日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

竪琴の名手を見つけ出せ

2012-01-24 | Weblog
  サムエル記上16章 

  17節「サウルは家臣に命じた。『わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい』」(新共同訳)

  1節「主はサムエルに言われた。『いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした』」。サムエルの嘆き(15章35節)に対して、主は新しい王の登場を指示された。それはベツレヘムのエッサイの許を訪ねることであった。これは既にルツ記4章で予言されていたことである。ベツレヘムに行くならサウルは敵意を抱いて殺すという不安を告げると、主は若い雌牛を引いて行き、主に犠牲を献げるために来たと言いなさいと告げた。主が言われる通りにした(2~4節)。ベツレヘムの町の長老は不安げに出迎え、理由を尋ねたので、サムエルは主に犠牲を献げる為なので、身を清めて、いけにえの会食に一緒に来るようにと応えた。そしてエッサイとその息子たちをそこに招いた。そこで彼は長兄エリアブが、主の前に油を注がれる者だと思った(5~6節)。
  7節「しかし、主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る』」。これはサウルを教訓として伝える主の言葉である(9章2節)。エッサイはサムエルの前に面通しをしたが、主が選ばれる者は、エリアブでも二男アビナダブでも、また三男シャンマでもなかった。七人の息子はみな当たらなかったので、息子はこれだけかと尋ねるとエッサイは、末の子が残っているが今、羊の番をしていると言った。そこで彼を呼びに行かせた(8~11節)。
  12節「…彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ』」。サムエルの評価はダビデの内面性と思われる。神の物差しと彼の物差しが一致し、そこで油の入った角を取り出し彼に油を注いだ。主の霊が激しくダビデに降るようになった。これに対して主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった(13~14節)。何時の頃か判らないが、縦琴を奏でて心が安らぐというのは精神疾患と言えなくはない。サウルは家臣に、竪琴を上手に奏でる者を探して来るよう命じた(15~17節)。
  18節「従者の一人が答えた。『わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です』」。このダビデがサムエルから油注がれたイスラエルの王に相応しいことを、従者は知らないで評価したことになる。この選びの要となるのは、「主が共におられる人」という点にあった。早速サウルは、エッサイに使者を立て、羊飼いのダビデが召し出された。彼はサウルのもとに来て、王に仕えた。王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた(19~21節)。口語訳は「王はダビデを非常に愛した」となっている。サウルは父エッサイに羊飼いの身分から、王の護衛に引きたてたことを告げて了解を得ている(22節)。神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れたという(23節)。

  神の選びが人の側ではなく、神ご自身の計らいであることは、聖書に出てくるすべての人物に当たる(ヨハネ福音書15章16節、ガラテヤ1章15節see)。