軽井沢のいろいろ~♪ 軽井沢で静かに暮らす 深山のイノシシ があれこれ見たこと聞いたこと

軽井沢に静かに暮らす深山のイノシシが 軽井沢の春夏秋冬 今昔、あれこれ・・ 見たまま聞いたまま書いてるよ

 軽井沢のいろいろ 軽井沢から歩く中山道 浅間根腰の三宿を歩いて・・

2024-03-26 | 避暑地 軽井沢のあれやこれ

 ここ何日か ボクの森の下に住む仲良しの奥さんのお家で、時々呼んでくれる

 お茶を飲みながらのお話会で 好き勝手に・・あ、イヤ・・   集まったそれぞれが

 見たこと聞いた事、知っていることを話したり   持っている画像や資料を見せ合ったり

 盛り上がると日時を約束して見て歩きに出掛けたりしちゃう お話の会を頻繁に楽しんでいる

 そこで、静かなブ~ムにもなっている江戸時代の中山道が 軽井沢町を通過していて

 宿場が3つもあったので いつもの話題以上に 何かと話したい人がいて賑やかだったんだ

 黙って聞きながら、いつもお茶会の場所を提供してくれた お茶を淹れ続けてくれる奥さんには

 感謝してもしきれないんだけれど、話好きの面々は甘え続けているんだな・・ ボクも・・

 前のお話で 軽井沢、沓掛、追分の3宿のお話を聞いて

 ガイドブックに載っていないお話もいくつも聞いて 最後に追分宿西側の

 「 分か去れ 」のお話が出たんだな・・

 明治だか大正だったかに撮影されたって画像に 追分の宿外れから中山道らしい左に行く道と

 似た様な泥んこの道が右方向に向かって行っていて 現在整えられた三角地の光景とは

 だいぶ違ったものだったらしい

 

        

 

 あそこの 正面の三角地頂点に立つ道祖神は 江戸時代が過ぎてから祀られたものらしい

 これと併せて全部で9体の石造物があるけれど 道祖神以外が刻まれたのは江戸時代のようだね

 こどもを抱いたお姿の地蔵様は 「 分か去れ 」道の行く末の 更科や御吉野(みよしの)を

 読み込んだ歌が刻まれ 当時の主だった目的地、通過点迄の里程も刻まれている

 現在は車の通行も激しく、物寂しい雰囲気は無くなってきているけれど

 江戸時代はおろか、自動車交通が盛んになるまでは真夏が過ぎると

 特に、日暮れ以後は心細い辺りになった事だろう

 軽井沢にゆかりの深い 北原白秋氏の「 からまつ 」の詩の一節にあるけれど

    からまつの林の道は  われのみか、ひともかよいぬ

    ほそぼそと通う道なり さびさびといそぐ道なり

 これが詠まれた星野地区周辺でも無ければ 植林されたカラマツ林があったわけでもないけれど

 人通りの少ない頃合いは こんな風情漂う雰囲気だったのかも知れないね・・

 今は なかなか 交通が激しい「 分か去れ 」だよ            <<<<<

 

 

 

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 軽井沢のいろいろ 軽井沢から歩く中山道・・いよいよ「 追分宿 」

2024-03-25 | 避暑地 軽井沢のあれやこれ

 軽井沢町の中に遺る 江戸時代の中山道跡・・ 「 浅間根腰の三宿 」って言い方もあるようだけれど

   夜話の会では この言い方もいろいろな当て字の解釈の話題が沸騰して

 浅間嶺越しの三宿(浅間山麓を通過する三宿を意味する)

 浅間根越 (浅間の根(麓)腰(中腹あたり)を超える・・の意か)

 などなど これだけで、奥さんは何度もお茶を注ぎ差し     止めどなく口を開く人が居たね

 でも、それは一時置いておいて・・

 国道18号線の最高地点 1003mの看板が頭上に出されている近く    歩道橋のあるT字路

 道路北側には軽井沢西部小学校があって このところ生徒数が増加、 新しい校舎も増築中だそうだよ

 このあたり 日中の国道は混雑しているし、沿道のガソリンスタンドは車の出入りが多いから

 そっちに気をとられていると通り過ぎてしまいそうだけれど 追分宿入口の歩道南側土手上に

 一里塚の片方があるんだ

 江戸時代の資料では、軽井沢町内の3宿それぞれに一里塚があるとされているんだけれど

 現存しているのは 追分宿江戸側出入口のここだけ、それも一対のうち北側にあたるここだけ

 それでも、こんもりとした土盛を真下の歩道から見上げて 設置されている案内板を読むと

 なんとなく江戸時代に思いを馳せ、この辺りで当時 ホッとしたり、ひと休みしてまた

 歩き始める旅人の気持ちがいくらかわかる気がするね

 いくらか下り気味の石畳風に整備された中山道を追分宿内に向かって入って行くと直に

 右手に浅間神社がまつられていて 街道沿いに大きな常夜灯

 境内に、芭蕉の大きな句碑や石仏が配置されていて、沓掛宿や軽井沢宿より宿場らしい風情がある

 追分宿は その先にある昇進橋を超えた「 東町 」から

 ここも江戸時代の本陣、脇本陣、問屋とも当時の建物は遺されていなくて、江戸時代の建物と伝わるのは 

 浅間神社に祀られた それ以前、室町時代の建築様式が見られるという本殿と

 旧現金屋さん、西側宿場出入り口付近の津軽屋さんくらいなんだそうだ

 

    

 

 追分宿の西側出入り口の桝形(ますがた)至近にあったと伝えられる 桝形の茶屋「 津軽屋 」さん

 黒地に白、または彩色 の鏝絵(こてえ)による屋号看板だったか 

 劣化、退色の激しい姿が気がかりだけれど、聞くところによると

 追分宿の保全、将来などを考える集まりがあるそうで 軽井沢町などと図り

 ここを観光資源として活用して行くような動きがあるらしいよ

 この茶屋のさらに西側に 更科は右 み吉野は左にて・・と詠われた

 中山道と 更科・善光寺方面に向かう分かれ道 「 追分の分か去れ(わかされ) 」があるね

 ここがまた お茶会でいろいろ話が弾んだので     そこは またこの次に

 だんだん 軽井沢の寒さも緩んできたようだから お出掛けもしてみたら     ~~ 

 

 

 

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 軽井沢のいろいろ 軽井沢から歩く中山道・・ここから「 沓掛宿 」で・・

2024-03-24 | 避暑地 軽井沢のあれやこれ

 軽井沢宿の東の出入り口周辺と言われる 旧軽井沢二手橋から歩き始めた中山道 

 いよいよ 次の沓掛宿

 湯川の流れを 中山道では どこで湯川を渡ったのかは、江戸(徳川)時代260年と言われる

 長い歳月の間に  どこか1カ所だったとはいい難くて

 例えば川筋が大きく変わってしまうような増水被害や大水害等の後には 

 橋や渡河の場所も変わっただろうと推測されるし 記録は今の所見つかっても居ない

 今の湯川橋の下流域のどこか・・くらいの伝承が何カ所かあるようだ

 とりあえず近代的な至近の橋を渡って湯川を渡河し長倉神社への参道入口も見える

 沓掛宿入口から 碓氷バイパスが完成する以前の国道18号線に面した  中山道「 沓掛宿 」へ

 残念ながら昭和28年に発生した  沓掛大火(罹災世帯108世帯、全焼81戸) と

 被災を免れた地域の近代化などで、宿場町の面影は全くと言っていい程消え去り

 詳しい人の案内でも無ければ 在りし日の姿はうかがえない

 ただ、細路地に踏み入れたり、裏通りに回ったりすると 脇本陣「 蔦屋 」の

 土蔵の屋根が遠望出来たり、皇女和宮が江戸降嫁の際に宿泊した「 本陣 」の表札を

 発見できたりする

 沓掛宿の外れと思しき信用金庫の国道向かい側(北側)歩道脇、小路入口角に

 浅間石とも呼ばれる大きめの噴石を台座にして 小ぶりの石仏が安置されている

 この石仏は 当時を偲ばせる大事な道標で「 左 くさつ大笹 」と刻まれていて

 寛政11年(1799) 4月5日と読めそうな刻字も読み取れる 

 この小路を上がって行くと 花田峠を越えて当時も既に広く知られた名湯  草津温泉に行けたんだ

 中山道は交通量の激しい国道の南側にある 下り気味の細道で

 僅か先から今度はその細道が上り坂になって行く この道の右手高い位置に当時

 お堂があったと伝わって この辺りからの上がって下がる坂の一帯を 堂坂(どうざか)と呼ぶよ

 信号待ちする車に気をつけながら道路を渡って 国道よりもかなり低い位置の道をまっすぐに

 中山道は 「 古宿(ふるじゅく) 」の集落へ

 ここ古宿と そのお隣 借宿(かりやど) は 近隣の宿場を支える

  「 助郷(すけごう) 」と呼ばれる人力提供や 厳しい農作業の合間には

 人馬による  「 中馬(ちゅうま)」と呼ばれる荷物運びなどでその生活の糧を得て

 宿場の維持、継続を支える役割も続けて来た集落だ

 この借宿の集落の中程に、西長倉村の道路元標 が立派なタイルの台座に乗せられて鎮座している

 大正時代後半に全国の市町村に設置が命じられた際には 設置場所の他にそのサイズや

   「 路面からの高さ 」にも詳細な規定があったはずの石碑なので 

 神様の様に高座に載って すごく大事にされているんだね

 信号機を渡ってから、いくらか上り気味の中山道をお家の数で数軒上がった辺りにひっそりとした

 丹塗りの様な古い色合いの 今はひっそりとした広い間口の家がある

 これから差し掛かる追分宿の更に3つ先の 岩村田宿に応永(1394~1427)年間から続くと言われる

 「 おふねまつり 」に使用する用材を 当時から延々と「 献木 」し続けたと伝えられる

 「 土屋家 」なんだそうだ。 佐久市の文化財リストに、昭和の時代からそれが記載されている

 道向かいの道路北側道沿いにある四角い石囲いの井戸は 

 古い時代からこの一族の井戸だったそうだ 高低差のある地形だから大切な湧水だっただろう

 借宿の集落を過ぎて、人気のお蕎麦屋さんの裏手を通過、国道筋に出ると西方向に陸橋が見える

 そこまで歩けば、その先に追分宿の入口が見えるよ

 次のお話は 追分宿だね・・             、、、、         

 

 

 

 

 

 

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 軽井沢のいろいろ 軽井沢から歩く中山道・・軽井沢宿から西へ・・

2024-03-23 | 避暑地 軽井沢のあれやこれ

 軽井沢宿を西に歩き始めて旧軽井沢ロータリーの見える辺りは 変形の十字路

 明るいうちは いつでも人通りがある場所だけれど そのあたりの江戸時代は

 軽井沢宿を後にした宿場外れ・・賑わった時代には新町と呼ばれた家や小店があったかもしれない

 まっすぐに進むと 右手にベーカリーカフェ・・

 昭和の頃には「 紀ノ国屋 」が夏季店を営業していた

 その後方から鬱蒼とした木立の狭間に見え隠れする別荘や建物はそのオーナーのほとんどが

 旧華族や政財界の著名人・・後には超一流企業の保養施設などが立ち並ぶ

 まもなくの信号のない交差点北側の一角にはかつて 内閣閣僚が集う集会を開いた別荘もある

 この辺りから 軽井沢の観光名所「 雲場池 」もある一帯は中山道の江戸時代

 「 くもば野 」とも呼ばれる 原野だったとも伝えられている

 ここ数年の間に通り沿いがすっかり趣を変えてしまいマンションや高級別荘が並ぶけれど

 東部小学校の向かい北側は昭和の頃 大学の夏季合宿用のグラウンドだったり

 その脇にある道路をまっすぐに歩いて行くとそのまま 離山(1256m)山頂に登ることも出来た

 今は中腹くらいまで舗装道路になっているし、個人の別荘で立ち入れない場所もあるみたいだ

 やがて 軽井沢高等学校のグラウンドを通過してまもなく自動販売機と石仏が仲良く並ぶあたり

 1620年代に新田開発されたという「 離山集落 」

 中心の辺りの北側山腹に「 熊野社 」が祀られていたけれど 付近が別荘地化する過程でか

 古来の半分くらいの参道の辺りに移転して 新建築のお社に鎮座している

 ちょっとお参りして再び歩き始めると右手上段、堰沿いに大きな石碑が・・

 この離山集落の開発経緯を記した記念碑らしい 

 歩き続けると 中山道は国道18号線と合流する信号に差し掛かるね

 合流地点の歩道三角地に石碑がひとつ 

 大正9年から11年にかけて全国の市町村に1本づつ設置が命じられた「 道路元標 」だ

 みなさんが 他都道府県のどこの自治体の出身だとしても

 その自治体の当時の役所があった地の周辺の主要道路沿いに必ず設けられているはずなので

 「 お里帰り 」した時にでも、思い出したら 探してみれば 

 ただ、軽井沢のこれは 今年「 町制施行100周年 」を迎える「 軽井沢町 」が

 当時は「 東長倉村 」だったのを 作り替えて設置したものなんだそうだ

 まさしく 「 町制施行100周年 」の記念モニュメントだね 

 さて跨線橋のある信号を渡るとすぐに又信号。これを直進すると立派なご門からなるお屋敷

 だけど、この門塀は江戸時代じゃあない 

 明治時代にカラマツを植林した資産家の地元通称は「 雨宮御殿 」現在の離山公園だね

 ここで 国道と並走するしなの鉄道線路、実はその線路の向こう側が中山道なんだ

 そこで、軽井沢中学校の前に設けられた踏切を渡って線路の南側へ 

 和菓子屋さんの前で振り返ると舗装の無い小道がさっきの御殿の入口方向に向かっているよ  

 最初の右手の道を線路沿いに西へ向かうと湯川にかかる橋に辿り着く

 湯川が数限りなく氾濫を繰り返したので 

 江戸時代、どこでどう  渡河したかは判然としていないけれど 

 湯川を渡る前に仰ぎ見る浅間山は 視野の左手に見える光景が浮世絵に遺っていることで

 学者、郷土史家、観光ガイド・・・それぞれの人が長年、自説を語るポイントでもあるそうな

 さぁ・・   次のお話は「 沓掛宿 」に入るそうだよ             

 

 

 

 

 

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 軽井沢のいろいろ 旧軽井沢はその昔・・「 軽井沢の冬の夜話 」つづき・・

2024-03-22 | 避暑地 軽井沢のあれやこれ

 軽井沢の  昔昔話・・このあいだの夜の   中山道の続き・・

 当時の江戸を背にして 峠から降りて来ると軽井沢宿に辿り着く手前で川を渡ることになる

 川越し石川(かわごしいしがわ)・・と後の世で呼ばれる、現在の矢ケ崎川だね

 江戸時代に、どれほどの川幅だったか   水かさがどのくらいだったかは分からないけれど

 明治43年に大水害が発生したことは記録に残っていて大きな被害をもたらし

 河川やその流域だけでなく 軽井沢宿にも大きな被害をもたらしたと伝わるね

 二手橋もその時に落ちて被災し、後に掛け直しや幾度か改修されたもの

 宿場の中の建物と言わず墓地やあらゆるものが被災し流されて 町の文化財に指定されている

 日本人建築洋風別荘第1号の 明治26年に建築された八田別荘のお庭に

 ちょっと不似合いなイメージの石仏があるのも、その時の流出して来た名残だと言われている

 明治20年前後から 外国人滞在者が増えたり、独特のそんな雰囲気に惹かれる都会暮らしの

 避暑滞在者が増えたりで、元の宿場街の再建というよりは 

 このあたりから次第に独自の進化をして行ったのかも知れない

 宿場街によく見られる   町家づくりとでも言うのか

 出入り口から裏通りまでの縦長の敷地を持つ家が多かっただろう事もあって 

 表通り側を季節貸しして、家主はその間だけ裏手や後方の一角に暮らすという家もあったらしい

 昭和の後半くらいまでは 7月の前半から9月の始めくらいまでが

 軽井沢の「 夏 」だったこともあるね

 江戸時代の宿場町の出入り口には 宿内の治安維持や自然災害の備えなどに備えて 

 桝形(ますがた) と呼ばれる土塁や曲がりを設けて 

 外部から勢いよく宿場の中になだれ込まれないエリアを築くのが通例だった

 現在、軽井沢宿の入口あたりと言われる1番江戸側の つるやホテル(旧称つるや旅館)から

 二手橋方面はほぼ見通しが利くまっすぐで 独特な印象を持つその「 桝形 」の名残は無い

 京方(京都方向)の桝形も今は判然としていなくて 軽井沢宿に唯一遺されていると言われるのが

 軽井沢宿で唯一 これだ! と誰もが指差せる名残の文化遺産?は

 軽井沢宿本陣跡に建てられていると伝わる、明治11年(1878)の

 明治天皇北陸東海御巡幸の際の行在所だったことを伝える四角な碑 だけ・・

 本陣がどちら向きにどの辺りまでだったかも 絵図や僅かな資料から推し量るしか無いようだ

 江戸時代の始まり?から 多分 420年余・・明治になってからでさえ 157年目・・

 遺っているものは・・貴重だね

 と、軽井沢宿の昔語りはこんなものだった  次はどうなって行くかな・・    ~~

 

 

 

 

 

 

 

 

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