こんにちは!
今回の掲載記事は11月6日~8日にかけて訪れた中山道、木曾路、
飛騨路の旅の風景を数話に分けてお届けしたいと思います
初回の記事は江戸時代末期の町並みがそのまま残る
中山道42番目の宿場妻籠宿後編を掲載してみたいと思います
妻籠宿(つまごじゅく)
寺下の町並みに入る石段横に佇む、
石置き屋根が目印の「下嵯峨屋」(しもさがや)
妻籠宿にある民家の中では比較的古い形式を留めていて、
内部の柱には檜を使い、当時の民家を代表する
片土間に並列2間取りというスタイル
妻籠宿 寺下の町並み
妻籠宿 寺下の町並み
1960年代に深刻となった長野県の過疎問題の対策として、
開発事業としての保存事業が基本方針となった
1968年から1970年にかけて明治百年記念事業の一環として
寺下地区の26戸が解体修復された
その後、観光客が増え始めたことから
観光関連施設の整備が行われるようになり、
保存事業を制度面から後押しするために、
1973年に当時としては例の少ない、
町独自の町並み保存条例である『妻籠宿保存条例』が制定された
(1976年に『妻籠宿保存地区保存条例』へ改正)
経済成長に伴い全国の伝統的な町並みが姿を消してゆく中、
いち早く地域を挙げて景観保全活動に取り組んだことが評価され、
1976年、国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地の一つに選ばれた
他の保存地区と異なり、周辺の農地など宿場を支えた環境全体を保存するため、
国有林を含めた広範囲が選定されている
江戸時代末期の町並み 妻籠宿 寺下地区
江戸時代末期の町並みがそのまま残る妻籠宿を散策
早朝の妻籠宿(つまごじゅく)を散策
妻籠宿郵便資料館
島崎藤村(夜明け前)にも開局当時の様子が描かれている
妻籠宿本陣(南木曾町博物館)
早朝の妻籠宿(つまごじゅく)を散策
妻籠宿高札場
今日でいう官報掲示板
幕府が庶民に対して、禁制や法度等を示したもの
地上に落ちてきた魚 鯉岩
地すべりによってここまで流れてきたであろう
この大きな岩は、鯉岩として知られており、
何世紀にもわたって中山道の旅に疲れた旅人の間では
よく知られた陸標でしたが、残念なことに、
1891年の濃尾大地震でその飛び跳ねた魚を思わせる形が
大きく損なわれてしまいました
このマグニチュード8.0の日本史上最大の内陸直下型地震により
この岩が壊れ、その前方部分がほぼ直角に折れて落ちてしまいました
この看板には、1806年発行の木曽路名所図絵の
鯉岩の当初の状態が描かれた版画の複製が掲げられています
(岩の側面のヒレは、版画家が付け加えたものです) が、
よく見ると、この岩の根元に魚の口のようなものを
未だに認めることができます
木曾路 名所絵図に描かれた鯉岩
気になったのでネットで絵図を調べてみました
鯉によく似た岩だったようです
鯉岩の由来が書かれています
散策ルートに掲げられた妻籠宿寺下地区への案内
妻籠宿を後に本日の宿泊予定地 廃村の南信州大平宿へ向かいました
最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう
今回の掲載記事は11月6日~8日にかけて訪れた中山道、木曾路、
飛騨路の旅の風景を数話に分けてお届けしたいと思います
初回の記事は江戸時代末期の町並みがそのまま残る
中山道42番目の宿場妻籠宿後編を掲載してみたいと思います
妻籠宿(つまごじゅく)
寺下の町並みに入る石段横に佇む、
石置き屋根が目印の「下嵯峨屋」(しもさがや)
妻籠宿にある民家の中では比較的古い形式を留めていて、
内部の柱には檜を使い、当時の民家を代表する
片土間に並列2間取りというスタイル
妻籠宿 寺下の町並み
妻籠宿 寺下の町並み
1960年代に深刻となった長野県の過疎問題の対策として、
開発事業としての保存事業が基本方針となった
1968年から1970年にかけて明治百年記念事業の一環として
寺下地区の26戸が解体修復された
その後、観光客が増え始めたことから
観光関連施設の整備が行われるようになり、
保存事業を制度面から後押しするために、
1973年に当時としては例の少ない、
町独自の町並み保存条例である『妻籠宿保存条例』が制定された
(1976年に『妻籠宿保存地区保存条例』へ改正)
経済成長に伴い全国の伝統的な町並みが姿を消してゆく中、
いち早く地域を挙げて景観保全活動に取り組んだことが評価され、
1976年、国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地の一つに選ばれた
他の保存地区と異なり、周辺の農地など宿場を支えた環境全体を保存するため、
国有林を含めた広範囲が選定されている
江戸時代末期の町並み 妻籠宿 寺下地区
江戸時代末期の町並みがそのまま残る妻籠宿を散策
早朝の妻籠宿(つまごじゅく)を散策
妻籠宿郵便資料館
島崎藤村(夜明け前)にも開局当時の様子が描かれている
妻籠宿本陣(南木曾町博物館)
早朝の妻籠宿(つまごじゅく)を散策
妻籠宿高札場
今日でいう官報掲示板
幕府が庶民に対して、禁制や法度等を示したもの
地上に落ちてきた魚 鯉岩
地すべりによってここまで流れてきたであろう
この大きな岩は、鯉岩として知られており、
何世紀にもわたって中山道の旅に疲れた旅人の間では
よく知られた陸標でしたが、残念なことに、
1891年の濃尾大地震でその飛び跳ねた魚を思わせる形が
大きく損なわれてしまいました
このマグニチュード8.0の日本史上最大の内陸直下型地震により
この岩が壊れ、その前方部分がほぼ直角に折れて落ちてしまいました
この看板には、1806年発行の木曽路名所図絵の
鯉岩の当初の状態が描かれた版画の複製が掲げられています
(岩の側面のヒレは、版画家が付け加えたものです) が、
よく見ると、この岩の根元に魚の口のようなものを
未だに認めることができます
木曾路 名所絵図に描かれた鯉岩
気になったのでネットで絵図を調べてみました
鯉によく似た岩だったようです
鯉岩の由来が書かれています
散策ルートに掲げられた妻籠宿寺下地区への案内
妻籠宿を後に本日の宿泊予定地 廃村の南信州大平宿へ向かいました
最後まで御覧頂きありがとうございます
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