どうしてこんな本をといった感じの書籍を出版した洛陽堂。経営者の嫁:河本テルが日本赤十字の看護婦時代に新聞記者の作り話よりも、現実を体験したその人の原稿を活字化したもののほうがよいといった意味のことを語っているが、この本もそういう当時の洛陽堂の方針とは矛盾をしないものだ。
序文は当時家庭教育問題について積極的に発言をしていた高島平三郎。高島は序文の中でよりよい子弟教育には子供のベビーシッターとか家族の一員でもある女中さんたち(教育機会に恵まれなかった女たちor無学な女たち)の修養/教育が欠かせないと述べている。
著者福鎌恒子と高島との関係は日本女子大での師弟関係か否か・・・・いまのところ未確認だ。
内務官僚岡村の『児童保護の新研究』は当時としては画期的内容(西欧列強のあり方を取り入れた兵力と労働力確保という視点からの児童問題把握)を含んだ書籍。高島の『教育に応用したる児童研究』、元良・高島・永井『児童学要綱』は当時の児童学研究の完成形を示すもので、元良ー高島がその中心にあり、彼らによる児童研究が心理学と医学との共同作業を志向していたことを示す。医学関係者には広島県出身者が多かった。
山本の『一日一善』はベストセラー本。
当時の洛陽堂は雑誌「白樺」の刊行など大正デモクラシーの時代を担う出版社へと驀進をし始めた時期に当たるが、玩具・子供服・遊園地・童謡など子供を取り巻く商業文化の興隆の中心の一角を高島児童学は占めていたし、洛陽堂は時流をうまくとらえ、なおかつ内務官僚をライターに起用するなど国策に沿った書籍を刊行していた。
袖珍本だ。
福鎌恒子が今日注目されるのは関東大震災の時に朝鮮人暴徒のうわさが広がり、横浜において地域住民らによって朝鮮人虐殺が行われた、その目撃談を以下のような形で『横浜地方裁判所震災略記』、112‐125頁に記述した点においてだ。
「(横浜)駅の右方がガードを越えし処にて黒山の如き群集あり何ときけば××××を銃剣にて刺殺しつつあるなり頭部と云はず、滅多切にして溝中になげこむ惨虐目もあてられず、殺気満々たる気分の中にありておそろしきとも覚えず二人まで見たれ共おもひ返して神奈川へいそぐ」(故横浜地裁福鎌文也検事正代理夫人・福鎌恒子・・・・福鎌は横浜地裁の「検事」であった夫君を関東大震災で失っている)。
横浜市震災誌
当時、素人ライターの原稿をずるずると出版した洛陽堂。こうした二匹目のドジョウ狙いは洛陽堂の経営状態にあまりプラスには作用しなかっただろ。気のせいか、わたしには当時の有名学者高島の著書や高島の息のかかった人物たちの書籍がやや目立ち過ぎかなぁと思える。
一度パチンコに勝つと味をしめて、次も勝てる、連敗しても、また勝てると思う種類(認識の違いに由来するタイプ)の誤解のことを認知論的誤謬というが、ある新人画家(竹久夢二)の画集で大もうけしたが河本亀之助の頭から離れなかったことが素人ライターの原稿をずるずると出版した背景にはあったのかなぁ~
下澤瑞世『都会における美的児童研究』、洛陽堂、明治45
福鎌恒子『奥様とお女中』洛陽堂、大正4の読解は後日機会を見ておこなう。
序文は当時家庭教育問題について積極的に発言をしていた高島平三郎。高島は序文の中でよりよい子弟教育には子供のベビーシッターとか家族の一員でもある女中さんたち(教育機会に恵まれなかった女たちor無学な女たち)の修養/教育が欠かせないと述べている。
著者福鎌恒子と高島との関係は日本女子大での師弟関係か否か・・・・いまのところ未確認だ。
内務官僚岡村の『児童保護の新研究』は当時としては画期的内容(西欧列強のあり方を取り入れた兵力と労働力確保という視点からの児童問題把握)を含んだ書籍。高島の『教育に応用したる児童研究』、元良・高島・永井『児童学要綱』は当時の児童学研究の完成形を示すもので、元良ー高島がその中心にあり、彼らによる児童研究が心理学と医学との共同作業を志向していたことを示す。医学関係者には広島県出身者が多かった。
山本の『一日一善』はベストセラー本。
当時の洛陽堂は雑誌「白樺」の刊行など大正デモクラシーの時代を担う出版社へと驀進をし始めた時期に当たるが、玩具・子供服・遊園地・童謡など子供を取り巻く商業文化の興隆の中心の一角を高島児童学は占めていたし、洛陽堂は時流をうまくとらえ、なおかつ内務官僚をライターに起用するなど国策に沿った書籍を刊行していた。
袖珍本だ。
福鎌恒子が今日注目されるのは関東大震災の時に朝鮮人暴徒のうわさが広がり、横浜において地域住民らによって朝鮮人虐殺が行われた、その目撃談を以下のような形で『横浜地方裁判所震災略記』、112‐125頁に記述した点においてだ。
「(横浜)駅の右方がガードを越えし処にて黒山の如き群集あり何ときけば××××を銃剣にて刺殺しつつあるなり頭部と云はず、滅多切にして溝中になげこむ惨虐目もあてられず、殺気満々たる気分の中にありておそろしきとも覚えず二人まで見たれ共おもひ返して神奈川へいそぐ」(故横浜地裁福鎌文也検事正代理夫人・福鎌恒子・・・・福鎌は横浜地裁の「検事」であった夫君を関東大震災で失っている)。
横浜市震災誌
当時、素人ライターの原稿をずるずると出版した洛陽堂。こうした二匹目のドジョウ狙いは洛陽堂の経営状態にあまりプラスには作用しなかっただろ。気のせいか、わたしには当時の有名学者高島の著書や高島の息のかかった人物たちの書籍がやや目立ち過ぎかなぁと思える。
一度パチンコに勝つと味をしめて、次も勝てる、連敗しても、また勝てると思う種類(認識の違いに由来するタイプ)の誤解のことを認知論的誤謬というが、ある新人画家(竹久夢二)の画集で大もうけしたが河本亀之助の頭から離れなかったことが素人ライターの原稿をずるずると出版した背景にはあったのかなぁ~
下澤瑞世『都会における美的児童研究』、洛陽堂、明治45
福鎌恒子『奥様とお女中』洛陽堂、大正4の読解は後日機会を見ておこなう。