軽井沢の 昔昔話・・このあいだの夜の
中山道の続き・・
当時の江戸を背にして 峠から降りて来ると軽井沢宿に辿り着く手前で川を渡ることになる
川越し石川(かわごしいしがわ)・・と後の世で呼ばれる、現在の矢ケ崎川だね
江戸時代に、どれほどの川幅だったか 水かさがどのくらいだったかは分からないけれど
明治43年に大水害が発生したことは記録に残っていて大きな被害をもたらし
河川やその流域だけでなく 軽井沢宿にも大きな被害をもたらしたと伝わるね
二手橋もその時に落ちて被災し、後に掛け直しや幾度か改修されたもの
宿場の中の建物と言わず墓地やあらゆるものが被災し流されて 町の文化財に指定されている
日本人建築洋風別荘第1号の 明治26年に建築された八田別荘のお庭に
ちょっと不似合いなイメージの石仏があるのも、その時の流出して来た名残だと言われている
明治20年前後から 外国人滞在者が増えたり、独特のそんな雰囲気に惹かれる都会暮らしの
避暑滞在者が増えたりで、元の宿場街の再建というよりは
このあたりから次第に独自の進化をして行ったのかも知れない
宿場街によく見られる 町家づくりとでも言うのか
出入り口から裏通りまでの縦長の敷地を持つ家が多かっただろう事もあって
表通り側を季節貸しして、家主はその間だけ裏手や後方の一角に暮らすという家もあったらしい
昭和の後半くらいまでは 7月の前半から9月の始めくらいまでが
軽井沢の「 夏 」だったこともあるね
江戸時代の宿場町の出入り口には 宿内の治安維持や自然災害の備えなどに備えて
桝形(ますがた) と呼ばれる土塁や曲がりを設けて
外部から勢いよく宿場の中になだれ込まれないエリアを築くのが通例だった
現在、軽井沢宿の入口あたりと言われる1番江戸側の つるやホテル(旧称つるや旅館)から
二手橋方面はほぼ見通しが利くまっすぐで 独特な印象を持つその「 桝形 」の名残は無い
京方(京都方向)の桝形も今は判然としていなくて 軽井沢宿に唯一遺されていると言われるのが
軽井沢宿で唯一 これだ! と誰もが指差せる名残の文化遺産?は
軽井沢宿本陣跡に建てられていると伝わる、明治11年(1878)の
明治天皇北陸東海御巡幸の際の行在所だったことを伝える四角な碑 だけ・・
本陣がどちら向きにどの辺りまでだったかも 絵図や僅かな資料から推し量るしか無いようだ
江戸時代の始まり?から 多分 420年余・・明治になってからでさえ 157年目・・
遺っているものは・・貴重だね
と、軽井沢宿の昔語りはこんなものだった 次はどうなって行くかな・・
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