- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

今津ー松永地区航空斜め写真(昭和29年撮影、福山市立今津小学校蔵)

2020年03月25日 | 断想および雑談
令和2年4月より福山市立遺芳丘小学校となる今津小学校蔵今津ー松永地区航空斜め写真(昭和29年撮影)旧今津小学校(今津公民館・今津保育所一帯)西校舎落成記念か東河原の地面に「祝まつなが」の文字が大書されているので松永市制施行の記念とをかねて撮影された航空写真だ。一昔前の今津・松永地区の様子が解る。末広座(松永町字内小代ノ上)見かけ上、上方の白○印はマネキ衣料品店


松永史談会次回例会にてこの斜め写真(A3サイズ=オリジナル画像サイズ)を配付します。
(なお、原板写真同等の、この古写真の高精細コピー版の活用方法を地元の自治連合会長と公民館長に対して口頭で説明の上、提供済み)

承天寺山から今津・高須方面を撮影(昭和30年頃)


矢野光治(昭和29年頃松永町助役)家アルバム中の航空斜め写真
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地租改正時(1870年代)における沼隈郡今津村にあった石井保次郎所有地

2020年03月08日 | 断想および雑談
地租改正時における沼隈郡今津村にあった石井保次郎所有地にはかなり特徴があって字柳ノ内の南西部に一円的に分布した。
こんな感じだ。
場所は西国街道今津宿の東側入り口に位置する吾妻橋(本郷川架橋)の東詰にあった鞆往還と西国街道との分岐点より、鞆往還沿いに南行した松永村(字内小代の上=その北端を区域の形状より「末広町」と通称)境。面積は1.2㌶。字名では(旧沼隈郡今津村)字「柳ノ内」。明治24年に山陽線松永停車場が開業してから石井保次郎(⇒清一)保有地は急速に町場化。「柳ノ内」の地字から大正期~昭和初期にかけて道路沿いの町場は「柳町」(通称)と呼ばれるちょっとした商店街へと発展(その一角に分家の金益家が立地)。一歩路地に入ると借家などが建ち並ぶそんな区域全体が保次郎の土地だった。千間悪水沿いの通路(「止まれ表示」の下に暗渠化された幅2㍍の千間悪水の水路)と鞆往還との交差点には昭和30年頃マネキというこの地区ではけっこうお洒落な衣料品店が立地し、その3階建ての建物は現存


下に表示した『松永村古図』(元禄検地帳と文化文政期の地並帖作成時の地番情報を書き込んだ、文化文政期の松永村地並絵図)上に図示した石井保次郎屋敷とその周辺環境。塩田については満井石井家系統の場合、宗家・満井石井家が松永地区では長和島(明治期に入り高等小学校ー高等女学校用地、一角に繁野屋から英三郎・次男坊たる養子石井節造系の分家が現存)・神島に、益田屋(山波村熊丸家から養子を迎え満井石井家より江戸後期に分家)の分家金益屋の塩田は神島(現在JA松永一帯)、そして益田屋自体のそれは「下(した)の浜」(今津島、この塩田は元来は宗家を継いだ猪之助名義だったもの)等にあった。


旧今津村字柳ノ内の南部一帯は松永市長になった益田屋当主によっていち早く区画整理が実施されている。これは都市政策面では松永市における西町方面での市街地拡大を前進させた。
この点は旧松永市駅前地区(ここは今津村分では旧藤江岡本山路家ゆかりの土地や黒金屋藤井家そして神村分では旧入江屋石井一族によって占有され区域であり、そういう事情もあって大正ー昭和前半期は藤井氏が大正町通り・日の出通り商店街を中心に私的に整備開発)の場合の市街地整備の有り様とは事情が異なっていた。朝日町・日の出町・大正町通り筋によって構成されたこの駅前地区繁華街について若干付言しておくと、昭和30年頃より土地の所有権がかつての自営業を営むテナント達によって買取られていったが、今では複雑な地権者問題も重なって都市再開発がもっとも望まれる地域の一つとなっている。
出典:戦前期広島県資産家に関する基礎資料(1) <資料>広大経済学論叢34-2.2010
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高橋淡水の郷土意識

2020年02月14日 | 断想および雑談
大正3年福山学生会雑誌(編集責任者は葛原シゲル)が会員に郷土自慢アンケートを募集したときの記事を掲載していた。その中の高橋淡水からのものがあった。
それがこちら

その前後に原稿の到着順のようだが高橋のつぎに山本瀧之助・村上純一郎(沼隈郡田島村出身のむらかみ君,旧制尾道商業⇒東京高等商業卒、三菱銀行、高島平三郎・長女百合子の婿)・井上角五郎(福澤諭吉門下の出世頭の一人)と続いている。
これを見て感じたことだが、近世史研究家でもあった高橋(史伝作家)、郷土松永については無駄口を叩くことなく旧跡と名勝:本庄重政を助けた郷侍島屋村上(尚政)、自宅跡に創建された本庄神社と本庄氏の菩提寺・承天寺遺芳湾湾頭の磯馴松/一本松(下図のαヵ)と簡潔。

著書の『旅行文学』(明治38年刊)では松永については名物の「焼塩」と薇松泉会を主宰した文化人・高橋圭介を紹介しただけだったのでそういう御仁だったのだろ。文章は一昔前の「候」文。
山本瀧之助は地元と全国各地とを往復する精力的な青年教育活動の中で、バラエティに富んだ地元の話題を紹介。なかなかの情報通ぶり。


高橋淡水に関する情報が福山学生会雑誌から入手できたことが昨日今日では最大の収穫。明日は淡水「本庄重政に就て」の後編の資料取り予定(⇒完了)。前編はこちら。淡水には『偉人と言行』、明治43という著書があり、この中で陽明学派(中江藤樹・熊沢蕃山や佐藤一斎)、古学派(山鹿素行)、朱子学派(貝原益軒)の生涯を小伝記という形式で紹介している位の御仁なので、この人の本庄重政著『自白法鑑』理解には少しく注目してみよう。

参考までにこのときの福原麟太郎(ペンネーム:麟生)の返答文











廣田精一は廣田理太郎の弟

メモ:高橋淡水は『旅行文学』の中で河田羆に学んだと記述。

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続・融道玄(1872-1918)

2019年08月09日 | 断想および雑談

参考メモ 融道玄に関しては融道男『祖父 融道玄の生涯』、2003.融ら明治期における古義真言僧侶としての宗教史的な評価は阿部貴子「真言僧侶たちの近代ー明治末期の『新仏教』と『六大新報』から」、現代密教23号、平成24,303-325頁。 思想的には融道玄は海外宗教学の紹介に終わった密教僧侶だが、その底流にはscience(唯物)-art(唯心)を論理化する途中で融自身行き詰ったからだと思う。あえて誤解を恐れずに言えばそれをうまく彼一流のレトリックでインテリたちを納得させてしまったのが物/心、水/油、主/客とかといった価値軸上で相反する両極に位置付けられるようなものを統合することを試みた西田幾多郎『善の研究』ではなかったか。 関連紹介記事(執筆中) 融道玄の東京帝大哲学専攻の先輩に心霊研究で東京帝大を追放された福来友吉(1869-1952)がいた。同年代(融は1872年、姉崎は73年生まれ)の宗教学者姉崎 正治とは第三高等中学-東京帝大哲学科と同じコースを歩む。 融道玄は哲学者(典型的な明治-大正期の御用学者)井上哲次郎門下(だが、明治30年に東京帝大に迎えられる融より5歳ほど年上の高楠順次郎に原始仏教研究面で薫陶をうけていたようだが、高楠自身からは美術史家のような職に就いたらどうかと言われ、誇り高き融は大いに憤慨)。梵語に造詣の深かった高楠(明治34年開講の梵語学講座では印度古文献=原典主義を推進)から見ればせいぜい英語・ドイツ語あたりでインドの原始仏教を研究していたに過ぎない融道玄などやはりどうしようもなくまどろっこしくとるにたらいない存在に感じられたのではあるまいか。 融は井上円了の哲学館(東洋大学)を媒介として、境野哲、渡辺海旭、加藤玄智、田中治六、安藤弘、高嶋米峰、杉村縦横とつながっていた。彼は高野山に妻帯肉食を持ち込んだ紛れもない”破戒僧”だったが同時に当時の停滞した日本仏教に対する改革運動の有力な推進者の一人でもあった。 『祖父 融道玄の生涯』というのを公立図書館に寄贈したが、送り主からは書評を求められている。


融道玄の両親:小田銀八夫婦墓(福山藩の郡方同心,小田家は芦品郡有地村出身)小田銀八の名前は福山藩による蝦夷地探査に携わった役人の中にも認められる。山林奉行を務めたので蝦夷地探査に行かされたのだろう。能吏だった。小田家は確か吉備津神社の大祝(おおほうり)家の家筋だったと思う。もしかするとこの一統は中世備後国衙の在庁官人系の由緒ある家筋だったのかもと推認されるが、この辺は要確認だ。融道玄の兄貴が誠之館教師小田勝太郎。


「旧福山藩学生会雑誌」、明治33年に掲載された融道玄の小論文・・・進化論という当時としてはハイカラな言葉を繰り返し使いつつ、社会の発展に貢献することを通じて自己を磨いていく事の意義を論じたものだが、進化論に対する深い掘り下げはなく、中身は意想外に凡庸だ。

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武者小路実篤『思い出の人々』(repost)

2019年08月08日 | 断想および雑談
武者小路実篤『思い出の人々』、講談社現代新書65、昭和41
November 07 [Mon], 2016, 16:05
尊敬する人々の中に、高島平三郎・徳富蘆花・三宅雪嶺が挙げられている。
武者小路は高島には興味はなかったが、兄貴の影響で強制的に高島邸で開催された「楽之会」に15,6歳ごろから作家としての駆け出し時代を通じ10年程度毎回出席していたようだ。



実篤の兄貴公共は終生、学習院初等科一年のクラス担任だった高島の、高弟であることを名誉に感じていたと述懐している。それは公共の弟である武者小路実篤にとってもそうであったはずだ。多少、つむじ曲がりのところがあった弟武者小路実篤は兄貴公共に関して自分との違いをいろいろ挙げているが、東大中退の時もそうだが、兄貴の了解を取り付けるなど母子家庭で6つ年上の姉も3歳の時に失うといった身の上に置かれた実篤は、若いころ、いろんな意味で兄貴の影響下にあった。

実篤はトルストイ一辺倒で高島の思想には興味を感じなかったらしい。とはいえ、「新しき村」運動は楽之会で受けた感化が契機になったと語っている。そういえば洛陽堂はこの当時盛んに「都会と農村」に関して、天野藤男らを動員して田園再生をテーマとした書籍を多数刊行していたなぁ。武者小路自身は「あたらしい村」運動はトルストイや半農生活を送っていた母方の叔父勘解由小路資承(すけこと)の影響から始めたというような印象の文章を『自分の歩いた道』の中に残していたが・・・・。



武者小路実篤『思い出の人々』、講談社現代新書65、昭和41はその後、『作家の自伝7―武者小路実篤―』1994に所収されている。



これらの本(中古品)はアマゾンでも比較的安価に入手できる。武者小路実篤全集・第十五巻を底本とした『作家の自伝7―武者小路実篤―』の方は武者小路の年譜・編集者による解説付で便利。


「楽之会」の言葉の由来は論語の『子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者』(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず)からきていることに言及にこの年になってその意味が解るようになったと書いている。

意味
あることを理解している人は知識があるけれど、そのことを好きな人にはかなわない。あることを好きな人は、それを楽しんでいる人に及ばないものである。

武者小路の意識の中には高島平三郎からの教えを自らの中では欠落した実の父親に関する記憶&実父からの教えにも匹敵するものとして享受しようとするものがあったのでは・・・・。

①高島が信用できる人を呼んで講演させた
②(自分は)高島さんに敬意を感じている。
③好之者不如楽之者の境地に入ることの本当さ(武者小路にとっては本物・本当というのは最大限の賛辞)を老いてますます感じている。
これらの武者小路の言葉からも高島に対する尊敬の念がいかに大きかったかが判ろう。武者小路の漱石や露伴に対する感情と高島に対するそれとはまるで質が異なる。武者小路という生命体に大きな感化を与えたのは高島だった。
『思い出の人々』は昭和41年、実篤81歳時の作品であり、わたしには人生の晩秋に語られたその述懐には大きな質量(=真実味)が感じられる。

新しい村をはじめ僕の家で「村の会」を開いたのは高島邸で開催された楽之会の影響。そういう意味でも高島さんの僕への影響は無視できないとも書いている。
なお、河本亀之助に関しては楽之会で同席した洛陽堂主人に雑誌白樺の出版を頼んだという下りで触れられるだけだった。河本亀之助に関しては『作家の自伝7 武者小路実篤』所収の「自分の歩んだ道」においては”はげ頭の人の好い洛陽堂の主人はいまも懐かしく思い出す”という形で紹介されている(36-38頁)。雑誌白樺が洛陽堂刊として出版されるようになって予想外に売れたのは河本の営業努力(新聞記者に出版情報を流したこと)の賜物だと武者小路は少しく感じていたか・・・。

武者小路実篤の人柄(心配性タイプの無頼漢)がよくわかる一文

今回取り上げた話題に関する詳細は他日を期したい。武者小路とか志賀直哉の自伝に興味あるかって?
こういう作家連中の人格・人間性に関してもともと興味がない。
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新涯開発百年史』の中の書き込み考ー解釈の快楽ー September 28 [Fri], 2012, 21:42 (repost)

2019年08月08日 | 断想および雑談
藤井正夫『新涯開発百年史』、1967という本を東京・本郷の古書店で入手した。

この本は序文によると「福山市新涯町開墾百年祭を記念して、発展の歴史を回顧しながら、これらの思い出や、物語、または歌や踊りや行事、さては暮らしのしきたりなどを収録して、『郷土百年の歩み』」を広大福山分校の藤井らがまとめたもの(本書1頁)。

わたしが購入した古書には、何カ所かにボールペンによる破線が引かれている代物だった。以下、線引きのある頁とその個所をすべて列挙してみよう。


6頁ー 山田家所蔵の「新涯村取設原由御届」
   川口村庄屋山田本三郎
7-川口村庄屋山田本三郎は御用達席
9-川口村山田本三郎
   川口村 山田熊太郎
12-脚注
   2)山田家所蔵文書による
   7,8,9)山田家所蔵、明治3年田地売払諸記録
23-図表B)熊治郎
25-山田本三郎が13町歩
    第七表 山田本三郎
27-山田本三郎、山田熊太郎、山田本三郎に従って
39-脚注)山田家所蔵
41-上納書上責任者は庄屋山田本三郎
    山田本三郎・山田熊太郎
42-川口村・山田本三郎(13町56畝27歩)
44-田地名寄御売払代銀上納書上帳、川口町山田家所蔵
56-(明治31年史料) 証、、山田熙殿、奉公人受状之事
65-川口村の多木家の記録
69-同じ川口村山田家の明治30年奉公人請状


79-明治29年山田熙が初めて試みたと言われ、山田はその他乳牛・錦鯉・家鴨・豚の先覚者的導入をはかって多   大な影響を与えた。山田はまた昭和3年にはアメリカから直接鶏の種卵を取り入れ、岡本吉太郎・高橋源一郎   などと企業的な養鶏を試みている。山田自身の農業経営が成功したとは決していえないけれども、すぐれた先   覚者として地域に大きな影響を与え

断っておくが、資料編(206-300頁)、年表(302-313頁)などには線引きはなし。

さてどんなご仁がこの本に線を引いたのだろか。

赤鉛筆とかボールペンとか使って線を引いている場合、前者は学習段階に、ボールペンは?
この本を消耗品として考え、普通は付箋の添付で済ませるところだが、ボールペンを使って論文でも書いているさなかに手っ取り早く同じ筆記用具を用い目印の線を引いたというところだろうか。それにしても訂正の効かないボールペンを使うなんて、無神経と言うか・・・・。蔵書印が不在だが、脚注の史料名にも配慮しているのでその人物は、やはり何らかの研究者かな~。

いやいや、線引き箇所が川口村庄屋で新涯村に13町歩以上の土地を有した山田家関係にほぼ限定され、新涯村全般への関心や併記されている他者への関心(たとえば6頁の「米掛りは、川口村庄屋山田本三郎、多治米村庄屋猪原保平」、の箇所では下線部だけ破線が引かれ、同じ米掛りとなった多治米村庄屋猪原保平はマークされていない)が全く希薄なので、自分、あるいは自己のルーツ探しを兼ねた、山田家の子孫(身内)の可能性もある。その可能性の方が大きいかな?!

まあ、どこまでも、何の根拠もない、詮索好きの、わたしの勝手な解釈だ(笑)。
解釈と言うのは、自己認識(自分はそう思うという水準の話)・自己了解のことを差す。この場合、現実にボールペンで破線を引いた人物はわたし自身ではない。わたしとその人物との認識(経験・思考様式)の地平が近似しているとは限らないので、所詮わたしの解釈(『新涯開発百年史』の書き込みを取り上げた遊び半分の解釈)は、そうであるかも知れないし、そうでないかもしれないといった可能性(蓋然性)レベルの話に留まるのだ。わたしと彼とが同じ「知の地平」を共有しているとか、患者(犯罪者)と医者(名探偵)といった関係にある場合には蓋然性は限りなく高くなるだろうが・・・・
「過去」とか「未来」といった象限のモノ・ゴトは概ねその種の解釈の快楽の対象にされるのだが、その解釈の中身は当該の関係性の中で、例えばこの大本営のいうことと狼少年のいうこととの間では信ぴょう性に差が生じてくる訳だ。

参考までに目次を紹介しておこう(省略)。



この古書には残念ながら正誤表がなかった。

正誤表の中身は本書329-342頁部分にある新涯町各家の出身地、入植年次(「入村者名簿」)。正誤表では悉皆的に住人すべての宗派・旦那寺名が付記されたものに差し替えられている。

たとえば五十川義一 深安郡大津野村野々浜、明治元年→、五十川義一 真言宗・大門 円寂寺、深安郡大津野村野々浜、明治元年


本書は巻末に「新涯町の発展を担う人々」として町内27組の各世帯の代表者の集合写真が悉皆的に掲載されているが、マルクスーエンゲルス型社会経済史が専門の歴史家が中心となって執筆した関係で「発展の歴史を回顧しながら、これらの思い出や、物語、または歌や踊りや行事、さては暮らしのしきたりなど」を収録を目指した割には社会文化面での記述が乏しく、地域史としては残念な面が目立つ。マルクスエンゲルス的な経済分析は居住者間の支配従属関係とその中での支配する者(または支配される)の側の動向(対立関係)を浮き彫りにするには向いているが、巻末で写真紹介された「新涯町の発展を担った(普通の・・・筆者加筆)人々」やその祖先たちのことは割愛(省略)されたり、概ね沈黙させられてしまいがちだ。
福山市新涯町は幕末期の福山藩の財政再建策の一環として行われた干潟の干拓事業の結果出現したところで、現在は特産物のクワイ等で知られる福山市南部を代表する生産緑地だ。

最後に差し替え部分(入村者名簿)をすべてご紹介しておこう。この史料はこの地方における新涯入植者の出自の傾向を推定(数理解析)する時の、一つの参考資料になりうるだろうと思う。
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あの井上通泰が柳田国男の兄貴だったとは

2019年08月05日 | 断想および雑談

                        


 



 


柳田国男の著作集は最近更新された。その最新版に別巻1(2019年3月刊)としてこの年譜が入っている。



私の調査旅行経験に照らしあわせて、日本民俗学(Ethnology)の父と呼ばれる大学者柳田国男の行動力のすさまじさには脱帽だ。飛騨では「山窩」の件に関しヒアリング。この辺り(岐阜県郡上八幡、白鳥を経由して石徹白/いとしろの大師堂(岐阜県郡上市白鳥町石徹白祠山 4(中在所))までの郡上街道)を私自身何度か訪れたことがあるのだが、この件(既知の事柄でもあった三角寛のサンカ研究)に関して柳田にその端緒があったことはうかつにもいままで不知だった。明治44年段階の話だが、この段階にすでに京都帝大のばりばりの研究者たちと交流をもっている。柳田を郷土研究(農学者新渡戸稲造が中心となって発足)を介して当初よりアカデミズムの中枢部において浸透を図ろうとしていたことが判る。


 



 


「農村経済と村是」は定本柳田国男集(第十六巻、1-160㌻)に「時代ト農政」に改題の上、所収明治41年に村田露月は沼隈郡書記に任官。明治44年には地方改良運動の郡側の受け皿:先憂会を立ち上げ雑誌「まこと」を創刊


 


 


 


東京帝大卒の医学博士井上通泰の著書『播磨風土記新考』、『万葉集新考』、『上代歴史地理新考』を若い頃何度かひもといてみたことがある。江戸時代の国学の学風を継承していた方であり、その当時のわたしは海外からの新着文献のチェックが日課でこちらのほうは古めかしすぎて活字を追うのもやや苦痛を感じたくらいだ。必要に迫られ森田節斎と武井節庵の勉強をしたことだし今後は井上の著書にも触れる機会を作ってこの香川景樹の傾倒者の誠に古めかしい著書を一度精読しなおしてみたいものだ。香川景樹の弟子といえば近世後期における町医者で松永村きっての文化人だった高橋景張(賴山陽が今津宿滞在時は今津薬師寺で漢詩の会を催し、宿泊は高橋屋敷で)がそうだった。 明治40年5月、柳田国男は兄貴井上通泰の話(「蕃山先生考」)を聞きに帝国教育会主催の報徳講演会に出席


 



 


 柳田国男の研究はソシュールの『一般言語学講義』中の語を使えば、生活者から得た情報を雑誌論文という形で柳田国男が「通訳」「翻訳」する作業を通じてパロール(Parole)としての個別具体的な形での農民生活誌の書記化を行ったもの。柳田国男の後継者たちが『定本 柳田国男集』全36巻と言う形で提示したのは、いわばその総体としてのパロール全集(いまや柳田民俗学の「経典」的存在)。このパロール全集中から果たして、ランガージュ(language)を共有する「郷土」の人々のラング(langue,「辞書」 として、その社会集団の構成員のほとんどがその意味を理解し普遍的に運用できる言葉=folkloreの体系)を抽象可能なのかどうか。科学というカテゴリーからは外れるが三大編纂物として群書類従・古事類苑・国書総目録というのもある。そうではなく、柳田の意識の中にあった「科学」(scienceといった厳密なものではなく、やや情緒的な科学的と言うくらいの”科学”)というカテゴリーの内側において、もし可能とすればラングというのは一体どのようなものになるのかを今一度考えてみる事も必要だ。なお、周知のごとく後藤総一郎編『柳田国男研究資料集成』(日本民俗学を樹立した柳田国男に関する研究論文・評論・随想・座談会・著作解題・書評など1000篇以上を第I・II期/全22巻で集成)という編纂物がある。 関連記事 例えば伝統の発明ー郷土研究の時代ー写真で見る旧沼隈郡の昭和10年代-村田家資料中の古写真たち-あの井上通泰が柳田国男の兄貴だったとは

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王子権現について

2019年08月05日 | 断想および雑談
「郷土研究」創刊号(大正2年3月15日発行


高木敏雄「郷土研究の本領」を読むつもりでなにげに次の川村杳樹(はるき・・・柳田がつかったペンネームの一つ。ほかに久米長目といった筆名も使用)「巫女考」の論攷を見ていて思い当たるところが2点ほどあった。一つは尾道渋谷家文書(広島県史・古代中世資料編Ⅳ所収)に「神子(みこ)」の語が・・・。石見守は石井石見守だろか、それとも寺岡石見守(この場合は伊勢宮さんの神主)?まあ文書が沼隈郡神村の土地台帳なので、石井石見守だろ。そうだったとすれば、近世の地誌類の中では神村石井家の祖でどこかの城主ということになっているが、明らかに、この人物は沼隈郡神村の荘鎮守八幡宮神主だ。神子は職掌の「みこ」を言い、三郎衛門と五郎衛門(男性)という人物だったことが判る。 次に「巫女考」の中の「今日の王子権現若王子はほとんど熊野の信仰であるが、古くは八幡にも王子の神があった」に注目。沼隈郡内には王子神社とか王太子宮(備後国一宮:吉備津神社境内にも摂社としてあり)という呼称のお宮さんがかなり目立つ。大阪辺りの旧熊野街道(熊野古道)沿いには一里塚のような感じで「王子」というものが沢山あった。この語のルーツを考えるヒントが川村の論考を通じて得られたような気がする。そういえば風俗問状答書からのネタらしいが「備後福山領では毎年6月と11月の13日に神酒燈明を供え赤飯と膾とで御子神の祭りする」とも書いていた。ここにも柳田国男執筆の福山情報




熊野信仰においては少年あるいは少女の姿であらわされる神としての若王子/若一王子が(、地方社会において)熊野権現を勧請する際に、多くの場合この神が祀られるということはあったようだが、川村杳樹こと柳田国男の言う「今日の王子権現若王子はほとんど熊野の信仰であるが、古くは八幡にも王子の神(若宮八幡ー筆者注)があった」については、美味しそうな話題だったが、やはりわたしの姿勢としてはすぐに飛びつかず、今後とも確認作業を進めていくことになろう。


旧沼隈郡東村・大谷の「王子権現」。『沼隈郡誌』には大己貴(おおなむち)神社。近世絵図には王子権現(平の王子権現)。同様の事例は高須町阿草の王子社で祭神は大己貴(おおなむち)神、ちなみに高須町大山田の大己貴社の祭神は大己貴神&スクナヒコ神で、通称「瘡/かさ神」。



 なお沼隈郡今津村には町上荒神の東隣に伝承上の「若宮」(これとの関係は不明だが地名「若宮畠」)、字「王子丸」に王子社(現在高諸神社境内摂社)があった。


 

『沼隈郡誌』には山手村・郷分村・瀬戸村・金江村(皇子神社)、浦崎村(無記載だが、高尾に王太子神社、検地帳上は字「わうたいし」)、山南村(皇子神社)、柳津村(無記載だが実在)に王子神社とある。現段階では『元禄13年備後国検地帳』は一部をのぞき、その他は未チェックだが、『備後郡村誌』(沼隈郡分)には藁江の王太子(皇子神社は未記載)、田島及び下山田の王子大明神という形で記載。尾道市向島(旧御調郡)には王太子社あり。


わたしは柳田国男の郷土研究をチェックするためにその復刻版の創刊号を読みだしたところだが、東京高等師範などで教鞭を執ったドイツ語教師高木が執筆した「郷土研究の本領」よりも川村の「巫女考」の方が興味深かった。高木は人類学の父フレーザーの名前をあげていた。こちらは後刻、目を通すことにしよう。まあ、たいしたことは書いていなかったように思う。

 

投稿原稿は潤色をさけ、民話・伝承はその地方の方言でと注文をつけている。
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融道玄(1872-1918)

2019年08月05日 | 断想および雑談

融道玄


April 05 [Fri], 2019, 13:19

参考メモ 融道玄に関しては融道男『祖父 融道玄の生涯』、2003.融ら明治期における古義真言僧侶としての宗教史的な評価は阿部貴子「真言僧侶たちの近代ー明治末期の『新仏教』と『六大新報』から」、現代密教23号、平成24,303-325頁。 思想的には融道玄は海外宗教学の紹介に終わった密教僧侶だが、その底流にはscience(唯物)-art(唯心)を論理化する途中で融自身行き詰ったからだと思う。あえて誤解を恐れずに言えばそれをうまく彼一流のレトリックでインテリたちを納得させてしまったのが物/心、水/油、主/客とかといった価値軸上で相反する両極に位置付けられるようなものを統合することを試みた西田幾多郎『善の研究』ではなかったか。 関連紹介記事(執筆中) 融道玄の東京帝大哲学専攻の先輩に心霊研究で東京帝大を追放された福来友吉(1869-1952)がいた。同年代(融は1872年、姉崎は73年生まれ)の宗教学者姉崎 正治とは第三高等中学-東京帝大哲学科と同じコースを歩む。姉崎(高島平三郎と懇意)とよりも朝永三十郎(ノーベル賞受賞の物理学者朝永振一郎の親父)とは昵懇だったようだ。 融道玄は哲学者(東京帝大文科に籍を置いた典型的な明治-大正期の御用学者)井上哲次郎門下(だが、明治30年に東京帝大に迎えられる融より5歳ほど年上の高楠順次郎に原始仏教研究面で薫陶をうけていたようだが、高楠自身からは美術史家のような職に就いたらどうかと言われ、誇り高き融は大いに憤慨)。梵語に造詣の深かった高楠(明治34年開講の梵語学講座では印度古文献=原典主義を推進)から見ればせいぜい英語・ドイツ語あたりでインドの原始仏教を研究していたに過ぎない融道玄などやはりどうしようもなくまどろっこしくとるにたらいない存在に感じられたのではあるまいか。 融は井上円了の哲学館(東洋大学)を媒介として、境野哲、渡辺海旭、加藤玄智、田中治六、安藤弘、高嶋米峰、杉村縦横とつながっていた。彼は高野山に妻帯肉食を持ち込んだ紛れもない”破戒僧”だったが同時に当時の停滞した日本仏教に対する改革運動の有力な推進者の一人でもあった。 『祖父 融道玄の生涯』というのを公立図書館に寄贈したが、送り主からは書評を求められている。わたしは仏教史の専門家ではないのでその辺は丁重にお断りし、代わりに当該書籍を福山中央図書館に寄贈しておいた。


 

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「近代日本における知識人宗教運動の言説空間 ―『新佛教』の思想史・文化史的研究」 The Discursive Space of an Intellectual Religious Movement in Modern Japan : a Study of the "Shin Bukkyo" Journal from the viewpoint of the History of Culture and Thought 科学研究費補助金基盤研究B 研究課題番号 20320016 2008 年度~2011 年度 代表:吉永進一(舞鶴工業高等専門学校)
 

◎融 道玄(とおる どうげん) 生没年 未詳 (1)略歴 広島県福山の生まれ。真言宗僧侶。高野山大学教授。生年・家族構成共に不詳であるが、高島平三郎と同郷であり、かつ融の実家は高島の家の「すぐ向ふ側」にあったという。融の実母が高島家に世話になっていたとしているので、父小田銀八(福山藩の下級藩士だったが、同名の親父は山林奉行、阿部正弘の時代は関藤籐陰らと蝦夷調査に派遣されるなどの、典型的な能吏)を早くに亡くしている可能性がある(「他人の疝気」4-11)。 1883(明治16)年から84(明治17)年にかけて備中の寺にいたとあるが、詳細は不明。しかし融の師僧である葦原寂照(1833~1913)が岡山県出身であり、岡山では東雲院や性徳院にあったという(『密教大辞典』)。 1888(明治21)年に第三高等中学校に入学する。当初は宗像逸郎の家に寄宿していたが、その後中沼清蔵の家に移ったという。中沼家には有馬祐政も寄宿していたと回顧している(「山のたより」13-3)。 1894(明治27)年に東京の誠之舎という旧福山藩人の寄宿舎に入り、1895(明治28)年に東京帝国大学文科哲学科に入学。1896(明治29)年頃には本郷台町の北辰館に下宿しており、北辰館では三島簸川と同室であった。またこの頃から釈尾旭邦と交友があったという(「一日一信」8-9)。1898(明治31)年に同大学を卒業。同窓生に朝永三十郎、近角常観、吉田静致らがおり、朝永とは手紙のやり取りを続けていたようである(「一日一信」8-9)。同年、 同大学院に進み「密教ノ教理及其発達」という研究題目で1903(明治36)年まで在籍。 仏教清徒同志会の設立に際して創設者の一人であるが、当時の活動については明らかではない。『新佛教』上には宗教・宗教学に関する論説を多く翻訳しており、この時期にケアードの『宗教進化論』を訳出している。 1909(明治42)年末に、融が高野山大学の教授兼教務主任として現地に赴くことになったことを受けて送別会が行われているが、既に1905(明治38)年頃に高野山の大学林に関係しているような文章がある(「南山の一月」6-2)。なお送別会には同志会の中心的な人物の多くが参加しており、融の同志会における交友関係が窺われる。 送別会の段階で融には既に妻子があったようであるが、1912(明治45)年頃に高野山中の準別格本山自性院にて一家五人で暮らしていると述べている(「山のたより」13-3)。 1913(大正2)年2 月に融の師僧である葦原寂照が死去。葦原が京都高尾山神護寺の住職であったため、融は神護寺の住職となるべく京都に向かったという(「人、事、物」14-4)。 後、同年7 月には藤井瑞枝(=妙頑禅尼)を高野山で案内しており、その際に藤井は融のことを高野山新派の驍将であるとしている(妙頑禅尼「高野山奥の院と融先生」14-9)。なお、この藤井の紀行記において、東寺の総黌(現、種智院大学)に高野山大学を合併するという動きがあることが述べられているが、おそらく藤井の訪高野山後に融はこの問題に関連して文部省に陳情している(「人、事、物」14-8)。 その後の消息は不明であるが、1917 年の『現代仏教家人名辞典』に神護寺の住職を勤めていること、権小僧都であることが述べられており、かつ高野山大学教授として高名であるとされている。 (2)年譜 未詳 広島県、福山に生まれる。生年・家族構成共に不詳。 1883-4 この頃備中の寺(未詳)にいたという。 1888 第三高等中学校に入学。在学時にはまず宗像逸郎の家に寄宿し、その後中沼清蔵の家に移ったという。 1894 「東京丸山の阿部伯爵の前にある誠之舎と云ふ旧福山藩人の寄宿舎に入った」という。 1895 東京帝国大学文科哲学科入学。 1896 この頃本郷台町の北辰館に下宿し、三島簸川と同室であったという。 1898 東京帝国大学文科哲学科卒業、東京帝国大学大学院進学。研究テーマ「密教ノ教理及其発達」。 1903 東京帝国大学大学院に在学していた最終年度(翌年は名簿に名前がない)。 1905 この頃、高野山に滞在して学林に関係していたようであり、日露戦争戦勝祝賀の式を高野山小田原天神で挙げたという(「南山の一月」6-2)。 1909 高野山大学に教授兼教務主任として招かれ、現地に赴くことになる。12 月9 日に神田で送別会が行われ、同志会の主要な人物が集まった(「融道玄君送別会の記」11-1)。 1912 この頃、高野山中にある準別格本山自性院にて一家五人で暮らしているとのこと(「山のたより」13-3)。 1913 2 月19 日に師僧である葦原寂照が死去。これを受けて葦原が住職であった京都高尾山神護寺の住職になるべく高野山から京都に向かう(「人、事、物」14-4)。 7 月に藤井瑞枝(=妙頑禅尼)が高野山を訪れ、融はこれを案内(「私信の公開」14-8、妙頑禅尼「高野山奥の院と融先生」14-9)。 その後(7 月から8 月にかけての頃)上京して文部省に高野山大学問題について陳情(「人、事、物」14-8)。 その後の消息は未詳。 (3)著作 訳書としてエドワード・ケヤード著、融道玄訳『宗教進化論』(帝国百科全書、第128 編)

博文館、1905 がある(原本、Caird, Edward The Evolution of Religion, 1894)がある。

また河南休男、越山頼治との共著で『註解英文和訳辞典』東華堂、1909 年を出している。(4)『新佛教』との関係 仏教清徒同志会の創設者の一人。融道玄、(融)皈一/帰一、(融)希山、(融)友世といった筆名で『新佛教』には70 本近くの寄稿をなしているが、やはり高野山に移った1910 年以降は寄稿が少なくなり廃刊号にも寄稿がない。 寄稿の多くは宗教学に関する論説の翻訳であり、宗教学に強い関心を持っていたことが窺われる。その集大成的なものとして11-1 に融道玄編述『宗教学』という全79 頁の冊子が附録として付けられている。これは融が編述したものであるが、冒頭でチーレ『宗教学綱要』(Tiele, Cornelis Petrus Elements of the science of religion, 2 vols. 1897-1899)、ジャストロウ『宗教研究』(Jastrow, Morris The study of religion, 1901)、プライデレル『宗教哲学』(Pfleiderer, Otto The Philosophy of Religion, 4 vols. 1886-1888)、ケヤード『宗教進化論』(前掲)、マックス・ミュラーの著作などを参考にしたとあり、当時の宗教学受容の一端を見て取る事ができるだろう。 融自身の著述としては、例えば2-5 の六綱領の解説では「迷信の勦絶」を担当しており、「平安時代の日本人は、加持や祈祷をよろこんでをッた。吾々にはこんなことでは満足ができぬ」としている。融が真言宗の僧侶であり、かつ後に高野山に招かれるように宗門との関係を保ち続けていくことを考え合わせると興味深い。 その一方で、「原始仏教と新仏教」(6-7)では『新佛教』で論じられている汎神論を「頗る自由なる進化論的汎神観」であると指摘した上で、しかしそれに基づいた「健全なる信仰」が「果して仏教なるや否やに疑なき能はず」として根本的な疑義を呈しており、同人の間での見解の違いが明らかになっている。 (5)関連事項藤井瑞枝は高野山の紀行文において、融の見かけが高野山の阿闍梨風であるとしながら「これがどうして野山で公然たる肉食妻帯を主張された青年文学士であるなどと思へよう!?」としており(14-9)、かつてそのような主張を公にしたことが窺われる。 また関樸堂は融と田中治六の名を挙げて両者共に学究肌で真面目であると評している(「人物漫評(一)」7-11)。 (6)参考文献 『シリーズ日本の宗教学(4)宗教学の形成過程』クレス出版、2006 年(訳書の『宗教進化論』 所収) 東京帝国大学編『東京帝国大学卒業生氏名録』東京帝国大学、1926 年 『現代仏教家人名辞典』現代佛教家人名辭典刊行會、1917 写真が「新仏教編集員」写真(『新佛教』5-1)内にある。(星野靖二)  以上は全文引用(261-263頁) 同年代(融は1872年、姉崎は73年生まれ)の宗教学者姉崎 正治とは第三高等中学-東京帝大哲学科と同じコースを歩む。 融道玄は井上哲次郎門下(だが、明治30年に東京帝大に迎えられる高楠順次郎の薫陶をうけていたのだろか)。 融は井上円了の哲学館(東洋大学)を媒介として、境野哲、渡辺海旭、加藤玄智、田中治六、安藤弘、高嶋米峰、杉村縦横とつながっていた。後年高楠や高島平三郎は東洋大学の学長を務めた。阿部貴子「真言僧侶たちの近代ー明治末期の『新仏教』と『六大新報』から、現代密教23号、明治維新前後の廃仏毀釈により衰弱していた仏教者の意識を鼓舞し、仏教の近代化に邁進したものとして、大谷派の境野黄洋、本願寺派の高島米峰、浄土宗の渡辺海旭らによって明治三十二年に結成された「新仏教徒同志会」がある。その活動は吉田久一や柏原祐泉といった近代仏教研究者により論究され、綱要である「健全なる信仰・社会改善・自由討究・迷信勦断・旧来的制度儀式否定・政治権力からの独立」の六カ条は、今日でも明治仏教の特徴として語られている。 なかでも同会が特に強く主張したのは、非科学的迷信と利己的欲望に基づく「祈祷」の否定であったが、その「祈祷儀礼の排斥」運動が仏教界全体の主流だったわけではない。少なくとも古義・新義の真言僧侶が、都会で開催される演説会の議論に大きな影響を受けることはなかったと言ってよい。明治期の真言宗は、明治五年の一宗一管長制、明治十一年の分離独立(西部大教院・真言宗・新義派)、明治十二年の再統合、明治三十三年の分離独立(御室・高野・醍醐・大覚寺・智山・豊山)、明治四十年の四宗独立(東寺・山階・小野、泉涌寺)に直面し、これに拘わる内部論争で紛糾していたという事情が大きいだろう ) 1 ( 。しかし、一部の若き真言僧侶―毛利柴庵、融道玄、古川流泉、和田性海、小林雨峰―が、宗団権力と離れたところで、「新仏教徒同志会」として活動していたことは注目すべきである。社会主義者で後に僧籍を剥奪された毛利柴庵以外に、学界で彼らの名前が挙がることは少ないが、いずれも明治三十三年七月に発刊された同会の会報誌『新仏教』において大きな役割を担っていた。 そのうち、融道玄、古川流泉、和田性海は、古義真言宗系の会報誌『六大新報』を創刊して学者や布教師として活動し、豊山派の小林雨峰は『加持世界』を創刊する。」 「○融道玄(皈一、帰一、希山) 融道玄は、これまで近代仏教研究者にほとんど注目されてこなかった。生没不詳であるが、明治三十八年にエドワード・ケヤード『宗教進化論』の翻訳を出版し、明治四十四年より高野山大学の教授となった人物である。「新仏教徒同志会」の評議員として活躍し、『新仏教』創刊号(明治三十三年七月)の「所謂根本義」では、輪廻転生や厭世観を排して中道に徹するべきであると示す ) 4 ( 。また、翌年の「迷信の勦絶」では、「宗教の心髄は、理想を渇仰し発現するにありといってよい。…平安時代の日本人は加持や祈祷をよろこんでをッた、当時の性情には、これでもよかッたのである。吾々にはこんなことでは満足ができぬ。時代の精神といふものがあッて、時代に相応する理想を立てさしてをる…彼等を導いて吾々と同様に時代相応の理想を立てさせようといふのが、迷信勦絶の真意である。」と、迷信祈祷の排斥という新仏教運動の綱要を説明している。 ) 5 ( しかし『新仏教』誌上では、最初期にこそ自らの主義を唱えるものの、その後は西洋の宗教哲学や神秘思想の紹介に徹しており、後述するように、一貫してこの姿勢を保持したわけではなかった。」 tek_tekメモ:「西洋の宗教哲学や神秘思想の紹介」という部分だが、高野山には元東大助教授福来友吉が[物理的検証といった方法論を放棄し、禅の研究など、オカルト的精神研究を行なった。1921年(大正10年)、真言宗立宣真高等女学校長、1926年(大正15年)から1940年(昭和15年)まで高野山大学教授。]


融道男(道玄の長男で医師の紀一の子:精神科医で国立大学医学部名誉教授) 著 『祖父 融道玄の生涯』 勁草書房 平成25年。 この本は書店購入は出来ず、創造印刷 白井担当、TEL 042-485-4466(代)より購入可能だ(¥3000)・・・・実際に読んでみたが、道玄の著書(英語辞書や翻訳書など)や主な投稿雑誌の抄録など掲載するなど貴重な内容を含んでいるが史料としては”融道玄日記”など翻刻されていないなどやや残念な部分が目立つ。本書が融道玄研究の出発点となることを願う。 わたし? ①融と高島平三郎との関係、②融の父祖;福山藩士小田(おだ)家のルーツが芦品郡有地・字迫出身の迫氏で、本姓は小田(『備陽6郡誌』外篇・芦田郡之2・小田家系、『備後叢書・1』、536-39頁)と言う点、そして③融が新仏教運動に参加した当初の思想を曲げて加持祈祷を肯定するようになった経緯:福来の高野山大学への招へいが何か影響していたか否か、以上3点には興味があるが・・・・・・雑誌「新仏教」CDーROM版 下有地の小田氏に関しては『備陽6郡誌・外篇 芦品郡の2』(備後叢書1、536-538頁に系図を掲載)

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病める国を憂いてこれを医せんとするものは

2019年08月03日 | 断想および雑談

雑誌「広島医学」10-7(1957-7)に「永井潜先生を憶ふ」という特集が組まれている。その中に「利を求めて病を追わざる者は下医、病を究めてこれと闘うものは中医、病める人を知ってこれを癒さんとするものは上医、病める国を憂いてこれを医せんとするものは大医」という東京帝大名誉教授永井潜(一八七六-一九五七)の言葉(医道観)を紹介したのが永井の教え子、沼隈郡高須村出身の医師:三島粛三(丸山鶴吉と同年代、関東大震災時に一家被災、ご本人は東京帝大に提出予定の法医学関係の学位論文用のデータなどを失ったことがもう一つの大きなダメージ)だった。

 

 

この言葉のルーツを最近になって知った。 唐代の名医、孫思邈(そんしばく)の著書『千金方』にある「上等の医者は国を治す、中等の医者は人を治す、下等の医者は病気を治す」という言葉がそれだったようだ。

永井は竹原の出身で,幼少期長谷川桜南を慕って,松永浚明館という漢学塾(明治16-18)で勉強していたときに、高島平三郎(写真は明治18年初秋/旧暦7月撮影、椅子に座るむかって左側の男性が永井に出会った当時の高島)と出会い、その才能を惜しんだ高島が、漢学塾をやめて師範学校付属の小学校に行くように説得。その後誠之館⇒第一高等学校(独語)から無試験で東京帝大医科に入学し、生理学教室の第二代目教授になった御仁。ドイツ・優生学の我が国への導入者として戦前の国家主義に魂を売った医者だが、著書には純粋な医学関係よりも哲学関係のもの,今日風にいえば生命倫理学方面のものが多い。終生高島平三郎を恩人として慕った。永井は岡山県井原出身の日本のビール王馬越恭平の甥に当たり、沼隈郡水呑村出身の帝室制度研究の権威で古典籍研究者(東京帝大史料編纂官・教授)だった和田英松の親族。永井の実弟が河相達夫(元外務省事務次官・・外交政策面では大蔵官僚の池田勇人の後塵を拝す。墓地は福山市木ノ庄町仁伍墓地・河相家墓地)。

 

 

永井潜にかんし,江川義雄『広島県医人伝』(第一・第二)、第一巻分の46-47頁に紹介記事

 


最近永井の医学史研究の集大成『哲学より見たる医学発達史』、杏林書院、1950、1033+20頁の大著を入手した。古書店から届いたがまだゆうパックを開封していない。医学史研究では富士川游がとくに有名だが・・・・
町医者で広島県医学史研究家江川義雄(松永町出身)の場合、永井潜にかんし,江川義雄『広島県医人伝』(第一・第二)、第一巻分の46-47頁に紹介記事。
沼隈郡松永村出身の医者江川は富士川游に比べ永井は医学的業績面でこれはというものはないという言い方をしていたが、それはまったく正しい指摘なのだが、私などには、ドイツの優生学を我が国に根付かせようとした永井の精神(geist)には孫思邈の教えに忠実に足らんとしてちょっと力みすぎた印象を禁じ得ない。

大沢謙二述 東大生理学同窓会編『燈影蟲語』、昭和54年4月復刊(初版昭和3年)。

この本では大沢の後継者:永井について永井先生は恩師をまねて毎日乾布摩擦をしていると編集後記で。昭和53年段階には東京大学生理学教室では東条内閣に文部大臣をつとめた実験生理学の権威橋田邦彦の著書の宣伝を掲載。哲学史と生命倫理(優性思想)方面を主として研究した永井はいまの生理学教室では異端児・あだ花視されている対象か。

関連記事・・・後年永井は自身について、帝国大学教授としてその席を汚し、医学者としては堕落した生き方をしたと述懐。そういう心境に到達した時点でこの生理学者は完成されたと思われる。 唐時代の医書『千金方』については平安時代の『政事略記』巻95に登場
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「縄の比喩」のこと

2019年08月03日 | 断想および雑談


ヴィトゲンシュタインの「縄の比喩」とはギアツによれば以下のようなものだ。「縄というものは一本の縦糸端から端まで繋がってその独自性や特異性を定義し何らかの全体をつくっているのではない。重なり合うさまざまな糸が交錯しもつれ合う、一本の糸が終わるあたりに、別の糸が絡み、すべての糸がお互いに緊張を保って複合体をつくりあげ、部分的には途切れても全体的には繋がることになる」。ギアツはそうした糸をほぐし、複合体の複合性、つまり深い多様性を探ることこそ文化の分析が要請されているものだという。


ギアツの言う「縄の比喩」の原文をヴィトゲンシュタインの著書の中で探そうとしたが、いまだに果たせず。


ヴィトゲンシュタインの名言集

⇒「私たちが見ているのは、多くの類似性 ー 大きなものから小さなものまで ー が互いに重なり合い、交差してできあがった複雑な網状組織なのである」は雰囲気的には『縄の比喩』に似ている。

ウィトゲンシュタインにおける言葉の意味と哲学の意義



【メモ】この比喩を使った最初の論攷(1995年福岡アジア文化賞創設5周年記念フォーラムでの講演内容)で、クリフォード・ギアツ(小泉潤二訳)「文化の政治学-分解する世界におけるアジアのアイデンティティ-」、みすず416,1995,2-10㌻(クリフォード・ギアツ、小泉潤二訳編『解釈人類学と反=反相対主義』、みすず書房、2002,44-58㌻に転載)だ。むかし、事のついでに『ヴィトゲンシュタイン全集』の中にちょっと探してはみたのだが、そのときは発見できなかった。小泉はギアツの日本への紹介者として大いなる貢献をした人だ。ただ残念ながら、クリフォード・ギアツ、小泉潤二訳編『解釈人類学と反=反相対主義』、みすず書房、2002に関してだが、英語タイトルはGeertz著”The politics of culture:Asian identities in a splintered world and other essays”,2002という奇妙なものである。講演原稿など所収する形で小泉が「解釈人類学と反=反相対主義」なる独自のタイトル(英語版とはまったく異なるタイトル)のもと編集出版したものだ。本書において惜しまれるのは書名を『解釈人類学と反=反相対主義』とした根拠を説明するような小泉自身による説明が簡単な「注釈」「おわりに」で済まされ、しっかりとした論文解題が付されてはいないところ。Geertz研究者の中から彼を超えるような人は出ないとの印象を振りまいてきたのがまぎれもなく小泉潤二さんだった。

思うに、ギアツとの付き合い方だが、かれは自らの実証研究の至らなかった部分を文化人類学以外の学知(今回の場合は哲学者ウィトゲンシュタイン)を動員して補強しようとした人なので、まず、そうした実証研究中の問題点を洗い出しつつ、誤りを正していくことが先決だ。それが正しいGeertzとの付き合い方。  
ちなみにインドネシア・バリ島のNegara/伝統的小国家(藩国)をTheatre State(「劇場国家」)として措定したGeertzの在り方はビクトリア王朝期における英国(大英帝国)の国政の在り方を論じた.Bagehot(1826-1877)の”The English Constitution”(中公クラシックス『イギリス憲政論』、小松春雄訳)風の切口からインドネシア伝統的小国家Negaraを捉え、そこから透かし見えてきた儀軌を重んじ儀礼的細部に拘る社会的論理を必要条件としながら成立していた(人心を引きつけるための)Rajah/藩王の権威的側面だけをもって、これこそNegaraの本質だとしたもので、私などは、Geertzをかなり真剣に学習してきた人間だが、この人には古今の国家論を正面から捉え直すといったスケールの大きな学知的構えはまったく不在で、逆にインドネシアの離島に閉じこもって重箱の隅をつつくといった傾向が強く、そういうこともあって、Geertzのインドネシア研究には時として大いなる行き詰まり感を覚えさせられたものだ。

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江戸から東京へ : 土地所有の変遷

2019年07月06日 | 断想および雑談
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永井荷風『下谷叢話』に記載された漢詩人大沼枕山(1818-1891)

2019年06月06日 | 断想および雑談

永井荷風『下谷叢話』に記載された漢詩人大沼枕山(1818-1891)


永井荷風の『下谷叢話』は自分の母方の祖父鷲津毅堂と鷲津家から江戸の大沼家に入った鷲津幽林の長男:鷲津治右衛門(大沼竹渓)、その子の大沼沈山を巡る今日風にいえば繁栄/衰退といういわば真逆のコースを辿った鷲津一族(鷲津毅堂と大沼枕山(力点おいて記述))のファミリーヒストリーをまとめたもの(典型的な「伝記文学」というよりも歴史研究もの)。鴎外の『渋江抽斎』に触発された作品のようで大正13-15年にかけて書かれている。これを読むと歴史小説に力を注いでいた文豪森鴎外が永井を高く評価し慶応大学教授に推薦したことも首肯出来よう。 月報1/2/3


荷風曰く「わたくしは枕山が尊皇攘夷の輿論日に日に熾ならむとするの時、徒に化成極勢の日を追慕して止まざる胸中を想像するにつけて、自ずから大正の今日、わたくしは時代思潮変遷の危機に際しながら、独旧事の文芸にのみ恋々としている自家の傾向を顧みて、更に悵然(筆者注ーがっかりしてうちひしがれるさま)たらざるを得ない」(369㌻)と。 こんな感じの表現でやや自嘲気味に感慨をもらしているので、あるいは、荷風自身としては、大沼枕山の生き方とダブらせながら、こんなご時世に文芸などにうつつを抜かす自分に対する不甲斐なさとか、自分の作風に関しても一風変わった、文章形式の浮世絵の世界を徘徊しているといった風の自覚は大いに持っていたのだろ。彼の場合漢籍を幼少期から先生について学習していた。


後記(『荷風全集15』、岩波、昭和38年より引用)


尾道市立図書館蔵の史料『嘉永五(1852)年対潮楼集 観光会詩』白雪堂主人(山路機谷)の裏表紙に書き込まれた大沼枕山(34歳)の名前と住所(下谷和泉橋通御徒町)この情報の出所は? この『観光会詩』中には"未開牡丹"のお題の漢詩を会に出席した房州人の某が詠んでいた。ただし、この人物の漢詩は安政2年刊白雪樓藏版『未開牡丹詩』には所収されておらず、当然森鴎外『備後人名録』にもその名前は記載されてはいない。房州といえば大沼は房州谷向村在住の親友鈴木松塘( 梁川星巌門下。大沼枕山・小野湖山とともに星巌門下の三高足と称された。なお、永井荷風は大沼と梁川との関係は師弟関係にはなく、枕山は梁川を先輩として尊敬していたのみだと書いている-328㌻)のもとをときどき訪ねていた(375㌻)。そういう点を考えるともしかするとといった程度のことではあるが、これは①房州某発の情報だったか。それとも鈴木の旧友でもあった山路のところに滞在中の②武井節庵(元卿)発のそれだったか・・・。それとも、実は枕山とも交流のあった播州在住の③河野夢吉(鉄兜)発の情報だったか(『枕山詩抄・下』15頁に「送河野夢吉帰播州」と題する漢詩掲載)


枕山の長女嘉年(かね)は門弟の鶴林を婿にし、大沼の家を継いだ。嘉年は後年目を患い、ほとんどものを見ることができなくなっていたが、父枕山から受けた漢詩の才は衰えなかったという。昭和9年3月22日に74才で亡くなった。号は芳樹。写真は麹町の家(下六番町13番地。現在六番町5−3)の二階で撮られたもの。永井荷風がここに嘉年を訪ねて枕山の話を聞き、資料を借りて帰った。その後関東大震災が起こり、荷風は再び嘉年のもとを訪ねて見舞ったということが『下谷叢話』に書かれている」とある。 枕山の息子新吉(大沼湖雲)には放蕩癖があり、勘当状態。その息子家族は、荷風による戸籍簿調査の結果、大正4-5年に「東京市養育院⇒地図中の①に収容され、そこで(新吉は)死亡した。而してその遺骨を薬王寺に携来った孤児の生死については遂に知ることを得ない」という形で作品を締めくくっている。小説よりも奇なりを地で行くような永井荷風のノンフィクション作品『下谷叢話』であった。息子新吉の子孫については関東大震災・第二次大戦の戦災などあったので役所関係の調査は難航するかもしれないが、ここを含め、なんらかの手がかりを薬王寺あたりが把握しているかも。枕山の息子新吉(大沼湖雲)は放蕩癖があり、勘当状態とぼろくそに書かれた御仁だったが、こちらは息子新吉&娘嘉年(嘉禰)校訂の『江戸名勝詩』明治11年刊


【備忘録】梁川星巌と橋本竹下/宮原節庵関連  星巌集@早稲田大学

参考文献)鷹橋明久「竹下『竹下詩鈔』の序文・跋文について」尾道文学談話会会報8,2018,pp21-37.

『星巌集』版本の成立経緯について
大沼枕山関係の研究書)合山 林太郎「大沼枕山と永井荷風『下谷叢話』: ――新視点・新資料から考える幕末明治期の漢詩と近代」 2023/4/
枕山の息子新吉(大沼湖雲)に関する情報はこの新刊書の中では部分的にしか、というか殆ど沈黙。
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雑記帳 頼山陽の『日本外史』&『日本政記』(執筆中)

2019年06月04日 | 断想および雑談

雑記帳 頼山陽の『日本外史』&『日本政記』(執筆中)
February 08 [Thu], 2018, 10:45
頼山陽『日本政記』・・・・神武天皇から後陽成天皇(秀吉時代)までの天皇を基軸に据えた紀伝体の史書&政論(日本の歴史に即して治政の在り方を具体的に論評。執筆の目的はお国の為になるような為政者・支配者の実際的な政治論書の提供だった)。山陽政治思想史ともいうべき性格を持つ(『日本思想史体系ー頼山陽』、岩波、解題)。本書に関しては徳富蘇峰の頼山陽研究に詳しいらしい。『日本政記』の種本だが、16巻(正親町天皇)までは林羅山の三男林 鵞峰 (1618-1680)著「王代一覧」、「大日本史」、それ以後16巻の「後陽成天皇」部分は関藤陰藤執筆分で典拠は頼山陽の「日本外史」。分量的には1-9巻(神武天皇ー近衛天皇)までが過半を占める。14巻・北朝最後の後小松天皇までが分量的には全体の3/4以上、この部分は「大日本史」が種本、それ以後は「日本外史」からの引用。外史は正史に対する民間の史書:稗史のこと。論賛部分は新井白石『読史輿余論』、安積澹泊『大日本史賛叢』からの引用。この点は『日本外史』も同様。

『日本政記』12巻は後醍醐天皇編だが、間違った年月日の記載を含め(『楮幣』とよばれる新紙幣、貨幣の発行について言及しているが、これらは計画され、3月には「乾坤通宝」発行詔書が発行されているが、乾坤通宝の存在は確認されていないなど)不正確な事項の記載も多々あるようだ。こういう部分は頼山陽のライターとしての未熟さ・杜撰さの発露(。作田『続日本権力史論』、183頁に乾坤通宝・楮幣の話題)。

第十二巻:後醍醐天皇では名分は備わっているが、建武の親政の悪政ぶり(施策が性急すぎ『二条河原の落書』にあるような世の中の混乱ぶり)に言及し、天皇の支配者としての資質のなさを指摘(後醍醐天皇は『大日本史』がいうような仁政を布き民生を安んずる為政者の資質を欠く御仁だった)。「宮室を営むを以て急となし、妃嬪を悦ばせるを以て務めとなす」(『日本政記』 340頁)、と。作田高太郎も頼山陽の影響を受け後醍醐天皇を捉えて子供が30数人いる▽力×倫男呼ばわり・・・・(この種の認識は浅薄皮相な頼山陽以来の後醍醐天皇観の反映だが、これは紫式部の執筆した一種の「栄花物語」たる『源氏物語』を主人公・光源氏を中心としたハレーム=頽廃小説だといった捉え方と類似の困った誤解の所産だ。わたしの理解では、多くの子孫を残すためのハーレムを形成することは今流の感覚で言えばまことに嘆かわしいことではあるが当時としては正統な王権行使であった)。その治世は後鳥羽上皇時代と同様で上下をあげて頽廃的だった、と(『日本権力史論』 240‐241頁)。頼山陽が注目したのは、そんな後醍醐天皇の資質の有無ではなく、悲惨な状況にあった天皇のために命を投げうってまで忠義を尽くし”嗚呼忠臣楠氏墓”と命名して徳川光圀を感激させた臣下:楠木正成の生き様の方であった。後醍醐天皇の近習の中では一番家柄の劣る楠木をその功名は永遠だとも頼山陽は書いているので、これは幕末の勤王家たちを十二分に鼓舞するところとなったこと疑いなしだ。

『日本外史』は後醍醐天皇という帝王としてはいささか資質に欠ける人物の有する本朝伝統的権威(天照大神を信仰する人物)に対する忠義の示し方に応じて忠臣/逆臣を区別し、足利尊氏は後者の典型(註解では国賊とも記載)、北条・足利氏は姦雄。前者の典型として家柄が劣り出自のもっとも卑しい人物:楠木正成を忠臣の代表として形象化している。いわく「楠木正成公の広大な節義は巍然として山河と共に並び存し世道人心を万年の後までも存分に継ぎ保つもの、それに引き換え姦雄:北条・足利氏らの権勢の持続期間は高々数百(2,3百)年、楠木氏と彼らの優劣は」明らかだろうとばかりの激賞ぶり。時間論のduration(持続時間)面から言えば楠木の節義は永遠の価値を有するものだが、姦雄(足利氏)の権勢はたかだか数百年程度のものだ、と(頼山陽特有の巧みなレトリック)。徳川幕府の長い繁栄は北条・足利とは異なり新田氏時代の善行・忠義のおかげだとも。

『日本外史』解説としては『日本外史』、岩波文庫(上)の尾藤正英のものが要を得ており、それを参照のこと。


日本外史を一種の文学作品、長大な叙事詩だと・・・・納得!  学問的には史実に関してやはり誤謬が多過ぎらしい。


論賛部分には「大日本史」・新井白石の「読史余論」、北畠「神皇正統記」などを参照した形跡
頼山陽の名分論(「名分のあるところ踰越すべからず」)からすると新井の足利将軍=国王、当時は天皇というものは実質的に不在だったといった歴史理解にはもう反発。

頼山陽のいう「尊皇」至上主義は討幕とか天皇親政への待望とは無関係。そもそも本書は老中松平定信に提出された軍記物の衣装をまとった朱子学的名分論の書で、為政者たちにとってはお馴染みの当然「史記」の書法などを手本とする。頼山陽の名分論は藤田幽谷が松平定信に提出した正名論(「君臣上下の名分を正すことの重要性を強調しつつ、幕府が天皇を尊べば大名は幕府を尊び、大名が幕府を尊べば藩士は大名を敬い、結局上下秩序が保たれるようになるとして、尊王の重要性を説く」)と同類。その限りにおいて両者は幕藩体制を擁護する尊皇思想に言及したといえよう。


本編(『日本外史』・第五巻:新田氏前記)は臣下の名分(朱子学的な名分= 立場・身分に応じて守らなければならない道義上の分限)などといった儒教的倫理観を、中国の古典に登場する人物、中心的には楠木正成を引き合いに出しつつ我が国の軍記物語の中に注入・改作した作品なのだ。プロット構成の中では楠木正成を後醍醐天皇の「夢想」、建武の親政の「寿命」を大坂・天王寺蔵聖徳太子「未来記」を持ち出しわずか3年だと楠木自身に予め悟らせるといった筋書きになっており、このように神のお告げ的要素を表現する在り方の中で、頼山陽のおそろしくDoxa(憶断)に満ちた原始的心性は全開する。ここでは天命・天誅の「天」に相当する普遍的価値を担う部分に「聖徳太子」が当てられていることにも注目しておきたい。(徳富蘇峰『人間山陽と史家山陽』1932、民友社…大正11年東京築地での講演会で「頼山陽は世の中をひっくり返すぞといった危険思想の持主ではなく、国家主義と皇室中心主義の唱道者」80頁)。


『日本外史・第五巻(冒頭の文章)』皇室に対する忠勤(王事に勤むること:勤王の精神)の乱れ、皇室(権威)自体の乱れの中での臣下(権力者:源平、北条)の横暴

徳川家は新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称したので南北朝期の新田氏をハイライト化し、その背後に楠木氏らを配置するといった明らかに徳川幕府(日本外史の最終巻では時間をかけて慎重に天下を取った家康公を持ち上げ、だから徳川氏の治世が長続きしたのだと豊臣氏を引き合いに出しつつ称賛)にゴマすりをする(=媚びをうる)やり方を頼山陽は取っている。因みに*新田氏前記・楠木をメインに中興諸将;北畠・菊池・名和・児島・土居・得能の各氏を付記⇔新田前記を読むと軍記物語の形式を借りた家柄・門地の面で劣位にあった楠木正成一族を『史記』中の人物に準えながら特徴付け、楠木の行動を引き合いに出しながら儒教的な倫理(忠義・仁・名などの徳目)を唱道したまるで浪曲台本のようだ(執筆中)、『日本外史』は文化文政期の文芸作品『里見八犬伝』などと同じ土俵の上で眺めてみるというのもありなのだろ(たとえば成功例とは思えないが井上厚史「『南総里見八犬伝』と『日本外史』の歴史意識」同志社国文学 (61), 514-503, 2004-11 )。

・・・日本政記

名分論:名分を乱したものは激しく攻撃、それを守ったものには最大級の称賛を与える立場から記述。
頼惟勤によれば楠木正成との出会いに関して後醍醐天皇の夢想が契機となったといった記述があるらしい(中公バックス『頼山陽』 日本外史 、234頁)。

「瑞夢石」(夢枕に現れた霊石)というお題の漢詩屏風(幕末明治期・沼隈郡今津村)・・・・頼山陽の生きた時代の生活世界の中には現実の世界と夢の中の世界のことは同一の座標系の中で矛盾なく共存していたことがわかるだろう。


確認したところこの箇所だ。


夢想というのは頼山陽の心性の在り方の反映か。夢想は鎌倉時代の代表的史書:『吾妻鏡』にも出てくる言葉だが、『日本外史』のメインテーマ部分でのお伽話めいた筋立て。本書の性格の一端が少しく透かし見えてきた。


当時は「和臭」を嫌う風潮が徂徠派を中心に関東では強かったらしいが、山陽は地名・人名・官名は中国風に改めることを避け、日本語表記した・・・・この点は無問題。江戸を中国風に「武陵」とか「武昌」と表記されたらそれこそ困りものだ。森田節斎は日本は中国文化圏内に在ることを力説していたが、頼山陽の歴史制作も当然に『大日本史』、中国の「史記」「後漢書」「三国志」等を手本(=準拠枠として過去を再構成)としたもの。頼惟勤は本書が山陽の「日本にて必要の大典とは芸州の書物と呼ばせ申したき」(33頁)思いといった芸州№1主義の発露に過ぎず、本書が後時間(=時代)的に帝国主義「日本」の思想、勤王家を鼓吹した歴史的事実があったとしても、別問題。本書自体の価値とは一旦分けて考えるべきだ(36頁)という。
ただ、頼惟勤が日本外史研究史の中の平泉澄・和辻哲郎(「尊皇思想とその伝統」・・・山陽は詩人だ。したがって歴史叙述は学問的というよりは芸術的、その功績は歴史叙述の上にあるのであって、歴史探究の上にあるのではない、と)・丸山真男・尾藤正英(岩波文庫『日本外史1-5』昭和43年、解題:「日本外史」は人物中心の武家時代史であり、その中では個々人の人物の人間像を描写し、その心情の美しさ、行動の正しさや勇ましさを顕彰することに主眼が置かれていた。読者は山陽の記述を通じて武士(和辻のいう「臣下」)としての生き方、日本人としての人生観を学ぶことが出来た、と、34頁)らの論考をハイライトした時点で、頼山陽が帝国主義「日本」の思想に与えた影響とか勤王家を鼓吹した歴史的事実を『日本外史』そのものから分離して考えるべきだという論拠は半ば失われているというべきだろ。

私自身は『日本政記』『日本外史』はまことに下らない本だという印象を深くした訳だが、作田高太郎を理解するためには最低限、このくらいは通読しておく必要があろうと思っているところだ。頼山陽には被支配者側の事柄は視野に入っておらず、言及領域は支配者間限定。『大日本史』は為政者論、『日本外史』は臣下忠勤論、作田の『日本権力史論』三部作は支配される側の立場から行論されている。

『福翁自伝』では賴山陽は子供時代の教えの中で信じるに値しない存在だと思い込まされたこと、そして『学問のすゝめ』の中では
『日本外史』が説いたような儒教的名分論は根本的に否定(例えば明治7年4月執筆の第8編「我が心を持って他人の身を制すべからず」)。名分論は陰陽五行説同様の妄説。忠臣義士の死は徒死(無駄な死)・犬死だったという福澤の主張は当時大批判をあび、その弁解を,明治7年11月7日付けで慶應義塾59楼仙万記のペンネームを使い、時勢論を持ち出して弁明。時勢論では昔は忠死だった、だが今は対外的な懸案事項も関係することだが、そんなことは徒死同然だという風に反論。福澤の考え方は英国の歴史家E・H,カー風にいえば「歴史とは尽きることのない過去と現在との対話の中にある」ものだという事になろう。福澤諭吉は当たり障りのないことは言わないタイプで、「ああ言えば上祐」風のところもある位の抜群に頭脳明晰な御仁だった。

福澤は拝金主義の宣教師であって学校教育で商売をする人物だと言う意味の評伝『学商福澤諭吉』明治33を書いた福山藩出身の渡辺修二郎は明治3年故郷中津に帰る途中の福澤に対して,多分岡田𠮷顕(岡田本人は東京に出向中だったので、洋学者江木鰐水)らが誠之館の視察をお願いした。それを快諾した彼の主たる関心事は自分の著書や翻訳書がどの程度、誠之館の寄宿生達の間に浸透しているか、そしてそれらは海賊本ではないか否かと言う点にあっただろう言った調子の渡辺一流の勘ぐりを(意地悪く)書いていた。

◆「古い革袋に新しい酒を盛る」

浜野靖一郎『頼山陽の思想 日本における政治学の誕生』、東京大学出版、2014

 『「天下の大勢」の政治思想史 -頼山陽から丸山眞男への航跡』, 筑摩選書 231, 筑摩書房, 東京, 400頁, 2022年

 

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Repost版 『水野記』にいう今津浦の川東

2019年05月06日 | 断想および雑談
『水野記』にいう今津浦の川東
15, 2015 06:05
中世における本郷川の旧河道が現在の安毛川に在ったという話は第四紀学的や地形学的な根拠を基にしていわれていることではないが、沖田地区に関して長波と矢捨分に分かれ、集落として矢捨(安毛)は神村八幡の氏子、長波は本郷八幡(剣大明神)の氏子圏内、また農業水路「安毛川」が「大明神」と「宮下」との字堺に当たり、宮下地区の水田には神村住人の所有地もある。
ところで、『水野記』に「今津浦川東は神村の内」という記述がある。
この古記録は扱いの難しい代物だが、削平された字田中の「大明神」社の立地する小丘が今津分で、その丘に建立された大明神は今津への帰属を明示するマーカーだから、当然そこまでは<川西>。<川東>とは河川Aを念頭に置いたものではなく、大明神以東を流れていた川の東のことのようだ。
どうも河川Aの中世後期段階での旧河道の一つを捉え、その川東は神村分だという領域認識を『水野記』は表現していたようだ。
明治26年今津村測量図中の字「宮下」はその付近の宮前などの地名から考えて明らかに神村八幡宮を念頭に置いた地名。字「宮下」は神村にもあり、今津分との境は八幡さんの参道だ。近世の村切りの段階にこのようなことになったのだろ。同様の措置がとられたため、中世の沼隈郡神村内に属した安毛集落は村切りの結果今日では行政的には今津村分だが、祭祀面ではなお神村八幡の氏子。こうしたことを勘案すると川東は現在の農業用水路「安毛川」あたりに中世後期段階の河川Aの流路があり、その東にあたる字「宮下」あたりは『水野記』にいう今津浦の川東だったのかも。 
今回取り上げた『水野記』のこの文節の重要なところは河川Aの河道は、羽原川ー町裏川同様、どうも後代に瀬替えされ、中世後期段階には大明神より東方にあったらしいというという点を史料面で示唆しているところだ。


安毛川はJR松永駅の南端部から松永町の長和島西側の竪入川に接続する水路だが・・・・一度、中世後期における本郷川の旧河道が現在の安毛川に在ったか否か、第四紀学的や地形学的調査をやってみる必要がありそうだ。


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