今日は、3月11日・・・
東日本大震災の日ですね。
その約1か月前、母が他界しまして、
3月11日のその瞬間は、位牌が届いた時でした。
あれから8年経つのですね。
今日はニュース番組などで、被災地の様子が伝えられていました。
8年前から時間が止まったままのところもあり、
改めて、爪痕の大きさを感じます。
今日はヤフーで「3.11」を検索すると、1回につきヤフーから10円寄付されるという募金活動をやっていますね。
私も参加しました。

あと、カーブス経由で、毎年、被災地の海産物を購入しています。
今年は生産者から直接、案内をいただいたので、直接申し込みしました。
美味しいので、届くのが楽しみです。
こんなことくらいしか出来ない私で申し訳ないですが、
今後も、微力ながらも、何らかの形で関わっていきたいと思っています
震災で多くの犠牲者が出ましたが、
長い間引きこもっているために、避難命令が出ても外に出ることができず、
波にのまれてしまった方が何人もいたと聞きます。
避難することができた方の中に、
「津波よりも、外の避難所などでの人間関係のほうが怖かった」と言う方もいたそうです。
ただ、長い間、引きこもり生活をしていた方が、避難できたことをきっかけに、
社会復帰ができた方もいます。
このような話がありました。
Aさんは、震災が来るまでの間、15年以上にわたって引きこもりだったそうです。
一歩も外に出ることのない「完全引きこもり」タイプ。
自分の部屋に引きこもり、食事は、母親が部屋のドアの前に運ぶ。
買ってきてほしいものがあると、ドア越しにメモが渡される。
親は奴隷のように、Aさんの言いなり。
地震が起きたとき、たまたま家に両親は不在。
大津波警報が発表されると、街にはけたたましいサイレンとともに、高台への避難を呼びかける防災行政無線が繰り返し流されていた。
集合住宅に住んでいたAさんは、恐る恐る外に出て、屋上に上がった。
真っ黒い津波は、瞬く間に屋上をものみこみ、目の前で、何人もの住民が津波に流されていった。
Aさんは、手すりにしがみついて必死に耐えしのび、ボートで救助された。
Aさんは極度の緊張と体調不良により、病院に緊急入院。
その1週間後、Aさんは病院側に「Bさんのことを探してほしい」と言ったそうです。
Bさんは、かつてのAさんの支援者でした。
親からの依頼を受けて、1度だけ、家庭訪問したことがあるのです。
でも、その時、Aさんの顔を見ることはできず。
それから3年の時が経っていました。
連絡を受けたBさんはAさんに会いにいきます。
Aさんは開口一番「あのときは会わないで、失礼なことをしました」と。
Aさんが「外に出よう」と思えた背景には、
Bさんによる3年越しの“仕掛け”があったそうです。
Bさんは、親に家の中の雰囲気を変えてもらうよう指示していました。
経済的に豊かではない家庭環境。父親もまた、リーマンショックによって、2009年に勤め先からリストラされ、収入がなかった。
たとえ外に出られたとしても、Aさんの自立を援助できるだけのお金が、両親にはなかった。
Bさんは、引きこもっている人がいる家を訪ねて行っても、本人に向かって「出て来なさい」と言うことは決してない。
このときも、Aさんの部屋の前で、ドア越しに聞いているであろう相手に向かって、こう話しかけてみた。
「1人で、よくがんばっているね!苦しかったでしょう?でも、1人で苦しむ必要は、ないんだよ」
ドアの向こうから、「帰れ!」という声は飛んでこない。
「ということは、受け入れられているな。大丈夫だ」
Bさんは確信する。
「実は、緊張しちゃうんで、ドアを閉めたままでもいいかな?」
そうBさんは、先に言うようにしている。
向こうは、絶対にドアを開けたくないと思っている。
だったら、「ドアを開けないほうが話しやすいから」と、こちらのせいにしたほうがいい。
彼らは、ドアを開けられると思っている。
だから、彼らが思っていることはやらない。
すると、大抵の当事者が拍子抜けする。
「逆転の手法」だと、Bさんは苦笑する。
しかも、最初からは本人に会わないほうがいいらしい。
「こうやって家族以外が来ると苦しいと思うけど、人の力があると軽減することもいっぱいある。
あきらめたこと、やりたいこと、いっぱいある。
生まれてきたことに忠実に動くためには、いままであきらめてきたことをもう一度、できる場所がある。
でも、選ぶのは、あなた自身。自分で決めて来てね。1年後でも2年後でもいいから」
Bさんは、それだけAさんに言うと、あとはお茶を飲んで帰る。
しかし、その後、本人はどう反応していたのかを必ず聞くようにしている。
母親がAさんに尋ねると「よくわからない」と答えたという。
それは「照れ隠し」で、本人たちは大抵「わからない」と言うそうです。
もし「素晴らしい人」などと答えようものなら、明日にでも親がBさんの元に連れて行きたがるから防御する。
でも、関心はあるというサインらしい。
いろいろと悩み考えながら引きこもっていた人たちは、震災が起きた直後、
「引きこもっている場合ではない」「出なければ」と、部屋から出てきたという。
久しぶりに出てきた引きこもり当事者が、支援者のBさんを名指しして助けを求めてきた背景には、
そうした時間をかけた丹念な仕掛けが施されていたということです。
その後ですが・・
Aさんは、15年以上の家からでれない引きこもりで、何らかの病気を発症している可能性があったため、
健康診断を受けてもらえないか?と相談したそうです。
両親が経済的に破綻しているため、生活保護の申請手続きをサポートして、
当面の間、格安の民間アパートを借りて1人暮らしをすることになりました。
Aさんは、目を閉じると、いまでも多くの人が流されていく光景を思い出し、怖くなるという。
しかし、当時とは見違えるように、髪型も服装も小奇麗になった。
そしていまは、決してあきらめることなく、自活する自分の姿を夢見ている。
もし、震災がなかったら、そのまま引きこもっていて変わらなかったかもしれない。
「死にたくないのに死んでいった人たちに申し訳ない。自分は、神様によって生かされたのだ」
Aさんは再び落ちそうになるたびに、そう実感して自分を奮い立たせているそうです。
引きこもり当事者が勇気を出して一歩踏み出そうとする時、ほぼワンチャンスと思ってやってくる。
そのタイミングを逃さずに、周囲はきちんと受け止められるかどうか、たくさんの仕掛けを施せるかどうか。
それが、社会に繋がる鍵を握っているのかもしれない。
・・・という話でした。
誰でも、これでいいなんて思っていないはず。
社会と繋がりたい。
自分の居場所が欲しい。
・・・と思っているはず。
でも、それができず長い年月が経ってしまうと、
完全に諦めてしまうことも。
親もどこかで諦めてしまう。
諦めてしまうと、もう自分では動こうとしなくなる。
諦めてしまった人間が再び、勇気を奮うって本当に大変なことです。
周りのサポートが必要だと思います。
Bさんと出会っていなかったら、
Bさんの声掛けがなかったら
その時は、なんの反応もできなかったけど、
ずっとAさんを支えていたのでしょうね。
Aさんが、外に出ることができて、
社会と関われるようになって、本当によかったです。
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東日本大震災の日ですね。
その約1か月前、母が他界しまして、
3月11日のその瞬間は、位牌が届いた時でした。
あれから8年経つのですね。
今日はニュース番組などで、被災地の様子が伝えられていました。
8年前から時間が止まったままのところもあり、
改めて、爪痕の大きさを感じます。
今日はヤフーで「3.11」を検索すると、1回につきヤフーから10円寄付されるという募金活動をやっていますね。
私も参加しました。

あと、カーブス経由で、毎年、被災地の海産物を購入しています。
今年は生産者から直接、案内をいただいたので、直接申し込みしました。
美味しいので、届くのが楽しみです。
こんなことくらいしか出来ない私で申し訳ないですが、
今後も、微力ながらも、何らかの形で関わっていきたいと思っています

震災で多くの犠牲者が出ましたが、
長い間引きこもっているために、避難命令が出ても外に出ることができず、
波にのまれてしまった方が何人もいたと聞きます。
避難することができた方の中に、
「津波よりも、外の避難所などでの人間関係のほうが怖かった」と言う方もいたそうです。
ただ、長い間、引きこもり生活をしていた方が、避難できたことをきっかけに、
社会復帰ができた方もいます。
このような話がありました。
Aさんは、震災が来るまでの間、15年以上にわたって引きこもりだったそうです。
一歩も外に出ることのない「完全引きこもり」タイプ。
自分の部屋に引きこもり、食事は、母親が部屋のドアの前に運ぶ。
買ってきてほしいものがあると、ドア越しにメモが渡される。
親は奴隷のように、Aさんの言いなり。
地震が起きたとき、たまたま家に両親は不在。
大津波警報が発表されると、街にはけたたましいサイレンとともに、高台への避難を呼びかける防災行政無線が繰り返し流されていた。
集合住宅に住んでいたAさんは、恐る恐る外に出て、屋上に上がった。
真っ黒い津波は、瞬く間に屋上をものみこみ、目の前で、何人もの住民が津波に流されていった。
Aさんは、手すりにしがみついて必死に耐えしのび、ボートで救助された。
Aさんは極度の緊張と体調不良により、病院に緊急入院。
その1週間後、Aさんは病院側に「Bさんのことを探してほしい」と言ったそうです。
Bさんは、かつてのAさんの支援者でした。
親からの依頼を受けて、1度だけ、家庭訪問したことがあるのです。
でも、その時、Aさんの顔を見ることはできず。
それから3年の時が経っていました。
連絡を受けたBさんはAさんに会いにいきます。
Aさんは開口一番「あのときは会わないで、失礼なことをしました」と。
Aさんが「外に出よう」と思えた背景には、
Bさんによる3年越しの“仕掛け”があったそうです。
Bさんは、親に家の中の雰囲気を変えてもらうよう指示していました。
経済的に豊かではない家庭環境。父親もまた、リーマンショックによって、2009年に勤め先からリストラされ、収入がなかった。
たとえ外に出られたとしても、Aさんの自立を援助できるだけのお金が、両親にはなかった。
Bさんは、引きこもっている人がいる家を訪ねて行っても、本人に向かって「出て来なさい」と言うことは決してない。
このときも、Aさんの部屋の前で、ドア越しに聞いているであろう相手に向かって、こう話しかけてみた。
「1人で、よくがんばっているね!苦しかったでしょう?でも、1人で苦しむ必要は、ないんだよ」
ドアの向こうから、「帰れ!」という声は飛んでこない。
「ということは、受け入れられているな。大丈夫だ」
Bさんは確信する。
「実は、緊張しちゃうんで、ドアを閉めたままでもいいかな?」
そうBさんは、先に言うようにしている。
向こうは、絶対にドアを開けたくないと思っている。
だったら、「ドアを開けないほうが話しやすいから」と、こちらのせいにしたほうがいい。
彼らは、ドアを開けられると思っている。
だから、彼らが思っていることはやらない。
すると、大抵の当事者が拍子抜けする。
「逆転の手法」だと、Bさんは苦笑する。
しかも、最初からは本人に会わないほうがいいらしい。
「こうやって家族以外が来ると苦しいと思うけど、人の力があると軽減することもいっぱいある。
あきらめたこと、やりたいこと、いっぱいある。
生まれてきたことに忠実に動くためには、いままであきらめてきたことをもう一度、できる場所がある。
でも、選ぶのは、あなた自身。自分で決めて来てね。1年後でも2年後でもいいから」
Bさんは、それだけAさんに言うと、あとはお茶を飲んで帰る。
しかし、その後、本人はどう反応していたのかを必ず聞くようにしている。
母親がAさんに尋ねると「よくわからない」と答えたという。
それは「照れ隠し」で、本人たちは大抵「わからない」と言うそうです。
もし「素晴らしい人」などと答えようものなら、明日にでも親がBさんの元に連れて行きたがるから防御する。
でも、関心はあるというサインらしい。
いろいろと悩み考えながら引きこもっていた人たちは、震災が起きた直後、
「引きこもっている場合ではない」「出なければ」と、部屋から出てきたという。
久しぶりに出てきた引きこもり当事者が、支援者のBさんを名指しして助けを求めてきた背景には、
そうした時間をかけた丹念な仕掛けが施されていたということです。
その後ですが・・
Aさんは、15年以上の家からでれない引きこもりで、何らかの病気を発症している可能性があったため、
健康診断を受けてもらえないか?と相談したそうです。
両親が経済的に破綻しているため、生活保護の申請手続きをサポートして、
当面の間、格安の民間アパートを借りて1人暮らしをすることになりました。
Aさんは、目を閉じると、いまでも多くの人が流されていく光景を思い出し、怖くなるという。
しかし、当時とは見違えるように、髪型も服装も小奇麗になった。
そしていまは、決してあきらめることなく、自活する自分の姿を夢見ている。
もし、震災がなかったら、そのまま引きこもっていて変わらなかったかもしれない。
「死にたくないのに死んでいった人たちに申し訳ない。自分は、神様によって生かされたのだ」
Aさんは再び落ちそうになるたびに、そう実感して自分を奮い立たせているそうです。
引きこもり当事者が勇気を出して一歩踏み出そうとする時、ほぼワンチャンスと思ってやってくる。
そのタイミングを逃さずに、周囲はきちんと受け止められるかどうか、たくさんの仕掛けを施せるかどうか。
それが、社会に繋がる鍵を握っているのかもしれない。
・・・という話でした。
誰でも、これでいいなんて思っていないはず。
社会と繋がりたい。
自分の居場所が欲しい。
・・・と思っているはず。
でも、それができず長い年月が経ってしまうと、
完全に諦めてしまうことも。
親もどこかで諦めてしまう。
諦めてしまうと、もう自分では動こうとしなくなる。
諦めてしまった人間が再び、勇気を奮うって本当に大変なことです。
周りのサポートが必要だと思います。
Bさんと出会っていなかったら、
Bさんの声掛けがなかったら
その時は、なんの反応もできなかったけど、
ずっとAさんを支えていたのでしょうね。
Aさんが、外に出ることができて、
社会と関われるようになって、本当によかったです。
