本庄重政による本郷川左岸の新田開発(17世紀後半期)の手法はいろいろ予期せざる環境問題を惹起するなど問題もあったが、それ自体としては当時の先進的な技術を取り入れたものであった。ただ、かつての沼隈郡松永村周辺の村々は本庄重政の新田開発によって多くのものを得ることが出来たが、同時に失うものも相当大きかった。

石井亮吉『松永塩業史・文化史の研究』、昭和48によると沼隈郡松永村発足時、庄屋には高須屋(麻生)治右衛門、宿老には島屋(村上)吉大夫を充て、塩田43浜(寛延4、1751)のうち、その所在地別所有者割合が、尾道:17、竹原:13、三原:1、沼隈郡内:12(藤江山路氏、東村石井氏、西村出身の旧水野家家臣・仲屋井手氏、沼隈町出身で西村井上氏とも関係の深かった大木屋岡本氏など)であったとしている。これらのことは本庄重政らの時代に始まる藩領経営のための新たな基盤造りが芸備一円から広く資本と人材とを確保するという形で行われたことを物語っていよう。
石井亮吉は石井友三郎の息子。

2月18日午前10時 雨天決行、黒川さん宅前に集合.、解散13時予定
本庄重政が手掛けた初期の干拓事業地:槙村新涯・神村新開、羽原川筋の潮汐限界点、千間悪水の取水口、
神村町郷倉、▽福寺墓地(本多藤橘・岡本織之助墓地)、上ノ町〇〇寺にて神像/仏像(木彫品)の鑑賞/拝観及び同墓地:高須屋麻生家・田島屋村上家墓地・東屋喜三次墓、松永剣大明神(中世のつる木浦界隈)、運河としての町裏川の痕跡確認を行う。
〇〇寺での拝観は12時より。

石井亮吉『松永塩業史・文化史の研究』、昭和48によると沼隈郡松永村発足時、庄屋には高須屋(麻生)治右衛門、宿老には島屋(村上)吉大夫を充て、塩田43浜(寛延4、1751)のうち、その所在地別所有者割合が、尾道:17、竹原:13、三原:1、沼隈郡内:12(藤江山路氏、東村石井氏、西村出身の旧水野家家臣・仲屋井手氏、沼隈町出身で西村井上氏とも関係の深かった大木屋岡本氏など)であったとしている。これらのことは本庄重政らの時代に始まる藩領経営のための新たな基盤造りが芸備一円から広く資本と人材とを確保するという形で行われたことを物語っていよう。
石井亮吉は石井友三郎の息子。

2月18日午前10時 雨天決行、黒川さん宅前に集合.、解散13時予定
本庄重政が手掛けた初期の干拓事業地:槙村新涯・神村新開、羽原川筋の潮汐限界点、千間悪水の取水口、
神村町郷倉、▽福寺墓地(本多藤橘・岡本織之助墓地)、上ノ町〇〇寺にて神像/仏像(木彫品)の鑑賞/拝観及び同墓地:高須屋麻生家・田島屋村上家墓地・東屋喜三次墓、松永剣大明神(中世のつる木浦界隈)、運河としての町裏川の痕跡確認を行う。
