の小柄な面長の人物が石井友三郎。浚明館に入塾してきた高島平三郎の優秀さを息子亮吉に語っていたようだ。高島の刻苦勉励譚はお家没落(同族会社穀蕃社の休業に伴う資産の喪失)という人生の試練に直面していた自分にとってはもちろんのこと、子弟教育においてもよきお手本になったはずだ。

写真の撮影時期だが大正13年清明節。場所沼隈郡松永町某所。写真の所蔵先は本郷屋山本家&南松永・河本家。両家の写真は子供の落書きや塩害による画像の痛みが見られたのでOGAWAが原画に沿って修整した。

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背景から主題へー今津山の風景ー

2016年11月30日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
現象学では図(主題、Figure)と地(背景,Ground)との入れ替えを問題とする。例えば・・・

モノクロ画像だが白を背景とするか、黒を背景とするかといった観点(Viewpoint)の差異が図の見え方を180度変えてしまうという訳だ。黒に注目すると白部分は背景化され、対面する二人の顔を描いたイメージということになるが、逆に白に注目すれば黒部分は背景化されお洒落な壺にしか見えないイメージになってしまう。現象学は真理を棚上げにして事象とか事物の、したがって事実それ自体の相対性ー対象は観察対象と観察者の観点如何によって如何様にでも変わってくる式の優柔不断な論を強調するきらいがあり、こまった思考モードではあるのだ。やはり物事には正誤・真偽・虚実の間に明確な境はあるし、またそれが必要だ。


ただボーっと眺めるだけの風景は全体が生活空間の中の背景(意識されない、ふつう見過ごされる対象)にしかすぎないのだが、風景の中に名前・呼称が付与されるとたちまち自覚的に意識の中に立ちあらわれてくる意味を持った対象へと変身するのである。このように今回例示したような名称・呼称の内容はそうした意識の在り方に一定の方向性を与えてしまう。

こちらの写真は松永・上之町から北方を見た、何でもない何処にでもあるような風景だが、わたしが注記を加えたことによって、これからはその風景(あとで紹介する風景図屏風との関係でいえばわたしが文字注記をいれた次の風景写真はもう一つの「風景図屏風」といえるもの)が生活空間の中の「地」から「図」へと転換され同一風景に対して見る目が(個人差はあるかもしれないが)これまでとは大きく異なってくるはずだ。この変化は先述した背景から主題への変化と論理的には同じことなのだ。

グレー色の点滅する山地部分は今津町の翠峯会が管理する町有林(数年前に山火事で大半を焼失。現在は植林中)


本郷森林公園の山上駐車場(松永・上之町から見えた山の山上駐車場)から第八鉄塔へ徒歩15分の地点(Y)から見た松永湾の風景。
その美しさは瀬戸内海という多島海と松永湾という封鎖性海域が紡ぎ出したまさに奇跡の風景なのだ。


屏風絵の注文主の意図を反映した形で絵師によって美的に再構成された松永湾の風景
美的に再構成する方法は①当時の絵画の伝習的方法に即した形で、②漢詩の中で詠まれた遺芳湾を10or12(「遺芳湾十勝詩」「遺芳湾十二勝詩」)に分節しそのシーンを名勝・名所という詩的カテゴリーに合致(多くの場合不完全な形で合致)する形で形象化するというものだった。
看過してはいけない点は作品化されたこの種の漢詩や名所絵は一旦公開されると、こんどは逆に現実の風景(例えば松永湾岸の風景)を見るときのフィルター(あるいは準拠枠)のようなもの、前に使った言い方をすれば意識の在り方に一定の方向性を与えるものとして多かれ少なかれ作用するようになっていった(or いく)という部分だ。
松永稲荷神社から高須・山波方面

潮崎神社から藤江・浦崎方面・・・・浦崎半島の突端・戸崎のシーンは梅()が満開、高須沖の松永湾には水鳥(渡り鳥)が飛翔する季節としては初秋以後の風景を感じさせるという風に(春夏秋冬を描き分けたり、特定の季節を念頭に描き切ってるというよりも気ままに)雑多な季節性を混在させている。
この風景画研究を通じて松永湾岸がこのように描かれたその時代的・社会的特質といったものやこの絵の中に投影された屏風絵の注文主を含む作成主体の在り様が透かし見えてくるように思われる。
屏風絵の注文主を含む作成主体という事でいえば、例えば藤江・山路氏や浦崎在住の笠井氏など松永湾をこのような構図で、しかも松永村の鎮守さんである松永・潮崎神社にスポットを当てるような屏風絵は間違っても注文しないだろう。
ありのままの風景というのは背景→主題(背景の主題化)という過程の中で無意識の政治性というか自己中心的な意識(たとえば屏風絵の注文主の有する自分勝手さ)が投影されるものなのである。その辺の見極めが歴史研究(史料批判段階)においては必要となってくる。

安政4年 松永湾風景図屏風(福山城博物館蔵)

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石井四郎三郎と石井保次郎の屋敷地番

2016年11月24日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


台帳(明治26年の墓籍簿)に記載された事項を墓石で確認して見た。
石井四郎三郎の次男台造と友三郎長女秀子のお墓


塩浜稼(人)粟村仁助、浜旦那=製塩業石井保次郎(通称「下の浜」)




客船業者平櫛吉太郎墓

松永銀行・松永製薬所・松永賃貸株式会社など取締役を務めるなど地方の実業家として活躍した石井保次郎の墓。字柳ノ内の南端部の宅地・農地を一円的に保有した家主・地主だった。長和島北端部の松永高女(その前は松永高等小学校)敷地も石井猪之助(東村の「大石井」)・保次郎(その分家の益田屋)の塩田のあったところ。


明治15年当時の囲碁愛好家たちの中に、石井グループ以外で、今津の平櫛吉太郎・三島治平の名前も。

三島は〇官吏(嘱託)として明治19年に田畑地積の丈量作業や田野取帳の整理業務を行っていたようだ。住所は今津村189番屋敷だが、河本英三郎作成今津村住宅図によると薬師寺山門直前に三島治平屋敷(1319番地)が図示され、いまも子孫が住む。




やや小ぶりな墓石を2基見つけた。夫婦墓(大正9年6月に妻シカが、その半年後に孫娘澄江が死亡、自らはその2年後に71歳で殁)とその横に子供墓が。


過去に関する説明変数を一つ追加・・・・この史料中に治平の妻と孫娘の名前を見つけた。三島家の墓石を見ると基壇は「大島石」、戒名を入れる柱石には上質の「庵治石」。この墓地ではこういう形で異なった材質の石を使った墓石をよく見かける。

墓籍簿分析を進めるうえで今回の発見は一つ入り口にはなろうが、最近は墓じまいは進み、三島治平家の墓地の隣にある三成屋山本家分家(=義人家)の墓石は2022年11月にすべて東京へ。治平家の子孫の墓石はここにはなく、社会的流動性が激しくこの方面からの社会史研究は困難に直面している。

 

 

 

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酒・醤油壺たちの一人語り

2016年11月22日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
明治・大正期には禁酒運動が盛んに展開されたが、松永地方の富裕層たちは製塩業・高利貸し・酒・醤油の製造業に乗り出していた。木履業の発展は塩田の沖合域や海水を引き込む入川一帯での貯木場の拡大を惹起したし、製塩業は近世末以後、石炭火力を利用し、石炭滓捨て場を塩田の沖合・天保山を中心に利用しつつ、かつ松永地区の(田畑・塩田と宅地転用するときの)埋め立て用土として活用された。石炭滓捨て場の拡大と貯木場の拡大とはかねてからの懸案事項であった悪水の流入問題ともども良質の海水を必要としていた松永塩生産にとってはマイナス要因として作用していたはずである。 参考画像)濃縮鹹水を煎熬(せんごう)する施設:松永塩田の”炊塩場”=塩屋

参考図(白〇は下駄工場などの木材加工関係の事業所を単に例示しただけのもので、もとより正確な分布図ではない) 

埋め立て用土として利用された石炭の燃焼かす(採取地点:大松屋岡本宅の北隣・・・・・一帯は明治維新前段階から宅地化されていた処であり、その埋め立て土としてこの種の石炭の燃焼滓が使われたことを示す


木履業は明治ー昭和初期にかけて問屋制手工業から機械工業への移行形態を呈しつつ、多くの都市下層民(借家)を誕生させた。これは製塩業における「浜子(塩田労働者)」たちの問題ともども看過すべきではないこの地方における19世紀ー20世紀前半(社会)史の現実だった。
労働者たちにつかのまの慰労と快楽を提供したのが一つには飲酒だったわけで、その楽しみを提供したのが以下で紹介する骨董品(むろん当時の酒造メーカー)だったわけだ。

「大王」は長波の麻生七右衛門次男・麻生唯右衛門経営麻生酒場(山北に工場)の清酒銘柄。麻生は石井憲吉と組んで花筵製造から仲買に転じ、廃業後は大阪にて株取引を。大正期には一儲けして、帰省し、醸造業を開始、昭和17年には戦時中の企業整理などにより廃業。以後は酒類販売業に。九十九酒場は松永中之町九十九巳之吉経営(明治33-昭和13、銘酒:さつき心、九十九巳之吉屋敷は明治35年小川喜三次屋敷を買得したもの)、「幸鶴」(大正8年創業、松永酒造、昭和15年広島市の富士谷盛夫に経営権を譲渡)は丸山茂助ら経営の酒造メーカーで、ここの監査役に岩淵万吉ら。川本酒店(販売、のちに転業し松永貨物)は昭和初期に今津・油屋川本家(昭一)経営。「今津中郷」銘は坂本屋醤油。「赤壁酒場」は石井四郎三郎経営の酒造メーカー(銘酒:菊水)。大正3年穀蕃社倒産後は経営者は明治11年より「遺芳正宗」という名前で清酒を醸造していた柳津の渡辺巻助に交代(大正13年廃業、赤壁酒場一帯の地下水自体はカナケ水。石井はコスト計算抜きに醸造用に灘の宮水を移入していたもの)。なお、最下段の醤油壺は松永駅前・三島商店のもの。酒造業としては比較的最近まで神村町宮前(西福山病院北側・・・この一帯の井戸水はカナ気水で飲料用には不適)に北村氏経営の「菊大王」があった。


石井四郎三郎経営の浚明館跡一帯に本郷・佐藤武助が開業した醤油屋。


吾妻橋の西詰に昭和20年代末まであった粟村本店(粟村七兵衛経営の「カネダイ」醤油)の壺。







松永西町出身の企業家たち。
入江屋は石井四郎三郎、吉井は石井憲吉、菰会社は松永菰合資会社(明治39~、岡本織之助)のことか。「下の浜」は石井保次郎(益田屋)・・・・・今津・柳ノ内に1町歩超の不動産をもち、鞆往還筋には商業を営む借家、それらの背後には多くの裏長屋を保有した製塩業・金融業など手広く事業展開(東村・「大石井」の分家筋)、森下商店(酒類販売)は森下民助、胡屋は岩淵好兵衛・万吉父子。ともに元来は石井保次郎の借地(後には宅地を買収)で商売を開始した。「中浜」は製塩業者の井手。「本多」は本多藤橘(本多徳兵衛との関連性についてはもっか確認中)、「内海」は末広町(字小代の上)の旧家(旧末広座敷地の持ち主。ただし、元禄検地帳中の「五郎三郎」の子孫にあらず。この内海家住宅は沼隈郡長阿武家住宅を買得したもの)。同じく末広町・森谷は米穀販売(明治以後、備中・井原より転入)。


松永地方における明治初期のジェントリー(gentry:郷伸)たちを含む囲碁愛好家たち


【メモ】
酒販売店の酒壺(今津柳町・佐野酒店、今津・町の市川店・川本酒舗)






柳町とは鞆往還の吾妻橋東詰めの出発点辺りに形成された、字・柳ノ内の町場化した部分の呼称。その続きが末広町(松永町分に末広座が立地)。
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岩淵好兵衛

2016年11月18日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

矢野天哉の注解が参考になる。俳人であり郷土史家(元村長)経験者という情報提供者の書き残したメモ。勘違いとか思い違いが混入している可能性もあるので真偽・正誤のチェック(史料批判)は欠かせない。

さっそくの史料批判:矢野天哉の注記だが、「嘉永以前」ではなく、典型的な、明治の地図史料だ。何となれば筆跡・図法(角筆の入れかた)、図中の登場人物(たとえば政右衛門は明治の人、石井保次郎もしかり)、記載内容は明治の野取帳のそれとほぼ同じもの。
その他、気づいた点。楮の薄紙にかかれたもので松永分の町家なども書かれている(正式な行政史料であれば松永村分の町家とその所有者名を記載するはずがない。その点では本図の場合はその両方がある不思議な地図史料だ。)。別史料(たぶん台帳)との記載事項の照合確認印が押されている。




多数の借家をもち、かつこの地方の代表的な中小地主だった重右衛門の地租が好兵衛より少額だったとは


胡屋とあるのが岩淵好兵衛ー岩淵万吉の家(家紋入りの塀をもつ岩淵家墓地)。明治初期の居宅は「まねき」の隣、現在矢曽さんの居宅となっている場所にあたる。昭和25年岩淵智子が松永南駅前に潮香園開業(結婚式場として利用された料理旅館、現在マンション)。

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史料調査  安毛編

2016年11月18日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
分析をしながら史料撮影だったが、1600カット程度撮影した。朝10時過ぎから開始し、13時頃には概ね完了。すこし、遊び(若木屋文書の一部の撮影作業)をいれて4時ごろ帰路に。

阿弥陀堂と矢捨会館の前の溜池に注目してみたい。


野取図では金堀堂下池と呼ばれているもののようだ。阿弥陀堂下池でないところがポイント。この辺の疑問点を解決していくところから研究というものは始まる訳だ。


野取帳では2359番地。北側に寺池という注記がある。場所を定位するためのものではなく、溜池の呼称のようだ。この溜池の南~西側には土揚場。土揚場に注目すると野取図のいう金堀堂下池=寺池のことのようだ。



南・・・「池」とある注記の「池」とはここでいう金堀堂下池のこと


簡単な史蹟図(非公開)を制作しておいた。


バイパス工事によって旧安毛荒神の境内境外は消滅。現在は2399番地喜右衛門屋敷(屋号「おどりば」)の北隣に神祠が建てられている。


安手四ツ堂跡(消防団倉庫)


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