砂漠の朝

大人になれない人の育児日記。
奇跡講座ワークブックを実践中。

8月7日

2022-08-07 17:45:03 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
「私達は自分の幸せを得るだけのためにここにやってきたのではありません」

一般的に言われてることだけども。とってもガッテンしております。
ガッテンしかないレッスン139「私は私自身のためにあがないを
受け容れます」。

誰か偉い人が、「自分の利益だけを求めてはいけない」
と言っても、そりゃわかってるけど自分の生活だけでいっぱいだし・・・、とか
思春期の少年のように反発したり、利益を求めようにも方法がわからない、
というふうにしか反応できなかった。母が倒れたとき、実家に行くと
ユニセフの資料があった。家でひとりになった父が募金をしたのだ。
どうしてもそういう解釈になってしまう。だから、そういう解釈では
限界がある。
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8月7日

2022-08-07 16:57:29 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
奇跡講座ワークブック編

「私は私自身のためにあがないを受け容れます 」(レッスン139)

改めて139。読むのが大変。否定の否定で肯定、ならまだ解りやすいが!


「選択とは私達が何であるかについての不確かな気持ちの状態以外の何ものでもないでしょうか」
 ↓
強調でない通常の文【選択とは私達が何であるかについての不確かな気持ちの状態だ】


「その不確かな気持ちがここに根差していないことは疑いがありません」
 ↓
強調でない通常の文【その不確かな気持ちがここに根ざしています】


「私達が何であるかというこの質問を反映しない質問は存在しません」
 ↓
強調でない通常の文【全ての質問は、私達が何であるかというこの質問を反映している】


「私は何だろう?という一つの単純な質問を伴わない葛藤は存在しません」
 ↓
強調でない通常の文【全ての葛藤は、私は何だろう?という一つの単純な質問を
伴います】


「自分自身を認識することを拒否している人以外の誰がこの質問を
することができるでしょうか」
 ↓
強調でない通常の文【自分自身を認識することを拒否している人が
この質問(私は何だろう)をすることができます】


これらの文章、一回自分用に訳さないとわからんときある。

それはいいとして、次の文「自分自身を受け容れることを拒否すること
によってのみ、この質問(私は何だろう)を誠実なもののように
思わせることができます」が、何気にハッとさせられました。
まるでパラドックスのようなことに気が付きました。
「私は何だろう?」という質問をしている限り、自我の私から
脱出できない。ということです。
「彼がまるで知らないかのように質問すれば、それは彼がそうであるものを
欲しないことを示すだけです」
「この身体は私です」という認識は、自分への最大級の最初にして
最後の自己欺瞞になる。確かに。それでも、理解の範疇を超えないが。


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8月7日

2022-08-07 16:22:52 | 奇跡講座テキスト or ワークブック
奇跡講座ワークブック編

「救いだけが癒すと言うことができます」(レッスン140) 

今朝、自分の顔を鏡で見たら、すごく不安げで表情はこわばって、
エゴまみれで、もう完全に獣と化してたので、どこにもでかけたくない!
という状態に陥っていましたが、
「私が思っている理由で怒っているのではありません」(レッスン5)
を思い出して唱えたら「本当にそうだなぁ」と共感でき(以前は必死に怒りを
抑えることしかできなかった)怒りがどこかへ消えた。私ではない自我が
私の心を占有してたことがはっきりわかった。そしてほっとして
「よっしゃでかけるぞー!」となった。その後、おそば屋さんで
不穏な出来事があったが、平気過ぎた。どこへ行っても無限に元気だった。

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