日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

彼らの上に君臨する王の権能

2012-01-15 | Weblog
 サムエル記上8章 

  9節「今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい」(新共同訳)。

  1節「サムエルは年老い、イスラエルのために裁きを行う者として息子たちを任命した」。新しい王制国家の誕生であるが、そのきっかけは士師であり指導者であるサムエルの老齢から来ている。彼は二人の息子をその後継者に任命したが、彼らは父の道を歩まず、不正な利益を求め賄賂を取って裁きを曲げた(2~3節)。エリの息子と同じようである(2章)。イスラエルの長老は全員集まって、サムエルに息子たちが士師として相応しくないことを告げ、今こそ他の国々のように裁きを行う王を立てて下さいと願い出た(4~5節)。二人の息子がサムエル亡き後、不正な士師として立つことを回避しようとしたのである。
  6節「裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った」。彼らの高慢さと安直な解決を求める危険と、主なる神がイスラエルの唯一の王なる支配者であることを拒否し忘れさせることを感じたからである。しかし神は彼らの要求を退けなかった。そして王として君臨する権能を教えるようにと伝えた(7~9節)。
  王政を敷くとはどのようなものかを以下八項目列挙する。①あなたたちの息子を徴用する。戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせる(11節)。②千人隊長、五十人隊長として任命し、王の為に耕作や刈り入れに従事し、あるいは武器や戦車の用具を造らせる(12節)。③あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする(13節)。④あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える(14節)。⑤あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える(15節)。⑥あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる(16節)。⑦あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、⑧あなたたちは王の奴隷となる(17節)。
  18節「その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」。それにもかかわらず民はサムエルの声に聞き従わず「我々にはどうしても王が必要なのです」と主張した。そして他のすべての国民と同じように王が裁きを行い、陣頭に立って進み、戦かうと言った(19~20節)。サムエルは民の言葉をことごとく聞き、主の耳に入れた(21節)。やがてイスラエルの歴史には暴君的な王が登場するが、これはその予告となるのである。

  新約聖書にも王の存在を否定していないが、それは義と公平の神に服する限りに於いてであることを明確にしている(ローマの信徒への手紙13章1~4節)。


エベン・エゼル(助けの石)

2012-01-14 | Weblog
  サムエル記上7章 

  12節「サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けた」(新共同訳)。

  1節「キルヤト・エアリムの人々はやって来て、主の箱を担ぎ上り、丘の上のアビナダブの家に運び入れた。そして、アビナダブの息子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた」。6章21節の続きである。この日から20年間この場所に置かれていた(2節)。
  3節「サムエルは…『あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい』…」。サムエルの活躍が始まる。20年間に学んだことは何か。それは悔改めて主に立ち帰り、偶像を取り除き主に仕えることである。民はバアルとアシュトロトの神を取り除き、ただ主にのみ仕えた(4節)。シロにあった祭壇はペリシテによって破壊されていたので、サムエルはミツパにイスラエルを全員集めて断食し、「わたしたちは罪を犯しました」と告白した。サムエルはここで士師の働きとして民を裁いた(5~6節)。イスラエルがミツパに集まっていることを聞いたペリシテの領主たちは攻め上ってきたので、「我々の神、主の助けを求めて叫んで下さい」とサムエルに願った(7~8節)。
  9節「サムエルはまだ乳離れしない小羊一匹を取り、焼き尽くす献げ物として主にささげ、イスラエルのため主に助けを求めて叫んだ。主は彼に答えられた」。この祭りの最中にペリシテ軍が戦いを挑んで来たが、主は雷鳴をとどろかせ、混乱に陥れて、イスラエルの兵に打ち負かされた。ミズパからベト・カルの下まで追って行き討った(10~11節)。
  12節「サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けた」。口語訳「エベネゼル」(主はわが助け)である。神中心に生きるなら、神が味方して敵を打ち倒すことが出来るという教訓である。4章1節にも同地名があるが別の地である。ペリシテ人は鎮められ、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかった。サムエルの時代を通して、主の手はペリシテ人を抑えていた。ペリシテ人が奪い取っていたエクロンからガトまでの町とその周辺の村々は再びイスラエルのものとなった(13~14節)。サムエルは生涯、イスラエルのために裁きを行い、毎年ベテル、ギルガル、ミツパを巡り歩き、それらの地でイスラエルのために裁きを行い、彼の家があったラマに戻った。彼はそこでもイスラエルのために裁きを行い、主のために祭壇を築いた(15~17節)。

  キリスト者もまた主にのみ信頼する時(4節)、主はわが助けと告白できる。ここからローマ8章31節…もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」が示される。


主の御手は…人々の上に重くのしかかり

2012-01-11 | Weblog
 サムエル記上5章 

  6節「主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらした。主はアシュドドとその周辺の人々を打って、はれ物を生じさせられた。」(新共同訳)

  1節「ペリシテ人は神の箱を奪い、エベン・エゼルからアシュドドへ運んだ」。ペリシテは戦利品として神の箱を奪い、アシュドドにあったダゴン像の神殿に置いた。彼らはその箱の威力を噂に聞いていたが、今はそれが無力な箱と侮っていたのかも知れない(4章8節)。しかし翌朝ダゴンは箱の前にひれ伏して倒れていた(3節)。もとに戻したが翌朝もひれ伏し、頭と両手がもぎ取られ胴体だけの無残な形になっていた(4節)。また、主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらし、アシュドドとその周辺の人々にはれ物を生じさせられたとある(5~6節)。イスラエル敗北の原因となった神の箱はペリシテにも災禍をもたらした。可視的な単なる箱でしかないが、その背後に厳しい審判を下す見えない神の存在を示す物語であろう。
   7節「アシュドドの人々はこれを見て、言い合った。「イスラエルの神の箱を我々のうちにとどめて置いてはならない。この神の手は我々と我々の神ダゴンの上に災難をもたらす」。「神の手」とあるが、ここには箱を偶像視し、神を持ち運び利用する人間の愚かさをみる。ペリシテの領主が全員集まり、ダゴンの神殿から、災禍をもたらすこの箱を他所に移そうと話し合い、ガドに移された(8節)。すると主の御手がその町に甚だしい恐慌を引き起こした。町の住民は、小さい者から大きい者までも打たれ、はれ物が彼らの間に広がった(9節)。たまりかねてエクロンに移したところ、町の人々は、イスラエルの神の箱で我々を殺すつもりかと大声で叫んだ。やむなく、ペリシテの領主たちが集まって、元の所に戻ってもらおうということになった。エクロンの町全体に死の恐怖で包まれていたからである(10~11節)。「アシュドト」「ガド」「エクロン」はペリシテ五大都市に数えられる町であるが、「ガザ」「アシュケロン」にも及んだと思われる(6章4節)。これは「大地を荒すねずみ」(6章5節)が神の箱と結びついてペスト菌を持ち運んだ出来事と考えられている。死を免れた人々もはれ物で打たれ、町の叫び声は天にまで達したという(12節)。
  ヨーロッパでも近代に各地で都市化が進み、多くの森林が伐採された為にくまねずみが町にペスト菌を持ち運び、死の町を引き起こした歴史がある。十年毎に開催されているドイツのオーバーアマガウは、この歴史を背景にして起こったキリスト受難劇で、半年間村民あげて出演し、世界各地から観劇に訪れている。

  人は偶像礼拝の誘惑に陥り、神はこれを試練によって裁かれる(ヤコブ1章13節)。


神の箱は奪われました

2012-01-10 | Weblog
サムエル記上4章 
 
  17節「知らせをもたらした者は答えた。『イスラエル軍はペリシテ軍の前から逃げ去り、兵士の多くが戦死しました。…神の箱は奪われました』」(新共同訳)

  1節「サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。イスラエルはペリシテに向かって出撃し、エベン・エゼルに陣を敷いた。一方、ペリシテ軍はアフェクに陣を敷き~」。 これは6章まで続く神の箱の物語である。「サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ」とは、神の箱の出来事を通して、預言がなされたということである。つまり2章34節、3章11節に示された事柄が実現するのである。
  2節「イスラエル軍に向かって戦列を整えた。戦いは広がり、イスラエル軍はペリシテ軍に打ち負かされて、この野戦でおよそ四千の兵士が討ち死にした」。先制パンチを食らったのである。対ペリシテ戦で敗北したイスラエルは、その原因は神の箱を戦場に持ち運ばなかったことだと理解し、今度こそ契約の神が戦勝をもたらすと言ってシロからエリの二人の息子らも付き添って運び再度戦いに挑む(4~5節)。この時イスラエル軍は大歓声を上げた。それを聞いてペリシテ軍は驚き恐れたが、逆に士気があがった。
  9節「ペリシテ人よ、雄々しく男らしくあれ。さもなければ、ヘブライ人があなたたちに仕えていたように、あなたたちが彼らに仕えることになる。男らしく彼らと戦え」。この台詞はまるでイスラエルの神が告げているようだ。イスラエル軍はまたも敗れ、神の箱は奪われ、歩兵三万人と、箱の側にいたエリの息子二人も殺された(10~11節)。ダブルパンチでノックダウンしたのである。この敗北の知らせをベニヤミン族の男が衣は裂け、頭には塵をかぶった有り様で、その日のうちにシロに行って伝えた。この時、町全体から叫び声があがった(12~13節)。老いて眼が見えなくなっていたエリは、城門のそばの席でその状況を聞き息子たちも死んだことを知り、ショックであおむけに倒れ首を折って死んだ。彼は四十年民を裁いたという(14~18節)。
  19節「エリの嫁に当たる、ピネハスの妻は出産間近の身であったが、神の箱が奪われ、しゅうとも夫も死んだとの知らせを聞くと、陣痛に襲われてかがみ込み、子を産んだ」。彼女もこの悲しい知らせで陣痛が起き、子を産んだ。神の箱が奪われ、しゅうとも夫も死に、栄光はイスラエルを去ったと考えて、彼女は子供をイカボド(栄光は失われた)と名付けた。そして「栄光はイスラエルを去った。神の箱が奪われた」と言った(20~22節)。

  敗北と悲劇の原因は戦力の相違ではない。ペリシテ側には確かにペリシテの職業軍人と強固な戦力を保持していたが、神の箱が奪われるという宗教的信仰的な事柄であることを思い知らされる出来事である。「栄光はイスラエルを去った」との言葉がそれを示す(21節)。神の箱を担ぎ出すのではなく、「主の御声に聞き従う」ことこそ求められているのである(15章22節see)。

かつて日本も天皇を神に祭り上げ、「日ノ丸」の旗を掲げ「君が代」を歌い、天皇の写真に最敬礼をして、戦勝祈願をした。天皇神話を完全に払拭することこそが、十五年戦争後のepoch makingである。

どうぞお話しください。僕は聞いております

2012-01-09 | Weblog
  サムエル記上3章 

  10節「主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。『サムエルよ。』サムエルは答えた。『どうぞお話しください。僕は聞いております』」 (新共同訳)
  
  1節「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」。祭司を通して語られる主の言葉が少ないのは、エリと一族による祭司の働きの後退を指す。エリは老いて眼がかすんで見えなくなっていた(2節)。
  3節「まだ神の灯火は消えておらず…主の神殿で寝ていた」。灯火が消えていないのは、未だ夜明けではないことだが、主の言葉が臨むことが少ないけれども、望みはまだあることの象徴的な意味を読み取ることもできる。エリは自分の部屋だったが、サムエルは神殿で休んでいた。
  4節「主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、『ここにいます』と答えて~」。エリの許に行ったが「わたしではない。戻って休みなさい」と言われた。二度目も同じであった(5~7節)。三度目に呼ばれた時、お呼びになったのは主だから『主よ、お話しください。僕は聞いております』と応えるようにとエリはサムエルに告げた(8~9節)。彼は言われた通りに寝ていると主の言葉を聞いた(10節)。三度の呼び掛ける声でエリとサムエルは「主の言葉」であることを知る。口語訳「サムエルよ、サムエルよ」と訳す。強調する呼び掛けで、パウロが聞いた時も「サウロ、サウロ」だった(使徒言行録9章4節)。この時の少年サムエルの聖画がある。教会教育の原点がここに示される。ユダヤ教では12歳は現代でもバル・ミツワー(成人式)が行われ、律法の義務を負うという。神の言葉の啓示は、人の呼び掛けと異なることを知りたい。彼は「しもべは聞きます。お話しください」(口語訳)と応える。
  11節「主はサムエルに言われた。『見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう』」。サムエルに告げられた言葉は12~14節にあるが、その内容は、エリの息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のため、祭司の家をとこしえに裁くというと厳しい神の審判であった。朝まで眠り、主の家の扉を開いたが、エリは起きてきてサムエルに、主が何を語られたかを、包まず告げるようにと求めた。もし隠し立てするなら、神が幾重にも罰するようにと言った (15~17節)。                                         
  18節「サムエルは一部始終を話し、隠し立てをしなかった。エリは言った。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」。神の言葉は曲げることは出来ない。サムエルの包み隠さない神の言葉を、エリは受け入れねばならなかった。この姿勢が、彼の成長によって一層明確なものとなり、主が彼と共におられることを実証した(19節)。主の預言の言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった(イザヤ 55章11節see)。イスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認め、主は引き続きシロで御自身を現されたのである(20~21節)。

  ミッション・スクールでは、中高生の教育の見直しが求められている。今日のキリスト教会の盲点かもしれない。

口を大きく開き御救いを喜び祝う

2012-01-07 | Weblog
  サムエル記上2章 

  1節「…「主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き御救いを喜び祝う」(新共同訳)。

  1~10節」ハンナの祈り
  1節「ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う」。神への讃歌であるが、「マリア讃歌」(ルカ福音書1章47~55節)はこれを下敷きにしたと言われる。マリア讃歌と同じ神の救いを喜び祝うことから始まる(ルカ福音書1章47節)。
  3節「驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神 人の行いが正されずに済むであろうか」。傲慢を戒め、すべてを見通される神の前に謙虚になること。これはルカ福音書1章50~51節「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし~」に通じている。
  5節「食べ飽きている者はパンのために雇われ 飢えている者は再び飢えることがない」。ルカ福音書1章53節「飢えた人を良い物で満たし~」である。貧しい者を塵の中から立ち上がらせ、芥の中から高くあげ、主に逆らう者を闇の沈黙に落とされるという逆転が起きる(8~9節)。ルカ福音書1章52節に示されている。これはサムエル記に伺える主題となる事柄である(サウルとヨナタンの生涯、エッサイの息子の中から選ばれたダビデ)。
  10節「主は逆らう者を打ち砕き 天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし王に力を与え 油注がれた者の角を高く上げられる」。メシアの到来が予告される箇所である。
 12~36節 祭司エリに仕えるサムエル
  12節「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった~」。サムエルは祭司職の幼少教育を受けることになるが、その環境は甚だしく悪い。祭司の下働きは規定を破る違反行為をする。彼らは釜や鍋であれ、鉢や皿であれ、そこに肉刺しを突き入れた。そして突き上げたものをすべて、祭司のものとした(13~14節)。また祭司が献げる肉の脂肪を取る前に、生肉を要求した(15~16節)。更にエリの二人の息子は臨在の幕屋に仕える女たちと度々性的な関係を持った。彼らの不品行の噂をエリは耳にした。最早祭司の働きは失われていた(22~25節)。
  25節「一方、少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった」。俗悪な環境にあっても、それに染まることなくサムエルが成長したことを明らかにしている。神の守りがあったからだ。
  27~36節 エリと息子たちに対する審判の預言
  27節「神の人がエリのもとに来て告げた。『主はこう言われる。あなたの先祖がエジプトでファラオの家に服従していたとき、わたしは自らをあなたの先祖に明らかに示し~』」。先ずエリの祭司職への選びが回顧される。この特権と選びにも関わらずその聖なる職務を放棄している(28~30節)。そこで神は祭司の家系すべての腕を切り落とす日が来る(短命で終わる)。二人の息子ホフニとピネハスは同じ日に死ぬ(33~34節)。
  35節「わたしはわたしの心、わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立て、彼の家を確かなものとしよう。彼は生涯、わたしが油を注いだ者の前を歩む」。これはやがて登場するサムエルの予告である。エリ一族は物乞いをする(36節)。これはヨシア王宗教改革に直面した出来事と考えられる(列王記下23章8~9節see)。
  環境に支配されない人間形成は容易ではない(ローマの信徒の手紙12章2節)。

 御前に心からの願いを注ぎ出す

2012-01-06 | Weblog
  サムエル記上1章

  15節「ハンナは答えた。『いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました』」

  1節「エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る」。本章はサムエル誕生の記事である。エルカナにはハンナとペナニという二人の妻があった。ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった(2節)。シロの祭司エリ一家については、2~3章に出てくる(3節)。エルカナは毎年シロの祭壇に献げ物をし、妻たちと子供らに酬恩祭の会食(レビ記3章、7章11節以下)を共にしたが、ハンナには一人前で、ペナニには、子供らの分け前をも頂いていた(4節)。
  6節「彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた」。何故ペナニがハンナに敵対感情を抱いたか判らないが、ヤコブ物語で、子を授かるレアと不妊のラケルを思い浮かべるが、夫婦の関係が絡んでいるのかも知れない(創世記29章31節see)。泣いて、何も食べようとしないハンナを見て、夫エルカナはなぜ泣いて食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのかと問い質した(7~8節)。食事が終わり、ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。
  11節「そして、誓いを立てて言った。『万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません』」。彼女の誓願は、男子を授かるなら、その子を「ナジル人」として献げると言うものであった。長く主の前に祈っているハンナの口元をエリは注意深く見て、唇は動いていたが声は聞こえなかったので、彼女が酒に酔っているのだと思い、「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」と咎めた(12~14節)。ハンナは、「違います。わたしは深い悩みを持った女で、堕落した女だと誤解なさらないでくださいと言った。「主の御前に心からの願いを注ぎ出して祈る」は、詩62編2~3、8~9節に示されている祈りである。ハンナの祈りを見倣いたい。
  20節「ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた」。出産から一年後、エルカナは家族と共に年ごとのいけにえと、自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとした(21節)。しかしハンナはこの子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きますと申し出た。彼女の誓願は、主にサムエルをナジル人として献げることであったからである。夫エルカナは、これに同意した(22~23節)。誕生から三年目乳離れしたサムエルを伴って、母ハンナはシロの神殿に行き祭司エリと会う。ハンナは、この子供が主に祈って授かった子ですと告げる(25~27節)。
  28節「『わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です』。彼らはそこで主を礼拝した」。

主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく

2012-01-05 | Weblog
  ルツ記4章 

  14節「女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。」(新共同訳)

  1節「ボアズが町の門のところへ上って行って座ると、折よく、ボアズが話していた当の親戚の人が通り過ぎようとした。「引き返してここにお座りください」と言うと、その人は引き返してきて座った」。物語の終盤である。「折よく」とは、ゴーエールの責任を果たす人物と出会ったことだが、人間の計画の背後に神の手が働いていることを指す。Good Chanceである。ボアズは町の門の広場で、10人の長老を呼んできて、その親族に向かって、モアブから帰国したナオミが、エリメレクの所有する畑地を手放そうとしていると先ず語った(2~3節)。そこでゴーエールとなるべき法的責任はあなたにあるので、この裁定の座にいる長老たちと民の前で責任を果たし、土地を買い取ってください。そうでないなら、わたしが次の者ですから考えますと告げた(4節)。名前は伏せられているが、この人物は責任を果たしましょうと言った。
  5節「ボアズは続けた。「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです」。その人はボアズの言葉に対して、土地を買い取るという責任は果たせるが、そこで未亡人ナオミの嗣業地を絶やさない義務(レビラート婚=ここではルツを娶る)は負い切れないと拒んだ(6節)。ここで不動産譲渡の認証方法は履物を脱いで手渡すことが求められていると記されている。彼は「あなたが引取ってください」と言って、履物を脱いだ(7~8節)。
  9節「ボアズはそこで、長老とすべての民に言った。『あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです』」。公の手続きを終了し、ボアズはゴーエールの責任を果たし、ルツとの約束(3章13節)通り妻に迎えた(10~12節)。
  13節「ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ」。神の計画の実現である。ベツレヘムの女たちは、姑ナオミに「主を讃えよ、主はあなたを見捨てることなく~」と祝福のことばを贈った(14節)。ここでナオミはルツの産んだ乳児を自分のふところに抱き上げて、養い育てた(16節)。それはモアブの娘の子ではないと証言しようとしたのであろう。然し、事実は消されない(マタイ福音書1章5節see)。
  17節「近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である」。
  18~22節 物語の付録であり、ダビデの家系に組み込まれ、本書の目的が示される。
新約聖書ではイエス・キリストの系図に記され、メシアの到来として民衆に呼ばれている(マタイ福音書1章5~6節、マルコ福音書11章9~10節)。
   

わたしの娘よ、心配しなくていい

2012-01-04 | Weblog
  ルツ記3章 

  11節「わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします。この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている」(新共同訳)

  1節「しゅうとめのナオミが言った。『わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました』」。既にボアズがゴーエール(家を絶やさない責任ある人物)でることを、姑ナオミはルツに示していた(2章20節)。ナオミはその確認に出掛けてボアズが親戚であることを確認して帰り、今晩彼の麦打ち場に行くように言った(2節)。そして体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って、食事が終わるまでボアズに気づかれないようにし、夜休む時に、彼の衣の裾で身を覆って横になるようにと指示した。これは床を同じにするという意味である。ルツは姑の命令通りにした(3~6節)。「わたしの娘よ」と呼び掛け、いささか強引に性的関係を結んで婚約することを求めたのである。この様な方法や行動が日常生活で是認されていたかどうか判らないが、旧約時代には血統を絶やさない思想は、創世記38章ユダとタマル物語、申命記25章5~10節(レビラート婚という)などにも出ている。
  8節「夜半になってボアズは寒気がし、手探りで覆いを捜した。見ると、一人の女が足もとに寝ていた」。お前は誰だと問うと、ルツである身分を告げ、あなたは家を絶やさぬ責任のある方=ゴーエールですと言った(9節)。ボアズも「わたしの娘よ」と(二回も)呼び掛け、ルツをふしだらな女とは見ないで、「真心」のまさることを告げ、自分がゴーエールであること認めた(10~12節)。「真心」(ヘセド)は「誠実」「親切」を表わす言葉である。ルツを「立派な婦人」と呼んでいる(11節)。然しボアズはゴーエールとなる一番近い親族がいることを伝え、その人が責任を果たすことを好まないなら、わたしが引き受けるので、夜明けまで休むようにと語った(13節)。彼はルツの姑ナオミに対する切実な気持ちをくみ取ったのである。
  14節「ルツは、夜が明けるまでボアズの足もとで休んだ。ルツはまだ人の見分けのつかない暗いうちに起きた。麦打ち場に彼女の来たことが人に知られてはならない、とボアズが考えたからである」。夜明け前人目につかない内に帰らせる温情をボアズは示した。これも彼女に対する真摯な対応である。ボアズは羽織ってきた肩掛けの中に大麦を六杯量って背負わせて別れを告げ、ルツは姑の許に帰った(15節)。姑ナオミは「娘よ、どうでしたか」と尋ね、この大麦は姑に贈る物だと言い、ボアズがしてくれた一部始終を伝えた(16~17節)。この時、ナオミはボアズが「今日のうちに、決着をつけるでしょう」と言っているが、これは彼がゴーエールの責任を果たすことを指している(18節)。

 ヘブライ人への手紙10章22節「信頼しきって真心から(口語訳「信頼の確信」)、神に近づこうではありませんか」が思い浮かぶ。


心に触れる言葉をかけていただく

2012-01-02 | Weblog
  ルツ記2章 

  13節「ルツは言った。「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。…心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました」(新共同訳)

  1節「ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった」。この有力な人物ボアズがまず登場する。「有力な」(ハイル) は「非常に裕福な」(口語訳)である。ルツは落ち穂を拾いに収穫期になっている畑に出掛けると姑ナオミに申し出た。そして刈り入れをする農夫たちの後について落ち穂を拾ったが、そこはエリメレクの一族のボアズの畑地であった(2~3節)。新共同訳は「たまたま」とあるが、口語訳訳計らずも」のほうがよい。そこでボアズとの出会いが起きたのであり、人の計画を越えた神の御手が働いたのである。神は時と場所と人物を備えられた。ベツレヘムからボアズがやって来て、農夫たちと祝福の挨拶を交わし、監督している召し使いに、そこの若い女は誰の娘かと聞いた(4~5節)。するとあの人はモアブからナオミと一緒に帰って来たモアブの娘で、朝から今までずっと立ち通しで働き、今、小屋で一息入れているところだと答えた(6~7節)。
  8節「ボアズはルツに言った。『わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい』」。「わたしの娘よ」と呼び掛けられ、ルツはひれ伏して言った。「よそ者のわたしに何故これほど目をかけ、厚意を示してくださるのですか」と尋ねると、夫が亡くなった後も、姑に尽くし、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていたと答えた(9~11節)。狭いベツレヘムの町で噂になっていたである(1章19節see)。「主がその御翼のもとに逃れて来た」(12節)は、神の慈愛深さを表わしている(詩36篇7節、57篇1節)。彼女は、心に触れる言葉をかけていただき、本当に慰められたと感謝を表わした。14~16節にこの厚意を続いて受けることになる。ルツは日が暮れるまで落ち穂を拾い集め、また穂を打って取れた大麦は一エファ程にもなり、それを背負って町に帰り姑に差し出した(17~18節)。大麦一エファは二三リッターだから大量である。厚意を寄せた人物が誰かを尋ねたのでルツはボアズと名乗る人だと告げた(19節)。
  20節「ナオミは嫁に言った。『どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように』。ナオミは更に続けた。『その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です』」。そのボアズが、縁続きの人であるということは、死別した夫や寡婦の自分に慈愛を賜わる主であることを「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまない主」であると告白する。そして、彼が「家を絶やさないようにする責任者」(ヘブル語=ゴーエール)だと判った。ゴーエールは「買い戻す」「贖う」という動詞の分詞形である。これはレビ記25章23~25節にある。
   21節「モアブの女ルツは言った。「その方はわたしに、『うちの刈り入れが全部済むまで、うちの若者から決して離れないでいなさい』と言ってくださいました」。ナオミは「わたしの娘よ。すばらしいことです。そこで働く女たちと一緒に畑に行けるとは。」と語った(22節)。ここから物語は「モアブの女ルツ」でなく「嫁ルツ」になる。ルツとボアズとの結婚(ゴーエール婚)が3~4章で展開されることになる。それは神が結び合わせた出会いである(マタイ福音書19章5~6節)。