明治期に復活する京都の豊国神社と豊国祭(豊臣秀吉の慰霊施設とその関連行事)には旧広島藩主浅野氏が大きくかかわっていたことが判る。
陣屋町・備中足守藩主の木下氏もそうだ。(参考までに、浅野・木下の両家は関ヶ原合戦後もお家取り潰しとならなかった秀吉ゆかりの家筋。徳川時代は京都の方広寺は幕府から言いがかりを付けられ潰され、豊国神社及び京都駅の東側に位置する阿弥陀寺山山頂の秀吉墓(豊国廟)も同様の措置がとられていたが、方広寺以外は明治維新後旧広島藩主浅野氏らは中心となって京の地にその再興が図られた。)
丸山鶴吉の口利きが成功したと丸山自身は書いていたが、阿部家の老家令岡田吉顯を動かして誠之舎舎長になった高島平三郎の消息が伝えられている。旧福山藩領内出身の学生たちのために二十年間以上も舎監として高島夫妻は献身した。
広田理太郎といえば加藤タキの祖父。小田勝太郎は加納治五郎門下の柔道家で誠之館中学で教鞭をとった人だが、高島とは幼馴染だったようだ。 宗教者(高野山大学)融道玄の実兄。沼隈郡高須村出身の医師(法医学専攻)三島粛(肅)三の名前もある。阿部正直は旧藩主の息子で丸山鶴吉が一時家庭教師をつとめた。蛇足ながら、阿部正直が持っていた渡辺修次郎『阿部正弘事蹟』、1910は現在私の手元にある。
誠之舎記念祭はいろいろ余興に工夫が凝らされていたようだ。小此木為二という名前を見かけたのでちょっとgoogleしてみたら東京商大(専門部)教授(商業英語)だったようだ。丸山鶴吉や三島粛三と同じ年ごろの人物だった。逐一調べていけば旧福山藩領出身の当時のエスタブリシュメントたちの生き方が判ってくるかも。
神田駿河台カフェブラジル・・・・沼隈郡神村出身の名方担一経営。
高島は小田勝太郎『阿部正弘公』を摂政宮に献上することを助言している。高島は学習院幼稚舎・初等部の教員時代に華族の人たちとのコネを得たようだ。二荒伯爵(旧宇和島藩主伊達宗徳の九男)とは、少年団(ボーイスカウト)日本連盟等(総長は後藤新平)を通じても昵懇だった。後藤新平と広田理太郎は親戚。丸山鶴吉などは後藤新平(朝鮮総督斎藤実とは幼馴染)の世話になった。後藤の女婿が鶴見祐輔で鶴見は丸山と昵懇だった。高島は高松宮妃の花嫁教育に参画している。
高島の外遊壮行会を兼ねた飽薇同好社集会・・・・参加者の中に作田高太郎も。旧広島藩重臣小鷹狩翁はペギー葉山の曽祖父。挨拶は花井卓蔵。花井と高島とは共に長谷川櫻南の門下。高島の長男文雄(明治28生)は東京帝大出身の弁護士になるがもしかすると大物弁護士花井の影響があったかも
高島の教育家としての生き方には首尾一貫したものが感じられる。ただ、かれの生きた時代は日清・日露から第二次世界大戦までと戦時教育への貢献が求められた。そういう意味では人一倍(良い意味での)忠君愛国思想に傾倒し、報国精神旺盛だった高島の人柄からみてまことに気の毒なことであった。高島を終生恩人とした東京帝大名誉教授永井潜(一八七六-一九五七)は東京帝大医科生理学教室の第二代目の教授だったが、「利を求めて病を追わざる者は下医、病を究めてこれと闘うものは中医、病める人を知ってこれを癒さんとするものは上医、病める国を憂いてこれを医せんとするものは大医」というの医道観を持ち出して「広島医学」誌上では自己の生き方を合理化したりしているが、東京帝大医科内部では「狭義の生理学者として最近堕落した研状態にある」という形で、自己批判を迫られていた。
陣屋町・備中足守藩主の木下氏もそうだ。(参考までに、浅野・木下の両家は関ヶ原合戦後もお家取り潰しとならなかった秀吉ゆかりの家筋。徳川時代は京都の方広寺は幕府から言いがかりを付けられ潰され、豊国神社及び京都駅の東側に位置する阿弥陀寺山山頂の秀吉墓(豊国廟)も同様の措置がとられていたが、方広寺以外は明治維新後旧広島藩主浅野氏らは中心となって京の地にその再興が図られた。)
丸山鶴吉の口利きが成功したと丸山自身は書いていたが、阿部家の老家令岡田吉顯を動かして誠之舎舎長になった高島平三郎の消息が伝えられている。旧福山藩領内出身の学生たちのために二十年間以上も舎監として高島夫妻は献身した。
広田理太郎といえば加藤タキの祖父。小田勝太郎は加納治五郎門下の柔道家で誠之館中学で教鞭をとった人だが、高島とは幼馴染だったようだ。 宗教者(高野山大学)融道玄の実兄。沼隈郡高須村出身の医師(法医学専攻)三島粛(肅)三の名前もある。阿部正直は旧藩主の息子で丸山鶴吉が一時家庭教師をつとめた。蛇足ながら、阿部正直が持っていた渡辺修次郎『阿部正弘事蹟』、1910は現在私の手元にある。
誠之舎記念祭はいろいろ余興に工夫が凝らされていたようだ。小此木為二という名前を見かけたのでちょっとgoogleしてみたら東京商大(専門部)教授(商業英語)だったようだ。丸山鶴吉や三島粛三と同じ年ごろの人物だった。逐一調べていけば旧福山藩領出身の当時のエスタブリシュメントたちの生き方が判ってくるかも。
神田駿河台カフェブラジル・・・・沼隈郡神村出身の名方担一経営。
高島は小田勝太郎『阿部正弘公』を摂政宮に献上することを助言している。高島は学習院幼稚舎・初等部の教員時代に華族の人たちとのコネを得たようだ。二荒伯爵(旧宇和島藩主伊達宗徳の九男)とは、少年団(ボーイスカウト)日本連盟等(総長は後藤新平)を通じても昵懇だった。後藤新平と広田理太郎は親戚。丸山鶴吉などは後藤新平(朝鮮総督斎藤実とは幼馴染)の世話になった。後藤の女婿が鶴見祐輔で鶴見は丸山と昵懇だった。高島は高松宮妃の花嫁教育に参画している。
高島の外遊壮行会を兼ねた飽薇同好社集会・・・・参加者の中に作田高太郎も。旧広島藩重臣小鷹狩翁はペギー葉山の曽祖父。挨拶は花井卓蔵。花井と高島とは共に長谷川櫻南の門下。高島の長男文雄(明治28生)は東京帝大出身の弁護士になるがもしかすると大物弁護士花井の影響があったかも
高島の教育家としての生き方には首尾一貫したものが感じられる。ただ、かれの生きた時代は日清・日露から第二次世界大戦までと戦時教育への貢献が求められた。そういう意味では人一倍(良い意味での)忠君愛国思想に傾倒し、報国精神旺盛だった高島の人柄からみてまことに気の毒なことであった。高島を終生恩人とした東京帝大名誉教授永井潜(一八七六-一九五七)は東京帝大医科生理学教室の第二代目の教授だったが、「利を求めて病を追わざる者は下医、病を究めてこれと闘うものは中医、病める人を知ってこれを癒さんとするものは上医、病める国を憂いてこれを医せんとするものは大医」というの医道観を持ち出して「広島医学」誌上では自己の生き方を合理化したりしているが、東京帝大医科内部では「狭義の生理学者として最近堕落した研状態にある」という形で、自己批判を迫られていた。