奥田瑛二監督作品は、初めて。
どうにもこの人の演技が苦手なので、敬遠していたのだが、
緒形拳だし・・・。
時間を間違えてオープニングを見損なう。
完全入れ替えって、次の頭だけとか観られないのがね。
いかにも元・教育者な男、安太郎。
彼が引っ越した古びたアパートの隣の部屋には、
いびつな母娘が住んでいた。
作り物の羽を背負い、薄汚れたままで捨て置かれ、
灰色の工業地帯の空を眺める少女。
男出入りの激しい母親は、
時には暴力をふるい、時には少女を部屋から出して男との時間を選ぶ。
ゴミに埋め尽くされた部屋で、
母親もヒモも、少女の名前を呼ぶことすらない。
安太郎は、自分の家庭すら満足に営めずに、
妻をキッチンドリンカーにしてしまうという過去を持ち、
娘とは絶縁状態にある。
その悔いからか、
少女を地獄から救い出そうと、
クタビレた身体を鍛え始めるのだった。
出てくる人物が全て孤独を抱えていて、胸が痛かった。
(刑事は「行き詰っている」と表現していたが)
母親もヒモの男も、多分、愛された記憶がないのだ。
旅の途中で出会うワタルの、死に至る孤独の深さに、
どうして松太郎は気がつかなかったのだろう。
心の闇が引き合ったであろう幸とワタルに。
そうして、少女・幸
(あぁ、母親は何故この名前をつけたのだろう・・・)
彼女の心の闇、すさみ、孤独は推し量りがたい。
スーパーで、果物を引きちぎり押しつぶす無心の姿のなんとつらいこと。
欲しいものは盗まなければ手に入らない。
食べたいものを聞かれても、
食べたことのないものは選べない。
名前を聞かれても、呼ばれない名前は名乗れない。
「熱い」を「痛い」としか言えない。
それは、ヘレンケラーが
モノに名前があることをサリバンに教わるまで知らないようなものだ。
もう、最初からずっと泣いてしまった。
私は幸だった。
母親の男が少女をなでる手つきに性的な意味があることを、
それがどれだけ絶望的な気持ちなのかを、
なにもいい置かずに母親が何日も帰らない絶望を、
「置いて行かれる」恐怖と孤独を、
何日も風呂に入れてもらえないとどんなことになるかまでを、
感覚として思い出してしまった。
暴力こそ大して受けていないが、
今なら立派に虐待なんだろうなあ。
うちら母娘は、必死に生きて、
修羅場を沢山沢山抜けて、
今は一見普通だけど、
私の中の三歳児は今でも孤独なままなんだと思う。
だから孤独な人には敏感に反応してしまう。
いや、
こんな話をしてどうこうじゃなく、
”フラガール”の時と同じで、
現実にそれを生きた(生き延びた)人間の感想ということです。
幸に比べれば全然良い環境だったと思うけれど、
傷は深く深く残ります。
だから、
安太郎がとりもどした幸の笑顔がずっと続きますように。
安太郎と過ごした日々が、幸の人生を明るく灯しますように。
そう願いながら映画館を出た。
泣きすぎと、心の揺れで
予定した次の映画を観に行けなくなってしまったよ。
これって、感想としてどうなんだろうなぁ。
どうにもこの人の演技が苦手なので、敬遠していたのだが、
緒形拳だし・・・。
時間を間違えてオープニングを見損なう。
完全入れ替えって、次の頭だけとか観られないのがね。
いかにも元・教育者な男、安太郎。
彼が引っ越した古びたアパートの隣の部屋には、
いびつな母娘が住んでいた。
作り物の羽を背負い、薄汚れたままで捨て置かれ、
灰色の工業地帯の空を眺める少女。
男出入りの激しい母親は、
時には暴力をふるい、時には少女を部屋から出して男との時間を選ぶ。
ゴミに埋め尽くされた部屋で、
母親もヒモも、少女の名前を呼ぶことすらない。
安太郎は、自分の家庭すら満足に営めずに、
妻をキッチンドリンカーにしてしまうという過去を持ち、
娘とは絶縁状態にある。
その悔いからか、
少女を地獄から救い出そうと、
クタビレた身体を鍛え始めるのだった。
出てくる人物が全て孤独を抱えていて、胸が痛かった。
(刑事は「行き詰っている」と表現していたが)
母親もヒモの男も、多分、愛された記憶がないのだ。
旅の途中で出会うワタルの、死に至る孤独の深さに、
どうして松太郎は気がつかなかったのだろう。
心の闇が引き合ったであろう幸とワタルに。
そうして、少女・幸
(あぁ、母親は何故この名前をつけたのだろう・・・)
彼女の心の闇、すさみ、孤独は推し量りがたい。
スーパーで、果物を引きちぎり押しつぶす無心の姿のなんとつらいこと。
欲しいものは盗まなければ手に入らない。
食べたいものを聞かれても、
食べたことのないものは選べない。
名前を聞かれても、呼ばれない名前は名乗れない。
「熱い」を「痛い」としか言えない。
それは、ヘレンケラーが
モノに名前があることをサリバンに教わるまで知らないようなものだ。
もう、最初からずっと泣いてしまった。
私は幸だった。
母親の男が少女をなでる手つきに性的な意味があることを、
それがどれだけ絶望的な気持ちなのかを、
なにもいい置かずに母親が何日も帰らない絶望を、
「置いて行かれる」恐怖と孤独を、
何日も風呂に入れてもらえないとどんなことになるかまでを、
感覚として思い出してしまった。
暴力こそ大して受けていないが、
今なら立派に虐待なんだろうなあ。
うちら母娘は、必死に生きて、
修羅場を沢山沢山抜けて、
今は一見普通だけど、
私の中の三歳児は今でも孤独なままなんだと思う。
だから孤独な人には敏感に反応してしまう。
いや、
こんな話をしてどうこうじゃなく、
”フラガール”の時と同じで、
現実にそれを生きた(生き延びた)人間の感想ということです。
幸に比べれば全然良い環境だったと思うけれど、
傷は深く深く残ります。
だから、
安太郎がとりもどした幸の笑顔がずっと続きますように。
安太郎と過ごした日々が、幸の人生を明るく灯しますように。
そう願いながら映画館を出た。
泣きすぎと、心の揺れで
予定した次の映画を観に行けなくなってしまったよ。
これって、感想としてどうなんだろうなぁ。