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松永史談会 令和5年1月例会のご案内(第一報)

2023年01月06日 | 松永史談会関係 告知板

松永史談会 令和5年1月例会のご案内(第一報)

日時と場所
1月27日 午前10-12時、『蔵』2階
話題 福山藩出身の歴史家&史伝作家渡辺修二郎(1855~1944?)考


①国会図書館デジタルコレクション中の「渡辺修二郎」関係書籍
②同上「渡辺修次郎」関係書籍
「備後福山阿部家史料」のデジタル化、史料編纂所 荒木裕行
東京阿部家資料目録

本林 義範「上野戦争における福山藩士の彰義隊不参加と山岡鉄舟 」、白山文学(東洋大学)57,2021(山岡鉄舟のお陰で彰義隊に加わろうとした江戸詰め福山藩士を説得し、その参加を取り止めさせさらには藩の重臣と掛け合い、朝廷へ申し立てを行って、同藩が朝廷からの嫌疑も受けないよう取り計らった事実が判明したという内容の論攷。)
彰)
・・・・本林氏翻刻の全生庵所蔵「萬延元申歳以来日誌書抜大畧」を翻刻(19頁以後)
「(前略)藩内ノ方向如何哉ト、重臣渡辺大助(総兵衛、『県史』近2、366頁)ニ迫リ候處、福山ハ兎モあれ、是迠之御恩義ヲ以、譜代恩顧ノ家々トシテハ、如何シテ傍観ナルベキヤ、仮令万石以上王臣ノ布告アリテ、大義名分ニ於テ止ヲ得ズト雖モ、東京ニ於テハ隠居阿部不争斎(六代藩主・阿部正寧)初メ一同、徳川御家ト存亡ヲ共ニ可成ト決答ナリ」(12頁)、つまり江戸詰め福山藩士達は全員で徳川家と運命を共にすべきと決まった、と言うのである。その中心人物として引き合いに出されたのが重臣渡辺大助。この人物(江戸詰・御年寄)は渡辺修二郎(幼少期の思い出として「明治元年旧暦10月車駕御東幸を大宮町氷川神社付近の通路脇で拝したとか、明治2年旧暦2月23日より3日間吹上御所の拝観が許されたため渡辺修二郎/隠居後、止水を名乗る阿部正弘公御用人兼勤渡辺三太平の、子息)は母親・義理の姉とともにそれを見物に旧江戸城の『半蔵門より御苑内に入り,一巡して竹橋門』より出ず」(『近世叢談』,23頁)との記述)の親族だったヵ(渡辺『阿部正弘事蹟』索引にも「渡辺総兵衛、のち大助」名は登場、濱野『懐旧紀事』の引用文献として「渡辺総兵衛筆記」の記載あり)。

⑥1月例会提供の話題の方向性:
幕末期の阿部家中の場合、前述した隠居阿部不争斎が佐幕派で江戸詰の家来はその影響を強く受けていた。そのためこの渡辺と尊皇攘夷でまとまっていた国元の藩士達(福山藩の主流である福山在住の老臣達は、賴山陽の影響を受け尊皇論者)との間には微妙な意識面での温度差があった。この辺りの温度差は写真に示したようなテクストの形式で残された両者(すなわち、①濱野章吉編『懐舊紀事-阿部伊勢守事蹟-』明治32刊と②渡辺修二郎著『阿部正弘事蹟』,明治43年刊)の藩主阿部正弘観に反映されていたのか否かと言った点を含め、(もしあったとすれば)①と②の間に見られる歴史制作あるいは史伝制作の外形的な在り方の差異(その背後に潜む各制作者たちの知/knowledgeあるいは認識の地平の在り方の違い)に焦点を当ててみようと思う)。
こういう方面での松永史談会の話題としては例えば(a)松永史談会2019年11月例会:高島平三郎に退治された「おややの火」及び当該怪異妖怪譚に仮託された民衆的知(folklore)や(b)松永史談会2019‐4例会:福山の嘯雲嶋業編「備後国名勝巡覧大絵図(復刻版)」についてや鑑賞・読解から分析へ-「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」中の沼隈郡表現にこと寄せて-等が関連してこよう。
いまのところ、③渡辺修二郎『評伝井上馨』同文館,明治30,(焉用氏(えんようし)=渡辺修二郎)、昨年12月例会でも一部言及した④渡辺修二郎『学商福澤諭吉』岩崎鐵次郎刊,明治33といった人物評伝なども視野に入れながらの話題(物語論/narratology:物語や語りの技術と構造の解明)を構想している。
【注意】井上馨の人物評伝については井上馨侯伝記編纂会・代表者:坂谷芳郎編『世外井上公伝」1-5、昭和9がある。長州閥の巨頭山県有朋の元書生二宮熊次郎が、頼まれて渡辺修二郎の著書の序文に書いた文面が(江湖→江湖新聞=佐幕派系ジャーナリズムと渡辺修二郎との関係を示唆?)。ちなみに二宮は渡辺よりも10歳も若い無名のジャーナリストだった。
そのため『評伝井上馨』は『学商福沢諭吉』同様に、よりいっそう、予め(井上馨のどういう側面をハイライト化したテクストで、それは妥当なものであると言えるのか否かを含め)史料批判orテキスト批判を要するのだ。
参考文献)例えばジェラール・ジュネット「物語のディスクール―方法論の試み」 や「物語の詩学 」続・物語のディスクールなど

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