大久保・平櫛家の第9代目又策(1873‐1968) 隣は明治4年没(享年48歳)の第七世彦助清忠墓。又策の親父の墓が・・・・第8世善四郎忠則(1846-1910)。大久保平櫛家は2代にわたって津ノ郷村青景氏から養子を迎える。第六世は小左衛門忠友(1798-1879)、青景栄蔵4男。女系一族のようだ。「幕末期今津宿図(1866)」では「又四郎」とある。隣家は「民蔵」とあるが平櫛「民助」の可能性も。又四郎の件に関してはその当時の平櫛家のご当主なら彦助のはず。善四郎は当時弱冠20歳。又四郎・・・・。それはともかく墓地は今津・善性寺の傍だが、菩提寺は本郷・東蔵坊。参考までに過去帳に記載された「小左衛門」は今津村元禄検地帳には不在(だが、寛政期には今津村組頭、松永村元禄検地帳には「小左衞門」あり)。近似した名前としては東・東剣脇に屋敷と田畑を持った「小右衛門」と柳津在住で字宮ノ下に田畑をもった小右衛門がある。
松永・承天寺にある東屋小川家墓地の墓石にある今津・平櫛とはおそらく昔からの姻戚関係からみて大久保・平櫛家のことだろうと思う。
大久保・平櫛家は又策の6女(末娘、大正9年生まれ、またさく54歳の時の子供、苗字は嫁ぎ先の苗字:川上)が健在で、今のうちに史料調査を済ませておかないと・・・・。本家は都会から帰ってきた未亡人の姉郁子が次いで、今はその子孫がご当主。公儀名は小左衛門か善四郎(前者の可能性大) 。元禄検地帳記載の「善四郎」をこれまで大久保・平櫛家と考えてきたが・・・又策さん作成の「過去帳」を見るとそうなっていない。
770番地「平櫛又四郎」は確かに明治・野取帳に記載在り、幕末~明治初期にかけての大久保平櫛家のご当主
東蔵坊遠景。弘徳協会での史料調査依頼に訪問。ここはなかなか時間のかかるところの印象。
中学時代の恩師のお墓詣り・・この寺の第十五世住職だった。お寺(大法寺)の参道、境内、居住棟などすべてが新装されていた。ここは本郷の板屋佐藤家(江戸初期の庄屋)の菩提寺。本郷銅山の実質的経営を古志氏から任されていた家筋でないかとわたしが推定している佐藤武彦家。そういえば本郷町御領の南続き、安毛の「金堀下池」あたりの丘陵(尾根筋)に居住する佐藤喜左衛門家あたりが・・・・・。信原家も本郷銅山一帯に山林をもつ。
昨年7月のゲリラ豪雨で城山の山体の一部が崩落。これが大法寺の参道正面の風景だ。
大法寺から松永湾方面を見ると、戸崎あたりが丸見え。大宝寺の立地点は城山(古志氏の居城)の眼下という場所だがここからのこの眺望は何か意味がありそうだ。たぶん、昔のことだから風水地理を考えた寺の配置だろう。
本郷温泉峡入口にある佐藤武彦家と大法寺は関係が深いようだ。佐藤武彦家は千人坑一帯の山林地主。
楼門が新築されたようだが、伝承では本郷・城山から移築された古志氏山城の城門だったといわれるもの。
本郷城山周辺には昌源寺(尾道・渋谷家文書48号に沼隈郡神村「正源寺」供僧田の記述あり)に城主古志の供養塔があり、そしてこの寺の傳城門遺構あり、さらには前述のとおり浦崎半島の松永湾の入り口が見渡せる樹木を伐採後の大法寺山門前といい、学問的にはなんの根拠も示せないが、わくわくするような歴史小説的な筋書きが描ける歴史の現場がわたしの脳裏に去来する。
本郷・石井一族の共同墓地@清光寺(毛利氏が破却)境内。福島・毛利時代を通じて石井家の菩提寺である神村・本郷の真言宗寺院はいずれも破却されたようだ(尾道渋谷家文書中の「打渡坪付」の分析にを通じて毛利氏による天正惣国検地を契機としてその痕跡を確認済⇒文化財ふくやま誌59号、2024に小論考「天正19年12月27日沼隈郡神村打渡坪付からみた・・・」という形で論究済)。毛利氏は山陽道筋の沼隈郡神村・伊勢宮さんをおそらく沿道の守護神として指定したのだろうか、「新座伊勢・・」という名前で給地を与えていた。
清光寺境内の石井家墓地
石井家墓地からの眺め
土井屋石井氏の家門
土井川と土井屋石井屋敷、大平山周辺に2,3町歩の柿畑を経営
浄土真宗善性寺周辺に大久保平櫛家墓地を発見。古いお墓は整理されていて不在。小左衛門・善四郎などの名前を確認。ここでの収穫はこれだけ。
本日最大の収穫はこちら・・・この地方の墓地の配置と社寺建設時の大口寄進者との関係が少しわかりかけてきた。
機織屋岩井氏・竹原屋高橋氏は善性寺本堂裏に。竹原屋は本庄重政が塩田を造成したときに移住してきた製塩業者。大木屋岡本氏は神村・万福寺墓地。いずれも浄土真宗。高橋氏は竹原・尾道・浦崎に根を張っている印象だ。松永の形成に深く関わってもいる。
このずんぐりした太めの石柱墓は薬師寺墓地に一基ある(享保期の尾道屋の女房)。尾道屋は承天寺。
こちらは門人建立墓、機会があれば後日確認調査したい(調査済み・・『松永町誌』433頁記載の竹原屋高橋七左衞門維清の五男・高橋要平墓:ご本人は機織屋武井要助の女婿、子息は本家竹原屋高橋壽介=高橋西山の養子=高橋碧山、武井節庵の教え子)。墓石は神村萬福寺から現在地に移動したもの。
今津・善性寺門徒
村上憲平は竹本屋村上氏、もと高校校長。
史料調査の方は今秋ということで所蔵者の同意を得た。
松永・承天寺にある東屋小川家墓地の墓石にある今津・平櫛とはおそらく昔からの姻戚関係からみて大久保・平櫛家のことだろうと思う。
大久保・平櫛家は又策の6女(末娘、大正9年生まれ、またさく54歳の時の子供、苗字は嫁ぎ先の苗字:川上)が健在で、今のうちに史料調査を済ませておかないと・・・・。本家は都会から帰ってきた未亡人の姉郁子が次いで、今はその子孫がご当主。公儀名は小左衛門か善四郎(前者の可能性大)
770番地「平櫛又四郎」は確かに明治・野取帳に記載在り、幕末~明治初期にかけての大久保平櫛家のご当主
東蔵坊遠景。弘徳協会での史料調査依頼に訪問。ここはなかなか時間のかかるところの印象。
中学時代の恩師のお墓詣り・・この寺の第十五世住職だった。お寺(大法寺)の参道、境内、居住棟などすべてが新装されていた。ここは本郷の板屋佐藤家(江戸初期の庄屋)の菩提寺。本郷銅山の実質的経営を古志氏から任されていた家筋でないかとわたしが推定している佐藤武彦家。そういえば本郷町御領の南続き、安毛の「金堀下池」あたりの丘陵(尾根筋)に居住する佐藤喜左衛門家あたりが・・・・・。信原家も本郷銅山一帯に山林をもつ。
昨年7月のゲリラ豪雨で城山の山体の一部が崩落。これが大法寺の参道正面の風景だ。
大法寺から松永湾方面を見ると、戸崎あたりが丸見え。大宝寺の立地点は城山(古志氏の居城)の眼下という場所だがここからのこの眺望は何か意味がありそうだ。たぶん、昔のことだから風水地理を考えた寺の配置だろう。
本郷温泉峡入口にある佐藤武彦家と大法寺は関係が深いようだ。佐藤武彦家は千人坑一帯の山林地主。
楼門が新築されたようだが、伝承では本郷・城山から移築された古志氏山城の城門だったといわれるもの。
本郷城山周辺には昌源寺(尾道・渋谷家文書48号に沼隈郡神村「正源寺」供僧田の記述あり)に城主古志の供養塔があり、そしてこの寺の傳城門遺構あり、さらには前述のとおり浦崎半島の松永湾の入り口が見渡せる樹木を伐採後の大法寺山門前といい、学問的にはなんの根拠も示せないが、わくわくするような歴史小説的な筋書きが描ける歴史の現場がわたしの脳裏に去来する。
本郷・石井一族の共同墓地@清光寺(毛利氏が破却)境内。福島・毛利時代を通じて石井家の菩提寺である神村・本郷の真言宗寺院はいずれも破却されたようだ(尾道渋谷家文書中の「打渡坪付」の分析にを通じて毛利氏による天正惣国検地を契機としてその痕跡を確認済⇒文化財ふくやま誌59号、2024に小論考「天正19年12月27日沼隈郡神村打渡坪付からみた・・・」という形で論究済)。毛利氏は山陽道筋の沼隈郡神村・伊勢宮さんをおそらく沿道の守護神として指定したのだろうか、「新座伊勢・・」という名前で給地を与えていた。
清光寺境内の石井家墓地
石井家墓地からの眺め
土井屋石井氏の家門
土井川と土井屋石井屋敷、大平山周辺に2,3町歩の柿畑を経営
浄土真宗善性寺周辺に大久保平櫛家墓地を発見。古いお墓は整理されていて不在。小左衛門・善四郎などの名前を確認。ここでの収穫はこれだけ。
本日最大の収穫はこちら・・・この地方の墓地の配置と社寺建設時の大口寄進者との関係が少しわかりかけてきた。
機織屋岩井氏・竹原屋高橋氏は善性寺本堂裏に。竹原屋は本庄重政が塩田を造成したときに移住してきた製塩業者。大木屋岡本氏は神村・万福寺墓地。いずれも浄土真宗。高橋氏は竹原・尾道・浦崎に根を張っている印象だ。松永の形成に深く関わってもいる。
このずんぐりした太めの石柱墓は薬師寺墓地に一基ある(享保期の尾道屋の女房)。尾道屋は承天寺。
こちらは門人建立墓、機会があれば後日確認調査したい(調査済み・・『松永町誌』433頁記載の竹原屋高橋七左衞門維清の五男・高橋要平墓:ご本人は機織屋武井要助の女婿、子息は本家竹原屋高橋壽介=高橋西山の養子=高橋碧山、武井節庵の教え子)。墓石は神村萬福寺から現在地に移動したもの。
今津・善性寺門徒
村上憲平は竹本屋村上氏、もと高校校長。
史料調査の方は今秋ということで所蔵者の同意を得た。