ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

山羊の会(11)

2015年06月26日 18時50分49秒 | 山羊の話


さて翌朝。
5時頃目が覚めた。
もう外は薄明るい。
それでさっそくいつもの癖で一人で散歩に行く。
昨日の残りのビールを2本もって・・・



ここには尾高城という中世の城があったらしい。
宿泊施設の横に「杉原盛重住居跡」という碑が建っていた。
杉原盛重のいう人が城主だったとか。
そういえばここら辺はもともとは尼子氏の領地だったところ。
それを毛利に奪われた・・・そんなころの城だったんだなぁ。

碑のそばに変わった木が生えていた。
ユーカリらしい。
コアラいないかなぁ・・・
もちろんいるわけないか!



古い城跡特有の墓、あるいは慰霊碑があちこちあった。
その中で場違いな二宮金次郎の像。
昔ここには小学校があったらしい。
その時の金次郎の像。
昔は小学校にはどこにもいた金次郎。
それがどうして今はなくなったのだろう?
貧しい家に生まれ苦学して、農家のために尽くした。
そのどこがいけないのか?
金次郎の像がほぼすべて撤去された。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
戦前の教育すべてが憎い。
その偏狭な教育者がどれほど日本人の心を卑しめてきたか。

・・・なんてことよりここはまずはビール!ごくごくごく・・・



ふと見るとオモト(?)がきれいだったので、写真。



城の案内が立っていた。
それをみて初めて気づいた。
あっ、ここだったのか!!
山中鹿之助が便所から脱出したという有名な城は!!
このエピソードのために山中鹿之助というとついつい糞便混じりの汚らしい姿を想像してしまう。
いかに決死の脱走とはいえもう少し逃げ際はきれいでありたい。



しかしこの城、山の上の中世の城のようないかにも堅固な城と違って、屋敷の周りの防備を固めただけの城という感じ。
北側は丘の上でそれなりに防備はできただろうけど南は大山のふもと、そのまま地面が続いている。(この写真)
もちろん土塁や空堀などは作っただろうけど、あまり堅固な感じはしない。
だからこそ山中鹿之助も容易に脱出できたのだろう。



この城跡荒れていて本丸跡にも入ることはできなかった。
本丸跡の草を刈り、城の再現は大変だろうけど、
せめて便所だけでも・・・そう山中鹿之助が逃げ出したという便所だけでも、適当にそれらしく作ったら、
観光客は来るんじゃないかな?
少なくとも物好きな観光客は・・・
そして便所饅頭とか便所最中とかお土産に売るとか・・・
うむ、いかん!アルコールが切れたようだ。
そこでまたまたビールをごくごくごく。



今度は北側から見た城跡。
ここからだとここに城を作ったわけもわからなでもない。
西側の宿泊施設と「杉原盛重住居跡」があるところ。



ここは本丸があったところ。

山中鹿之助はどう見ても暗愚な殿さまとしか思えない尼子のための再興に忠誠を尽くた武将。
今住んでる市の隣の町、佐用町・上月で一応再興を果たしたけど、毛利の大軍に包囲され織田からも見捨てられて落城した。
そして山中鹿之助は岡山・高梁で斬られる。

ところで今住んでるところは合併して「たつの市」になったけどそれまでは「新宮町」
そして隣の町が合併して「佐用町」になったけど、それまでは「三日月町」
三日月町というと歴史が好きな人はすぐに
三日月城主・山中鹿之助や
「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという山中鹿之介のことを思い出すに違いない。
でも三日月城主・山中鹿之助・・・.というのはどうやら講談の世界の話だけではないだろうか?
三日月町という魅力的な地名と三日月に祈ったという故事から、三日月城城主・・・という話が出来上がったのではないだろうか?
三日町の観光案内には山中鹿之助のことは出てこない。

まあそんなことはどうでもいい。
やがて日が昇ってきた。
大山が輝きだした頃ころ宿泊施設に戻った。




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