参考メモ 融道玄に関しては融道男『祖父 融道玄の生涯』、2003.融ら明治期における古義真言僧侶としての宗教史的な評価は阿部貴子「真言僧侶たちの近代ー明治末期の『新仏教』と『六大新報』から」、現代密教23号、平成24,303-325頁。 思想的には融道玄は海外宗教学の紹介に終わった密教僧侶だが、その底流にはscience(唯物)-art(唯心)を論理化する途中で融自身行き詰ったからだと思う。あえて誤解を恐れずに言えばそれをうまく彼一流のレトリックでインテリたちを納得させてしまったのが物/心、水/油、主/客とかといった価値軸上で相反する両極に位置付けられるようなものを統合することを試みた西田幾多郎『善の研究』ではなかったか。 関連紹介記事(執筆中) 融道玄の東京帝大哲学専攻の先輩に心霊研究で東京帝大を追放された福来友吉(1869-1952)がいた。同年代(融は1872年、姉崎は73年生まれ)の宗教学者姉崎 正治とは第三高等中学-東京帝大哲学科と同じコースを歩む。 融道玄は哲学者(典型的な明治-大正期の御用学者)井上哲次郎門下(だが、明治30年に東京帝大に迎えられる融より5歳ほど年上の高楠順次郎に原始仏教研究面で薫陶をうけていたようだが、高楠自身からは美術史家のような職に就いたらどうかと言われ、誇り高き融は大いに憤慨)。梵語に造詣の深かった高楠(明治34年開講の梵語学講座では印度古文献=原典主義を推進)から見ればせいぜい英語・ドイツ語あたりでインドの原始仏教を研究していたに過ぎない融道玄などやはりどうしようもなくまどろっこしくとるにたらいない存在に感じられたのではあるまいか。 融は井上円了の哲学館(東洋大学)を媒介として、境野哲、渡辺海旭、加藤玄智、田中治六、安藤弘、高嶋米峰、杉村縦横とつながっていた。彼は高野山に妻帯肉食を持ち込んだ紛れもない”破戒僧”だったが同時に当時の停滞した日本仏教に対する改革運動の有力な推進者の一人でもあった。 『祖父 融道玄の生涯』というのを公立図書館に寄贈したが、送り主からは書評を求められている。
融道玄の両親:小田銀八夫婦墓(福山藩の郡方同心,小田家は芦品郡有地村出身)小田銀八の名前は福山藩による蝦夷地探査に携わった役人の中にも認められる。
「旧福山藩学生会雑誌」、明治33年に掲載された融道玄の小論文・・・進化論という当時としてはハイカラな言葉を繰り返し使いつつ、社会の発展に貢献することを通じて自己を磨いていく事の意義を論じたものだが、進化論に対する深い掘り下げはなく、中身は意想外に凡庸だ。