ふーだお通信

2010年までは中国での生活日記。2010年以降は福島(中国語でfudaoと発音)での事。

3月11日

2011-03-20 22:03:54 | 震災
3月11日の午後は家にいた。買い物に行こうかなあ、と思いながらパソコンを開いていたのだが、子供たちが3時過ぎには学校から帰ってくるので、ああもう買い物はいいか、家で待っていよう、と思っていた頃だった。

初めは、2日前に起きた宮城の地震の余震がまたきたなあ、と思うようなカタカタの揺れ。
けっこう大きいぞ、窓を開けとこうか、と台所の窓を開けて様子を見ていると、どんどん大きくなる揺れ。
何?この揺れは??

東京などでも結構揺れたそうなのでわかってもらえると思うが、普段の地震とは全く違う、どんどんどんどん横揺れがひどくなる長い揺れ。
家の中のものがどんどん落ちてきて、目の前に屋根から瓦が何枚も落ちてくる。
私は開けた窓を手で押さえながら、絶叫マシーンに乗っているように「キャー!キャー!」と外に向かって叫んでいた。

やっと揺れがおさまって、ドキドキしながら(子供たちがもうすぐ帰ってくるのに、外を歩いていたら大変だ!)と思い、慌てて今まで見ていたパソコンのスイッチを切る。気が付いたら靴下がたった今まで飲んでいたコーヒーがひっくり返ってこぼれて濡れていた。

バックをひっつかんで玄関に向かうと、廊下に置いてあった本棚がひっくり返って本が散乱。それを乗り越え外に出ると、近所の人たちが外に出ている。
100M位先に何かがひっくり返っているのが見えるが(近所の家の物置だった)、その時は、(子供が倒れてきたブロックの下敷きになってるんじゃないか?)とすごく心配だった。
近所の人に「子供が帰ってくる時間なんで見てきます!」と言って、通学路を走った。

途中、塀が倒れている場所は何か所もあり、陥没している場所も何か所もあり、私と同じように学校へ子供を迎えに行くらしい車に乗った親の姿もたくさん見かけ、それでも子供達の姿は見えない。
どうやらまだ学校から外に出てないらしい、と思いながら学校へ急ぐと、私と同じように歩いて学校へ向かう親が増えてきた。
学校近くになるにつれ、親が乗った車で渋滞。それに学校へ向かう坂道が大きく陥没していて車が中に入れない。
歩いてきて正解、と思っていると、校門のすぐ近くで子供達が先生達と一緒に並んで座っていた。

息子も娘も無事。良かった~!!

先生の話によると、下校の時間で校門を出てしまった子も数人いたようだが、そんな子達も地震でびっくりして学校に戻ってきたようだ。
息子と娘のクラスは幸い下校前で、息子は教室で、娘は校庭で地震にあったそうだ。
半分くらいの子が泣いていたが、うちの子供たちは泣いてはいなかった。

手をしっかり握って急いで家に戻ったのだが、家の近くに来ると海の方から車がどんどん来る。消防車も遠くの方で何か言っている。
息子の同級生のお母さんが車の窓から顔を出して
「津波警報がでてるよ。もう水が見えるから早く逃げて。」
と知らせてくれた。

そういえば道路の側溝がやけに増水している。遠くの方に水らしきものがしみ出してきているように見える。
でも家に車があるし、急いで帰らないと側溝の水があふれてきて渡れなくなりそう、と慌てて家に戻り、車に子供達をのせ出発。

こんな時は小学校に行けばいいのか、と考えていると、避難する車の渋滞。
裏道を通ろうとしたら、すでにタイヤ半分くらいつかるほどの水が道路に広がっている。
町に出る方の道が渋滞しているので、比較的空いている反対方向の道を選びながら小学校に向かおうとしたが、やっぱり途中で止まってしまった。
もうこれは歩いた方が早いと、コンビニの駐車場に車を止める。コンビニはすでに営業を中止していて店員さんが水がくる方向を眺めていた。

学校に戻る事になり子供たちはなんだか嬉しそう。まだたくさんの子供たちが残っていて、先生たちは親に子供達をしっかりと引き渡す事を第一に、点呼をしっかり行っていた。
子供たちの先生に「津波がきてます。水が見えました。」と話していると、地区の人達もどんどん避難してきた。

どんどん暗くなって、寒くなると、校庭や体育館にいた私達に校長先生は、
「体育館は寒いですから教室を解放します。ストーブをつけますから移動してください。」
と言ってくれた。

学校は断水はしていたが、電気はきていたので各教室のテレビが見れ、初めて地震の大きさを知った。
大津波警報がでて、10Mの津波がくるという報道を、そんなばかな、せいぜい数メートルでしょ、と思った。

夜8時頃に外にいた母が小学校にやってきて、道路が大渋滞で大変だった話を聞いた。
やっと家の近くにきたら家に曲がる道が津波で通行止めになり曲がれなくて、それで小学校に来たという。近所の堤防が決壊したという噂も聞いた。

テレビの映像が燃えるコンビナートや三陸の様子を伝えている。

あとから避難してきた人はみんな準備よく毛布など持参していたが、私は何にも持たずに来てしまい、防災用の毛布とお隣の多めに毛布を持っていた方から貸して頂いた。
乾パンが一人1缶配布されて、教室の床に毛布を敷き詰めて座った。

余震が何度もあり、そのたびに窓近くに座る人が窓を開ける準備をしたが、あまりの余震の多さにそのうちちょっとの揺れではみんな動かなくなった。

子供たちは「寝ない」と言っていたが、やっぱりそのうち眠ってしまった。
私は結局寝ないでテレビを見ていた。他の人達もほとんど起きていた。
コメント (3)
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