奈良へ行くと、かなり離れた所からでも二上山の印象的な山容を望むことができる。
この山は謀反の疑いをかけられて刑死した大津皇子の墓所のある所でも知られてる。
万葉集には大伯皇女(おおくのひめみこ)が弟大津皇子を思って詠んだ数首が残されている。
姉弟の母は大田皇女、う野讃良(うのさらら)皇女は同父母妹である。二人は天智天皇の皇女として生まれ、
共に叔父である天武天皇の妃となるのだが・・・
大田皇女は幼い姉弟を残して亡くなってしまう。幼い二人は支えあって生きていたことであろうが
その後姉は斎宮として伊勢へ行くことになり、別々の暮らしを強いられることになった。
一方叔母であるう野讃良皇女は天武天皇の即位により皇后となる。
天武を助け、天皇亡き後は持統天皇として皇位にもついた。
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いろいろ歴史本を読むと、皇位をめぐり持統天皇は子の草壁皇子を天皇にしたいがために
大津皇子を追いやったように書かれている。
大津皇子は文武共にすぐれていて、立派な青年武将であったらしいから、
持統天皇にとっては邪魔者だったのであろうか。
尋常でないまわりの動きを察してか、大津は伊勢の姉を訪ねるのである。
姉弟は何を、どのように語り合ったのだろうろう。
そして姉は不安を抱きつつ,辛い思いで大和へ帰る弟を見送る。夜露に濡れながら。
もしかしたらもう会えないかもしれない弟である・・・
わが背子を大和へ遣るとさ夜深(ふ)けて暁(あかとき)露にわがたち濡れし(巻二・105)
二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにかきみが独り越ゆらむ(巻二・106)
朱鳥元年十月二日、大津の謀反(?)が発覚、翌三日“磐余(いわれ)の池にて大津皇子自害。
大津皇子の辞世
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(巻三・416)
また漢詩にも才のあった大津皇子の漢詩の辞世
金烏臨西舎 金鳥西舎を臨(て)らし
鼓声催短命 鼓声短命を催す
泉路無賓主 泉路(よみ)に賓主(ひんしゅ)無し
此夕離家向 この夕べ家をさかりて向かふ
大津亡き後、大和へ返された姉大伯皇女の悲しみはいかばかりであったことか~
神(かむ)風の伊勢の国にもあらましをいかにか来けむ君もあらなくに(巻二・163)
見まく欲りわがする君もあらなくにいかにか来けむ馬疲るるに(巻二・164)
そして彼女の悲しみの極みにありての二首
うつそみの人なる吾や明日よりは二上(ふたかみやま〉を兄弟(いろせ)とわが見む(巻二・165)
磯の上に生ふるあしびを手折らめど見すべき君がありといわなくに(巻二・166)
<二上山>
<当麻寺より二上山を見る>
<当麻寺の塔>
(写真は昔のものをスキャンしてあります)