かつて日本新聞に勤めていた時に「美しいこども」に興味を抱き、その方面の記事を書いていた明治43,44年に上梓された中村秋人編著の本だ。このテーマでは高島の弟子の下澤瑞世著『都会における美的児童研究』、洛陽堂、明治45がある。下澤の着眼点は面白いが、分析・解釈・論理化といった面はまことに稚拙でお粗末・・・・・
中村秋人『幼児保育 情と躾』、実業の日本社、明治44には高島平三郎らが特別寄稿している。話題は昭和天皇や秩父宮雍仁親王らの幼少期のエピソードをまとめた「皇太子殿下の御幼時」。高島は直接担当したようではないが、学習院の幼稚舎に勤務していて同僚からいろいろ情報が入っていたようだ。高島と明治天皇の第三皇孫高松宮ご夫妻とは終生交流があったようだ。
児童研究の大家:高島に序文を依頼したようだ。編者中村は当時22歳の若者であった。日本新聞での特集記事をまとめたもので、中村としてはライターとして独立したての頃の作品だ。
洛陽堂から出した『花園生活』は故郷(南国の内海に面した田園地方)に帰り北海道観光をしながらの著書だ。高島に頼んで洛陽堂から出版したもの。石川弘『田園生活』、天野藤男『田園趣味』など草花に関するものを洛陽堂はいくつか出しているが、洛陽堂は地方改良運動つながりで中村のものを出したようだ。洛陽堂は雑誌「白樺」の発行元らしく新人発掘とばかりに若手のライターの本をいくつか出しているが、こちらは下沢の一連の出版物を含め失敗作品の一つ。
草花を題材とした枕草子風の随想録だが、やはり時代を先取りするような文学性は不在。しかし、新聞記者らしくいろんな取材記事はその当時の事実を記録したものであり、資料的な価値はある。例えば名士(東京帝大教授)の居宅訪問で庭に草花を植えてそれを楽しむ当時の都会人の趣味に言及したり、高島平三郎の東京郊外大崎の望岳荘のこと(庭には老梅多く植えられていた)や娘さんの名前が百合子・菫子(すみれこ)・若菜子と高島の田園趣味から優しい名前にしたことなどに言及している。高島を「児童心理学の泰斗」と記し、欧風の書斎、階上の居間には和漢の書が壁をなしていたともルポ。
高島平三郎の息子たちの名前は文雄・武雄・忠雄など文武忠孝を念頭に置いたものだったとか
中村秋人『幼児保育 情と躾』、実業の日本社、明治44には高島平三郎らが特別寄稿している。話題は昭和天皇や秩父宮雍仁親王らの幼少期のエピソードをまとめた「皇太子殿下の御幼時」。高島は直接担当したようではないが、学習院の幼稚舎に勤務していて同僚からいろいろ情報が入っていたようだ。高島と明治天皇の第三皇孫高松宮ご夫妻とは終生交流があったようだ。
児童研究の大家:高島に序文を依頼したようだ。編者中村は当時22歳の若者であった。日本新聞での特集記事をまとめたもので、中村としてはライターとして独立したての頃の作品だ。
洛陽堂から出した『花園生活』は故郷(南国の内海に面した田園地方)に帰り北海道観光をしながらの著書だ。高島に頼んで洛陽堂から出版したもの。石川弘『田園生活』、天野藤男『田園趣味』など草花に関するものを洛陽堂はいくつか出しているが、洛陽堂は地方改良運動つながりで中村のものを出したようだ。洛陽堂は雑誌「白樺」の発行元らしく新人発掘とばかりに若手のライターの本をいくつか出しているが、こちらは下沢の一連の出版物を含め失敗作品の一つ。
草花を題材とした枕草子風の随想録だが、やはり時代を先取りするような文学性は不在。しかし、新聞記者らしくいろんな取材記事はその当時の事実を記録したものであり、資料的な価値はある。例えば名士(東京帝大教授)の居宅訪問で庭に草花を植えてそれを楽しむ当時の都会人の趣味に言及したり、高島平三郎の東京郊外大崎の望岳荘のこと(庭には老梅多く植えられていた)や娘さんの名前が百合子・菫子(すみれこ)・若菜子と高島の田園趣味から優しい名前にしたことなどに言及している。高島を「児童心理学の泰斗」と記し、欧風の書斎、階上の居間には和漢の書が壁をなしていたともルポ。
高島平三郎の息子たちの名前は文雄・武雄・忠雄など文武忠孝を念頭に置いたものだったとか