- 松永史談会 -

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病める国を憂いてこれを医せんとするものは

2019年08月03日 | 断想および雑談

雑誌「広島医学」10-7(1957-7)に「永井潜先生を憶ふ」という特集が組まれている。その中に「利を求めて病を追わざる者は下医、病を究めてこれと闘うものは中医、病める人を知ってこれを癒さんとするものは上医、病める国を憂いてこれを医せんとするものは大医」という東京帝大名誉教授永井潜(一八七六-一九五七)の言葉(医道観)を紹介したのが永井の教え子、沼隈郡高須村出身の医師:三島粛三(丸山鶴吉と同年代、関東大震災時に一家被災、ご本人は東京帝大に提出予定の法医学関係の学位論文用のデータなどを失ったことがもう一つの大きなダメージ)だった。

 

 

この言葉のルーツを最近になって知った。 唐代の名医、孫思邈(そんしばく)の著書『千金方』にある「上等の医者は国を治す、中等の医者は人を治す、下等の医者は病気を治す」という言葉がそれだったようだ。

永井は竹原の出身で,幼少期長谷川桜南を慕って,松永浚明館という漢学塾(明治16-18)で勉強していたときに、高島平三郎(写真は明治18年初秋/旧暦7月撮影、椅子に座るむかって左側の男性が永井に出会った当時の高島)と出会い、その才能を惜しんだ高島が、漢学塾をやめて師範学校付属の小学校に行くように説得。その後誠之館⇒第一高等学校(独語)から無試験で東京帝大医科に入学し、生理学教室の第二代目教授になった御仁。ドイツ・優生学の我が国への導入者として戦前の国家主義に魂を売った医者だが、著書には純粋な医学関係よりも哲学関係のもの,今日風にいえば生命倫理学方面のものが多い。終生高島平三郎を恩人として慕った。永井は岡山県井原出身の日本のビール王馬越恭平の甥に当たり、沼隈郡水呑村出身の帝室制度研究の権威で古典籍研究者(東京帝大史料編纂官・教授)だった和田英松の親族。永井の実弟が河相達夫(元外務省事務次官・・外交政策面では大蔵官僚の池田勇人の後塵を拝す。墓地は福山市木ノ庄町仁伍墓地・河相家墓地)。

 

 

永井潜にかんし,江川義雄『広島県医人伝』(第一・第二)、第一巻分の46-47頁に紹介記事

 


最近永井の医学史研究の集大成『哲学より見たる医学発達史』、杏林書院、1950、1033+20頁の大著を入手した。古書店から届いたがまだゆうパックを開封していない。医学史研究では富士川游がとくに有名だが・・・・
町医者で広島県医学史研究家江川義雄(松永町出身)の場合、永井潜にかんし,江川義雄『広島県医人伝』(第一・第二)、第一巻分の46-47頁に紹介記事。
沼隈郡松永村出身の医者江川は富士川游に比べ永井は医学的業績面でこれはというものはないという言い方をしていたが、それはまったく正しい指摘なのだが、私などには、ドイツの優生学を我が国に根付かせようとした永井の精神(geist)には孫思邈の教えに忠実に足らんとしてちょっと力みすぎた印象を禁じ得ない。

大沢謙二述 東大生理学同窓会編『燈影蟲語』、昭和54年4月復刊(初版昭和3年)。

この本では大沢の後継者:永井について永井先生は恩師をまねて毎日乾布摩擦をしていると編集後記で。昭和53年段階には東京大学生理学教室では東条内閣に文部大臣をつとめた実験生理学の権威橋田邦彦の著書の宣伝を掲載。哲学史と生命倫理(優性思想)方面を主として研究した永井はいまの生理学教室では異端児・あだ花視されている対象か。

関連記事・・・後年永井は自身について、帝国大学教授としてその席を汚し、医学者としては堕落した生き方をしたと述懐。そういう心境に到達した時点でこの生理学者は完成されたと思われる。 唐時代の医書『千金方』については平安時代の『政事略記』巻95に登場
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「縄の比喩」のこと

2019年08月03日 | 断想および雑談


ヴィトゲンシュタインの「縄の比喩」とはギアツによれば以下のようなものだ。「縄というものは一本の縦糸端から端まで繋がってその独自性や特異性を定義し何らかの全体をつくっているのではない。重なり合うさまざまな糸が交錯しもつれ合う、一本の糸が終わるあたりに、別の糸が絡み、すべての糸がお互いに緊張を保って複合体をつくりあげ、部分的には途切れても全体的には繋がることになる」。ギアツはそうした糸をほぐし、複合体の複合性、つまり深い多様性を探ることこそ文化の分析が要請されているものだという。


ギアツの言う「縄の比喩」の原文をヴィトゲンシュタインの著書の中で探そうとしたが、いまだに果たせず。


ヴィトゲンシュタインの名言集

⇒「私たちが見ているのは、多くの類似性 ー 大きなものから小さなものまで ー が互いに重なり合い、交差してできあがった複雑な網状組織なのである」は雰囲気的には『縄の比喩』に似ている。

ウィトゲンシュタインにおける言葉の意味と哲学の意義



【メモ】この比喩を使った最初の論攷(1995年福岡アジア文化賞創設5周年記念フォーラムでの講演内容)で、クリフォード・ギアツ(小泉潤二訳)「文化の政治学-分解する世界におけるアジアのアイデンティティ-」、みすず416,1995,2-10㌻(クリフォード・ギアツ、小泉潤二訳編『解釈人類学と反=反相対主義』、みすず書房、2002,44-58㌻に転載)だ。むかし、事のついでに『ヴィトゲンシュタイン全集』の中にちょっと探してはみたのだが、そのときは発見できなかった。小泉はギアツの日本への紹介者として大いなる貢献をした人だ。ただ残念ながら、クリフォード・ギアツ、小泉潤二訳編『解釈人類学と反=反相対主義』、みすず書房、2002に関してだが、英語タイトルはGeertz著”The politics of culture:Asian identities in a splintered world and other essays”,2002という奇妙なものである。講演原稿など所収する形で小泉が「解釈人類学と反=反相対主義」なる独自のタイトル(英語版とはまったく異なるタイトル)のもと編集出版したものだ。本書において惜しまれるのは書名を『解釈人類学と反=反相対主義』とした根拠を説明するような小泉自身による説明が簡単な「注釈」「おわりに」で済まされ、しっかりとした論文解題が付されてはいないところ。Geertz研究者の中から彼を超えるような人は出ないとの印象を振りまいてきたのがまぎれもなく小泉潤二さんだった。

思うに、ギアツとの付き合い方だが、かれは自らの実証研究の至らなかった部分を文化人類学以外の学知(今回の場合は哲学者ウィトゲンシュタイン)を動員して補強しようとした人なので、まず、そうした実証研究中の問題点を洗い出しつつ、誤りを正していくことが先決だ。それが正しいGeertzとの付き合い方。  
ちなみにインドネシア・バリ島のNegara/伝統的小国家(藩国)をTheatre State(「劇場国家」)として措定したGeertzの在り方はビクトリア王朝期における英国(大英帝国)の国政の在り方を論じた.Bagehot(1826-1877)の”The English Constitution”(中公クラシックス『イギリス憲政論』、小松春雄訳)風の切口からインドネシア伝統的小国家Negaraを捉え、そこから透かし見えてきた儀軌を重んじ儀礼的細部に拘る社会的論理を必要条件としながら成立していた(人心を引きつけるための)Rajah/藩王の権威的側面だけをもって、これこそNegaraの本質だとしたもので、私などは、Geertzをかなり真剣に学習してきた人間だが、この人には古今の国家論を正面から捉え直すといったスケールの大きな学知的構えはまったく不在で、逆にインドネシアの離島に閉じこもって重箱の隅をつつくといった傾向が強く、そういうこともあって、Geertzのインドネシア研究には時として大いなる行き詰まり感を覚えさせられたものだ。

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