《 空想から科学へ 》 奧菜主義革命~ 革命的奥菜主義者同盟非公然ブログ

奥菜恵さんは、精神と肉体の両方から無駄なものをすべて削ぎ落とし、必死に舞台に立っていた

紅すぎる絶望からmegを救え 革奥同

2008年04月11日 21時29分33秒 | Weblog
奧菜恵さんの『紅い棘』、苦しみながらも読了。


宣伝に多く引用されていた部分より、
私には第5章「命」が最も読み応えのあるところでした。

お父様の病気、お祖父様とちゃんぽんちゃんの死、
2007年12月から、2008年の元旦までという本当に短い間に、
これだけの不安や悲しみがmegちゃんを襲っていたとは……。

その頃、私は何も知らずに、
「そろそろ表現の場に戻っていらしてはいかがですか~」
なんて暢気な呼びかけを奧菜さんに向けて発していました。
『紅い棘』の随所に書かれているように、
人と人が完全に通じ合うことは不可能です。
何の悪意もないのに、こういうすれ違いが生じるのが、むしろ日常。
だからこそ、そのときの精一杯で心に誠を持っていなければならないというか、
せめて自分にだけは言い訳をしなくて済む生き方をしていなくちゃ、
ということを深く心に刻みました。


そしてp.179に、

「見る人の感情のフタを開けてあげる…私は、演じることで、そうしたことを実現させていきたいと思う。」

という奧菜さんの真情を表している言葉を見出せてことも、
大きな収穫でした。
「革命」を《空想から科学へ》昇華させることに1%以上の希望を見出せました。

演じる人の心のフタを開けてあげる、私は、観ることで、そうしたことを実現させていきたいと思う。

劇場に足を運ぶ方々は、この気持ちがわかる、この一体感に魅せられてしまっ人々ですよね。


あすは、その舞台のチケットが一般発売になる日。
ココに集う多くの方と戦いをくり広げるることになるんでしょうか。
戦い済んだら、またにっこり握手しましょうね。
そのチケット争奪の加勢をお願いした乱菊師匠からの返信メールに
嬉しいお言葉がありました。

「またmegさんと遊べますね」

劇団☆新感線では団員に退団勧告をするとき、
『もう、おまえとは遊べない』
という表現を使うそうで、
このことをご記憶になっていて使われた言葉と思います。
そのことを二人の間で話題にしたとき、
舞台で表現するためにもがき苦しむ一連の“修行”を「遊ぶ」と表現することに、二人とも“play(演じる)”の奥深さを感じたものでした。

あす、皆さんが希望の日のチケットがとれますように。



と書いたら偽善が過ぎるでしょうか?
でも、みんなにmegさんと遊んで欲しくて。


ああ、そうそう、「革奥同」て、どう読むんですか?
と、ときどき問われるのですが、
愛でつながるのなら、なんと読まれても結構。
「かくおきどう」だろうが「かくおくどう」だろうが。
ただ、わたしは「奥羽越列藩同盟」へのhommageの意をこめて、
【かくおうどう】と読んでいます。