ミモザの花咲く庭から

一期一会に感謝     写真中心のブログです

万葉歌碑

2025-01-24 | 万葉の花・歌碑・故地など (自己記録)

先日の紅葉台山頂へ至る途中の広場の片隅に立派な万葉歌碑がありました

ここへ来るまで万葉歌碑の存在は知らなかったので

山と共に万葉歌碑も尋ねることが出来てしまう幸運に恵まれました

 

万葉仮名で書かれてありますので万葉集の写真を載せておきます

不二山を詠める歌一首併せて短歌二首

(巻三 319~321)

 

書は  中西 進氏

 

 

  

 

 

歌碑も撰文も立派なものでした

村長さんの言葉の碑は光線の加減で読みずらかったですが 載せておきます

 

帰って万葉集を開く良い機会を得ました

ずいぶん万葉集から離れた生活をしてきてしまいました

習ったことの大半は忘れかけていますが

十年のなつかしい日々、先生や友人たちを思い出しながら

また少しずつ万葉歌をあじわうのも良いかな。。。

 

かつて犬養 孝氏が講演でお話されていた

時代を戻し、風土を戻して万葉歌を諳んじてみると

千曲の川のさざれ石も君が踏んだと思えば玉と思い、拾う・・・その心が分かるのです

 

ような意味合いのお話もなつかしく思い出されます

 

コロナの熱はおかげさまで下がりましたが

胃腸に支障をきたしています

弱っているところを攻撃してきますね

松本の友人はふきのとうのてんぷらをしたそうです

ふきのとうは暮からもう出ていると聞き びっくりでした

 

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高幡山の藪柑子

2024-02-09 | 万葉の花・歌碑・故地など (自己記録)

お不動様の山道を巡り歩いているとき

もしかして・・・と言う感が当たった(^^♪

雪の消え残っている道に ❝いてくれたね❞

藪柑子の赤実

たった一つだったけれど

 

山を歩いている頃はほんのわずか雪が降った山道で

この赤い実を見ることが幾度かあった

大伴家持の歌から受けるすがすがしさとこの赤い実に魅かれる

 

「 この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む 」 巻十九・4226

 

家の庭では小鳥たちが全部食べてくれたので

雪は降っても藪柑子の赤い実を見ることは出来なかった

 

お不動様の山道で

 

   

 

 

 

 

夕方のニュースで小澤征爾さんが亡くなられていた事を知った

偉大な人がまた一人居なくなってしまったね

 

赤い花だけれど、チューリップが開いたので

 

楽しい連休を!!

 

 ~ 

 

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茅花に魅かれる

2023-04-15 | 万葉の花・歌碑・故地など (自己記録)

茅花

茅花の穂が出揃い、西からの光にかがやいている

どうと言うことのない、隣の公園での風景であるけれどこの時季の花。

 

茅花に魅かれるようになったのは、万葉歌を知ってからであったと思う

紀郎女が大伴家持に贈ったと言う一首

     戯奴(わけ)がため吾が手もすまに春の野に抜ける茅花ぞ食(め)して肥えませ (巻八 1460)

家持をからかうような呼び方で詠んでいます

        穂が見え始めたころの若い茎には甘みがあり、万葉人は好んで食したらしいです 

 

           スイバやイタドリ、山つつじの花まで食べた子供時代だったけれど茅花を食べた経験はなかった

        茅花そのものさえ知らなかったのです   

  

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ヒオウギ(檜扇)

2019-07-28 | 万葉の花・歌碑・故地など (自己記録)

雨は大したことがありませんで今朝は上がっていました

雨上がりの庭で目を引いたのは

ヒオウギの朱色の花

(アヤメ科 ヒオウギ属)

 

 

 

花後にできる実はつやのある真っ黒い色をしています

そこから   ぬばたま  と言う枕詞になり

万葉のころから歌に詠み込まれて来ました

ぬばたまは

実の色が烏の羽のような色ということで

烏羽玉(うばたま)が ぬばたま に変化したのではないかという説があるようです

またヒオウギは

葉の基部が檜のうす板を並べた扇のように見えることから

檜扇  と名付けられたとも。

魅力的な花です(*^^)v

 

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長谷と吉隠の歌碑二基

2016-11-21 | 万葉の花・歌碑・故地など (自己記録)
自己記録が続きます。
お越しくださいました皆さますみません。。。

雨の長谷寺詣でを終え、門前の土産屋さんに入った。
お茶を御馳走になりながら
何とはなしに話してみた。
吉隠の公民館(廃校になった校舎跡)へ行きたいけれど
タクシーだとここ長谷と榛原とどちらから行くのが近いですか  と。
そうしたところお店のお兄さんが
「歩きだとずっと上り道で大変ですし
ここからタクシーがいいんじゃないですか?
店がなかったら僕が乗せて行ってあげたいですが」
そう言ってタクシー会社と連絡を取って下さり、
その場所がわかるかどうかまで確認して下さった。
私は歩きを覚悟の万葉歌碑めぐりだったので、
雨のその日はとうにあきらめていたのだった。

程なくしてタクシーが到着。
女性のドライバーさんであった。
榛原の方で、この仕事に就かれてもう20年になるとの事。
途中、棚田の美しい所では車を止めて見せてくださったり、

            



目当ての公民館へは迷うことなく横付けして下さった。
公民館の背後の山なみのどこかに但馬皇女のお墓があった事だと思われる。
      
      
但馬皇女をいたみ、穂積皇子が詠んだと言われる一首である。


『 降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに 』



吉隠を後にして再び長谷へ車を走らせていただく。
長谷寺の辺りを過ぎてしばらく走った所で国道わきの細い道に入って車は止まった。
ここでも横付け


川のほとりの草を避けてみた。
但馬皇女の歌碑の場所。


『 人言を繁み言痛み己が世にいまだ渡らぬ朝川渡る 』



但馬皇女は平安京に住居があったのではないかといわれているようなので
なぜ長谷の辺りに歌碑があるのか分からないが、
朝の川を渡って穂積皇子に会いに行ったのであろうと思うと
一途な、しかし世間の人々に噂されるような恋であるにもかかわらず、
これほどまで強く傾いて行かれる・・・強い女性だったのであろうナ。


穂積皇子は後年、大伴坂上郎女と結婚している。


あきらめていたこの両方の歌碑を訪ねる事が出来たのは・・・
長谷の観音さまのおみ足に触れさせていただいたからなのか
前日の三輪山の霊験なのか。。。?
幸運な二日間の歌碑めぐりであった。
ドライバーさんに、お店のお兄さんに感謝!!
            

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