軽井沢宿の東の出入り口周辺と言われる 旧軽井沢二手橋から歩き始めた中山道
いよいよ 次の沓掛宿
湯川の流れを 中山道では どこで湯川を渡ったのかは、江戸(徳川)時代260年と言われる
長い歳月の間に どこか1カ所だったとはいい難くて
例えば川筋が大きく変わってしまうような増水被害や大水害等の後には
橋や渡河の場所も変わっただろうと推測されるし 記録は今の所見つかっても居ない
今の湯川橋の下流域のどこか・・くらいの伝承が何カ所かあるようだ
とりあえず近代的な至近の橋を渡って湯川を渡河し長倉神社への参道入口も見える
沓掛宿入口から 碓氷バイパスが完成する以前の国道18号線に面した 中山道「 沓掛宿 」へ
残念ながら昭和28年に発生した 沓掛大火(罹災世帯108世帯、全焼81戸) と
被災を免れた地域の近代化などで、宿場町の面影は全くと言っていい程消え去り
詳しい人の案内でも無ければ 在りし日の姿はうかがえない
ただ、細路地に踏み入れたり、裏通りに回ったりすると 脇本陣「 蔦屋 」の
土蔵の屋根が遠望出来たり、皇女和宮が江戸降嫁の際に宿泊した「 本陣 」の表札を
発見できたりする
沓掛宿の外れと思しき信用金庫の国道向かい側(北側)歩道脇、小路入口角に
浅間石とも呼ばれる大きめの噴石を台座にして 小ぶりの石仏が安置されている
この石仏は 当時を偲ばせる大事な道標で「 左 くさつ大笹 」と刻まれていて
寛政11年(1799) 4月5日と読めそうな刻字も読み取れる
この小路を上がって行くと 花田峠を越えて当時も既に広く知られた名湯 草津温泉に行けたんだ
中山道は交通量の激しい国道の南側にある 下り気味の細道で
僅か先から今度はその細道が上り坂になって行く この道の右手高い位置に当時
お堂があったと伝わって この辺りからの上がって下がる坂の一帯を 堂坂(どうざか)と呼ぶよ
信号待ちする車に気をつけながら道路を渡って 国道よりもかなり低い位置の道をまっすぐに
中山道は 「 古宿(ふるじゅく) 」の集落へ
ここ古宿と そのお隣 借宿(かりやど) は 近隣の宿場を支える
「 助郷(すけごう) 」と呼ばれる人力提供や 厳しい農作業の合間には
人馬による 「 中馬(ちゅうま)」と呼ばれる荷物運びなどでその生活の糧を得て
宿場の維持、継続を支える役割も続けて来た集落だ
この借宿の集落の中程に、西長倉村の道路元標 が立派なタイルの台座に乗せられて鎮座している
大正時代後半に全国の市町村に設置が命じられた際には 設置場所の他にそのサイズや
「 路面からの高さ 」にも詳細な規定があったはずの石碑なので
神様の様に高座に載って すごく大事にされているんだね
信号機を渡ってから、いくらか上り気味の中山道をお家の数で数軒上がった辺りにひっそりとした
丹塗りの様な古い色合いの 今はひっそりとした広い間口の家がある
これから差し掛かる追分宿の更に3つ先の 岩村田宿に応永(1394~1427)年間から続くと言われる
「 おふねまつり 」に使用する用材を 当時から延々と「 献木 」し続けたと伝えられる
「 土屋家 」なんだそうだ。 佐久市の文化財リストに、昭和の時代からそれが記載されている
道向かいの道路北側道沿いにある四角い石囲いの井戸は
古い時代からこの一族の井戸だったそうだ 高低差のある地形だから大切な湧水だっただろう
借宿の集落を過ぎて、人気のお蕎麦屋さんの裏手を通過、国道筋に出ると西方向に陸橋が見える
そこまで歩けば、その先に追分宿の入口が見えるよ
次のお話は 追分宿だね・・
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