
村田露月『柳津村誌』、昭和33.
寺迫山・伊勢山下(かつてこの地字に金山彦神社立地、神村町には2箇所現存)、新庄奥山家上

関連記事:中世荘園制遺制:砂揚げ祭り
村田露月『松永町誌』に導かれつつ承天寺墓地で撮った写真の整理中に偶然麻生吉兵衛親盈墓をとった一カットを見つけた。親盈(ちかみつ)という大名級の名前には誠に恐れ入る
松永潮崎さんに玉垣を奉納した松永・麻生吉兵衛親盈と尾道高橋七郎右衛門治信。両者は姻戚関係にあったようだ(『松永町誌』、450頁)。弘化3年の月代所規定書(今津・若木屋矢野梅哉旧蔵)に麻生吉兵衛は松永浜並びに柳津歌浜持主とある。
承天寺の麻生家墓地
夫人は桑田祖矩の妹とある。桑田祖矩を山南・桑田氏系図の中に探してみたが・・・・・・
祖の文字を通字とした系統もあったが、祖矩の名はなかった。
なお、高須屋麻生吉兵衛家の古いお墓は神村・万福寺の本堂裏にもある。この麻生連蔵家は松永駅裏(西川國臣家の隣家、旧西川國臣家住宅自体、松永高等小学校に隣接するということで、明治30年頃高須屋麻生氏から買得した物)
台帳(明治26年の墓籍簿)に記載された事項を墓石で確認して見た。
石井四郎三郎の次男台造と友三郎長女秀子のお墓
塩浜稼(人)粟村仁助、浜旦那=製塩業石井保次郎(通称「下の浜」)
客船業者平櫛吉太郎墓
松永銀行・松永製薬所・松永賃貸株式会社など取締役を務めるなど地方の実業家として活躍した石井保次郎の墓。字柳ノ内の南端部の宅地・農地を一円的に保有した家主・地主だった。長和島北端部の松永高女(その前は松永高等小学校)敷地も石井猪之助(東村の「大石井」)・保次郎(その分家の益田屋)の塩田のあったところ。
明治15年当時の囲碁愛好家たちの中に、石井グループ以外で、今津の平櫛吉太郎・三島治平の名前も。
三島は〇官吏(嘱託)として明治19年に田畑地積の丈量作業や田野取帳の整理業務を行っていたようだ。住所は今津村189番屋敷だが、河本英三郎作成今津村住宅図によると薬師寺山門直前に三島治平屋敷(1319番地)が図示され、いまも子孫が住む。
やや小ぶりな墓石を2基見つけた。夫婦墓(大正9年6月に妻シカが、その半年後に孫娘澄江が死亡、自らはその2年後に71歳で殁)とその横に子供墓が。
過去に関する説明変数を一つ追加・・・・この史料中に治平の妻と孫娘の名前を見つけた。三島家の墓石を見ると基壇は「大島石」、戒名を入れる柱石には上質の「庵治石」。この墓地ではこういう形で異なった材質の石を使った墓石をよく見かける。
墓籍簿分析を進めるうえで今回の発見は一つ入り口にはなろうが、最近は墓じまいは進み、三島治平家の墓地の隣にある三成屋山本家分家(=義人家)の墓石は2022年11月にすべて東京へ。治平家の子孫の墓石はここにはなく、社会的流動性が激しくこの方面からの社会史研究は困難に直面している。