こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今年も気ままなピークハンターズの山旅blog御覧頂きありがとうございました
今回の記事は令和6年に巡った関西方面 峠の旅ベスト5プラス1
を取り上げてみたいと思います
伊勢・五ヶ所街道の剣峠 標高343m
伊勢志摩の五ヶ所湾から峠を越えた後、
五十鈴川に沿って伊勢神宮の内宮に到る街道がある
三重県道12号線伊勢南勢線、通称 「五ヶ所街道」である
明治23年、地元の懇願により整備された
伊勢神宮をお参りするための信仰の道であり、
土地の人々が、海山の幸を伊勢の町に運ぶ生活の道でもあった
剣峠
大正8年に客馬車が運行し始めたが、
大正11年には乗合自動車に取って代わられた
今も道幅が狭く、乗用車がすれ違うのにも苦労する
中ほどにある剣峠は標高330m、
岩盤を削った掘割になっている
峠の近くに、先の尖った大きな岩が立っている
これが 「剣峠」 の名前の由来だろうか
この辺りにはヤブツバキの純林があるので、別名 「椿峠」 とも呼ぶ
剣峠より南紀勢林道を眺める
剣峠より眺める南紀勢の熊野灘方面
御斎峠(おとぎとうげ)
昔から近江では伊賀・伊勢道、伊賀では京道(京街道)
と呼ばれていた 標高は570m
この峠は、伊賀と甲賀を結ぶ峠で、
あの『徳川家康』が本能寺の変の際、急ぎ伊賀の国を切り抜け、
船で三河国へ渡る際に越えたと言われる峠です
これが、「伊賀越え」と言われており、小説や映画の『梟の城』にも登場します
御斎峠(おとぎとうげ)より眺める伊賀市方面
御斎峠(おとぎとうげ)に建つ石版
切通し 多羅尾氏押通ると記されています
御斎峠跡 伊賀と甲賀を結ぶ峠跡
御斎峠より眺める伊賀市方面
御斎峠より眺める甲賀方面
暗峠(くらがりとうげ)
奈良県生駒市西畑町と大阪府東大阪市東豊浦町との境にある
国道308号及び大阪府道・奈良県道702号大阪枚岡奈良線(重複)の峠
古くは闇峠とも書かれた 標高は455m
日本随一の酷道「暗峠」現在も国道308号線として現役の道路
「暗がり」の名称の起源は、樹木が鬱蒼と覆い繁り、
昼間も暗い山越えの道であった説や、「椋嶺峠」が転じた説、
「鞍借り」、「鞍換へ」が訛って「暗がり」となったとする異説もある
上方落語伊勢参宮神乃賑の枕では、
「あまりに険しいので馬の鞍がひっくり返りそうになることから、
鞍返り峠と言われるようになった」と語られている
暗峠を通る暗越奈良街道は「日本の道100選」に選定されており、
峠頂部の石畳の道端には、日本の道100選の顕彰碑が置かれている
峠の頂上には小さな集落があり、
2024年現在でも営業している茶店もある
国道308号及び大阪府道・奈良県道702号
大阪枚岡奈良線(重複)の峠
国見峠(くにみとうげ)石碑 標高:840m
伊吹山系の北尾根に位置し、滋賀県上板並地区と
岐阜県春日美束地区の県境にあります
峠石碑、釈迦堂標柱
国見峠(くにみとうげ)景観
百名山伊吹山が見える
国見峠(くにみとうげ)に建つ釈迦堂
国見峠(くにみとうげ)景観
国見峠の碑文
国見とは太古の謎を偲ばせる言葉である
この峠道は近江と美濃を結ぶ歴史の間道であり
塩と絹の道として往来する村人の暮らしの道であった
教如上人をかくまった鉈が岩屋は峠にも近く、
落ちのびた武将や子女の哀史は尽きない
また明治、大正期には伊吹の野麦峠でもあったのである
宮本武蔵が駆け抜けた峠、判団右エ門の大滝、
炭山村跡、さざれ石の伝説もある
峠を下れば寝仏、尻まくり地蔵が、
訪れる人々に歴史の歳月を語りかける
国道153号(飯田街道)伊勢神トンネル
伊勢神峠(いせがみとうげ)標高780m
東加茂郡(旧足助町)と北設楽郡(旧稲武町)の境に位置し、
かつては飯田街道の難所だったが多くの中馬や
善光寺への参拝者がこの峠を往来した
古くは石神峠、石亀峠などと呼ばれていたが、
文久4年(1864年)に稲橋村
(現・豊田市稲武町)の庄屋・古橋家の6代当主であった
古橋源六郎暉皃によって伊勢神宮遥拝所が
峠に設けられ、伊勢拝峠と改められたという
伊勢神峠(いせがみとうげ)
一番上の峠には中馬や善光寺参りの人々が往来した当時の道が残り、
その下には明治30年(1897年)竣工の伊勢神旧トンネルがあります
さらに昭和35年開通の国道153号には新トンネルがあり、
3代にわたる、道の歴史があります
伊勢神宮への参拝は庶民のあこがれでした
今のように交通機関も発達していない時代の神宮への参拝は
大変なこと>そのため、日本各地に遥かはなれた伊勢神宮を拝するための
遥拝所が作られました
伊勢神宮遥拝所
神坂峠(みさかとうげ)
木曽山脈南部の岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある
標高1,569 mの峠
神坂峠は、古くは信濃国の伊那郡と美濃国の恵那郡(木曾谷)との境であった
古代において坂とは「峠」の意味であり、東山道が通る交通の要所であり難所であった
その険しい道程から東山道第一の難所として知られ、
荒ぶる神の坐す峠として「神の御坂」と呼ばれた
神坂峠は、急峻で距離も長かったため、
峠を越えられずに途中で死亡する者や、
盗賊が出ては旅人を襲ったとの記録が、
いろいろな古典に書かれている後に、
東山道(中山道)は神坂峠を避けて、
木曾谷を通るようになったため、神坂峠を越える者は減少した
神坂峠(みさかとうげ)へ
車道より徒歩 この奥100mと記されている
神坂峠遺跡は、
古墳時代の中期以降石製模造品を主体とする峠神祭祀の場となり、
また、奈良・平安時代以降は、
東海地方の須恵器・緑釉陶器・灰釉陶器の搬入路として、
これらの陶器類を主とする峠神祭祀の場となった
全国的にも数少ないこの種の遺跡の中にあって、
神坂峠遺跡は、古墳時代から古代・中世に及ぶ
峠神祭祀の実態をうかがうことのできる代表的な遺跡として重要なものである
現在阿智村の中央公民館に保管・展示されている
神坂峠(みさかとうげ)に記されている古代東山道道標
車道より神坂峠(みさかとうげ)を眺める
百名山恵那山への 神坂峠登山口
最後まで御覧頂きありがとうございます
令和7年も日本の峠巡りの旅、続けていきたいと思います
中央構造線の露頭がある峠 青崩峠 真下にはリニア新幹線
断層がある破砕帯難工事が予想される場所
天候の急変で阻まれた峠 金精峠等々です
令和7年度もgoo blog掲載者の皆様 良い年をお迎えください
来年もよろしくお願いいたします
次の投稿までご機嫌よう
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今年も気ままなピークハンターズの山旅blog御覧頂きありがとうございました
今回の記事は令和6年に巡った関西方面 峠の旅ベスト5プラス1
を取り上げてみたいと思います
伊勢・五ヶ所街道の剣峠 標高343m
伊勢志摩の五ヶ所湾から峠を越えた後、
五十鈴川に沿って伊勢神宮の内宮に到る街道がある
三重県道12号線伊勢南勢線、通称 「五ヶ所街道」である
明治23年、地元の懇願により整備された
伊勢神宮をお参りするための信仰の道であり、
土地の人々が、海山の幸を伊勢の町に運ぶ生活の道でもあった
剣峠
大正8年に客馬車が運行し始めたが、
大正11年には乗合自動車に取って代わられた
今も道幅が狭く、乗用車がすれ違うのにも苦労する
中ほどにある剣峠は標高330m、
岩盤を削った掘割になっている
峠の近くに、先の尖った大きな岩が立っている
これが 「剣峠」 の名前の由来だろうか
この辺りにはヤブツバキの純林があるので、別名 「椿峠」 とも呼ぶ
剣峠より南紀勢林道を眺める
剣峠より眺める南紀勢の熊野灘方面
御斎峠(おとぎとうげ)
昔から近江では伊賀・伊勢道、伊賀では京道(京街道)
と呼ばれていた 標高は570m
この峠は、伊賀と甲賀を結ぶ峠で、
あの『徳川家康』が本能寺の変の際、急ぎ伊賀の国を切り抜け、
船で三河国へ渡る際に越えたと言われる峠です
これが、「伊賀越え」と言われており、小説や映画の『梟の城』にも登場します
御斎峠(おとぎとうげ)より眺める伊賀市方面
御斎峠(おとぎとうげ)に建つ石版
切通し 多羅尾氏押通ると記されています
御斎峠跡 伊賀と甲賀を結ぶ峠跡
御斎峠より眺める伊賀市方面
御斎峠より眺める甲賀方面
暗峠(くらがりとうげ)
奈良県生駒市西畑町と大阪府東大阪市東豊浦町との境にある
国道308号及び大阪府道・奈良県道702号大阪枚岡奈良線(重複)の峠
古くは闇峠とも書かれた 標高は455m
日本随一の酷道「暗峠」現在も国道308号線として現役の道路
「暗がり」の名称の起源は、樹木が鬱蒼と覆い繁り、
昼間も暗い山越えの道であった説や、「椋嶺峠」が転じた説、
「鞍借り」、「鞍換へ」が訛って「暗がり」となったとする異説もある
上方落語伊勢参宮神乃賑の枕では、
「あまりに険しいので馬の鞍がひっくり返りそうになることから、
鞍返り峠と言われるようになった」と語られている
暗峠を通る暗越奈良街道は「日本の道100選」に選定されており、
峠頂部の石畳の道端には、日本の道100選の顕彰碑が置かれている
峠の頂上には小さな集落があり、
2024年現在でも営業している茶店もある
国道308号及び大阪府道・奈良県道702号
大阪枚岡奈良線(重複)の峠
国見峠(くにみとうげ)石碑 標高:840m
伊吹山系の北尾根に位置し、滋賀県上板並地区と
岐阜県春日美束地区の県境にあります
峠石碑、釈迦堂標柱
国見峠(くにみとうげ)景観
百名山伊吹山が見える
国見峠(くにみとうげ)に建つ釈迦堂
国見峠(くにみとうげ)景観
国見峠の碑文
国見とは太古の謎を偲ばせる言葉である
この峠道は近江と美濃を結ぶ歴史の間道であり
塩と絹の道として往来する村人の暮らしの道であった
教如上人をかくまった鉈が岩屋は峠にも近く、
落ちのびた武将や子女の哀史は尽きない
また明治、大正期には伊吹の野麦峠でもあったのである
宮本武蔵が駆け抜けた峠、判団右エ門の大滝、
炭山村跡、さざれ石の伝説もある
峠を下れば寝仏、尻まくり地蔵が、
訪れる人々に歴史の歳月を語りかける
国道153号(飯田街道)伊勢神トンネル
伊勢神峠(いせがみとうげ)標高780m
東加茂郡(旧足助町)と北設楽郡(旧稲武町)の境に位置し、
かつては飯田街道の難所だったが多くの中馬や
善光寺への参拝者がこの峠を往来した
古くは石神峠、石亀峠などと呼ばれていたが、
文久4年(1864年)に稲橋村
(現・豊田市稲武町)の庄屋・古橋家の6代当主であった
古橋源六郎暉皃によって伊勢神宮遥拝所が
峠に設けられ、伊勢拝峠と改められたという
伊勢神峠(いせがみとうげ)
一番上の峠には中馬や善光寺参りの人々が往来した当時の道が残り、
その下には明治30年(1897年)竣工の伊勢神旧トンネルがあります
さらに昭和35年開通の国道153号には新トンネルがあり、
3代にわたる、道の歴史があります
伊勢神宮への参拝は庶民のあこがれでした
今のように交通機関も発達していない時代の神宮への参拝は
大変なこと>そのため、日本各地に遥かはなれた伊勢神宮を拝するための
遥拝所が作られました
伊勢神宮遥拝所
神坂峠(みさかとうげ)
木曽山脈南部の岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある
標高1,569 mの峠
神坂峠は、古くは信濃国の伊那郡と美濃国の恵那郡(木曾谷)との境であった
古代において坂とは「峠」の意味であり、東山道が通る交通の要所であり難所であった
その険しい道程から東山道第一の難所として知られ、
荒ぶる神の坐す峠として「神の御坂」と呼ばれた
神坂峠は、急峻で距離も長かったため、
峠を越えられずに途中で死亡する者や、
盗賊が出ては旅人を襲ったとの記録が、
いろいろな古典に書かれている後に、
東山道(中山道)は神坂峠を避けて、
木曾谷を通るようになったため、神坂峠を越える者は減少した
神坂峠(みさかとうげ)へ
車道より徒歩 この奥100mと記されている
神坂峠遺跡は、
古墳時代の中期以降石製模造品を主体とする峠神祭祀の場となり、
また、奈良・平安時代以降は、
東海地方の須恵器・緑釉陶器・灰釉陶器の搬入路として、
これらの陶器類を主とする峠神祭祀の場となった
全国的にも数少ないこの種の遺跡の中にあって、
神坂峠遺跡は、古墳時代から古代・中世に及ぶ
峠神祭祀の実態をうかがうことのできる代表的な遺跡として重要なものである
現在阿智村の中央公民館に保管・展示されている
神坂峠(みさかとうげ)に記されている古代東山道道標
車道より神坂峠(みさかとうげ)を眺める
百名山恵那山への 神坂峠登山口
最後まで御覧頂きありがとうございます
令和7年も日本の峠巡りの旅、続けていきたいと思います
中央構造線の露頭がある峠 青崩峠 真下にはリニア新幹線
断層がある破砕帯難工事が予想される場所
天候の急変で阻まれた峠 金精峠等々です
令和7年度もgoo blog掲載者の皆様 良い年をお迎えください
来年もよろしくお願いいたします
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