- 松永史談会 -

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高島平三郎の演説スタイル

2014年10月24日 | 教養(Culture)
小野田亮正 著『現代名士の演説振』、博文館、明41.8

高島平三郎「新武士道の国際的運動に就いて」、少年団日本聯盟パンフレット、大正14年、1-52頁も講演を口述筆記されたものだった。内容的には、日清日露戦争と第一次世界大戦、および関東大震災後の荒廃した日本の社会状況を捉え、あるべき日本的倫理観を説いたものだが知性(舶来の話題)・感情(義侠心)・意思(実体験)といったものを巧みに操りながら、面白くわかり易い講演を展開。高島の偉いところは新武士道とか英国のゼントルマン精神といったものを引き合いに出す場合、見解はあくまでも健全な保守思想の範囲内、決してブルジョア的思考に偏したりすることがないあたりだが、いつもながらのbon sens(井上哲次郎のいう「常識」)をわきまえた内容で、物足らない部分もあるが、なかなか・・・・・。

英国のゼントルマンに関連して、日本語の中の「勿体ない」は世界中にない立派な言葉だと思う。これは足利の末、徳川の初めごろまではやくざもない、とか仕方がない」(・・・・・この部分意味不明。もしかすると誤植?or高島の誤解?)という意味だったが、今日では感謝の意味もあればお気の毒と言う意味もある。尊敬する意味もあれば愛慕する気持ちもあり、恐縮する心も懐かしく親しむ意味もあると思う。この勿体ない有難いという観念(or感情)は人間にはなくてはならぬこと。併し有難いと言えば道徳上の意味で、勿体ないと言うと宗教的な意味が入ってくる。英国のゼントルマンと言う言葉も、これと同じように一種特殊の包含的意味があるそうだ・・・・・(A)。

ところで「ゼントルマンと言う言葉は日本では紳士と訳されているが、周知のとおり、日本の紳士と言うものは夜一時ま過ぎまでも自動車へ芸妓を乗せて、ブーブー歩いてそうして方々飲んだくれになって歩く、日本では紳士と言う言葉は非常に悪い意味に使われている。情けない事」(47頁)だ、と。こういう紳士を引き合いに出して、子供を鼓舞していると子供の方は何も感化されず、逆に益々贅沢をするようになるだけ・・・・・(B)。

我が国ではいまでも田舎にいくと勿体ないという言葉が用いられているが、都会ではほとんど絶滅しかかっている。

むかしは母親から子供の喧嘩に敗けてべそをかいて家に走り帰ったり、弱いものを苛めたり、そして悪戯をしたときなど、母親から「お前は侍の子だろ」と戒められると、その都度きりっと身が引き締まる思いがした。人を鼓舞するときに「お前は日本男児だろ」とかいう調子で「少年団員ではないか」というだけで子供たちが自己を覚醒鼓舞出来るようになるところまで少年団運動をレベルアップして行きたいものだと・・・・・(C)。

ただ、ここでは新武士道という日本精神を、国際少年団運動の中で世界化するという論調は希薄で、やや英国流のゼントルマン精神を日本の少年団活動の中に浸透させるという方向での話に終わったような感なきにしもあらず。

この時の講演会には丸山鶴吉の岳父で、金沢県専門学校の学生当時の西田幾多郎の恩師北条 時敬(数学)も聞きに来ていたらしい。



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高島平三郎の『体育原理』等体育関係著書(共著を含む)

2014年10月24日 | 教養(Culture)
①高島平三郎著『体育原理』、育英舎、明治37年
②高島平三郎・富永岩太郎(共)著『体育及遊戯法精義・前篇体操之部』、同文館、明治40年
③元文部省体育遊戯取調委員:井口阿くり・可児徳・川瀬元九郎・高嶌平三郎・坪井玄道(共)著『改訂體育之理論及實際 : 全』、明治45年(初版:明治43年)、国光印刷。『體育之理論及實際』明治39年、国光社の印刷責任者は河本亀之助。

③は理論編、②は教育現場で役立つ実践編。③の刊行は出版社(国光社)側の事情で3年遅れの明治43年。執筆者が多く少し足並みがそろわなかったか。8人の委員のうち執筆に応じたのは5名。

序文は高島平三郎が書いている。委員会が発足して39年7月までの1年数か月の間に37回の会合(研究会)をもった。2週間に1回のペースだからかなり精力的に会は運営されたようだ。本書は文部省に提出された報告書の解説編という位置付。

5人の執筆者の分担は・・・・・




遊戯の実際運動、運動の生理・心理、疲労現象には言及できなかったと総括。この部分の一部が②で扱われることになったようだ。


こういう書物が刊行されたのは元文部省体育遊戯取調委員たちのチームーワークの良さもさることながら、やはり高島の手腕によるところ大だったろ。

高島平三郎は長野師範の雇教師を辞した後、成城学校嘱託を経て明治33年に日本体育会教師に。明治34年体育に関する学術取り調べの委嘱を受け、同年日本体育会幹事に。翌年日本体育会常務幹事兼体育学校長。明治37年文部省体育遊戯取調委員を委嘱され、日本体育会体育学校長を辞す。明治41年内務省感化救済事業講師(児童研究)を委嘱される。その間の成果が以下の著書だ。いずれも先駆的な業績だが、ことに高島平三郎著『体育原理』は我が国における体育学史上の名著とされる。

内務省感化救済事業講師を委嘱された時代(明治41年~)の著書に高島平三郎「現代の傾向と心的革命」洛陽堂 1910

高島平三郎と西川光次郎(光二郎)との接点が出来るのもこの時代だ。
西川の研究者田中英夫も大著『山口孤剣小伝』で同様の事を記述しているのだが、西川著『入神第一』によると出獄直後の経済的難局期に、西川「心懐語」に感激した高島が出獄直後の西川を支援すべく河本亀之助を使者に立てて、自らが主宰する「楽之会」に西川を引っ張り込んでいったと。

わたしは西川の言葉を信じるかって?

・・・・・・・  

高島と西川文子との接点は文子が京都府女学校国漢専攻科時代だったが・・・・・ご両人がそれを自覚していたか否かは不明。
大正3年までに洛陽堂(明治42年創業)から西川夫妻は各種の著書(何冊かは高島の序文つき)を刊行。

遊戯と言えば『ホモ・ルーデンス』の著者ホイジンガーを思い出すが、日本ではここで取り上げた高島平三郎が登場するまで人間教育の中での「遊戯」が果たす役割の大きさについて説得的に論述した人はなかっただろ。高島平三郎「新武士道の国際的運動に就いて」、少年団日本聯盟パンフレット、大正14年、1-52頁でもそのこと(=少年団活動における遊戯の持つ意義の大きさ)は明言されている。
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