どうでもいい四百字 第二中間貯蔵施設

あってもなくてもいいもの。

どうでもいい四百字 2732

2020-06-30 17:49:32 | 時間の無駄
熱中症警戒アラート。環境省と気象庁の職員は大卒が殆どの筈なのだが、誰もこの命名を止めなかったのか。東京アラートをパクって神奈川警戒アラートが設けられた辺りから怪しい流れにはなっていたが、「アラート」がそう云う情報に関する接尾語と認識されつつあるのかも知れない。警戒とアラートは同じ意味なんだから重ね言葉はおかしいと云う観点からすれば頭痛が痛む案件であるが、外来語と日本語を連結する際には、結構有りがちな話である。すぐに思い付いたのが「チゲ鍋」「ピビンバ丼」程度しか無いのが残念であるが、外来語はカタカナとしてその儘受容可能な日本語の融通無碍さの為せる業であろう。その善し悪しを論うよりも、「緊急事態だから意味が通じれば良い」の方が現時点では正論に思える。本当に意味を解釈していると云うよりも雰囲気を共有していると云う方が正しそうなのだが、それもまたこの言語の味わい深さの一つなのかも知れないのである。

どうでもいい四百字 2731

2020-06-29 20:13:04 | 日記
これが民度の高さってやつであろうか。「ウィルスに感染するのは自業自得」と考える人の割合は、日本が突出しているらしい。アンケートでは11.5%の人がそう答えており、英国の1.49%、米国の1%と比べると相当多い。9割近くの人は「んなこたあない」と答えているのだから少数派には違いないが、この手のアンケートだと「どちらとも言えない」と回答する日本人が多数派を占める様にも思うので、本当はどうなのかは闇の中である。「盗人にも三分の理」ではないが「被害者にも三分の非」と云うモノの見方が私達の意識の根底に有って、諍いは「お互い言いたい事もあろうが、ここは私の顔を立てて穏便に」と白黒曖昧な儘で収めるのが上策とされてきた風土とも、多少関係するのかも知れない。そう云う環境では、波風を立てる事自体が疎まれる。「和を以て貴しとなす」精神の間違った解釈が根付いているからに過ぎないのであれば、それは民度とはやや異なる様に思うのである。

どうでもいい四百字 2730

2020-06-28 19:00:41 | 時間の無駄
人命は地球よりも重い。同時に鴻毛よりも軽い。斯様に現代物理学では説明不可能な性質を有する事から、ダークマターの正体は人命だと唱える人も居る(私である)。その軽重の総論賛成問題は、20世紀インテリの悩みの種だった。人命は平等と云うスローガンは美しいが、「自分の子供」と「256人の久保田則近」のどちらかを選べと言われたら、余程のヘソマガリでない限りは前者を選択するだろう。これは人命に限った事ではないが、自身が判断する他人の価値なんてものは恣意的で不平等であるのが自然である。万人を愛せる聖人がたまに存在するらしいが、それを万人に押し付けようとするから余計な戦争(若しくは猥褻事案)が起きるのである。人命の平等は道徳の教科書に明記して実務上はケースバイケース、辺りでお茶を濁しておきたい。「上手く使わないと勿体ないもの」の様に定性的に評価するのが人命に於いては妥当ではないかと、ダークマターは考えるのである。

どうでもいい四百字 2729

2020-06-27 19:14:10 | 時間の無駄
取り敢えず東京はもう少し情報を開示しようか。連日新規感染者数の大半を叩き出しているのであり、感染拡大防止の観点から、市区町村単位での件数を明らかにすべきである。世田谷区の人口(93.9万人)は、秋田県(96.6万人)とほぼ等しい。人の密集度合いから考えても、より細分化された情報を提供すべきなのは明白である。「夜の街」の様に分かり易いスケープゴートを吊るしておけば各地の商業活動に悪影響が及ばないと考えているのであれば間違いであるし、何よりそれで油断した昼の街でクラスタが発生したら元も子もなかろう。風評被害は確かに恐ろしいものには違いないが、日本人は75時間も過ぎれば大半の事は忘れる。東京アラートを無かった事にしようとしている都知事を見れば、それは明白であろう。感染症の蔓延は都市であれば構造上不可避の仕様の様なものなのだから、その対策も都市単位で考えるべきであり、「東京」で括るのでは大雑把に過ぎるのである。

どうでもいい四百字 2728

2020-06-26 18:33:37 | 時間の無駄
今年の経済成長はどの程度落ち込むのか。各国首脳は頭を悩ませている事であろう。国民に豊かな暮らしを提供するのは、国家の重要な役割の一つである。そんな綺麗事で済ませられる国ばかりではないし、経済活動の一側面である「札束で殴り合う戦争」に重きを置いている国も少なくはない。そう云う立場では経済は無限に成長しなくてはならないものではあるが、それが私達の生活改善に繋がっていた時代は、昭和で終わったと思う。国家間のどつき合いは現状維持としても、経済成長に代わる「豊かさの指標」が必要に思える。同じ性能の品が従来の半分の原材料で製造出来て、価格が半分になればGDP的にはマイナスである。しかし生活者目線で見れば、それはより質の高い経済活動だと言えるのではないか(賃金も半減する場合を除く)。右肩上がりの成長戦略は威勢が良いが、知恵と工夫の蓄積を数値化する手法を編み出すのも、国家の役割としては悪くないと思うのである。