今津宿に大成館という漢学塾を開いた三吉傾山に関して『沼隈郡誌』の誤りが、そっくりそのまま村上正名『福山の歴史』上下、昭和53、歴史図書社に受け継がれていた。
菅茶山は江戸時代後期の儒学者・漢詩人で、1748-1827年までの80年の人生であった。しかるに三吉傾山の生涯は1836-1879年。従って三吉と菅茶山との間には時代的な接点はなく「幼くして菅茶山に学ぶ」といったことはなかったのだ。この辺(史料批判が不在といった面で)の脇の甘さが村上正名にはあったかな~
『福山の歴史』、筆者のこれまでいろんなところに執筆した文を集成した教養書だが、その教養書という性格を配慮した結果なのか集成される段階にオリジナルな論考段階に依拠したはずの参考文献リストなどがすべて抜け落ちている。先行する研究成果に依拠しているのが明白なのに・・・・、この辺がまことに惜しまれる。村上辺りは今津宿に寛塾を開いていた江戸人で漢詩人・書家:武井節庵の存在には気づかなかったようだ。
沼隈郡誌の三吉傾山の紹介記事(A)には傾山が菅茶山に師事したと記述。(B)は同書が所収した三吉傾山の墓誌。この中では「読書は神辺の菅氏塾」で学んだとあるだけ。
鴎外:備後人名録@東大図書館・鴎外文庫
菅茶山は江戸時代後期の儒学者・漢詩人で、1748-1827年までの80年の人生であった。しかるに三吉傾山の生涯は1836-1879年。従って三吉と菅茶山との間には時代的な接点はなく「幼くして菅茶山に学ぶ」といったことはなかったのだ。この辺(史料批判が不在といった面で)の脇の甘さが村上正名にはあったかな~
『福山の歴史』、筆者のこれまでいろんなところに執筆した文を集成した教養書だが、その教養書という性格を配慮した結果なのか集成される段階にオリジナルな論考段階に依拠したはずの参考文献リストなどがすべて抜け落ちている。先行する研究成果に依拠しているのが明白なのに・・・・、この辺がまことに惜しまれる。村上辺りは今津宿に寛塾を開いていた江戸人で漢詩人・書家:武井節庵の存在には気づかなかったようだ。
沼隈郡誌の三吉傾山の紹介記事(A)には傾山が菅茶山に師事したと記述。(B)は同書が所収した三吉傾山の墓誌。この中では「読書は神辺の菅氏塾」で学んだとあるだけ。
鴎外:備後人名録@東大図書館・鴎外文庫