- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

Maluku地方@IndonesiaにみるGlobal jihadismの残酷 August 03 [Thu], 2006, 17:43

2019年04月20日 | 断想および雑談

インドネシアのマルク(Maluku,モルッカ)地方といえば16-17世紀の世界経済に大きなインパクトを与えた香料(丁子、ナツメグ、メース)産地。18世紀になると英仏によって世界各地の植民地へ盗木移植が進む一方、香料貿易の独占の崩壊と香料価格の値崩れを恐れた、オランダによって香料生産地の制限措置が強化された。南モルッカ地方ではオランダによる植民地支配が長く続き、その間に住民のキリスト教への改宗が進んだ。
  インドネシア独立(1950)後はジャカルタ政府の支配が強化され、ジャワ島やスラウェシ島など外部からイスラム教徒が多数送り込まれた。両者の対立はスハルト政権(1968-98年)崩壊後、周知のごとく一挙に表面化。
写真はアンボン島のパソにおけるイスラム教系住民の警備小屋(Laskar Jihad`Post)とそこに貼り出されたオサマ・ビン・ラデン(Osama bin Laden)のポスターだ。



インドネシアのLaskar Jihad, or ‘Holy War Warriorsは2000年にジャファ・ウマル・タリブによって結成されたもので、彼は1980年代後半にパキスタンでイスラム教神学を学び、1980年代後半にはアフガニスタンのムジャヒディンと共に侵攻してきたソ連軍と戦っていた(Laskar Jihad, or ‘Holy War Warriors,’ was founded in 2000 by Jafar Umar Thalib, who spent several years studying in Pakistan and fighting alongside the mujahidin in Afghanistan in the late 1980s.)
モルッカ地方全域で繰り広げられた民族浄化(Ethnic Cleansing)にもグローバル・ジハーディズム→Global jihadism(聖戦の論理のグローバル化)の影がちらついている
この悲惨な実態を調査した報告書『Indonesia:Poso and Maluku』(2002)がこれ。実に綿密に調べ上げているので感心させられた。
セラム島中部(Maluku州Maluku Tengah県)にTeon Nila Serua郡という奇妙な名前の郡がある。




図中の赤丸が当該郡、紫色の■印はインドネシア内での位置関係 1979年の火山噴火で離島を余儀なくされたTeon島、 Nila島、 Serua島の島民(キリスト教徒、セラム島出身、漁民)たちの集団移住地(Kecamatan Teon Nila Serua 1982年)だ。彼らも1999年以後セラム島で迫害の洗礼を受けた。モルッカ地方の人たちの歴史は災害や戦争などによる定住と移住の繰り返しだったという部分もあるが、その悲惨さはこのレポにあるとおりだ。




バリ島やジャカルタでの爆弾テロといい、マルク地方における民族浄化といい、大義のない抗争を繰り返す、もの騒がせなラスカル・ジハードLaskar Jihadという組織である。
インドネシアの地図
アンボン情報(Ambon Information Website)この島は南蛮貿易時代は日本人傭兵が活躍し、また第二次世界大戦中は日本軍の基地が置かれたところ(敗戦後はオーストラリア軍が日本兵の捕虜収容所として利用)The Japanese Invasion of Ambon Island, January 1942
2001アンボン島におけるイスラム教徒とキリスト教徒との抗争:
A Village in Maluku
AMBON: The Battle of Waai and the Ambon Demo.2001

その他の詳細地図(地形図)はアムステルダム熱帯研究所(KIT)のサイトよりある程度入手可能。検索方法はこのBlog内にて言及している。

コメント

「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」中の沼隈郡表現

2019年04月09日 | 断想および雑談
万延元年備後国名勝巡覧大絵図が沼隈郡・御調郡および芦田川流域の芦田郡・品治郡・安那郡・深津郡に軸足を置き、その他の広島藩領・福山藩・天領・中津藩領に関しては情報面で手薄(背景化)であることは誰の目にも明らかだろ。こんごは沼隈郡に焦点を絞りつつ分析をすすめていくつもりだ。というのも本絵図は沼隈郡観光マップといってよいほど当該郡の名勝・巡覧情報が豊富だからだ。




古名として挙げられたのは平安中期の辞書:『和名類聚抄』記載の古代の郡郷名と荘園名(山南庄only)

【解説】竹内理三を中心とした一昔前の荘園研究によれば南北朝・室町期の史料に登場する「長和荘」、平安・鎌倉期に登場する「神村荘」「藁江荘」そして鎌倉時代の史料に登場する「高須荘」、そのほか荘名が存在するものとして()付きで「福田荘」・「山南荘」を挙げている。これが正しいということではないが、現在のところの沼隈郡における荘園分布の一般的な理解として通用しているところだろか。しかし、個々の荘園内部のこととか考古学的な発掘調査が進められた草戸千軒(草出津・神島)と長和荘などとの関係といったこの方面の深く掘り下げた研究というのは史料不足が災いしてほとんど皆無に近いのが現状。
古代の郷名ついては「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」は津宇郷と赤坂郷、津宇郷と赤坂郷の4つすべての想定地を図示している。津宇郷と赤坂郷の2つは遺称地名から判断されたものだろ。その点、古代の郡郷・古城址の考証学的研究というのは盛んにおこなれていたらしい。そういえば今も昔も京都大学系の人文地理学ではこの手の考証学そのものだ。
地図記号と文字注記から見た沼隈郡表現の分析


地性(海岸線など)線・河川・道路、郡界線、その他の文字注記には池の名前(瀬戸池)、芦田川の中州地名(草出地)、航路と関係港湾への里程、海底/海中に生息する貝類の説明。島のサイズ(全周)・・・・・若干誤記あり。
【解説】作図者嘯雲嶋業(実名は確認中)自身による絵図の解説文によれば用途としては社寺仏閣の巡拝、名所旧跡の遊覧そして商人の往来用案内図を念頭に置いていたようだが、幕末期のregionalな範囲での巡拝先(社寺)や観光地・遊覧先(名所旧跡)がある程度判明する。寺院の中にも葬式寺と拝観寺とがあり、ここに図示された浄土寺・明王院・常国寺・阿武兎観音(盤台寺)・福禅寺などは拝観寺として近在近郷から多くの参拝客で賑わっていたのだろうと思われる。商人の往来用案内図とあるが、携帯するにはちと大きすぎ(展開時1.4×1.2㍍、A4>折りたたみサイズ>B5サイズ)、地域情報面でも備後国図(regional)の体裁をとりつつも結構局地的(local)である。そういう面では戸外に持ち出したときの、その実用性に関しては限定的なものに止まっただろ。


島嶼部以外の名所旧跡=古蹟名注記の出自分類

神話的内容に実体性を付与するため、例えば芦田郡栗柄の南宮社境内に包摂する形で古墳を「孝霊塚」と命名。
山波の吉備津彦古跡は山波艮神社とその境内の巨大ウバメガシ(吉備津彦命が杖を立てたのが芽吹いたものとされる),直径1㍍程度の盥石(たらいいし)や芸能神事(一種の社会伝承法)などによって見世物化し吉備津彦命神話に可視的実体性を付与。
「磯間の浦」は浦崎ー常石付近(=田島辺り)と山手に記載されている。
『沼隈郡誌』(667-668㌻)によると阿倍継麿の古歌「月よみの/光をきよみ/神島の磯間の浦ゆ/船出す我は/」の故地に関して遣新羅使船が武庫の浦を出港した後で、この古歌の次に「室の木」(鞆)詠んだ歌が来ることから神島と山手との間か、田島辺りを詠んでものかと述べ、最後に『福山志料』のいう山手説を紹介。作図者嘯雲嶋業は松永湾を「遺芳湾」と注記するなど菅茶山らの説を把握できる立場の人物でもあったのだろか。
近世後期漢詩文芸と風景図屏風


備後地方の名所歌枕
一、朝 川・・・・但馬皇女の高市皇子の宮に在(いま)しし時に、竊(ひそ)かに穂積皇子に接(あ)ひて、事すでに形(あら)はれて作りませる御歌一首「人言(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み己(おの)が世にいまだ渡らぬ朝川渡る」巻二(一一六)で詠まれた朝川は大和国の初瀬川のこと。「見立て」(例えば讃岐富士)が日本各地で横行していた一つの証左。
二、蔀 山・・・・・「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」中には複数箇所存在、例えば鞆近辺、深津郡の足利義昭館跡
三、武 倍(ムベ、併せて同山、同泊)
「郷分」あたりの武倍山→「古へ日本武尊西征の後、穴の湾にて悪神を誅し給ふに、武倍山(ムベサン)の御陣にて」。
四、鞆ノ浦
大伴旅人(万葉集)
我妹子わぎもこが見し鞆ともの浦の天木香樹むろのきは常世とこよにあれど見し人ぞなき
鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも

五、密語橋(ささやきばし)→見立てで「能因法師の古歌「熊野なる おとなし川を 渡さばや ささやきのはし しのびしのびに」を引用して、広島県府中市元町の石州街道沿い名もなき川に対し「音無川」と命名し、それに掛かる橋を密語橋と名付けた」だけのもの。能因法師の古歌と府中市のこの川とは歴史的には何の関係もない。
六、室 野
七、口無(ノ)泊・・・・「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」では千年の港のこと。
八、風早浦→東広島市安芸津町風早-
遣新羅使詠歌「吾が故に妹嘆くらし風早かざはやの浦の沖邊に霧たなびけり」(万葉集 巻15 3615番歌)
九、引 嶋
付、長 井

なお、鞆にある「小鳥の森」は歌枕とは関係なく南北朝期の古戦場(1349年足利道冬と高師直との合戦)
記紀神話から派生した古蹟:①山波の吉備津彦命旧跡・・・・「要約 沼隈郡の山波村に、吉備津彦命の杖から成長した馬耳の木(国際日本文化研究センターHP)」   
②幕末段階に吉備名方浜宮の伝承地の一つとして神村および今伊勢宮が名乗りを挙げていた→「名方の海」、「穴の海」も同類。
神渡し・・・・本来は出雲大社関連の語で、陰暦10月に吹く西風のこと。「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」の神渡は単に芦田川の神島での渡渉点を指したものヵ
作図者嘯雲嶋業が動員したgeographical loreの手法とは、要するに記紀神話や万葉集で詠われた名所歌枕や芸能・芝居等を通じて流布した事柄を捉え、その故地を備後国内のどこかに比定(=重ね合わせ)する作業を行ったり、他者の行った同様の作業結果を受容することであって、その中で横行したのが何でもない備後地方の場所に意味を持たせるための方法としての故事付けだったようだ。託宣とか神のお告げが真に受けられた前近代の日本にあっては当時のgeographical loreにも人々の前論理心性が色濃く反映された。

なお、八日谷・長倉は山南の平家谷(幕末期における社会伝承としての平家落人集落譚の反映)。木下長嘯子(ちょうしょうし,1569-1647)は「九州の道の記」の執筆者木下勝俊のことで、その看月亭@山手。沼隈郡外のことになるが蘇民将来屋敷跡は戸手の素戔鳴神社。「早苗の松」も別当寺「早苗山天竜院天王寺」ゆかりのもので同神社関係(『西備名区』外編・品治郡の2、戸手村)。栗柄の蘇民将来屋敷跡は図中の南宮社(「孝霊塚」が境内にある)関係?(確認中)

コメント

備後特産の「珍ちん麦」

2019年04月08日 | 断想および雑談



根岸 鎮衛『耳嚢』(『日本庶民生活資料集成・16』)より







大麦・裸麦(珍ちん麦ヵ)は炒った上で挽いた粉(はったいの粉)にしたものを携帯食用とした。
甘みと風味があり、それを水で練ったものは徳川家康の好物であったとか。焙煎したものは麦茶用。



コメント

太田屋杉谷氏の親類縁者は健在か

2019年03月24日 | 断想および雑談

31歳で病死した国太郎の戒名は「靖心義範居士」。弟が漢文体の墓誌に書いていたように、いい人だったのだろ。

お彼岸なので申し訳程度に榊が手向けられていた。よかったよかった

関連記事
なお、むかしの話になるが沼隈郡今津村に地権者としての杉谷氏はなし(ただし、松永町の今津島には地権者として杉谷姓あり)。
昭和10年代の神社総代に杉谷(渡辺)という人物。


コメント

大正通りの今昔

2019年03月18日 | 断想および雑談
今日午後は大正町通り(大正通りを指す)を探訪した。黒金屋・”番頭=集金人”行廣房吉家(息子は元中学校校長、1932年生)を訪ねちょっと聞き取り調査。後日再調査(現在再調査中…住宅リホーム時に黒金屋関係の帳簿類をすべて廃棄ヵ 本日の聞き取り調査中興味深い一言を耳にしたので来週あたりから真偽問題含め、資料面から逐一確認予定だ)。


写真左端、ガード下に「悪水」が東西に通過(大半が暗渠)。これが沼隈郡今津村と松永町との境界(上図中の黄色太い線)。




大正町通りと旧九州往還(国道二号線に包摂)の交差点より、南側、「大正通り商店会」。


国道二号線との交差点以北。大正町通り脇に鉄板カバーで暗渠化された農業水路=安毛川

鉄板カバー下に暗渠化された安毛川。大正町通りは旧九州往還の南北でズレ。写真奥側にJR駅に通じる商店街。

大正町通りの九州往還以北での戦後の区画整理後出現した旧特定郵便局(松永日の出町郵便局)の今。


区画整理反対派の意思表示→首なし地蔵




大正10年に開通した大正通り建設記念碑(36年建立)・・大正期における駅前地区の整備事業を発起した立神誠一(1866-1931)・井上寅吉・行広房吉を顕彰。こういう人たちの貢献なくして昭和期の松永市(とくに松永・今津地区)の発展は望めなかっただろ。




協賛者名碑


写真左端の駐車場看板奥に大正町通り商店街入口。正面アーケード街が日の出町


スラム・クリアランスや都心再開発、そして都市更新urban renewalが進まないのは・・・・都市行政の無策か、それとも複雑な地権者状況や・・・か

関連情報

コメント

「地方文化開拓者」といわれた男

2019年03月15日 | 断想および雑談

三原乙吉(1864-1946)は今津町471に居住した御仁だ。不動産は昭和32年に山形武に名義変更(相続)されている



三原喜七の息子だったようだ。喜七は屋敷を担保に村上重右衛門に借金したようで、明治33年3月3日に乙吉が村上から買い戻している。炊事場のほかに2間しかない粗末なかやぶき屋根の家だった。むかし後継者の山形武は玄関先で、仕入れたウナギを器用にさばき、店で出すかば焼きの下ごしらえをよくしていた。時には家の前の溝を泳いでいるドジョウを捕まえ、それをいきなりかば焼きにすることもあった。こういうwildなことをする山形武さんのことだからアナゴやウナギのかば焼きに混ぜてドジョウのそれをお客にふるまっていたかもしれぬ。奥さんに関しては私の記憶にはほとんど残っていないのだが、仲居さんだということを子供のころ祖母から一度聞いた覚えがある。昭和32年に国道二号線が建設され、以後山形家の人々の消息は不明だ。今回見かけたお墓に榊が手向けられていたので山形さんを含む三原乙吉さんの親類縁者は健在なのだろ。




「地方文化開拓者」という言い方は聞きなれないやや力んだ表現だ。
念のため、矢野天哉『人生画帳』を調べてみたが、わかったのは文選堂という新聞雑誌販売店を経営した御仁だったってこと。それを捉えて地方文化開拓者と称していたわけだ。なるほど、なるほど定期購読者を増やす業務(市場開拓)は活字に縁のない人々の中に分け入って行くわけだから明治後半期においてはまさしく文明のすそ野を開拓する行為そのものだったろ。三原はそのことに関してなにがしかの矜持を持ち、使命感を抱いていたのだろうか。その後、『松永市本郷町誌』・本郷町誌年表/明治25年の項目に「今津村三原乙吉新聞配達業を始む」(953頁)とあることを確認した。新聞配達店の開業はまさにそのくらい画期的なことだった事が判ろう。なお、三原という苗字はこの地方では駅家(万能倉)・赤坂(長者原)に多い。
大正2年本殿再建費寄付者芳名碑

下の方に三原乙吉の名前


大正2年本殿再建費寄付者芳名碑に見る高額寄付者



なんとなくだが西組(剣大明神鳥居前の薬師寺所有地に居住)の「栄虎」とはやはり見栄の張り方からして平櫛民治郎かなぁ。これはわたしの勘だからあまり大きな声では言えない。

コメント

猪原軍兵衛と上村貞良

2019年03月14日 | 断想および雑談
柳津・善立寺にある墓石
一つは上村貞良、今一つは家塾の先生猪原軍兵衛
上村は幕末期に九州よりこの地に寄留してきた医者


猪原軍兵衛は読み書きそろばんの先生として未だに記憶されている塾の先生、門人が建てたお墓。形状がちょっと変わっている。


猪原は鞆津出身の人だろうか

類似の墓石:渡辺金兵衛@福山西町の定福寺。この墓石の右側背後に一部墓石(墓誌つき)が顔を覗かせているが、これが江戸中期の福山藩儒伊藤梅宇(伊藤仁斎の次男)墓。


コメント

阿部藩政をめぐるもう一つの断想

2019年03月12日 | 断想および雑談

本郷町の清光寺(無住寺)といえば本郷村の石井一統(上古屋・下古屋・下土居・増古屋・南などの屋号を有する石井一統)の墓地のあるところだが、明治40年に松永町に転居した端古屋の墓地は今津薬師寺の石井家墓地に移動していた。


笠付墓が5基(スペースの関係で2基は笠部分を廃棄)ある。『松永市本郷町誌』431‐433、712‐713頁によれば近世中期における本郷村きっての豪農だったらしい。初代庄左衛門(寛保3年歿)、二代目又三郎(宝暦2殁)そして三代目蘭蔵(文化)5年歿の時代にあたる。近世後期には藤江村の岡本山路家が江木鰐水らとの交流を重ねていたが、これは福山藩側からすれば太い献金のパイプを構築し、それを維持するためでもあったのだろ(幕府の御尋ね者で尊皇思想の唱導者森田節斎をかくまうに当たっては山路機谷と坂谷朗蘆・江木鰐水らは同志的連帯をした)。江木鰐水が書いた山路機谷編『未開牡丹詩』の序文には岡本山路氏に対する軍資金拠出の件が赤裸々に記載されているし、江木鰐水日記を読めば郡奉行の浜野徳蔵(濱野家は城下東町の足軽、子孫健在、徳蔵の息子は漢学者濱野章吉)が大量の鉄砲代金を献納(万延2年3月7日条、『江木鰐水日記』上巻、297頁)していたことが判る。能吏でもあった、この浜野の場合は幕末期の窮乏する藩に対する忠誠心の大きさが、民衆への負担増を強いる形で立ち現れ、それが結局のところ民衆的な反感をかうところとなった構図が手に取るように見えてくる。
【注】『江木鰐水日記』下巻は明治4年9月20日条において、沼隈郡芸領接界の農民騒乱の中では笠井治右衛門(浦崎、向って左側の墓誌の撰文は江木鰐水)と今津の河本(保平)が槍玉に挙げられたと記述している(58頁)。明治維新期に福山藩の意向を受けて新涯開発を主導した津川右弓・濱野徳蔵(戒名は「順善院義徳日行居士」。浜野家墓地は長正寺だが、徳蔵墓は行方不明、息子の浜野源吉墓は境内墓地北側壁に無縁墓石群の中にある。同じく北側壁墓石群中の津田右弓墓の近辺)、笠井治右衛門・久井屋栄介(沼隈郡柳津村・・「人夫らに提供した粥は米粒が少なく水ばっかりで、これを啜ると腹を壊したと人夫らは噂し合った」という意味のことが兵庫県在住の西久井屋の子孫の方の備忘録に記載されていた)らだが明治3年の海嘯(大潮)で堤防が不運にも破壊され、これが周辺住民の夫役負担を倍増。ために明治4年の農民騒乱時にこれらの人たちはことごとく焼討ちの被害を被ったと同書は記述。

沼隈郡本郷村における「藩政末期の献金」については『松永市本郷町誌』684‐690頁が参考になる。この段階には藩主信仰が浸透していたのか農村内部の富裕層に限らず村民こぞって拠出に応じている。

菅茶山らは中山南の何鹿桑田氏同様、この端古屋石井家との交流も密にした。こうした在り方は福山藩の政策として、少数の家中だけで藩領を支配することの困難さを熟知していた(他所からの来住型=よそもの)藩主水野・阿氏らが採った、広範な在地勢力を効率的に統制するために一部の住民に対して特権(例えば受とか受所=収税・徴税の業務委託、江戸後期のことであるが御用商人の顔を持つ在方扶持人資格)を付与する形で在方の豪農・豪商層に育て上げ、彼らに寄生する形で藩政運営を行おうとしたことの所産であった。菅茶山ら文化人たちの役割は藩主側から言えば自らとこれら在地勢力側との接点、接着剤として機能することであったはずだ。豪商・豪農たちはひと時の栄華の夢を見ることが出来たが、家運が傾けば、簡単に別の豪農・豪商たちによって交代させられ歴史の表舞台からは消えていった。近世中期に全盛を迎える神村屋石井家・端古屋石井家であったが、いづれも阿部藩政の上述のようなやり方に翻弄された悲劇的な旧豪農層の例であった。
私にはこういう構図が見え隠れするのだが、研究レベルの話としては夢想や妄想を排し、具体的な証拠を提示しつつ手堅く議論をしていく必要があろう。
さて、昨日は90歳近い品のよい老婦人と息子さんがお墓参りにきていたので早速挨拶をしておいた。墓地がきれいに手入れされ本日はまことに晴れやかな気持ちで帰途に就くことが出来た。

赤点マークが江戸中期の神村石井家の墓石
赤マーク墓石の中に高さ1メートル以上の塔婆型墓石5,6基あるが、いづれも福山市沼隈町枝広本家の寛文―元禄期の墓石。

細かく見ていくと完全倒壊のものも・・・


神村石井五郎兵衛近次とあるが、神村石井氏⇒和田石井氏第四代(『松永市本郷町誌』、317頁)のこと(享保4年=1719年墓)。


大型の笠付墓は宝永6(1709)~宝暦9年(1759 ),舟形光背墓や板碑型墓石は18世紀前半期のもの。薬師寺の場合は本堂裏手に局限。現在は枝広(子孫によって管理されている)・神村屋石井系、尾道屋高橋(ともに放置・放任状態)・・・その他は不明。






濱野徳蔵家との姻戚関係を通じて本郷町金原(東金原)氏は幕末期に急速に富裕化)
渡辺修二郎『阿部正弘事蹟』2、続日本史籍協会叢書、527-529頁に「山岡八十郎ノ諌死(かんし)」という項目があり、その中で安政元年3月の事として、山岡が近年異国船が頻繁に襲来し、そのための海防経費負担が福山藩内では上下を上げて生活困窮化に拍車をかけているという意見を、藩主阿部正弘に直訴する形で話した。藩主に直接意見を述べることは山岡の身分(元締め役)には許されないことであったようで、直訴が身分を越えた行為であるとの武家社会の慣例に従って、翌日切腹(諌死)をとげ責任をとったという。この話題は濱野『懐旧紀事-阿部正弘事蹟-』には登場しない。なお、山岡八十郎とは岡田吉顕の伯父。阿部藩政の犠牲者は御用商人(在郷商人=豪農)だけではなかった訳だ。

コメント

今津村の木村さんあれこれ

2019年03月10日 | 断想および雑談
お墓参り方々、いろいろ調べごとをしてみた。

兄貴杉谷国太郎の3回忌に建てた墓に刻まれた弟福松の歌「きよらかな兄の心の奥深く秘めし切なさ知る人ぞ知る」。杉谷は6歳で父親と死別したようだが、大正7年に28歳の妻を失い、失意の中で7か月後の大正8年4月に31歳で病死していた。弟の歌はいささか文学的な感興に乏しいものだが、いばらの道を歩まざるを得なかった兄ではあったが、家業面でもそれをうまく軌道に乗せこれからというところだったか。福松は父親代わりのような国太郎の人柄に惹かれるものがあったのだろ。この杉谷国太郎さんは明治28年歿の太田屋初代・杉谷善助の息子に当たり、太田屋という呉服店を経営していた。

こちらはその近くに並び立つ明治の蕉風俳句/地方俳壇の宗匠福田桃洲とその弟子石井瓢水のお墓。演出されたほほえましい師弟愛というか息子石井亮吉の粋な計らいに拍手

前置きはこれくらいにして本題に入ろう。
大正3年当時、今津村372番地屋敷に居住した木村茂十(❶)。


その場所は三藤六平→明治31年三藤熊太郎→明治35矢野善助(矢野天哉の親父)が買得。どうも三藤六平以前は373番地の地権者:工藤文七(今津村757番屋敷居住の藤江屋工藤巳之助の親)がここも所有していたらしい。地租改正段階にはここを矢野善兵衛が買得。373番地は工藤文七→三藤喜三兵衛→明治29年三藤亦三郎→昭和17三藤克己→昭和24矢野寛次郎(若木屋)。
ってことは最初に挙げた372番屋敷に居住した木村茂十というのは矢野善助家の間借り人か借家人だったことになる。



その372番地とは九州往還沿いの吾妻橋東詰め、堤防下の地所を指した。

この地方で木村姓が多いのは近くでは芦品郡の福田や有地だが、木村茂十の場合他所から転住してきた家筋?
結論的に言えばNO!今津宿の旧家だったのだ。

すなわち沼隈郡今津村で古くからあった木村姓の世帯はと言えば726番地 木村駒吉(❷)only。この726番地は今津宿の旧問屋場(幕末明治初年には村上重右衛門→明治25年熊田佐助→明治27年天野又兵衛→明治33年橋本吉兵衛→明治34年沖村喜助→大正4年沖村徳三郎)の東隣。駒吉屋敷は明治41年に木村恒松(1882‐1930)・木村定吉→昭和9年木村理人(1917-1979)→同年・井上義郎(柿渋屋・倉庫として利用)へと地権者が移動していた。

1962年の住宅地に登場する木村は沖浜(α)と柳ノ内(β=寄高商店の裏手)の2軒だけ。後者の木村は場所的には372番地屋敷とは目と鼻の先ではあるが、前者の木村と同様に典型的な路地裏の居住者だった。
木村茂十は大正5年12月24 日に69歳で殁っしていた(合葬者の行年36歳の女性は大正5年11月15日殁)。この茂十一家の本家に当たる木村駒吉ー恒松ーー理人一家が恒松の死後何らかの事情で自宅を売り払い路地裏住まい(α)を余儀なくされていたことが、今回の調査で、判明した。合わせてこの一族のSK(1937-‐1974、実は私生児)は苦学して公立大に進学し、教師になっていたが若くして病死(本当は自殺)していたことを今回の墓石調査などで知った。そういえば高校時代の進学就職問題で悩んでいた時、SKが一度わたしの家をたずねて来て進学を進めたという親父の話を今でも思い出す。夕方の来訪だったが、大学進学の問題で木村君が相談に来たので奨学金を得てのことになりそうだが進学を奨めておいたという話を母親にしているのをいまでもよく覚えている。そのSKが37歳の時に自殺していたという話は姉から聞くまでは知らなかった。時々、墓参をしている人をみかけるので、それはSKの息子さんだろうか。
なお、今回発見した木村家墓地内に木村茂十の孫「光善童子」のお墓を探したが見つからなかった。木村家の墓地は我が家の新墓地の近辺に立地するがいつも綺麗に除草されている。

てな状況で未だに木村浅次郎さんの出自に関しては把握しきれていない。
コメント

高島平三郎が敬愛した恩師門田重長のお墓探し

2019年03月02日 | 断想および雑談
史料取りを終え、歩いて駅まで引き返したが、膝の調子が悪いため、タクシーで高島平三郎の生家があった木之庄町へ(徒歩でも10数分程度の距離)。そこの通称仁伍墓地(木之庄町字尾ノ上)へ。高島は帰省(正確に言えば来福)した時は恩師門田重長のお墓参りをしていたらしい。
下車したところに興味深い墓石を発見高島平三郎の家は曹洞宗だったので、もしかしたらと思い写真に収めた。13時2分に付近で見つけた河村秀行翁(1853-1918、蚕病消毒用の河村式噴霧器の考案者、福山市住吉町、画家鎌田呉陽第二子))墓。 この河村氏を捉えて、墓地が近接することから、次に紹介する上有地出身の河村の一族だと誤解するところだったが、両者はまったく異なった系譜関係を有する人たちだった。T.ギロビッチ(『人間 この信じやすきもの-迷信・誤信はどうして生まれるか-』、新曜社)流の言い方をすればとかく人間は誤りやすく信じやすい。前後関係と因果関係を取り違えたり,ランダムデータに規則性を読み取ってしまったり,願望から事実を歪めて解釈したりする。2つの河村氏を十分吟味もせず、お墓が隣接しているからという理由だけで同族だと見なしてしまうといった誤謬は前後関係と因果関係の取り違えとか願望や期待が多き過ぎると惹起されやすくなる認知的とか動機的とか言った類の誤解に当たるのだろ。
墓誌を書いた平川良坪は山路機谷のところに厄介になっていた森田節斎の弟子平川鴨里のこと。

ちょっと離れた処(城見町の本行寺管理の墓地の中)にあった河村墓。こちらには出身地上有地の記載があった。


13時9分




13時18分 門田重長(1831-1915)墓(Y)を発見。この門田は森戸辰男の恩師でもあった人だがすでに無縁墓状態だった。ちょっと気の毒  安部諭吉は高島の両親の墓とこの門田のお墓を「ほど近き」(安部諭吉「晴洲高島平三郎先生」、『高島先生 教育報国60年』、昭和16、188-192頁)と説明しているので賢斎夫婦墓も同じ仁伍地区にあったのだろ。
参考)洞林寺境内の北条悔堂墓



13時43分。墓地全体をブラブラしていて思いがけなく福田禄太郎墓(昭和12年建立)発見。禄太郎(1865-1931)は昭和6年歿、享年66歳。墓石には69歳で亡くなった夫人(1872-1941)と55歳(1898--1953)・32歳(1927-1959)で没した子息と孫2名+昭和60年歿寿実子(孫娘、1920-1985)享年65歳とあった。福田家の家族関係・家族状況が透かし見えてきそうな佇まいだ。

福山市木之庄町尾ノ上共用墓地。奥津城と書いた神道墓もたくさん見かけた。

東京帝大・生理学教室教授永井潜の弟・達夫が養子に行った河相保四郎家の墓地だ。仁伍墓地ではひときわ目立つ。白壁の塀に囲まれ、「河相保四郎一族之墓」と書かれた墓石が一基あるのみ(木之庄村字尾ノ上421番地、大正11年西町河相達夫名義で買得
。この土地は同年福山市へ移管。河相は大正12年に449番-2,450番の山畑も買得。こちらは農地解放で人手に渡る)。整理整頓が行き届いていた。河相達夫(1889-1966)は外務次官まで上り詰めた外務官僚だったが、10歳年下だった同郷の池田勇人(大蔵官僚→首相)とはなんとなくそりが合わなかったようだ。
達夫の婿入り先(明治期に最も栄えていた千田村庄屋河相家の分家筋:河相源三郎家の分家)が、幼少期からの知己で終生永井潜と家族付き合いしていた高島平三郎の御膝元であったとは・・・・。達夫の嫁は河相保四郎の養女となった、姪:河相トミ。



一応所期の目的を達したので、駅まで引き返す。高島平三郎の親父賢斎墓(明治25年歿)の傍には桜の木を植えたと書かれていた。空中写真ではその判読は難しいので、もし次に行く機会があったら木之庄~北吉津(實相寺)地区の墓地でその点(樹齢120年の桜木)を捜索をしてみよう。

古第三紀暁新世 の堆積物だろうか。福山城の立地する常興寺丘陵と同じ。











14時14分。所要70分間の門田重長墓探し旅であった。わりと今回も簡単だった。さてA~Dは何だったでしょ?
いま高島の生家のあった場所に関して、高島が残した文章からわたしが勝手に推察して水野勝俊墓のある日蓮宗の妙政寺墓地からA/Bにかけての丘陵部と睨んでいるのだが・・・・。さてさて実際はどうだったのだろ。

コメント

高祖母伊志(1820-1893)の実家跡と墓地探訪

2019年01月06日 | 断想および雑談
中世地名に「風呂ノ本」があったが、向かって左側の建物が風呂基薬師で共同井戸を挟んで右側が中組会館。 鞆往還よりここまではかなりの急坂(車道)。その谷筋に共同井戸が立地。共同井戸及び薬師堂・集会場が核となって柳津町中組が形成されているのだろ。家屋敷や山畑のいたるところに天水を貯留する水槽などの施設が目に付く。


屋敷跡・・・・平成3年に長市夫人が90歳近い高齢で亡くなるが、長市の息子たちは福山駅近くに居住していたのでこの屋敷地(7,8年前に訪れたときは門構えが残存)は他人Sさんに売却され、現在はこんな感じでSさんの住宅が立っている。となり(山側)は空き家。写真撮影のため、その家に近づくと一匹の痩せた野良犬が藁山の中から気まずそうに飛び出してきた。そしてその家の石崖下を見るとアオダイショウが・・・・。


路上で見かけた。むかし、水たまりに氷の張る10月下旬に岐阜県の石徹白(白山中居神社・・・何回か使ったことのある旅館名が富屋からいとしろ旅館に変わっていたの北方1キロの林道上)で冬眠遅れの蛇を見かけていらいのことだ。わたしの子供のころからの習性で、動物愛護の精神を忘れこの痩せた蛇をちょっといじめておいた。


慎ましい小ざっぱりとした墓地の全景  前列左端が山本勘一道詮(1882-1973)、隣の戦死者墓は長市の長男のもの。右端が長市の跡継ぎ(■1928-2011,夫人は健在)夫婦墓、その左側が長市夫婦墓、その後列向かって右端から2つ目で猫足がついたのが傳松(1847-1914)夫婦の墓。こじんまりとまとまっており驚き。寛政年間のものが最古(傳松の親が熊吉、その親が伝吉?。そうだったと仮定して伝吉の次女が高祖母伊志ヵ その場合は伊志は『過去帳』の記載通り、正しく傳松の伯母)。嘉永2年(1849)/享和元年(1801)/寛政?など江戸中期のものが山本家最古の墓石。


高祖母の甥傳松とその孫娘夫婦の墓。長市は教育長から市長になり、その在任中に死去。当時は福山市との合併問題があり、その過労死(市長のリコール問題が惹起、そのときの過労と心痛が影響)か。高祖母伊志の父親の墓を探したが見つからなかった。

この山本家は大正・昭和になってから徳島に塩田を2浜(肥浜・柳屋・番田・・・現在ハローズ、ブックオフ。福大通りを挟んで松永小学校校庭南端・Tsutayaの駐車場西隣)保有したり塩業組合専務理事や村長そして市長になる人物がご当主となるなどしているが、傳松の親の時代まではごくありふれた零細農家だったのだろうか。墓石から判断して社会的発出への分岐点は藤井与一右衛門(明治24年以前は岡本山路家)所有塩田に関わる傳松時代に訪れていたようだ。
長市の息子■の嫁の話では、昔のことはよくわからないと断ったうえで「山本長市家は昔から代々塩田関係の家だった」とか。昭和3年12月12日だから勘一の代に藤井与一右衛門から塩田(肥浜~番田)を買収していたことになる。塩田所有者は山本ツネ(勘一夫人)&山本アヤノ(長市夫人)名義。
典型的な新興製塩業者山本家の次女がわたしの高祖母だった訳だ。ただし明治26年没の高祖母が甥の傳松時代(傳松48歳時に高祖母伊志は没)に富裕化していく実家山本家のことをある程度見届けていたのではないかと思われる。戸籍上は「伝吉(=傳松の祖父)の次女」となっているが前掲のごとく我が家の過去帳に「傳松伯母」とあり、そう表現した祖父の気持が何となく分かるような気がする。なお丸山鶴吉やこの勘一は松永高等小学校時代の祖父の一学年先輩だった。

正面中央の道路が福大通り(県道)…徳島地区における1986年以前の塩田跡地の利用方法は分譲型宅地開発中心だった。山本家が所有する旧肥浜~番田浜は小学校用地として一部提供されたが、そういう意味では後発的(2000年以後)だった。その後福大通りの建設によって大規模用地に目を付けた郊外型量販店等が進出。塩田の跡地利用法として土地を細分するか、細分せず大型区画のままにしていたかによってその後の都市化の在り方に大きな差が出来た感じだ。


社叢林は旧清平大明神(橘神社)。背後の平坦地が字清平。丘陵下鞆往還沿いに字清平町(松永・下ノ町の続きで、かなり賑わいのあった町場)を形成。清平町出身の歴史上の人物といえば 影佐禎昭

風光明媚だ。ただし、集落内を行きかう坂道には往生させられた。


1月7日子孫の方と連絡が出来た。いろいろ話をしたが、転居の際にファミリーヒストリーを再構成するために必要そうな古記録などはすべて処分したとか。現在の松永小学校校庭、福大通りを挟んでハローズ・ブックオフはこの山本勘一家所有塩田(旧黒鉄屋藤井与一右衛門所有)跡地に立地している。
Xは山本勘一家墓地、Yは久井屋柳田(金十郎⇒光蔵、旧神職家系、写真の向かって奥側手前の万延元年墓は柳田家のファミリーヒストリーの見直しを行ったことを明記した先祖供養墓、その他は比較的小さな墓石群)家墓地。久井屋柳田家屋敷は現在畑。山本屋敷は前述した通り。正確に言うと久井屋屋敷跡の100メートルほど竹藪を上ると、そこにポツンと車道脇に山本家墓地がある


山路機谷の拠点を望む。


松永塩業史の研究者は塩田の跡地利用問題を含め、製塩業者(現在は〇〇地所経営)としての山本勘一家の足跡を調べてみるべきだった。相良英輔『近代瀬戸内塩業史研究』(清文堂、1992)に所収された「広島県松永塩田における小作経営の一形態」、212-236頁は岡田虎次郎・石井保次郎にスポットをあてているが、みごとにポイントを外した感じの論考だ。ちなみに大正3年に岡本組塩田組合長になり、昭和3年には藤井与一右衛門所有浜のうち肥浜を含む3つを買収したのは岡田ではなく山本勘一だった。
石井憲吉所有の塩田:三谷屋浜(大正4年寺岡為治郎⇒昭和4年神村から今津へ転居、昭和7年河本猛郎⇒昭和21年河本英太)と大西屋浜(大正4年橘高アヤコ⇒大正11年加藤保次郎⇒加藤シズ⇒昭和5年石井清一昭和7年河本猛郎⇒昭和21年河本英太)・久井屋浜(石井憲吉⇒大正4年寺岡為次郎⇒昭和4年神村から今津の転居)
今津島の北端にある三谷屋浜・大西屋浜は製塩面での立地環境は劣悪で寺岡・河本ら新興の製塩業者は経営面で不振を強いられてきたはずだ(河本英太談、平成29-30年)。

山本長市の息子の嫁の話(20190110)では実家を売却した時、昔の塩田関係の資料なども一切廃棄したとのことだった。村田露月は『柳津村誌』編纂時に山本勘一からいろいろ情報を集めたようだが塩業史研究者が聞き取り調査を開始した時、その相手は明治16年生まれの山本勘一よりも一世代新しい大正2年生まれの心石光雄(元松永塩業組理事長)だった。その点が何としても惜しまれる。

相良によると「瀬戸内塩田全体でも、また一塩田内でも塩業における経営形態は複雑である。しかしながら、今日まで塩業における経営形態の類型化は近世期を含めて試みられてこなかった。そこで本研究では瀬戸内全体を視野に入れ、先学の分析を援用しながら、塩業における経営形態について試論的な類型化を試みてみた。まず第一類型は自作経営である。複数の塩田を所有している地主の場合、たとえ番頭・支配人などが塩田経営を担当し、地主は直接経営に関与していなくても、最終的に利益、損失は地主に付することから、これを自作経営の範疇に入れる。第二類型は小作経営である。小作経営はさらに、経営者的性格の羽織小作と労働者的性格の大工小作に細分類する。第三類型は当作歩方制である、これは岡山県の野崎家塩田における経営方法である。当作歩方制は、労働者的性格を多分に持った小作人の経営であるが、その損益において、地主その他との間に歩合制を導入しており、本研究ではこれを折衷型と称した。以上、近代瀬戸内塩業における経営類型を大きく三つに分けて示した。本研究ではこれら三類型について、それぞれの特徴を詳述している」(相良英輔「近代瀬戸内海地域における塩業構造の研究」科研研究課題/領域番号:03610183、研究種目:一般研究(C))と。

関連記事

今回の高祖母の実家探しで得られた歴史研究上の知見としては❶沼隈郡新庄打渡坪付記載の字「風呂の本」の遺称地が判明したこと。❷久井平・清平といった小地名の中の「ひら」が山腹の小平坦地を指すこと。❸黒金屋藤井家による塩田経営は山本勘一が岡本組(岡本山路氏所有塩田を管理する団体)のトップであったことから勘案して、山路氏から買得後に始まったもので、製塩面・塩業経営面で小作人(現地マネージャー)依存する形で展開したもの。その中で有力小作人層(才覚のある小作人の中)から塩田地主が登場したこと。❹塩田の跡地利用に2パターンがあり、一つは塩田を小区画に分割し宅地分譲、今一つは大区画を温存したケースで、こちらが2000年以後郊外型のロードサイドビジネスを吸引し旧塩田地帯の商業業務地区化をもたらした、という点だ。旧塩田所有者の一部は土地を大規模量販店などに賃貸し、現在は不動産業に転業。
コメント

寛永10(1633)年巡見使国絵図 日本60余州図

2019年01月06日 | 断想および雑談
寛永10年の幕府による巡見使派遣の意味については表向きは道筋と国界の確認とされたが、本当の狙いは諸国の治政の監察であった(川村博忠「寛永10年巡見使国絵図 日本60余州図」解説、1-23ページ)。土佐藩主山内忠義の忠義公紀には幕府派遣の18名の上司に国々の道筋・城郭の状況・山海の難所など説明したとある。寛永の備後国絵図だ
図面の左下に「節用集」記載の郡名・14郡を並記する形で、巡見結果判明した郡名・15郡と備後国高の注記。





地図記号では太い朱線=郡境線、細い朱線=道筋、地名+俵印=村の名称、地名+赤い■・・・郡名か航路上の難所(阿伏兎)。桝形+文字注記「古城」・・・・古城、桝形+地名+城主名・・・・城下町。国界の道筋に関しては接続先の地名や峠名など記載。なお村の名前:萱村は現在は赤坂町内の大字だが加屋村(当て字が目立つのは絵師が地名を漢字表記された形ではなく音で聞いていたからだろ)。郡境の村でなかった今津・神村は無記載。地名の内、鞆と神辺は町の呼称がつく。すなわち鞆町、神辺町。
尾道ー高須の間の「古城」は御調郡内に図示されているので阿草地区にあった松尾城ではないということなのだろか。
山田ー田尻付近を通過する河川(「山南川」?)が芦田川の分流となっているのは明らかな誤記。沼田川と芦田川とが同一水系と言うに至っては最悪だ一般的に見ても寛永10(1633)年巡見使国絵図のむらの配置もそうだが、水系表現にはかなり問題がありそうだ。

【お話/お話】
最近(昨日)目にした記事だが、まず、九州往還の神辺ー三原間のルートに関して万治2年高須新涯が造成され今津ー高須ー坊寺口ー尾道ルートが開通し、その後糸崎経由で三原城下に抜ける道が出来たことで、神辺から今津・尾道・三原に至る現在のルートが完成した、と。この点は今回紹介した寛永10年巡見使備後国絵図をみても明らかなように誤り。参考までに、古志清左衛門豊長公の供養塔について付言しておくと、それ自体は後世の建立だったとしても、それが糸崎あたり(沼田―尾道間)に布置されたのは当然古志清左衛門が利用した街道がすでにそこを通過していたからに他なるまい。

『中書家久公御上京日記』には三原城→高森という城→高丸城(鬼など住みそうな怖い場所)→今津の町・四郎左衛門宅に一宿となっている訳だが、高丸城の語を見て、すぐに尾道市山波町の高丸山とか城址を残す尾道市向東町の高丸山城を想起したが・・・まあ、この辺の記述は少し時間をかけて慎重な分析が必要だ。

『沼隈郡誌』(郷土史家浜本鶴賓が中心)のどこかにどこからそんな話が飛び出してきたのか定かではないが、確か秀吉の九州行き時に今津―三成ルートが使われたと記述をしていたように思う(亀山士綱『尾道志稿』が言及)が、試みに天正15(1587)年島津征伐時における赤坂-三原間の里程6里(31㎞、但し1里=48町、『九州御動座記』に記載)と(朝鮮征伐時の肥前名護屋への下向記:『豊臣秀吉九州下向記(新城による仮題)』(文禄元年、1592)、備中・備後国境の川辺川(高梁川)より名護屋まで36町=1里とする一里塚の構築などに言及した道程記録)の方も山手の三宝寺から小早川の居城まで8里〈31㎞、但し1里=36町〉共に里程を268町としていたが、この数値が尾道経由と三成経由のいずれに合致するか、GoogleEarthを使った簡易実験してみよう。うん?・・・・・◎▽。やや三成経由のルートを想定した方が近道となり誤差が大きくなるようだが、大差はなさそう。
・・・・なるほどなぁ
ただ、秀吉の島津征伐に参加した天正15年「楠長諳(ちょうあん、楠木 正虎:1520年 - 1596年)下向記」によると小早川の居城下の「ぬた(沼田)」から尾道経由で備中井原に至っており。当時すでに寛永10年巡見使備後国絵図記載の西国街道は秀吉らが島津征伐からの帰還時に使っていたルートと同じものであったことが判る(九州史料刊行会編『近世初頭九州紀行記集』、九州史料叢書、昭和42、105頁)。

文政期の尾道宿本陣笠岡屋小川家屋敷の場所


所詮は日本地図を虫眼鏡でのぞかなければわからないような備後地方の小さな村でのお話、お話でした

関連記事
コメント

おやおや やっぱり-松永地区における宅地造成時の石炭燃焼滓利用状況調査-

2018年12月21日 | 断想および雑談
この間から線路わきの斎藤商店倉庫の敷地(本郷島旧鞆往還北側)を更地化。本日はその作業現場に潜入取材だ。目的はもちろん製塩業から排出された産業廃棄物:石炭燃焼滓(通称炭ガラ/石炭ガラ)の有無の確認だ。


場所はこちら
となりはかつて松永小学校敷地のあった土地の西隣だ。道路を隔て斜め向かいには大正期まで沼隈郡役所があった、そんな場所だ。明治初期までは農地だった場所で、明治・大正期以後に宅地化するに当たって埋め立て用に大量の炭ガラが投入されていた訳だ。



この写真を取るために作業現場に近づいたが、石炭燃焼滓独特の臭いが立ち込めツーンと鼻を突く。おそらく1000坪近い(現在はアパート)敷地全体がこんな感じなのだろう。





本郷島の明治~大正期にかけての町場形成は産業廃棄物としての石炭燃焼滓を埋立用土として使うことで成し遂げられていたことが確認できた。これまで町内各地の埋立用土を調べてきたが、どうも松永町内の戦前からの市街地(正確に言えば宅地化された場所)の地下には、東京都の豊洲埋立地で問題(この地域での土壌汚染は、かつての石炭から都市ガスを製造する過程において生成された副産物などによるもので、7つの物質:ベンゼン、シアン化合物、ヒ素、鉛、水銀、六価クロム、カドミウムによる、土壌及び地下水[六価クロムを除く]の汚染が確認されている)になったような石炭燃焼滓が大量に存在しているという点だ。断わっておくが、石炭には成分比に差こそあれ,必ず微量成分として土壌汚染対策法で規定する重金属類9物質を含む重金属が含まれている(一般財団法人環境イノベーション情報機構HP)。
科学的調査の結果を待っていうべき事柄ではあるが、問題は広範囲にわたり、相当に深刻そう


火力発電所の土壌汚染
関連記事
コメント

岡本山路氏(忠平・熊太郎父子)が建造した「王城楽土」の今

2018年12月16日 | 断想および雑談

今日は近くに行ったついでに岡本山路氏(忠平・熊太郎父子)が建造した誠にささやかだった「王城楽土」の今を訪ねてみた。この親子は京都などで勉強をし、沼隈郡内では並ぶものなしの豪農の子弟として、教養と共に散財することも覚えてしまったのか、文化交流(道楽・社交/信仰)の場を盛んに藤江の地に移植・建造し、近在近郷の村々に対しても様々の施設や物材等を奉納・寄進(ある種のheroic consumption /英雄的消費)した。

テレビのアンテナ(山路一雄の夫人が平成3年まで居住)。念仏院跡。




背後から見た山路家墓地・・・山路家の系図との照合作業を行うと何かが判ってくるかもしれない(わたし?当面予定なし)。
幼児死亡率高さが判る風景だ。


おやおや手向けられた菊が・・・打ち捨てられているぞ こりゃ烏の仕業だぁ?! 地元には山路家ゆ・かりの家筋の人がたくさんいて、山路のことに関しても一切沈黙を守るというのがこの部落の暗黙の了解事項のようだ。地域活性化のためにとか、何とかいう理由ではなく、唯々後世の為に、文化財とか文化資源のたゆまぬ保存発掘の努力を期待するばかりだ。町つくり協議会名で阿弥陀寺には啓蒙所(1872-1882)という石柱(2003年建立)が建てられていたが、廃墟がすっかり整理された栁見堂跡には山路家の個人のものとみなされたのかそれを記した標注は不在


山路一雄一家は東京より、疎開で、念仏院脇の小さな建物に住んでいた。この一雄氏が寄贈した山路機谷家資料は尾道市立図書館にある。数量的にはかなり少ない。『未開牡丹詩』関係のものとか森田節斎監修の史記研究書などが主なところ。なお、この方面での、わたしの山路機谷研究はすでに終了している。


巨大な山路機谷夫婦墓の墓誌。岡本山路家墓地の中心に自分たちのジャンボな墓石を配置。これは機谷の考え方とか人柄を反映したものだろうと思う。なお、夫人ミチは多くの文化人を輩出した旧沼隈郡山南村の名門・何鹿桑田氏(桑田次郎兵衛遜学の妹、広島に嫁いでいたが、離縁し(一説には離縁させられ)山路機谷=熊太郎重済と再婚したもの)。慶応2年11月はミチの外にも親族の不幸が相次いだ。
書字は宮原潜叟(節庵)

亡き友機谷の死を悼んで作った坂谷朗蘆の漢詩(屏風写真の向かって左端)を今津町のMさん宅で見たことがある。


機谷処士夫婦碑(生前墓)

意地悪く福澤諭吉(旧旧福山藩阿部家家令岡田吉顕の青年時代からの知人)のと比較しておこう。諭吉の墓は本堂脇。明治30年代のものとしては普通サイズ。
柳見堂(やなみどう)。こういうものは世話人「松兵衛」名義で山路機谷が建立した。現在は再建された荒神さんだけ。数年前まで廃墟状態のお堂が立っていた。このお堂から北側に大神社(だいじんしゃ)。僧侶の墓が4,5基(安永の年号が彫られたものがあった)


柳見堂跡地より見た太田神社&之保社の社叢林。




阿弥陀寺(安芸国海田の出身の僧侶:蘆萩が開基)境内の石塔。隣の神社(荒神さん)には新しい注連縄が張られ、この石塔には菊が手向けられていた。おなじような菊はこちらにも


阿弥陀寺は管理人を務めてきた神原さんが高齢でリタイア。いまは今津・蓮花寺(広田さん)が管理。


阿弥陀寺@御堂山
山路家の番頭:松兵衛の墓所・・数年前に墓じまい。あり。在りし日の生田(松兵衛)家墓地


中央に之保神社の祭神:山路之保墓・・・岡本山路家家の墓石はサイズ的には福山藩の家老クラス。尾道辺りの豪商の墓石など舟形光背墓だが相当にジャンボ。


之保墓の墓誌、塩田開発・帆布生産の奨励など民生面で尽力した人物だったのだろう。今日地元住民が20人くらいが「之保社」の祠に注連縄を掛けていた。新年に備え町内の注連縄をすべて架け替えるとか。但し太田神社はしないらしかった。之保という人物は桑田家の出らしい。あとで『沼隈郡誌』で墓誌銘全文を確認しておこう。写真の正面の大きな拝殿が太田神社(旧黄幡社)、向かって左側の小さな社が山路之保を祀った之保社。


こちらは機谷のお墓に比べるとかなり小ぶりの山路機谷の親父山路忠平(重信,鳳鳴)墓。山路家墓地ではご先祖を敬うというよりも万事、自分(=機谷)が中心で、それは間違いなくこの人物の意識の反映とみられる。なお、親父山路忠平の墓誌は彼の恩師、江戸後期に活躍した儒学者篠崎小竹(大坂在住)


山路機谷の息子:延太郎墓墓誌は森田節斎撰



矢印辺りが作田高太郎家の旧墓地

森田節斎夫婦が滞在した居宅は岡本山路屋敷の東にある溜池脇付近だった。


讃岐地方の名族・山路(山地)氏のルーツに関しては香川県多度津町内、(旧)白方村史編集委員会 編『白方村史』第三章、1955に詳しい。白方は丸亀平野西端・弘田川河口部/屏風ヶ浦一帯に立地。

「山地氏は系図によれば、敏達天皇より出る橘姓楠木氏流楠木正成の三世孫正則は十津川に居ること十余年、後ここを出て讃岐に来たり香川と氏を改め、後細川管領に属して氏を山地と改め、延徳元年三月廿一目卒した。その子元弘は山地左衛門督と称し、後土御門天皇の御宇、将軍足利義尚の文明年間讃岐に生れ、多度郡東白方に住し、細川管領に侍るその子元正は山地右京進と称し、文亀年中東白方邑に住し、細川管領家に侍り澄元の一字を賜い、多度郡東西奥三白方、那珂郡今津津森中府、三野郡庄内八箇村及び豊田郡伊吹島を領した。」→讃岐守護細川氏被官(守護代香川氏)。応仁の乱頃、伊予国弓削島荘に乱入した記録あり。

すなわち、東寺百合文書 『日本塩業大系史料編』古代・中世一 〔弓削島庄押領人交名案〕に
一、弓削島押領人事、①小早川小泉方、③能島方、②山路方此三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永尊口説記之、寛正三年(1462)五十七。
橋爪茂「室町期讃岐国における港津支配」四国中世史研究(2)、1992
別伝では南朝方の北畠氏一族の子孫だというもの。菅茶山は藤江山路氏を「南朝ノ遺民」と詠っているが両伝承共にそれに合致した内容ではある。



本日の収穫
藤江一番・賀佐屋大本家の井戸、藤江の井戸はすべてお金のかかるこんな感じの石井筒。






金江の「樋之堂跡」


山路之保らによって造成された藤江新涯、の樋門




才戸川の樋門


才戸川の潮留(河床の段差部分・・・海水の遡行終点はこの潮止より100メートル程度上流側)




山路理解の面では中山富広『近世の経済発展と地方社会』、清文堂、2005が参考になる。
山路鳳鳴・機谷らは「敬神崇拝の念が篤く、藩主には忠誠、庶民には仁恵を尽くした」(中山、70頁)といえるのであろうか。

 

 

コメント (1)

『自白法鑑』の序文?!

2018年12月06日 | 断想および雑談

人生の最晩年、てか死を悟った本荘重政が当時の心境をつづった序文だが・・・。
「予が倅悔ゆべし」と序文の前段で書いていた。息子自身が過去に犯した過ちを自ら悔いなさいというものだ。その点に関しては親として自分としても責任を感じていたのだろう。本庄自身「我もまた悔いてかくなむ」と。これに続けて、子として親の死体を路上に遺棄したりしていると世間から嘲笑されることにもなりかねないとの危惧の念までも記している。本庄重政父子の間には終生解消できない大きな心の溝(=わだかまり)のようなものが横たわり続けていたのだろうか。
それにしてもこんなことを書き残した親父本庄重政を息子はどういう思いで受け止めて来たのだろう。傷ついただろうな~。参考までに津田永忠の場合、馬鹿息子八助永元(梶坂左四郎)には大いに手を焼かされている
こどもの世話にもならぬ孤高の晩年状態にあったことを感じさせる内容で、文章全体は上手くはない(=ぎこちなさすらかんじさせる)が力み少なくやや自嘲的ともとれるユーモアが込められている。本荘は自らの戒名を定め逆修塔を建てて亡くなった訳だが、自嘲的ともとれるユーモアという点に関して若干付言しておくと、自分の死後を他人に託せないという自分でもどうしようもない本荘の性分(本荘自身が多用した言葉で言えば「妄想心」)が心理的な反動形成としてそういう表現を選ばせたとしか思えない。
平仮名で書かれたことには読み手を意識したちょっとした配慮とか、いな逆に何か深い意図が込められているとかそういう部分があるのだろうか。戒名は如風院澱前本庄憐情露石居士(大居士にあらず)。如風は禅的な響きをもつ語だが、自分がそうありたいと願う理想の境地を示したものだろか。(松永村の竹原屋)高橋景張の戒名「風月庵・・・・」も同様。






ひとまず誤植からはじまって、誤解の有無をチェックすることが先決・・・・原史料には当たっていないが特に問題はなさそうだ。

『松永町誌』366頁。

この文章は「書き集めて置きあらわせる反故」と謙遜表現をした本文=『自白法鑑』の序文とされてきたものだが、序文自体は逆修墓を建てた時の心境を吐露したものと考えた方がよかろう。
『自白法鑑』の文体とはかなり懸隔がある。

自白法鑑


最近の関連記事

重森 賴山陽の風景観批判(変・妙・絶・佳→賴山陽の風景に対する美意識はありふれていないこと、つまり珍しいもの=特化係数の「特大」に注目、本庄重政のいう「変」・「妙」は詩語 or NOT)

【メモ】全然関係のない話に飛ぶようだが、本荘重政の子孫に関しては『沼隈郡誌』中の浜本鶴賓の説明で納得するか、一大決心をして自分で徹底的に追究するかだが、私のように無関心のままでいるという第三の選択肢もありだ) 
コメント